眠れぬ夜と戦う理由
幹耶は昨日とはまた違った意味で死ぬような思いをしていた。
食事の後、火蓮の運転でモノリスタワーに戻った幹耶を待っていたのは、毛穴の一つ一つまで調べるのではないかと思えるほどの精密な健康診断に各種必要書類の確認、アイランド内における法規の講義、正式な入隊手続きなど……。そのどれもが初めて経験するもので、幹耶は心身ともに大きく消耗する羽目になった。バベルのナビゲーションで呆れるほど広いモノリスタワーの中を何とか迷わずに歩き回り、それらが一段落し、割り当てられたタワー内の自室にくたびれた身体を放り込む頃には、すっかり夜も更けていた。
与えられた2LDKの部屋はがらんとしていた。荷物と言えば男性二人がかりで運び入れられた木箱が一つきり、中身は特注で作られた幹耶の武器だ。
既にもてあまし気味の部屋を突っ切ってシャワールームへと向かう。幹耶がアイランドに来て唯一良かったと思えることは、いつでも好きな時に好きなだけシャワーが浴びられる事だ。バスタブに湯を張って浸かることもできるだろう。それは幹耶にとっては途方もない贅沢だ。しかも光熱費は雇い主であるスピネルの支払だというからありがたい。
湯を張るのはまたの楽しみにしておくか、と一人呟き、幹耶は熱いシャワーで疲れを洗い流した。買ったばかりの部屋着に着替えてベッドに座る。部屋にまだ椅子はない。
明日は幹耶への案内も兼ねて、アイランド内の見回りに出ることになっている。本来は警備部隊の仕事だが、人手が足りないので清掃部隊にお鉢が回ってきた形だ。
特別することもないので、幹耶は早々に眠りにつこうとベッドに潜り込む。しかし中々寝付くことができない。この場所は何かが心を不安にさせる、モノリスタワーの六十三階という高さだけが原因ではあるまい。
アイランド、魔女の釜、アンジュ、ポリューション、ガルムの濁った黄色い瞳、心の傷と重なる桃髪の少女……。
様々な思いが粘度をもった泡のように浮かんでは消え、幹耶の精神を絡め取っていく。泥を流し込まれたような頭の中は酷く淀んで、闇の中から狼のような姿をしたデミが顔を出す幻想までもが生みだされる。
無駄に熱のこもった額に手のひらを当て、少しだけ目を開いてみる。真っ暗な天井が渦を巻いて落ち来そうな気がした。それも良い。押しつぶされるように眠りに落ちる事ができればどんなに楽だろう。しかし、この様子ではそれは望めまい。どうしても眠れない夜というのは肌で解る。バベルに表示された時計の針は、夜中の一時を指し示していた。
「……くそ。少し歩くか……」
ベッドの上で幹耶は誰に言うでもなく一人つぶやき、鉛のように重い身体を引きずって自室を後にする。
モノリスタワーにはアイランドに常駐する各部隊の為の居住スペースがあり、六十三階の住居スペースは全て清掃部隊、つまりピンキーの為に割り当てられていた。広く割り当てられているのは、生活空間を切り離す事によって他部隊との軋轢を避けるためである。
点々と常夜灯の光る廊下を歩いていくと、やがて広いコミュニティルームに行きついた。オセロ、麻雀、チェスに将棋などが楽しめる遊技台に大型のディスプレイなどが目に映る。その端にドリンクサービスの機械を見つけ、お茶でも貰おうと幹耶はそれに歩み寄る。
「あれ、幹耶くんじゃない。眠れないの?」
「うわっ!?」突然に横合いから話しかけられ、幹耶は情けない声を発してしまう。「ま、真斗さん!? どうしたんですか、電気もつけないで」
「暗いほうが、街が綺麗に見えるでしょう?」真斗は親指で大きな窓ガラスを指し示す。「緑茶でいいかしらね」
くすくすと笑いながら真斗は手早く茶を二杯注ぎ、一方を幹耶に差し出す。そして窓ガラスの前にある柔らかそうなソファーにその身を沈めた。幹耶もそれにならって隣に腰掛ける。
「真斗さんもモノリスタワーに部屋があるんですね」部屋着姿の真斗を見て幹耶が言う。「貴方も寝付けないのですか?」
「いや、私は三十分くらい前に戻ってきたばかりよ。今日もテロ対応にポリューションに……。はぁ、ポリューションなんて先月までは月に三回発生すれば多いほうだったのに。今月は二週間で一五件目よ」真斗は緑茶で唇を湿らせる。「それにまた今日もやられちゃって最弱っぷりをさらしちゃうし」
「……その最弱さんにあっけなく負けた私は、どうなるんでしょうね」幹耶が苦笑いをする。
「最弱、最弱ってみんな言うけれど、私だってやるときはそれなりにやるのよ?」そう言って真斗は薄く笑う。「ねぇ、私の傷がどんな様子で再生するか、知ってる?」
「いや……。そういえば、知らないですね」
「基本的には復元ね」
「復元?」
「そう。たとえば腕が切り飛ばされた場合、肉体から離れた腕は分解されて、新しい腕として再構築されるのよ。こう、光があつまるみたいにパーって」
「……よく解らないです」
「ま、実際に目にしないとイメージしにくいわよね」
困ったように真斗が首をかしげる。
復元。そこにある僅かな違和感を認識しながらも、それは明確な形をとることなく幹耶の心に沈み込んだ。
「とにかく、本当にとんでもない能力ですね」
幹耶はかろうじて笑顔を作りながら緑茶を飲む。
「まったくよ。そのおかげで苦労続き。もし可能なら進呈したいくらいだわ」
「ご遠慮しておきますよ」
二人は声をそろえて笑い。そしてしばらく黙って窓の外を眺めていた。手を伸ばせば掴めそうなほどの星空と、淡く輝くダストの翠色に沈んだ美しいアイランドの街並みを。
「昨日は見逃しましたが、火蓮さんの言っていた通りですね。本当に夜のアイランドは綺麗だ」ため息をつくように幹耶は言った。「でもこの街の裏側にあるものを色々と知ってしまった今では、素直に感動できないのが悲しいですね」
「そうかしら。その複雑な裏側があるからこそ、美しく輝くのではないかしらね。私はアイランドの夜景が大好きよ」
「アイランドについては外に居る時から黒い噂は耳にしていましたが、まさかその全てが本当だったとは流石に思いませんでしたよ。所詮は都市伝説。それくらいにしか思っていませんでした」ひと口茶をすすると、寝不足で火照った体へゆっくりと沁み込んでいく。「ポリューションにしてもそうですね。アレだけの代物、もっと騒がれてもよさそうですけれど」
「ああ、それはね……」少し首を傾げて真斗が考え込む。「昨日ね、空飛ぶクジラをみたんだよー」
「はい? クジラ、ですか?」
突拍子もない言葉に幹耶が困惑する。
「ね、今どう思った? 正直に言ってごらん」
「はぁ。この人は一体何を言っているんだ、と思いました」
「そう。まさにそれよ」
ぴしり、と真斗が指先を幹耶につきつける。
「今までポリューションは幾度となく人目に晒されてきたし、画像や動画も出回った。けれど〝都市伝説〟レベルで収まっているのは、誰も信じなかったからだよ」
「それでも、実際に被害にあって生き延びた人も大勢いるはずではないですか」
幹耶が反駁する。
「幽霊や呪いみたいなものだよ。実際に見たという人は世界中に居るし、被害にあったという人も星の数ほど。それでも一般的には〝存在しない〟事になっているでしょ? 実際は、たびたび発生しているんだけどね」
「つまり……あれほどの脅威に関わらず、公には存在を認めず、存在しない物として秘密裏に処理している。ということですか」
「幻滅した?」
真斗がいたずらっぽい笑顔を浮かべて幹耶の顔を覗き込む。
「どうでしょうね……。確かに、仮に公表したところで不用意な混乱を招くだけとも思いますが。ただ、私はこの街が好きになれそうにはありません」幹耶はぬるくなった茶を一気に飲み干す。「この街は狂っています。人の命がただの物に成り下がった狂気の実験場です。餌を与えて人間を飼いならす巨大な檻です。こんな街、本当に……」
守る価値があるのか。そう言いかけて幹耶は口をつぐんだ。今、自分の隣に居るのは文字通り命を懸けてアイランドを守っているスピネルの清掃部隊、その隊長だ。安易に口にして良い言葉ではなかった。
しかし真斗から幹耶に向けられた言葉は――
「そうね……。そう思うのも仕方ないわ」そう言って、真斗は悲しそうに笑うだけだった。「アイランドでは人の命が極端に軽い。どんなふうに何人死のうと悲劇の一言で片づけられる。でもね、それでも力のない人々にとってアイランドは楽園よ。今日を生きる糧がある。明日を信じる自由がある」
翡翠色に沈むアイランドを慈しむように眺めながら、真斗が言い募る。
「……確かに、アイランドの外は普通に生きるのにも厳しい環境ではありますが――」
「それにね。アンジュもここでなら人間扱いしてもらえる」ふと、真斗の顔から笑顔が消える。「アンジュが外でどういう扱いを受けているか、幹耶くんも知っているわよね。私はその状況を打開したい。アンジュの地位を確立させたい。怯え隠れて生きている全てのアンジュに、貴方はこんな石ころのおまけなんかじゃない。胸を張って、生きていて良いんだって、そう言ってあげたい。アゾット結晶以外の存在価値を見出してくれるこの街でなら、きっとそれができる。アンジュの存在価値を、世界に認めさせる」
真斗は宝石箱のようなアイランドの街並みをまっすぐに見据える。
その横顔を見て、本当に美しいと幹耶は思う。
このワンシーンを切り取って絵画にすれば、きっと素晴らしい名画になるだろう。
「いつか……このままアゾット結晶の研究が進んで、アゾット結晶の量産が叶って、アンジュが特別な存在でなくなる日が来たら。あるいはアンジュの有益性を証明できれば、迫害されるような事がなくなれば……どんなに素敵かしらね」
そう真斗が呟く。
「つまりは共存、ですか……。正直、想像もつきませんが」
「そうね、私にも全然想像できないわ」鈴のなるような声で真斗が笑う。「でも、いつかそんな日が来るって信じて、私はアイランドを守るために戦うのよ」
「もし、そんな日がずっと来なかったら……?」
「来るまで戦い続けるわ。私の人生は、きっと他の人よりも長い。だったら下を向いて生きるより、無理やりにでも目標を立てて突き進むほうが――」
真斗は星の輝きにも負けないような、眩しい笑顔を幹耶に向ける。
「そっちのほうが、楽しいじゃない?」
真斗とわかれて自室に向かっていた幹耶は、眼前の闇に何かの気配を感じて歩調を緩めた。腰に携えたナイフの柄に手を添えながら慎重に進む。
「おっすおっす。奇遇だね」
「……何が奇遇なものですか。ピンキーでは暗闇の中から人を驚かすのが流行っているんですか」闇の中から現れたのは、文庫本を手にした雪鱗だった。「それで、私の部屋の前で読書ですか? 目を悪くしますよ」
「暗い所で本を読むと目が悪くなるってそれ、迷信らしいよ」
悪びれない雪鱗の言葉に、ナイフの柄から手を放した幹耶が大げさに肩を竦める。
「何か要件があるのでしょう。宜しければ部屋の中へどうぞ」
「いや、ここで良いよ。本当は私もコミュニティルームで夜景を眺めながらのんびりしようと思っていたんだけど、なんだかあの中に入りにくくてね」くすくすと笑いならが雪鱗が言う。「中々興味深い話をしていたね。戦う理由だって?」
「聞いていたんですか?」
「ま、聞くともなしにね」
「雪鱗さんにもあるのですか? 戦う理由」
「うーん……」宙を睨んで雪鱗が唸る。「あると言えばあるし、無いと言えば無いかな?」
「と、言うと?」
「アンジュが外でまともな職に就けるとは思えないし、仮にあってもアーツを利用した荒事が関の山でしょう? だったら、少しでもまともな組織で働こうって思うのは普通じゃない」
「まぁ確かに、そのとおりですね」
幹耶は頷いた。同じ危険な世界に生きるなら、少しでも大きな組織に属する事は自らの生存性を高めるうえで有効な選択だ。しかし、アイランドの外で戦闘系アーツを持つアンジュを必要としているのは犯罪組織か、せいぜい仕事にあぶれダーティーワークに手を出し始めた民間(P)軍事(M)会社(C)くらいであろう。いずれにしても犯罪者の仲間入りだ。その先に未来は無い。
しかしアイランドを管理するスピネルであれば、身の安全はともかくその身元は保証される。そう多くないアンジュの選択肢としては最高の部類であろう。
「それに、最近は目的も出来たしね。それを実現させるためにも、スピネルに所属している方が何かと都合が良いし」
「目的、ですか」
「アイランドを、アンジュが平和に暮らして行ける安息の地とする事」
ぴしりと雪鱗が言い放つ。
「真斗さんと同じ……という事ですか?」
幹耶が言う。
「そうだねぇ。最終的には同じ事になると思うよ。ただ、私は真斗のように気が長くない。手段を選ぶつもりはないさ」
幹耶は訝しげに眼を細めた。アンジュの平和を異口同音に望む真斗と雪鱗の言葉に、何とも言えない〝ズレ〟の様な物を感じる。
しかし、その些細な違和感は
「それより幹耶くんはどうなのさ。清掃部隊が危険な仕事だと解ってもなお異動願いもださないのは、何かしら残る理由があるって事でしょう?」
という雪鱗の問いかけにかき消された。
「理由ですか……」幹耶はうつむいて考える。「……私も雪鱗さんと同じようなものですね。他に選択肢がなかっただけです。斬るくらいしか、人より得意な事もないですし」
「どうかな。幹耶くんの場合は、ただの破滅願望って気がするけどね」
「え? それってどういう……」
「言葉のまんま。自分で気が付いていないのだろうけど、〝いつ死んでも構わない〟って顔してるわよ、きみ」
「……そんな事、ないですよ」
とくんと高鳴った鼓動を無理やり抑え込み、喉を絞るようにして幹耶はそう答えた。
「そう? それなら良いんだけどさ。生き方を変えるチャンスはそう多くない。近いうちにそんな機会に巡り合うと思うから、その時はちゃんと掴み取るんだよ?」
諭すような口調で、突然そんな預言者めいた事を言う雪鱗に幹耶は「はぁ」と生返事を返すので精一杯だった。
幹耶は雪鱗の隣に並ぶ形で壁に寄りかかり、俯いたまま
「どうして。なんでアンジュばかりが、こんなにも生きにくいのだと思いますか」
と、声を落とした。
しばしの静寂。
薄闇の向こうで雪鱗の窺うような視線を感じた。
「極端な例えだけどさ、自分の生活圏内に常に爆弾を身に着けた人がいたらどう思う?」
ぽつり、と雪鱗がそう言った。
「……きっと、排除しようとすると思います」
「絶対に爆発しない。仮に爆発しても周囲に被害は出ないと言われても?」
「そうですね。そんなの爆発してみないと解りませんし。被害を被ってからでは遅いですし」
「それと一緒。異質なものを排除しようとするのは集団生活をする生物の性質だよ。わかっているくせに、何を今更」
「でも。それでも……同じ人間なのにどうして、って思いませんか」
「簡単さ。人間だと思われてないってことだよ」
吐き捨てるように雪鱗が言う。
石油資源が失われ、世界は酷く荒廃した。
そんな中を誰も彼もが必死に生きている。いつ襲いくるとも知れない略奪の恐怖に怯えながらも、それでも多くのものは犯罪には手を染めまいと歯を食いしばって生き抜いている。
しかしそれでも飢えに渇き、そして未来への不安は多大なストレスとなり人々の精神を鑢のように削り取っていく。
人々はストレスのはけ口を探し求める。しかし娯楽にかまける余裕はない。酒で酔おうにも手の届く価格のものは飲めば失明か、最悪は死に至るような質の悪い合成酒ばかり。自然と行き場を失った矛先は、異質なる隣人へと向けられることになった。
火事があればアンジュのせい。
日照りや水不足で作物が育たなければアンジュのせい。
長雨で体調を崩すものがあればアンジュのせい。
盗みがあればアンジュのせい。人死にがあればアンジュのせい。
生きるのがこんなにもつらいのは、アンジュのせい――
人々はあらゆる不都合をアンジュに押し付け、迫害した。
いくら暴行を加えようが、いくら奪おうが、そしていくら殺害しようが自分たちは正義を行っているのだ、と自己を正当化する言葉を叫びながら暴挙を働き続けた。その矛先の大半は力の弱い子供のアンジュに向けられた。かろうじて生き延び、地を這い泥をすすりながら成長した子供に残された選択肢は多くない。
隠れて生きるか。奪って生きるか――
「子供と言えど、生まれつき強力な能力を持つものも多少はいる。幹耶くんがそうであるようにね」手にした文庫本を弄びながら雪鱗が言う。「もし目の前のアンジュの中にそういった者がいれば、返り討ちにあう可能性もある。そんな適度なスリル感もアンジュ迫害を助長する一因になっているんだろうね」
「それに、死体からアゾット結晶を取り出して売り払えば、小さな欠片でもそれなりのお金になりますもんね」
「金、ねぇ」つまらなそうに雪鱗が吐き捨てる。「それにさ、さっきも少し言ったけれど……。アンジュ生き方なんて隠れるか戦うしかない。幼少時代の報復とばかりに奪う側に回るアンジュも少なくない。憎悪の塊は転がり続けて、もう容易には止められない」
「それを止めようというのですよね、真斗さんとあなたは」
「やっぱり、無理だと、馬鹿げていると、そう思う?」
数瞬の間の後、幹耶は
「……正直に言えば、そうですね」
と答えた。
「ほんとに正直だねぇ」
雪鱗が困ったような笑い声をあげる。
「でも、私もあなた方と同じように、アンジュが平和に暮らしていける世の中になれば良いなって、思いますよ」
「同じ、ではないと思うけれどね」
「……そうでしょうか」
「そうだよ。まぁ、それより二つほどアドバイス」
幹耶の目の前に雪鱗が指を二本突きだす。手首の純白のアゾット結晶が常夜灯の光を反射して微かに煌めく。
「さっきの誘い方はNGね。女性を部屋に誘うときはもっと雰囲気を大切にするものよ」
「心得ました」困ったように幹耶が笑う。「それで、もう一つは?」
「肩に力が入り過ぎだよ。今度と言わず、今からでも遅くないからバスタブにお湯を張ってゆっくりつかりなさいな。そうしたらきっと眠れるから」
そう言い残し、身を翻した雪鱗はひらひらと手を振りながら闇の中へ消えていく。その背中を幹耶は呆然と見送った。
「あれ? お風呂のこと、誰かに言っただろうか……」




