後日談
感想を頂きましたので、後日談を追加させていただきました。
王家査察官が王都神殿に足を踏み入れたのは、東礼拝堂の灯が三日続けて青く揺れた翌朝のことだった。
神殿長ローレンスは、執務室の机で悠然と査察官を迎えた。
机の上に並べられたのは、完璧に整えられた公式の管理記録。清掃日、祈祷回数、巡礼者数、癒やしを与えた実績――どこをどう見ても、王都神殿は「完璧に」機能しているはずだった。
査察官は、無言でその帳面をめくっていく。
紙が擦れる音だけが室内に響く。
「……この数日の異常についてですが。報告書では、いずれも『軽微なもの』と処理されていますね」
「はい」
ローレンスは穏やかに微笑んでみせた。
「なにせ歴史ある古い神殿ですから、小さな不具合など日常茶飯事です。現場から報告が上がれば、その都度、私どもで『必要な範囲』の補修を行っております」
「必要な範囲、ですか」
査察官がその言葉を繰り返した。
責めるような声音ではない。だからこそ、冷徹な針を一本、机に突き立てられたかのような重苦しさがあった。
だが、ローレンスは眉一つ動かさない。
「巡礼者を無用に不安にさせないことも、神殿の重要な務めですので。正式な異常とも言えない些細な出来事を大きく騒ぎ立てれば、かえって混乱を招くだけです」
「では、これはどう説明されるので?」
査察官が、別の薄い紙束を机にドサリと置いた。
それは、調律役用の控え――サシャが残した泥臭い記録だった。
ローレンスは一目で察した。
公式の帳面とは違い、余白にびっしりと小さな文字が詰め込まれている。日付、場所、執拗なまでの注意書き。
『東礼拝堂の灯』『聖水槽』『大広間の右奥』。
場所はバラバラだが、すべての記録の横には「祈祷後の過負荷」「要再確認」の文字と、赤い印が何度も書き殴られていた。
「ああ……それですか」
ローレンスは、さも困った部下を哀れむような口調で言った。
「以前ここにいた、補助役の個人的な妄想……失礼、主観的な記録です。熱心な子ではありましたが、いかんせん視野が狭く、細かな数字に囚われすぎる嫌いがありまして。『見えない負荷』だの『力の流れ』だの、そのような曖昧なものを、神聖な公式記録に載せるわけにはまいりません」
「現在発生している不具合の箇所と、驚くほど一致していますが?」
「神殿内でガタが来やすい場所など、最初から決まっておりますから」
ローレンスはサシャの控えを鼻で笑うように見下ろした。
「結構です。こちらで預かり、私の方で『精査』しておきましょう」
査察官はしばらく沈黙していたが、やがて、その控えを机に置いたまま、すっと立ち上がった。
「…後日、改めて確認に参ります」
それだけを残し、査察官は部屋を去った。
パタン、と扉が閉まる。
ローレンスは鼻を鳴らし、ようやく深く椅子の背もたれに体を預けた。
机の上の、サシャの控え。
めくってみれば、やはり『大広間右奥』の文字がしつこいほど並んでいる。祈祷後の異常発熱、負荷の集中。
「やたらと大げさに書きおって。見えないものが見えているとでも言いたいのか」
だが、場所の特定だけは利用できた。
大広間右奥の結界石。要は、そこが寿命なのだ。
王都神殿の基礎結界に手を付けるとなれば、王家の許可や神殿の一時閉鎖が必要になり、神殿の「落ち度」を認めることになる。それは絶対に避けたい。
だが、表面の『受け石』を一つ交換するだけなら、神殿長の裁量でどうにでもなる。
一番負荷がかかる石を、新品に替えればすべて解決する。
古いものを新しくする。ただそれだけの、簡単な話だ。
ローレンスはすぐに備品管理簿を開いた。
数日後、大広間の右奥に、見事な新しい結界石が据えられた。
白く、滑らかで、傷一つない最高級の石。
朝の光を浴びて銀色に輝くその姿に、若い神官たちは「これぞ神殿だ」と喜び、巡礼者たちの世話係も「これで一安心ですね」と胸を撫で下ろした。
ローレンスも満足げに頷いた。
床は磨かせ、祭壇布も新調した。新しい石が古い床の中で少し白く浮いているが、それも「新品の証」だ。そのうち馴染む。
「神殿長」
大広間の入り口に、エリザベスが立っていた。
簡素な白い聖女服を纏った彼女は、そこにいるだけで周囲をパッと明るくするような華があった。彼女の持つ『癒やしの力』だけは本物だ。そこはローレンスも信頼している。
しかし、今日のエリザベスの顔色は優れなかった。
「結界石を……替えてしまわれたのですね」
「ああ、右奥の石が劣化していたのでな。これで祈祷場は完全に安定する」
「……本当に、もう問題はないのでしょうか」
ローレンスはわずかに不快感を覚えて眉を寄せた。
「そのために私が手配したのだ。何も問題はない」
エリザベスは、その白い結界石を見つめた。
綺麗だった。文句のつけようがない。
なのに、心臓の奥がじわじわと冷たくなる。
形容しがたい不気味さ。何がどうおかしいのかを説明する言葉を、エリザベスは持たなかった。ただ、その白さが、不吉なほどに目につく。
――『人の体が受け取れる力と、祈祷場が受け止められる力は違います』
脳裏に、サシャの声が蘇る。
あの時は分かったつもりでいた。
でも、今になって思い知る。自分は、あの言葉の何を理解していたというのだろう。
「明後日、復旧祈祷式を行う」
ローレンスの声が、思考を遮った。
「王弟殿下、査察官、さらには有力貴族の代表も参列される。王都神殿が、何一つ問題なく祈りを受け止められると証明する最高の舞台だ」
「……私が、祈るのですね」
「当然だ」
ローレンスはさも当たり前のように言い放った。
「君の祈りの輝きこそが、この王都神殿の信頼そのものなのだからな」
エリザベスはもう一度、白い石を見た。
「止めるべきだ」と、何かが告げていた。
けれど、声には出せない。違和感だけで式典を中止させる度胸も、理論もなかった。サシャなら、今すぐ床に這いつくばって、地脈の音を聞いただろう。灯の揺れも、水の重さも、すべてを調べて原因を突き止めたはずだ。
でも、サシャはもういない。
いない人間の言葉に縋って、この大舞台をひっくり返すだけの覚悟が、今の自分にはなかった。
*****
復旧祈祷式当日。
大広間から一般の巡礼者は締め出され、張り詰めた緊張感の中、王弟殿下をはじめとする権力者たちが居並んでいた。彼らは祈りを楽しみに来たのではない。王都神殿が「使い物になるかどうか」を品定めしに来たのだ。
ローレンスは壇の横で、最高級の金糸があしらわれた祭服に身を包み、威風堂々と背筋を伸ばしていた。
(今日、この場が無事に終われば、すべては元通りになる)
右奥の結界石は、完璧な白さで光を反射している。
「始めなさい」
厳かな聖歌が響き渡り、エリザベスが壇上へと進む。
一歩、踏み出した瞬間、エリザベスの足裏に奇妙な感覚が走った。
いつもと同じ床のはずなのに、足元が酷く「浅い」のだ。まるで、底の抜けた泥沼の上に薄い布を一枚敷いただけのような、恐ろしい不安定さ。どこまで自分の力を預けていいのか、感覚がまるで行方不明だった。
(大丈夫……大丈夫よ、私ならできる)
胸の前で手を組む。
言い聞かせる。強く流しすぎない。傷が閉じたらすぐに止める。周囲の空気に引っ張られない。
エリザベスが、祈りの言葉を紡ぎ出す。
溢れ出したのは、息を呑むほどに美しい、圧倒的な白光。
広間の空気が劇的に浄化され、参列していた年配の貴族が「おお……」と胸を押さえた。長年患っていた喘息の苦しみが和らいだのだろう。周囲から安堵の息が漏れる。
ローレンスの口元が、勝ち誇ったように僅かに歪んだ。
(よし、ここで止める……!)
エリザベスは必死に光を絞ろうとした。流れを断ち切る。これ以上、この場所に力を押し込んではいけない。
だが、その瞬間だった。
大広間の右奥から、硬く、乾いた音が響いた。
――ぱきん。
あまりにも小さな音。
しかし、静寂に包まれた広間の全員の耳に、それは致命的な違和感として届いた。
エリザベスは呼吸を忘れた。
見つめる先、あの白く滑らかだった結界石の表面に、一本の「黒い線」が走っていた。
石の内側から湧き出すように、斜めへと這いずる亀裂。
パキ、パキパキ、と嫌な音を立てて裂け目は広がり、そこから、エリザベスの聖なる光とは正反対の、どす黒く濁った『熱』が噴き出し始める。
「下がれッ!!」
査察官の鋭い怒号が飛んだ。
直後。
――バキリ!!!
新品の結界石が木っ端微塵に弾け飛んだ。
幸いにも最後の結界が作動したのか、破片が参列者席まで届くことはなかった。だが、衝撃波が天井を揺らし、砕け散った石の中心から、生温かい不快な突風が吹き抜ける。
聖歌が途絶えた。
エリザベスの光も消えた。
聖水槽の異変も、灯火の揺れも、ここにはない。
だが、祈りを受け止めるはずの「新品の結界石」が、最初の祈りだけで粉々に砕け散った。
その光景だけで、王都神殿の『致命的な崩壊』を証明するには、あまりにも十分すぎた。
「……こんな、はずじゃ」
静まり返った広間に、ぽつりと声が落ちた。
エリザベスだった。
彼女は粉々になった石の破片を見つめたまま、白を通り越して土気色になった両手を硬く握りしめている。
「私は……強く流していません。途中で止めようとしました。なのに、どうして……!」
言い訳を叫んでいるのではない。ただただ、目の前の現実が理解できず、恐怖に震えているのだ。
その姿を見て、ローレンスは本能的な危機感を覚えた。ここで聖女に弱音を吐かれては、神殿の権威が地に落ちる。
「エリザベス、今は黙りなさい。殿下の御前だ」
ローレンスは精一杯の威厳を声に込めて制そうとした。
しかし、エリザベスは弾かれたように顔を上げ、ローレンスを真っ直ぐに見つめた。その瞳には、強い不信感が宿っていた。
「サシャが言っていたのは……これだったのですか」
「……何?」
「私の祈りが届いたあと、それがどこへ流れて、何が受け止めているのか。私は……私は何も知らないまま、ただ綺麗に光を放っていればいいと、貴方に言われるがまま、ここに立っていたのですか!?」
「エリザベス!」
遮ろうとしたが、遅かった。
誰も答えない。答えられる者が、この場にはいなかった。
静寂が、泥のように重く広間を支配していく。
その沈黙を破り、上座から王弟殿下が静かに立ち上がった。
視線はまず、床に散らばる結界石の破片へ。
そして、怯えるエリザベスへと向けられる。
「新聖女エリザベス」
「……はい」
「以後、あなたの単独での大祈祷を一切禁ずる」
エリザベスが小さく息を呑んだ。
「そなたの癒やしの力を否定するわけではない。だが、その強大すぎる力がどこを通り、何に受け止められているのかすら理解せぬまま壇に立つには、そなたの力はあまりにも危険すぎる」
王弟殿下の声は、低く、だが驚くほど広間によく通った。
怒号よりも冷徹なその響きが、エリザベスの肩をすくませる。
「祈祷場の構造と、力の流し方。すべてを一から学び直しなさい」
エリザベスは唇を血がにじむほど噛み締め、砕けた石の粉を見つめた。
白い衣の裾が汚れている。かつての彼女なら、すぐに払っただろう。けれど、彼女はその汚れを、自らの無知の証として受け入れるように、ただじっと見つめていた。
「……承知、いたしました」
声は震えていた。それでも、彼女は逃げずに頭を下げた。
そして。
王弟殿下の冷徹な視線が、ゆっくりとローレンスへと移動した。
ローレンスの背中に、どっと嫌な汗が噴き出す。
心臓が早鐘を打ち、喉がカラカラに乾き出す。だが、ここで怯えれば本当に終わりだ。彼は必死に神殿長としてのプライドをかき集め、引きつる顔に営業用の笑みを貼り付けた。
まだ言い訳はできる。新しい結界石そのものに初期不良があった可能性、職人の定着作業の不手際、あるいは想定外の地脈の変動――口から出まかせの言葉が、脳内で濁流のように渦巻く。
「で、殿下。これは完全に予期せぬ事故でございます。石そのものに致命的な瑕疵があった可能性が極めて高く……!」
そこへ、査察官が無言で一歩前に出た。
その手には、サシャが残したあの泥臭い『控えの紙束』が握られていた。
王弟殿下は、その紙束に冷ややかな一瞥をくれた。
「最初の査察で、すでに異常は指摘されていたはずだが?」
「っ……それは、現在『精査中』でございまして……!」
「精査の結果が、これか」
(あ――)
頭を殴られたような衝撃だった。
殿下の声には、怒りすらなかった。ただ、救いようのない無能を見る、底冷えするような呆れだけがあった。
ローレンスは言葉を失い、口を金魚のように開閉させた。
周囲の貴族たちの、突き刺さるような視線が痛い。誰も大声で罵倒などしてこない。だからこそ、逃げ場がない。張り詰めた「軽蔑の沈黙」が、ローレンスのプライドをじわじわと、だが確実に圧殺していく。
王弟殿下は、事務的に告げた。
「ローレンス、貴方を王都神殿長の任から解く」
「殿下……っ!? お待ちください、私は、私は長年この神殿を――」
「神官職までは解かぬ」
一瞬、ローレンスは「助かった」と、惨めにも縋るような目を向けた。
だが、それは慈悲などではなかった。
王弟殿下は、サシャの控えに視線を落としながら、吐き捨てるように言った。
「……神殿長は、貴方には荷が重すぎたのだろう」
ヒュ、とローレンスの喉が鳴った。
呼吸の仕方を忘れたように、胸が苦しくなる。
その言葉を知っている。
他ならぬ自分自身が、数日前、優秀な調律役だったサシャを追い出す時に、勝ち誇った顔で言い放ったセリフだった。
(まさか、私が……)
目の前が真っ暗になる。自分が放った傲慢な言葉が、何倍もの重さになって、自らの首を絞める形で返ってきたのだ。あまりの屈辱と絶望に、視界がぐにゃりと歪む。
「結界管理記録係として、査察官の監督下に入りなさい」
殿下の無慈悲な追撃が続く。
「記録係、ですか……? 私が、あのような雑用を……?」
「そうだ。まず、何を『異常』として記録すべきか、一から学ぶのだ。聖水槽の音、灯火の揺れ、結界石の熱、祈祷後の負荷――貴方が『細かな妄想』として退けたものを、毎朝、毎夕、その手で泥臭く記録するところから始めなさい」
ローレンスは床に膝をつきそうになるのを、かろうじて耐えた。
視界の端で、真っ白に砕け散った結界石の粉が、まるで自分を嘲笑うかのように鈍く光っていた。
*****
復旧祈祷式は完全に中止され、貴族たちは静かに退出していった。取り繕う余地のない敗北の前で、人はただ、静かに背を向けるのだ。
控えの間に戻されたエリザベスは、付き添おうとする若い神官を拒み、一人で鏡の前に座っていた。
衣の裾についた石の粉は、いくらはたいても、繊維の奥に入り込んで白く残っている。
「……基礎から」
ぽつりと呟いた声は、泣き出しそうだった。
けれど、もう誰のせいにもしないと決めた。
見る時間はあったのだ。サシャは何度も警告してくれていた。聞く機会もあった。なのに、自分は「聖女」としての賞賛を当然のものと思い、立ち止まろうとしなかった。
彼女は自分の両手を見つめ、静かに、深く、その罪を刻み込んでいた。
一方、大広間に一人残されたローレンスは、抜け殻のようになっていた。
神殿長としてのきらびやかな祭服は、すでに剥ぎ取られている。金糸の刺繍が入った上衣は、かつて顎で使っていた若い神官によって、事務的に回収された。
代わりに渡されたのは、何の装飾もない下級の記録係の上着。
執務室の机には、新しく、味気ない記録板が置かれていた。
『聖水槽の音』『灯火の揺れ』『結界石の熱』。
かつて自分が鼻で笑い、切り捨てた項目ばかりが、整然と並んでいる。
「本日分から始めます。大広間右奥、結界石。状態を記録してください」
隣に立つ査察官の声には、一切の感情がなかった。罪人を監視するような冷たい役人の声だ。
ローレンスは、震える手で筆を執った。
かつてなら『破損』の一言で済ませていただろう。だが、今の彼の横には、査察官が目を光らせている。
「早くしてください」
催促され、ローレンスは屈辱に歯を食いしばりながら、ガタガタと震える筆を下ろした。
『大広間右奥結界石、復旧祈祷時に破砕。中心部に黒い筋あり。原因、判別できず。再確認、要』
「分からない」という事実を、公式記録に刻まなければならない苦痛。
ゴォン、と神殿に鐘が鳴り響いた。
かつてなら、神殿長として優雅に聞き流していた、祈りの時間を告げる鐘。
だが、今のローレンスにとっては違う。
「次へ向かいます。聖水槽の確認です」
査察官が歩き出す。
ローレンスは重い記録板を必死に抱え、惨めにその後を追うしかなかった。
廊下の奥から、絶え間なく水の音が聞こえてくる。
あの水音が、重いのか、澄んでいるのか。
すべてを切り捨ててきた彼には、まだ、何も分からなかった。
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