プロローグ「旅立ちの日」
これが初投稿なので初投稿です。
雨の音で目を覚ましました。
冷たい。寒い。
そして、ひどくお腹が空いていました。
それが起きてからの、最初の感覚でした。
見知らぬ森の中。
見知らぬ木々。
見知らぬ空。
見知らぬ鳥の鳴き声。
そして。
見知らぬ自分自身。
私はしばらくその場に座り込んだままでいました。
ふと、自分の身体に目を向けました。
そして。
ようやく気付きます。
何も着ていませんでした。
思わず慌てて身体を隠します。
けれど周囲には誰もいません。
何かを思い出そうとして。
何も思い出せなくて。
名前が分かりませんでした。
家族が分かりませんでした。
どこで生まれたのかも。
どうしてここにいるのかも。
どうして何も着ていないのかも。
なにも、分かりませんでした。
頭の中は空っぽでした。
記憶だけが、綺麗に失われていました。
けれど。
完全な空白というわけではありませんでした。
知らないはずの景色が浮かびます。
高い建物。
人で溢れた通り。
夜なのに明るい街。
鉄の箱のような乗り物。
長く連なって走っているもの。
――電車。
その名前だけは思い出せました。
他にも。
制服を着た少年少女、賑やかな教室。
黒い板。チャイムの音。
スマートフォン。ゲーム。
コンビニ。
知らないはずなのに、知っていました。
「学校……?」
思わず口から言葉が漏れます。
けれど、その先が続きません。
どんな場所だったのか。
誰と通っていたのか。
私は何者だったのか。
何も思い出せませんでした。
ただ一つだけ。
私は、この世界の人間ではない。
そんな不思議な確信だけが残っていました。
それが本当の記憶なのか。
ただの思い込みなのか。
この時の私には分かりませんでした。
私は森を歩きました。
当てもなく。
生きるためだけに。
そして。
倒れました。
どれくらい眠っていたのか分かりません。
夢を見ていた気もします。
けれど、何一つ思い出せませんでした。
最初に聞こえたのは、ぱちぱちと何かが弾ける音でした。
そして、誰かの話し声。
遠くで聞こえているように感じるのに、妙にはっきり聞こえます。
「まだ起きないねえ」
「無理もない」
「痩せっぽっちだったからねえ」
知らない声でした。
けれど不思議と怖くはありませんでした。
暖かかったからです。
冷え切っていた身体が、温まっているのが分かりました。
何か柔らかいものに包まれています。
藁の匂いがしました。パンの焼けるような香りもしました。
それに釣られるように、お腹が鳴りました。その音で、自分でも少し驚きます。
「あら、お腹は元気みたいだねえ」
女の人が笑いました。
「昨日の夕方に拾った時はどうなることかと思ったがな」
男の人の声がします。
私は何とか目を開こうとしました。
瞼が重くて、なかなか開きません。
少しずつ。ほんの少しずつ。
光が差し込みます。
ぼやけた天井が見えました。
木造の梁。揺れる灯り。暖炉の火。
そして。
私の顔をベッドの横で見つめる二人の人。
「ああ、起きたかい」
優しそうなお婆さんがいました。
「お爺さん! この子、目を覚ましたよ!」
どたどたと大きな足音が近付いてきます。
「やれやれ、死にかけとったぞ」
皺だらけの大きな男の人が顔を覗き込みました。
ぶっきらぼうな声でした。
けれど不思議と安心したのを覚えています。
「あの……」
私は恐る恐る口を開きました。
「ここは……?」
「うちの家だよ」
お婆さんは穏やかに笑います。
「村外れの農場さ」
私は小さく頷きました。
知らない場所でした。
何も思い出せません。
それでも、一つだけ気になることがありました。
「あの、私を助けてくれたのは……?」
「ああ」
お婆さんは隣のお爺さんを指差しました。
「この人だよ」
お爺さんは腕を組んだまま頷きます。
「森で倒れていたんだ」
「倒れて……」
「死にかけてたぞ」
私は慌てて頭を下げました。
「助けていただいて、ありがとうございます」
「気にするな」
素っ気ない返事でした。
けれど少しだけ照れくさそうにも見えました。
その時。
私は自分の格好に気付きます。
見覚えのない寝間着でした。
柔らかい布地です。
「あの……」
「なんだい?」
「どうして私、こんな服を着ているんでしょうか……?」
お婆さんは何でもないことのように答えました。
「あんた、服は着てなかったからねえ」
私は固まりました。
「……え?」
「昨日見つけた時、何も着てなかったんだよ」
頭が真っ白になります。
何も着ていなかった。
つまり。
「ええっ!?」
私の顔は一瞬で熱くなりました。
慌てて布団を胸元まで引き寄せます。
お爺さんは不思議そうに首を傾げました。
「なんで驚いてるんだ」
「なんでって……!」
言葉になりません。
お婆さんは呆れたようにため息を吐きました。
「この子が恥ずかしがってるだろう」
「倒れてたんだから仕方ねえだろ」
「そういう話じゃないんだよ!」
「命の方が大事だろうが」
「当たり前だよ!」
お婆さんがぴしゃりと言い返します。
「だからって若い娘の前でそんな言い方があるかい!」
お爺さんは本気で分からないらしく首を傾げていました。
「駄目なのか?」
「駄目なんだよ!」
私は布団を抱きしめたまま俯きます。
恥ずかしくて顔を上げられません。
すると、お婆さんが慌ててこちらへ向き直りました。
「ああ、安心しな」
「え……?」
「着替えさせたのは私だから」
私は一瞬固まりました。
そして。
ほっと胸を撫で下ろします。
「よ、よかった……」
「安心したかい?」
「はい……」
何度も頷きました。
本当に安心しました。
その時でした。
ふと。
頭の中で何かが引っ掛かります。
私はゆっくり顔を上げました。
「あの……」
「なんだい?」
「私を見つけたのは……」
お婆さんが隣のお爺さんを指差します。
「この人だよ」
私は沈黙しました。
お婆さんも首を傾げています。
お爺さんは腕を組んだままです。
私はもう一度確認しました。
「森で倒れていた私を見つけて……」
「おう」
「ここまで運んで……」
「おう」
「その時、私は何も着ていなくて……」
「おう」
私は再び固まりました。
お爺さんは特に気にした様子もありません。
そして。
ようやく理解します。
「見られてるじゃないですか!!」
顔が再び熱くなりました。
私は慌てて布団を頭まで引き上げます。
「大丈夫だ」
お爺さんは平然と言いました。
「何も覚えてねえ」
「そういう話じゃありません!」
「でも死にかけてたぞ」
「それはそうですけど!」
「運ばなきゃいけなかっただろう」
「それもそうですけど!」
私は泣きそうになりました。
お婆さんは額に手を当てています。
「だから言ったじゃないか……」
「何をだ?」
「もう少し言い方ってもんがあるだろうって」
お爺さんは本当に意味が分からないらしく眉をひそめました。
「隠し事は良くないだろ」
「だからそういう話じゃないんだよ!」
お婆さんの雷が落ちます。
私は布団の中へ逃げ込みました。
恥ずかしくて仕方ありません。
けれど。
二人のやり取りを聞いているうちに、少しだけおかしくなってきました。
お婆さんは怒っています。
お爺さんは相変わらず分かっていません。
私は布団の中で小さく笑いました。
何も思い出せない。
自分が誰かも分からない。
それなのに。
なぜでしょう。
この二人の傍は、少しだけ安心できる気がしたのです。
それが老夫婦との出会いでした。
名前も、身元も、帰る場所も分からない私を二人は追い出しませんでした。
「行くところが見つかるまで居ればいいさ」
そう言ってくれました。
私はそこで暮らし始めました。
けれど、一つだけ困ったことがありました。
名前です。
何を聞かれても答えられません。
自分の名前すら分からなかったのですから当然でした。
ある日の夕食でした。
お婆さんがパンを千切りながら言いました。
「不便だねえ」
「……はい」
「ずっと『お嬢ちゃん』じゃ可哀想だしねえ」
お爺さんも頷きます。
「呼び名くらいは必要だな」
私は少し苦笑しました。
「そうですね」
「何か思い出せないのかい?」
「駄目です。どうしても……」
お婆さんは少し考え込みました。
それから、何かを思いついたように顔を上げます。
「じゃあ、フィリアはどうだい?」
「フィリア、ですか?」
「うん」
「どういう意味なんですか?」
「さあねえ」
「えっ」
思わず聞き返してしまいました。
お婆さんは楽しそうに笑います。
お爺さんは呆れたように肩をすくめました。
「適当にもほどがあるだろう」
「いいじゃないか。可愛い響きだろう?」
「理由になっとらん」
二人のやり取りが少しおかしくて、私は久しぶりに声を出して笑いました。
「……フィリア」
小さく口にしてみます。
不思議な響きでした。
本当の名前ではないはずです。
昔の私には、別の名前があったのでしょう。
けれど。
嫌ではありませんでした。
その日から、私は「フィリア」になりました。
朝は鶏の声で起きます。
お爺さんと一緒に畑を耕します。
お婆さんと一緒に家畜の世話をします。
そして、薪を割り、水を汲み、干した洗濯物を取り込みます。
忙しい毎日でした。
けれど、不思議と嫌ではありませんでした。
畑仕事なんてしたことがないはずでした。
それなのに不思議と嫌ではありません。
土の匂いも、手が汚れることも、朝露に濡れた畑も。
なぜか懐かしいような気さえしました。
もっとも、何が懐かしいのかは分かりませんでした。
もちろん失敗もしました。
鍬を折りました。
卵を割りました。
薪割りで斧を飛ばしました。
その度にお爺さんは苦笑しながら怒鳴ります。
「お前は本当に不器用だな!」
私は頭を下げます。
お婆さんは隣で笑っています。
「そのうち慣れるよ」
そんな毎日でした。
夕方になると三人で食卓を囲みます。
野菜のスープ。
焼きたてのパン。
たまにいただくお肉。
豪華ではありません。
けれど。とても温かかったのです。
ある日の夕食。
私は何気なく言いました。
「カレーが食べたいです」
お婆さんが首を傾げます。
「かれー?」
「えっと……
黄色くて、辛くて……?」
そこで言葉が止まりました。
味は知っています。
香りも知っています。
けれど。
実際に食べた記憶はありません。
「また始まったねえ」
お婆さんは笑いました。
私は苦笑いするしかありませんでした。
また別の日。
お爺さんと収穫した野菜が山のように積まれている荷車を押しながら。
「トラックがあれば楽なのですが」
「とらっく?」
お爺さんが眉をひそめます。
「はい」
「なんだそれは」
「大きな荷車みたいなものです」
「ほう」
「馬より速いです」
「ほう」
「荷物もたくさん積めます」
「ほう」
お爺さんは腕を組みました。
「便利そうだな」
「便利です」
「お前作れんのか」
私は少し考えます。
そして正直に答えました。
「作れません」
「役に立たんな」
「はい」
そんなことが何度もありました。
だから私は勝手に納得しました。
これは前世の記憶なのだと。
この世界にないのなら。
私は別の世界から来た人間なのだと。
そう考えれば辻褄が合いました。
そう思いたかったのです。
季節が少しだけ進んだ頃。
秋が終わり。
風が冷たくなり始めた頃でした。
朝には霜が降りることも増えました。
そんなある日。
お婆さんが倒れました。
突然でした。
昨日まで元気だったのです。
収穫した畑の上で一緒に歌まで歌っていました。
それなのに翌日には起き上がれなくなっていました。
熱が下がりません。咳が止まりません。食事も取れません。
医者も手の施しようがない、と言います。
日に日に弱っていきました。
お爺さんは何も言いませんでした。
けれど夜になると納屋へ行き、一人で座り込んでいました。
肩が震えているのを見たことがあります。
私は何もできませんでした。
何も。
お婆さんは優しい人でした。
名前のない私に名前をくれました。
帰る場所のない私に居場所をくれました。
一緒にご飯を食べました。
一緒に笑いました。
だから。
失いたくありませんでした。
怖かったのです。
お婆さんがいなくなることが。
胸の奥がぎゅっと苦しくなりました。
そんな夜でした。
私はお婆さんの隣で、看病をしていました。
ベッドサイドに灯るランプを見つめていると、頭の奥で声がしました。
ーあなたには、彼女を助けられます。
知らない言葉。知らない知識。知らない力。
けれど使い方だけは分かりました。
私はお婆さんに、震える手を伸ばしました。
光が生まれます。
優しく。暖かく。
全てを包み込むような光でした。
その光がお婆さんを包み込んでいきます。
私はそこでベッドにもたれかかるように、意識を失いました。
翌朝。
「フィリア。あんた、大丈夫かい?」
ふと、頭にかかる指に気が付きました。
お婆さんが起きて、私の髪の毛を指で梳いていました。
お婆さんは元気になっていました。
熱もありません。
咳もありません。
食欲も戻っています。
奇跡でした。
村中が大騒ぎになりました。
神様の御業だと誰もが言いました。
私は心から安心しました。
よかった。
本当によかった。
これからも三人一緒に暮らしていける。
そう思いました。
だから。
その晩。夕食の席で。
お婆さんが不思議そうに尋ねた時。
意味が分かりませんでした。
「そういえば、あなたはどちらさま?」
私は笑いました。
冗談だと思いました。
けれど違いました。
お婆さんは本気でした。
お爺さんも。村人たちも。
誰一人として私のことを覚えていませんでした。
私がここで暮らしていたこと。
一緒に畑を耕したこと。
食卓を囲んだこと。
笑い合ったこと。
何も、覚えていませんでした。
私は何度も、何度も、必死に説明しました。
けれども、二人が浮かべるのは困ったような顔だけでした。
まるで突然やって来た旅人を見るような目でした。
その夜。
私は村で一冊の手帳を買いました。
最初のページを開き、震える手で書きました。
『力を使うと忘れられる』
さらに書きます。
『フィリア』
私はしばらくその名前を見つめました。
本当の名前ではありません。
けれど、それが今の私の名前でした。
次のページを開きます。
『農場の老夫婦ー』
そこで手が止まりました。
名前を書こうとして、気付きます。
思い出せません。
昨日まで呼んでいたはずなのに。
名前が出てこないのです。
私はしばらく手帳を見つめていました。
それから。
ゆっくりと書き足しました。
『優しかった』
『温かい人たちだった』
それだけでした。
それしか書けませんでした。
翌朝。
私は旅立ちました。
別れは告げません。
告げても意味がないからです。
門を出て、畑を超えてふと振り返ると。
門の前に二人が立っているのを見つけました。
お婆さんが私に気付いて手を振っています。
「旅人さん!」
笑顔で手を振ります。
お爺さんも手を振ります。
優しい笑顔でした。
けれど。
その笑顔は、もう「フィリア」に向けられていたものではありませんでした。
私は同じように手を振り返しました。
「お元気でいてください」
声は風に消えていきました。
届かなかったかもしれません。
届いたとしても。
きっと二人は忘れてしまいます。
それでもよかったのです。
二人が元気なら。
それだけで十分でした。
だから私は歩き出しました。
誰にも知られず、誰にも覚えられず。
それでも。
もし誰かが助けを求めているなら。
私はきっと。
また手を伸ばしてしまうのだと思います。
なぜなのかは分かりません。
でも。それだけは確かな気がしていました。
この時の私は、まだ知りませんでした。
その力が何なのか。
自分が何者なのか。
そして。
「フィリア」という名前を、これからどれほど大切に思うようになるのか。




