ブドウ糖とブロードウェイ
甘い物、つまりブドウ糖を摂取すると、心身の緊張をほぐし、穏やかな気持ちにする脳の神経伝達物質〝セロトニン〟の分泌を助けるらしい。つまりストレスを感じたときは甘い物を食べたくなる、と言える。
ネット記事をそこまで読み、幹耶はバベルのウィンドウを閉じる。消えた記事の向こう側に、自身の顔よりも大きいパフェをがっつく真斗の姿が現れた。
「真斗さんって、甘い物が好きだったんですね」
「いや? 全然?」
スカッと否定する真斗の言葉に、頬杖をついていた幹耶が姿勢を崩す。
「よく解らないんだけど、嫌な事があると妙に食べたくなるのよねー。不思議だわ」
「はぁ、なるほど」
どうやら、先ほど読んだ記事は正しい情報であったらしい。
二人が居るのはアイランド内にある、とある喫茶店。数少ないアンジュ歓迎の店である。だと言うのに、店内には席についても帽子やサングラスを外さない客の姿が散見される。先の〝反アンジュ運動激化〟を受けての事だろう。貴重な憩いの場ですら、彼らの安寧の地足りえないようだった。
そんな中にあって、桃色の髪をさらけ出した我らが隊長様、秋織真斗は冬に備えるリスの様に頬を膨らませて生クリームを詰め込んでいる。まるで周りの事など気にしていない。
「しかし、本当にアイランドは物資が豊富ですよね。パフェなんて初めて見ました」
「それだけが取り柄だしね。そうでなければ、誰も望んでフィルターなんてやってないわよ」
スプーンを咥えたまま真斗が言う。
アイランドに住まう人々は、誰もが自分の扱いを理解している。すなわち、ダストを外に漏らさないための〝フィルター〟扱いをされている、という事実だ。
人を人と思わないその処遇。しかしそれでもアイランド入りを望む声が絶えないのは、ひとえにアイランドの豊かさにある。
アイランドにはあらゆる物がある。
綺麗な水。味のある食事。暖かいベッド。甘味等の贅沢品。娯楽。自由。仕事。家族を持つ幸せ。それらを手にする権利。
およそ人々の求める基本的な物が揃っている。このアイランドに存在しない物と言えば、安全と人間の尊厳くらいだ。
「な、何よ。そう見つめられていると食べにくいんだけど」
少し頬を赤らめて、真斗がいじける様に唇を尖らせる。
「あぁ、いや。こういうのも悪くないな、と思いまして」
真っ白でふわふわで、ほんのり甘くてミルクの香り高い生クリーム。そんな物を口にする真斗の姿を見られる日が来るとは、幹耶は夢にも思っていなかった。
カビの生えたパンと濁った水。それだけが全てだった。寝床は屋根があれば上等だった。時にはそれらすら手にすることができず、何度も死にかけた。
そんな自分が、自分たちが。これほど穏やかな時を過ごせるなど、一体どれほどの奇跡なのだろう。
アイランドの在り様は間違っている。その気持ちは今も変えられない。この穏やかさも作り物だ。だが、それで良い。今はそれで良い。
この穢れた手を取って、自分を泥の中から引き揚げてくれた少女がそう望むなら、この歪みを守るために剣を振ろう。立ちはだかる全ての障害を斬ろう。人々の未来を切り開こう。
幹耶の想いは、ただそれだけだった。しかし真斗は幹耶の言葉をどう勘違いしたのか
「ばっ、ばばば、バカ言ってんじゃないわよ! これは別にデートとか、そういうんじゃないんだからね!?」
などと言い、顔を真っ赤にして猫の様に桃色の毛を逆立てる。
「ああ! もう!!」
「んむぐ!?」
幹耶の口に、受けの小さい銀色のスプーンが突っ込まれた。
この状況に少しのデジャヴを感じながら、幹耶は素直に口内に押し込まれた生クリームを味わう。
「……おいしい」
「でしょ? お雪もここのパフェはお気にいりで、調子のいい時はメニューを五周……」
満足そうに微笑む真斗だったが、引き抜いたスプーンの先を見つめて言葉を詰まらせた。
先ほどまで自分が使っていたスプーン。そして、今幹耶の口に突っ込んだのも同じスプーン。
つまり、間接キス。
「なっ、ななな!?」
咄嗟の事とはいえ、なんて大胆な事を。自分の行為が信じられない真斗は、元々足りない落ち着きを更に失った。
「……どうかしましたか?」
真斗の様子を不思議そうに眺めて、首を傾げる幹耶。
「なっ、なんでもないわよ!? スプーンもこのまま使うわよ!?」
「はぁ、どう、ぞ? そうだ、それより私も同じ物を注文しても良いですか?」
それから真斗はを二つ、幹耶は一つのパフェを平らげ、天白雪鱗の名前で請求書を発行した。雪鱗の場合は食事がアーツの発動に直接関係するので、経費として認められているらしい。胃の中にブラックホールでもあるのではないか、と思えるほどの大食いである。そうでなければ、食費だけで軽く破産できるだろうな、と幹耶は思った。
店を出ると、鋭い日差しに視界を白く染められた。
日ごとに輝きを増すその陽光は、もはや一振りのナイフのようだった。腕を炙る熱を感じながら、ご機嫌な鼻歌をあげる真斗と肩を並べて街を歩く。
少し歩を進めただけで、ほんのりと汗が滲んできた。梅雨が明けたら更に暑さが増すと言うのに、今からこの様子では先が思いやられる。このアイランド・ワンは周囲を海に囲われている。全方向から吹き込む海風のせいで湿度が高いのだろうか。まるで使い終わった直後のシャワー室だ。肌に纏わりつく湿気の不快感が、もう堪らない。
そんな中にあって、真斗の足取りは踊るように軽い。じっとりと湿った空気も春風に変えてしまうほど、彼女の心は浮き立っていた。
「ね。アイランドの事、少しは好きになってくれた?」
身長差のせいで見上げる形になった真斗が、上目づかいで幹耶に問う。
「いいえ、全然。ただ……この街の在り様に一つも納得などしていませんが、こういう存在も悪くは無いのかもしれない、と最近は思い始めました」
ふーん、と真斗は笑顔のまま唇を尖らせるという、実に器用な表情をする。
「ま、今はそれで良いわ。焦らなくたって、みーくんは私から離れられないんだから。約束、忘れていないわよね」
幹耶は苦笑いで肯定の意を示す。
二人が交わした約束とは、まだ幹耶がアイランドの壊滅を目論むテロリストの一員だった頃、モノリスタワーの最上階で真斗とマザーアゾットを巡る攻防戦を繰り広げたときの事だ。
幹耶が勝利すればマザーアゾットへの攻撃を見逃し、真斗が勝利すれば幹耶を〝下僕〟にするというものだ。
かくして幹耶は真斗に敗北し、真斗の意向通りに清掃部隊の一員としてアイランド・ワンを守る任に就いたのだった。
「そうやって、少しづつ視野を広げると良いわ。人はこの世の全てを救えない。でも、その眼に映る世界くらいは救う事ができるはずよ」
「眼に映る……世界」
「空想が恐怖を生み、妄想が絶望を生み、幻想が争いを生む。現実を見つめ、足もとの土を踏みしめる。人はそんな事すらできないから、世界を壊そうなんてイカレた奴らが現れる」
「……耳に痛いですね」
「お雪の言葉よ。あの娘、たまーにぽつりとそんな事言うのよね」
幹耶は思わず息を詰まらせる。
ポリューションを人工的に生み出し、アイランドを壊滅寸前まで追い込む。そこを真斗に救わせ、アンジュを束ねる旗印として祀り上げ、人類に世界の所有権を掛けて戦いを挑む。
そんな空想を現実に引っ張り出し、実際に実行して見せた狂人、天白雪鱗。
様々な外部勢力の思惑が絡み合い、彼女の計画は事実上破綻した。しかし、その計画によって生み出された犠牲者の数は数百人に及ぶ。
事件の規模からいえば、奇跡的に少ない犠牲で事態が収拾したと言える。しかし、それでも失われた命の価値は計り知れない。
そんな犠牲を路傍の石程度にしか認識してない雪鱗は、幹耶の知る限りでは最高に〝イカレた〟人間だ。自らの理想の為に一切の犠牲を厭わないその姿勢には、もはや畏怖すら感じている。
その天白雪鱗が、人の本質を突いたような言葉を言うのか。初めから掴み所の無い人物ではあったが、もはや幹耶には彼女がどの様な存在であるのか、まるで解らない。
「まっ! 要するにさ!」
タッ、と不意に真斗が駆け出し、幹耶の少し前でくるりと振り向く。
「私を守りなさい!」
「……はい?」
薄い胸を張って健気にふんぞり返る隊長様に、幹耶はそんな間の抜けた声を返す。
「私がみーくんのリアルになってあげるわ! 私を見つめて、私を守りなさい! そうすれば、もう自分の有り方に迷う事もないでしょう?」
……まったく、この人は。
顔を真っ赤にして、膝を振るわせて、目端に涙を滲ませて。こんな往来の真ん中で、悶えそうなほど恥ずかしいだろうに、そんな事を言うのだ。
ただ、幹耶の為に。
きっと気が付いていたのだろう。幹耶が、清掃部隊に居場所が無いと感じていたことに。
元よりこの街を守る意志などない。命を張って他人を助けようなんて気概も薄い。なにより、自分は元テロリストで、裏切り者だ。誰が何と優しい言葉を掛けてくれようが、どうしても後ろめたさは拭えない。
そんな幹耶に明確な目的を与えようと、この桃髪の隊長様は言っているのだ。何も負い目を感じることは無い。自分を守る。それだけのためにここに居ろ、と。
心が重なるのを感じた。
言われるまでも無く、守り抜くつもりだった。しかしやはり、〝求められる〟と言う事の存在は大きい。そしてきっと、真斗はその事も承知している。
そんな心遣いに触れてしまっては、幹耶に返せる気持ちはもはや一つしかない。
口元に微笑みを湛え、胸に手を当て、恭しく腰を曲げて頭を垂れる。
「仰せのままに。マイマスター」
熱気と湿気にけぶった歩道が、まるでブロードウェイの舞台のようだった。
劇中の一幕を思わせるその光景に、先に噴出したのはどちらだったか。
色の薄い初夏の青空に、二人の笑い声が天高く昇っていく。




