秘密研究と進化の可能性
細く狭い階段を、薄汚れた白衣を着た痩せぎすの男が踵を鳴らして降りてくる。薄汚れた白衣に身を包んだ〝プロフェッサー〟磯島だ。
思考の海に沈んだままの磯島は何事かを呟きながら狭い通路を進み、灰色の壁におもむろに手のひらを押し付けた。すると掌紋を読み取る光が走り、壁が割れて隠し扉が現れる。
扉の向こうは、先ほどまでの細い階段と狭い廊下に似つかわしくないほど広大な空間だった。しかし大型の機材がそこかしこに置かれ、その床面積を著しく減少させていた。
「モルモット共の様子はどうだぁ」
磯島がモニターと睨めっこしている男性研究の一人に話しかける。男性研究員は軽く会釈をし、口を開く。
「新たにミュータントプログラムをインストールした被験体の経過は順調です。発狂死したものは今のところおりません」
「形状操作は?」
「ガルム及びマンティスの二次実験は成功しました。こちらです」
モニターに強化ガラス製の檻に閉じ込められた、二体の異形の者が映し出された。一方は幹耶と真斗が対峙したものと同じガルムタイプのポリューション、そしてもう一方は巨大な蟷螂のような姿をしたポリューションだった。
「先日の発症実験の結果と合わせてこちらも順調です。今はまだ二種のみですがこの調子ならば様々なバリエーションを生み出せるようになるでしょう」
「余計な事は言うんじゃないよぉ。聞かれた事だけに答えろぉ」
喉を鳴らして男性研究員が押し黙る。
「形状操作のほうはもう良い。それより行動操作の最終確認に入れ。データを俺の端末に送っておけよぉ」
磯島は自室に入る。文字が書けそうなほどに濃く淹れたコーヒーをカップに注ぎ、椅子に深く腰掛けた。作り置きをしていたせいで酸味が際立ってしまった黒い液体を一口流し込んで目頭を揉むと、意識を再び思考の海へと潜らせた。
ミュータントプログラムは完成間近だ。既に十分に取引の材料になりうる。この計画が成就すれば、このような穴倉に隠れずとも堂々とポリューションの研究ができる。スピネルから指示されて行う退屈な研究などもうごめんだ。ああ、腹ただしい。モルモット共を幾らか解体しただけでこの扱いだ。表向きのアンジュ研究とこの秘密研究の二足の草鞋は確かに肉体的に堪えるものがあるが、得るものは大きい。今しばらくの辛抱だ。やがて俺はこのアイランドという檻から解放される。
しかし気になるのは、あの千寿幹耶とかいう小僧だ。
ただの考え過ぎという可能性はもちろんある。しかし計画が大詰めに入ったこの段階での不確定要素は無視できない。だが、果たしてあの小僧は計画に対して脅威になりうるだろうか?
……否だ。
他の隊員と協同とはいえポリューション、しかも強力なガルム二体を退けた実力は軽視できないが、アンジュが一人増えた程度で揺らぐほど俺の生み出す地獄は甘く無い。あの切断能力は驚異的だが、あの程度なら問題ないだろう。
磯島は無意識に、モニターに映し出された瓶詰め状態のポリューションを指でつつく。
ポリューション。公害。悪意の獣。
結局の所、こいつらは一体何だ。何に分類すればいいのだ。今まで何度となく繰り返してきた思考だが、研究が大詰めに入ったところで改めて考えてみるのも無駄ではあるまい。
ポリューションへと変異しうるのは人間だけだ。しかしポリューションは生命体ではない。脳も脊髄も内臓も存在しない。ウィルスと同じように代謝もしていない。故に生物と定義するのは難しい。少なくとも俺は定義しない。それに、あの巨体は一体どこからやってくるのだ。個体差はあれど、身長百六十センチ程度の人間が、ポリューション化しただけで体長五メートルを超える巨体へと変貌を遂げる。いわば、個体が気体になったようなものだ。ポリューションやデミが人間を食らうのはその質量を補うためと思われるが……、取り込まれた人間の肉体がどのようなプロセスでポリューションの一部になるのかは、未だに解明できていない。
そう、デミだ。あれについても解らないことが多い。あれらは本体であるポリューションから生み出される。そしてそれぞれに意志があるかのように振る舞い、人間を襲う。そうして被害を拡大するのだ。しかし本体のポリューションが生物では無いように、デミも生物ではない。であるならば、デミはポリューションが操っていると考えて良いのだろうか。
それに、ショッピングモールに放った二体のガルムだ。あれは実に興味深い反応をしたな。そう、〝変体〟しやがった。あの触手は何だ。初めて見る現象だ。そして二体目も変体した。なぜだ? もう一方のガルムが変体するのを観察し、その有用性を感じ取って真似た、と考えるのは飛躍しすぎだろうか。それに同じ条件で変異させたはずの二体の間に、妙な違いを感じた。そう、いわば個性とでも言う様な……。
まったく、謎の多い連中だ。生み出す事には成功したが、解明にはほど遠い。
謎と言えばアンジュにしてもそうだ。力のイメージを現実に上書きして見せるほどの自我中心性、だと? まったく馬鹿げている。どれだけイメージを膨らませたところで、所詮妄想は妄想だ。現実とは越えられないほどに高い壁がある。そのはずだ。
しかし奴らは現実の壁を易々と越えてみせる。その力はどこから得ているのか。考えるまでもない、アゾット結晶だ。しかしイメージはあくまでイメージだ。いったいどんなからくりだ。
自らの肉体そのものを変質させたポリューション。
力のイメージを具現化し、現実に上書きするアンジュ。
この二つに共通する点は、体内に宿したアゾット結晶が力の源泉となっているという事だ。ポリューションのは〝コア〟と呼称するのだったか。
アゾット結晶を失えばその力も失われる点も共通している。まぁ、あの不死の化け物のように例外も居るが……。
ポリューションとアンジュが宿すアゾット結晶の性質は大きく異なる。一言で言えば、ポリューションのアゾット結晶はエネルギーの増幅限界が低く、扱いにくい。一方アンジュから取り出されたアゾット結晶は佳賀里博士が作り出した製造法不明のアゾット結晶とほぼ同質の性能を持っている。つまりは高品位だ。この事から察するに、アンジュはポリューションの上位に位置する存在という事だろうか。
アンジュとポリューション。この二つは、そのあり方がとても良く似ている。
しかしながら、この二つを分かつものは一体なんであろうか。
まずはアゾット結晶によるエネルギー増幅が本格的に行われ始めたあたりから世界各地で確認され出した〝先天的アンジュ〟……つまりは生まれつきのアンジュだ。これが生まれる条件は一切が不明。生まれた地域、人種、性別などの一切に、手かがりになりそうな共通点が無い。唯一いえる事は、体内に宿したアゾット結晶の増幅限界、つまり能力の強さが後天性のアンジュのそれと比べて弱いものが多いという点だ。
そう、問題は〝後天性のアンジュ〟だろう。こいつらの能力はとても強く、主力戦車一両と同等の戦闘能力といわれるランクA以上のものがほとんどだ。
後天性のアンジュとポリューションは、ダストやアゾット結晶の影響の強い環境に住まう人間が、強い精神負荷を受ける事によって生み出される。その点が共通している。しかしその二つを分ける要素がまるで解明できない。
可視化されるほどの濃度のダストの元で生活しているアンランドの住民へ、更にポリューションのコアの溶液を注入し中毒状態としたうえで、バベルを介して強い精神負荷を掛ける事でポリューションに変異させる事は成功している。ある程度の形状操作も可能だ。しかしアンジュを生み出すことには未だ成功していない。人の形を保てない。
条件は同一であると考えられるのだが……、一体何が違うというのか。モルモット共の精神構造の違いにその鍵がある、と〝アイツ〟は言っていたが。それに対してどのようなアプローチをすれば良いのか。
「まったく、退屈させない連中だよぉ」
首を鳴らし、一人呟く。カップの黒い液体を一気にあおった。温度が下がり更に酸味が際立ったコーヒーは気分をリセットさせるのには実に役に立つ。
暗中模索。そんな言葉が磯島の脳裏をよぎる。実に的確な表現だと思う。言葉使いのセンスに関して言えば、現代人のセンスは先人たちの足もとにも及ばない。百年以上昔に生きた哲学者が残した手稿を纏めた本を読んで、人類の進化はとっくに行き詰まっているのだと思い知らされた遠い夏の日を磯島はため息と共に思い出す。
進化。進化か。
アンジュ、またはポリューションとは進化した人類の姿だ、などともアイツは言っていた。少し考えてみようか。
普段、あまり意識はされないが人類進化の可能性自体は常にありうる。約六百万年前に共通先祖から枝分かれし、一方はチンパンジーに、そしてもう一方は更に枝分かれを繰り返しながら猿人、原人、旧人、新人という過程を得て現代の〝人類〟へと進化を遂げた。たかだか二千年と少しの間に目立った変化が無かったからと言って、今日この日に人類進化が起こらないなどという事は誰にも言えない。それどころか、既に起きているのかも知れない。
石油資源の枯渇や未知のエネルギーの誕生等の生活環境の激変によって、人類に進化がもたらされたとするのはそれほど突飛な発想だろうか。過酷な環境を生き抜くために、牙も爪も持たぬ人類がより生存に適した形へと進化した姿がアンジュ、そしてポリューションだとは言えないだろうか。
実際の所、アンジュと呼ばれる者たちは圧倒的な身体能力を持ち、力に個人差はあれど、闘争に特化した能力を持つ者が多い。もちろん闘争に適さない能力を持つ者も多いが、激変した現代社会を生き抜くにはどれも有用なものだ。そして、ポリューションなどは実に解りやすい〝力の形〟だ。
進化とは何か。一概には言えないが、この場合に限ればそれは遺伝子の突然変異だろうか。
しかし、今のところアンジュとそうでない人間との間に遺伝子的な差異は確認できていない。ポリューションに至っては生物と定義する事すらできない。つまり、個体群内の遺伝子頻度の変化という進化の定義からは外れる事になる。だが、それはあくまでも人間の基準に沿った上での話だ。現実に起きている現象を、それまでの価値観に全て当てはめて理解するというのは無理が生ずるように思う。新たな認識が必要だ。
生物進化が起こる場合、多くの生物がそうであるように、生存に有利な変化を遂げられずに取り残された個体は死に絶える事になる。この場合の取り残された個体とは、現人類だ。
もし仮にそのような事になった場合、現人類を滅ぼす要因は一体なんだ。激変した環境か、それともアンジュか、またはポリューションか。あるいは、未だ争いをやめられない現人類自身か……。
磯島は大きくため息をついた。オカルトに興味はないが、こうなってくるとアゾット結晶は悪性のウィルスであるというナチュラルキラーの馬鹿げた主張も少しは真面目に捉えてみようかという気持ちになってくる。しかしすぐに「何をふざけた事を」とその考えを振り払う。
アゾット結晶、アンジュ、ポリューション。どれも正体不明の物ばかりだ。
正体不明。良いじゃないか。実にすばらしい。未知なる扉を叩き続けてこそ人間という物だ。
「せいぜい楽しませてくれよ、モルモット共……」
そう呟く磯島の目に新着メールを示すアイコンが映る。面倒そうにそれを開いた磯島の表情が見るまに苦い物へと変化していく。
その短いメールの文面はこうだ。
「親愛なるプロフェッサーへ。
情報漏洩の恐れがある、即座にその場を退去されたし」




