後編
後編です、よろしくお願いします
北辺境へ向かう馬車は、王都を出て二日目から、よく揺れるようになった。
石畳の道が途切れ、車輪が土を噛む音に変わる。窓の外には低い丘と、まだ葉の少ない林が続いていた。王都の神殿で嗅ぎ慣れた清めの香はもうなく、代わりに湿った土と、どこか遠くで焚かれている薪の匂いが風に混じって入ってくる。
サシャは膝の上に置いた荷物を、両手で押さえていた。
荷物は少ない。替えの衣が数枚、調律用の小さな道具、祈り輪、記録板。それから、老神官が残してくれた薄い手帳だけだった。王都神殿で過ごした年数を考えると、あまりに軽かった。
軽いのに、馬車の揺れに合わせて膝の上で何度も跳ねる。
そのたびに、サシャは指先で押さえ直した。
王都を出る朝、聖水槽の方を見なかった。
見れば戻りたくなる気がしたからではない。たぶん、見れば手を入れてしまうと思ったからだ。底の銀皿はまだ鳴っていないはずだった。東礼拝堂の灯も、風のない場所で右へ傾いているかもしれない。
けれど、それはもうサシャの仕事ではない。
そう思うたび、胸の奥に薄い空白ができる。
楽になった、とは少し違う。
奪われた、というほど強くもない。
ただ、長く握っていたものを急に取り上げられて、手の形だけが残っているような感じだった。
*****
北辺境の修道院へ着いたのは、夕方だった。
王都神殿のような白い石造りではない。灰色の石を積んだ壁はところどころ黒ずみ、門の上に掲げられた聖印も、風雨に削られて輪郭が丸くなっていた。庭と呼ぶには荒れた小さな空き地には、冬を越した薬草が低く茂っている。
けれど、門の前には人が立っていた。
年配の修道女だった。背は低いが、背筋は伸びている。黒い修道服の裾は古びていたが、袖口はきちんと縫い直されていた。
「サシャ様ですね」
「はい。本日よりお世話になります」
サシャが頭を下げると、修道女は少し困ったように笑った。
「こちらこそ、遠いところをよくお越しくださいました。私はこの修道院を預かっております、マルタと申します」
修道院長が、自ら門まで出ていた。
王都神殿では、異動してくる下位の者を神殿長が出迎えることなどない。サシャは一瞬、どう反応すればいいか分からず、遅れてもう一度頭を下げた。
「サシャと申します。調律補助として参りました。聖女としての正式な任は」
「ええ、書状で伺っております」
マルタ院長はそれ以上、肩書きをなぞらなかった。
ただ、サシャの荷物へ視線を落とし、少し眉を下げる。
「それだけですか」
「はい。必要な道具は持参しております」
「では、まずお部屋へ。長旅でお疲れでしょう」
疲れている。
そう言われて、サシャは自分の身体が冷えきっていることにようやく気づいた。馬車の揺れで背中がこわばり、指先は荷物の紐を握り続けたせいで少し赤くなっていた。
それでも、門をくぐった瞬間、足は礼拝堂の方へ向きかけた。
中庭の奥、古い礼拝堂の扉の隙間から、灯が揺れているのが見えたからだ。
赤い炎の縁が、かすかに青い。
サシャは立ち止まった。
マルタ院長が、その視線に気づく。
「礼拝堂ですか」
「あ……いえ」
答えようとして、サシャは一拍遅れた。
疲れているなら休むべきだ。着いたばかりで、勝手に礼拝堂へ入るべきではない。そもそも今の自分は王都神殿から移された調律補助にすぎず、ここでどこまで触れていいのかも分からない。
そう考えている間にも、灯は小さく揺れた。
右へ、わずかに沈む。
「礼拝堂の灯が、少し乱れています」
結局、言ってしまった。
言ってから、サシャは身構えた。
そんな小さなことで。
今は荷物を置くのが先でしょう。
勝手に触られては困ります。
言われる言葉はいくつも予想できた。
けれどマルタ院長は、礼拝堂の方を見ただけだった。
「やはり、分かりますか」
サシャは瞬いた。
「……はい」
「ここ数日、灯の揺れ方が変だったのです。風のせいかとも思ったのですが、扉を閉めても同じで」
マルタ院長は静かに言い、サシャへ向き直る。
「お疲れのところ申し訳ありません。明日でも構いませんが、見ていただくことはできますか」
見ていただく。
その言葉が、耳の中で少し長く残った。
サシャは自分の荷物を抱え直した。答えるまでに、なぜか息を整える必要があった。
「今、確認いたします」
「無理はなさらず」
「大丈夫です」
口にしてから、少しだけ苦くなる。
王都でも何度も言ってきた言葉だった。大丈夫。まだ直せる。大丈夫。午前の祈りまでには間に合う。大丈夫。誰にも気づかれないうちに戻せる。
けれど今の「大丈夫」は、少しだけ違って聞こえた。
礼拝堂は、王都神殿の大広間よりずっと小さかった。
天井は低く、祭壇も簡素で、長椅子には使い込まれた跡がある。壁の聖句は薄れ、床石は何度も磨かれたせいで、中央だけが少し窪んでいた。古い場所だ。けれど、荒れてはいない。
手入れされている。
それが分かった。
花は豪華ではないが、萎れたものは混じっていない。燭台は古いが、煤は拭われている。清めの水を入れた小瓶には布が掛けられ、埃が入らないようにされていた。
サシャは祭壇前の灯に近づいた。
青く滲む炎の縁を見つめ、目を閉じる。
礼拝堂の気配が、ゆっくり肌に触れた。王都神殿のように大きな流れはない。細い。けれど、途切れてはいない。小川のような祈りが、石壁の奥を回り、井戸の方へ流れ、外の村境へ細く伸びている。
その途中に、いくつも引っかかりがあった。
長く使った布の縫い目が、あちこちでほつれているような感覚だった。大きな破れではない。けれど、ほつれが絡まり合って、流れそのものを重くしている。
「随分、長く調律されていないのですね」
そう呟いてから、サシャは慌てて口を閉じた。
責めるつもりではなかった。
ただ、見えたことがそのまま出ただけだった。
マルタ院長は、少しだけ目を伏せた。
「先代の調律師が亡くなってから、こちらでは専門の者を置けておりませんでした。村の者たちも、最近は井戸水が重いと言っておりましたし、夜になると礼拝堂の灯が落ち着かない。けれど、どうすればよいのか分からず」
サシャは振り返った。
「井戸水も、ですか」
「ええ。濁っているというほどではないのですが、沸かすと底に白い粉が残ることが増えました」
礼拝堂の灯、井戸水、村境の結界。
王都神殿ほど複雑ではない。だからこそ、歪みの流れが素直に見える。礼拝堂の古い結界が弱り、逃げた熱が井戸の方へ降り、村境の守りを少しずつ薄くしている。
この程度であればすぐに戻せる。
いてもたってもいられず、サシャは荷物の中から祈り輪と細い銀針を取り出した。
「今夜、礼拝堂の流れだけ整えます。井戸と村境までは一度に触れません。急に戻すと、逆に水が荒れますから」
「必要なものはありますか」
必要なもの。
サシャは少し考えた。
王都では、必要なものを求める前に、あるもので何とかするのが普通になっていた。聖水が足りなければ薄める。布がなければ古いものを洗って使う。時間がなければ食事を抜く。
「清めの水を少し。あと、できれば灯を二つ増やしてください」
「すぐに」
マルタ院長は返事と同時に身を翻した。
その反応の速さに、サシャの手が一瞬止まる。
すぐに、若い修道女が水と灯を持ってきた。何のために使うのか、誰も詮索しない。ただ、邪魔にならない場所へ置き、静かに下がる。
サシャは祭壇の前に膝をついた。
王都神殿の床石より、ここの石は粗い。膝に当たる感触が硬く、衣越しにも小さな凹凸が分かる。けれどその粗さは、どこか人の手に近かった。長く使われ、何度も磨かれ、それでも完全には滑らかにならなかった石。
彼女は両手を重ね、礼拝堂の流れへ意識を沈めた。
最初に触れたのは、祭壇下のほつれだった。祈りの流れがそこで一度丸まり、井戸の方へ行くべき細い筋を塞いでいる。力を入れて引けば切れる。切れば、一時的に灯はまっすぐ立つだろう。けれどそれでは、井戸へ降りる流れが痩せる。
ほどくしかない。
サシャは祈り輪へ魔力を通し、銀針で空中をなぞるように動かした。目に見えない糸をすくい上げ、絡まった部分を少しずつほどく。灯が一度、大きく揺れた。
近くで誰かが息を呑む音がした。
サシャは手を止めなかった。
「大丈夫です。今、引っかかりが外れます」
そう言ってから、自分でも驚いた。
私今、説明した?
いつもなら、何も言わずに直していた。言ったところで分からないと思っていたし、言えば邪魔をするなと言われると思っていた。けれど今、背後で見ている人たちは、彼女が何をしているか知ろうとしている。
だから、言葉が出た。
祭壇下のほつれがほどける。
灯の青みが、少し薄くなった。
次に、井戸へ続く筋へ触れる。こちらは重かった。水の気配が湿った布のように指先へまとわりつく。濁りきってはいないが、長く動きが悪かったせいで、流れそのものが沈んでいた。
サシャは清めの水を一滴、床石の継ぎ目へ落とした。
水はすぐに染み込んだ。
石の奥から、小さな音が返る。
澄んではいない。
けれど、鳴った。
サシャは細く息を吐いた。
王都神殿の聖水槽で、鳴らなくなった銀皿を思い出す。思い出した瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。けれど手は止まらなかった。時間は思ったよりかかった。
夜の気配が礼拝堂の窓へ降りてくる。増やしてもらった灯の光が床へ伸び、サシャの手元を淡く照らしていた。何度か指先が痺れ、息を整えるために目を閉じた。そのたびに、背後から水差しの置かれる音や、布を差し出す気配があった。
どのくらい作業ができていただろうか。どのくらい集中できていただろうか。
誰も急かさない。
誰も、今は控えなさいと言わない。
そのことに気づくたび、かえって喉の奥が詰まりそうになる。
最後のほつれをほどいた時、祭壇前の灯がすっと立った。
炎の縁から、青みが消える。
赤い火が、静かに揺らめいていた。
礼拝堂の中に、誰かの息が落ちる。
「……灯が」
若い修道女の声だった。
サシャは手を下ろした。すぐに立ち上がろうとして、膝に力が入らなかった。長旅の疲れと、調律で使った魔力が一度に戻ってきたようだった。
マルタ院長が、そっと腕を支えた。
「無理をなさいましたね」
「いえ。この程度なら」
いつもの癖で、そう答えた。
本当に、この程度だと思っていた。王都神殿ではもっと大きな流れを、もっと短い時間で直してきた。誰にも知られないまま、何度も。
マルタ院長は、サシャを長椅子へ座らせた。
「いいえ。この程度ではありません」
静かな声だった。
サシャは顔を上げる。
マルタ院長は礼拝堂の灯を見ていた。揺れなくなった炎を、ただ美しいものとしてではなく、何かを確かめるように見ていた。
「昨夜まで、あの灯はずっと右へ傾いていました。井戸の水も、ここ数日は朝になると白く重くなっていた。村境の見張りも、夜に獣の気配が近いと言っていました」
一つずつが具体的だった。
「それが、今、変わりました」
マルタ院長はサシャへ向き直る。
「あなたが直してくださったのですね」
胸の奥で、何かが揺れた。
サシャはそんなことないと、すぐに首を振ろうとした。
「いえ、まだ礼拝堂の流れを少し整えただけです。井戸と村境は明日以降、順に確認しなければなりませんし、今日の処置も完全では」
「それでも、変わりました」
遮る声ではなかった。
ただ、逃がさない声だった。
マルタ院長は、サシャの濡れた袖口と、石粉のついた指先を見た。そこから視線を逸らさず、もう一度言う。
「ありがとう」
サシャは息を吸った。
吸ったはずなのに、胸の奥で止まった。
たった5文字の感謝の言葉。
王都神殿で、同じような言葉をずっと待っていたのだと思う。自分でも気づかないくらい、ずっと。すごいと言われたかったわけではない。奇跡だと讃えられたかったわけでもない。自分が直したものを、正確に見てほしかっただけだった。
礼拝堂の灯が揺れなくなったこと。
井戸水の重さが変わったこと。
歪みが、まだ壊れる前に戻されたこと。
ただ、それだけを。
「……そんな」
声がうまく出なかった。
サシャは笑おうとした。いつものように、大したことではありません、と言おうとした。言って、終わらせようとした。
けれど、唇が震えた。
「そんなふうに、言われたことが」
途中で声が崩れた。
マルタ院長が、何も言わずに隣に座り、手を握ってくれた。
慰める言葉も、慌てる声もない。ただ、そこにいてくれる。その沈黙が、サシャの中に残っていた最後の堰に触れた。
息が、うまく吸えなくなる。
涙が落ちた。
一粒だけでは済まなかった。
サシャは両手で顔を覆った。止めようとしたのに、肩が震える。喉の奥から、子どものような声が漏れた。自分でも驚くほど大きく、みっともない声だった。
王都神殿では、泣いたことがなかった。
水が冷たくても、石が熱くても、膝が痛くても、誰にも見られない記録板を抱えて夜の廊下を歩いても、泣かなかった。泣けば手が止まる。泣けば朝に間に合わない。泣けば、やはり荷が重かったのだと言われる。
だから泣かなかった。泣く前に整えなければならかった。だから、泣けなかった。
なのに今、礼拝堂の片隅で、古い長椅子に座ったまま、サシャは声を上げて泣いていた。
「申し、訳……ありません」
ようやく絞り出すと、マルタ院長は静かに首を振った。
「謝ることではありません」
その声に、また涙が出た。
若い修道女が、そっと布を差し出してくれた。サシャはそれを受け取ろうとして、指先が震えすぎてうまく掴めなかった。修道女は何も言わず、彼女の手に布を添える。
布は、少し温かかった。
たぶん、誰かが握っていたのだ。
サシャはその布を顔に押し当て、息を整えようとした。けれど、息を整えようとすると、また泣けてくる。自分が何に泣いているのか、途中から分からなくなった。
疲れかもしれない。
悔しさかもしれない。
安心かもしれない。
たぶん、その全部だった。
礼拝堂の灯は、もう揺れていなかった。
静かな赤い火が、古い石壁を淡く照らしている。
その光の中で、マルタ院長の声が落ちた。
「サシャ様。明日の朝、井戸を一緒に見ていただけますか」
仕事の話だった。
いつものように、次にやるべきことがある。
それなのに、その言葉は重荷ではなかった。
サシャは布で目元を押さえたまま、小さく頷いた。
「はい」
声はまだ濡れていた。
けれど、喉の奥を締めつけるものは少しだけ薄くなっていた。
「明日の朝なら、井戸の流れが一番分かります。礼拝堂の灯が落ち着いたあと、どれくらい水が戻るかを見て、それから村境の結界を」
言葉が自然に出る。
説明している。
誰かが聞いている。
マルタ院長は、ひとつひとつ頷いた。
「分かりました。必要なものを用意しておきます」
必要なものを。
サシャはまた少し泣きそうになったが、今度はなんとか堪えた。
その夜、用意された小さな部屋で、サシャは久しぶりに早く横になった。
寝台は狭く、毛布も厚くはない。窓の隙間からは隙間風が入り、どこかで古い木が軋む音がする。王都神殿の宿舎より、ずっと質素な部屋だった。
けれど、扉の外には温めた湯の入った小瓶が置かれていた。
「手首が痛むでしょうから」と、若い修道女が持ってきてくれたものだった。
サシャはその小瓶を両手で包んだ。
温かい。
聖水でも、儀式用の香油でもない。ただの湯だ。けれど手首に当てると、石の熱とは違う温度がゆっくり染み込んでくる。
窓の外では、礼拝堂の灯が小さく見えた。
揺れていない。
サシャはそれをしばらく見ていた。
王都神殿の聖水槽は、今頃どうなっているのだろう。東礼拝堂の灯は、誰かが見ただろうか。エリザベスは、祈りの途中で一度息を置いただろうか。
考えかけて、湯の入った小瓶を胸元へ引き寄せる。
今日は、もういい。
初めて、そう思えた。
直すべきものも私の仕事も、ここにもある。
そしてここでは、直したことに気づく人がいる。
それだけで、眠る前の息が少しだけ深くなった。
*****
王都神殿で最初に異変に気づいたのは、聖水を配る係の若い神官だった。
朝の祈りの前、いつものように聖水槽から銀の柄杓で水を汲み上げた時、底の方から細かな白い粉が舞った。最初は光の加減かと思った。高窓から差し込む朝日が水面で揺れて、銀の柄杓の縁に反射している。そう思おうとすれば、そう見えないこともない。
けれど、小瓶に移した水は、いつもよりわずかに重かった。
神官は眉をひそめ、瓶を揺らす。
水そのものは澄んでいる。鼻を近づけても、腐ったような匂いはしない。けれど、底に沈む白いものが消えない。
「……磨き粉でも入ったのかしら」
そう呟いた声は、聖水槽のある小部屋で小さく響いた。
返事はない。
以前なら、この時間にはサシャがいた。水槽の縁に膝をつき、袖口を濡らしながら底の銀皿を確かめていた。神官たちはそれを、また細かいことをしている、と笑っていたし、誰かが手伝おうとしたこともほとんどなかった。
いなければいないで、静かなものだった。
若い神官は少し迷ったあと、聖水の小瓶を二本だけ横へ避けた。残りはいつものように祈祷台へ運ぶ。今日も巡礼者は来る。新聖女エリザベスの癒やしを求めて、門の前には朝から人が並んでいる。
小瓶の底に沈んだ白い粉のことは、あとで報告すればいい。
そう思って、彼女は聖水槽の部屋を出た。
*****
午前の祈りは、いつも通り始まった。
少なくとも、最初はそう見えた。
エリザベスは白い衣をまとい、壇上で両手を重ねている。数日前より顔色は戻っていたが、祈りの前に一度、浅く息を置くようになっていた。誰に教わったのか、とローレンスは少し不思議に思ったが、悪い癖ではないと判断した。
むしろ、その方が聖女らしく見える。
焦らず、静かに、苦しむ者へ力を差し出す。見ている巡礼者たちにも安心感を与える。
ローレンスは壇の横に立ち、満足げに頷いた。
王都神殿には、こういう分かりやすい、見えやすい祈りが必要なのだ。
人の目に見え、人の心を動かす奇跡。癒えた傷。涙を流す巡礼者。新しい聖女を中心に、人々が神殿へ信仰を取り戻していく。それが王都神殿の役割であり、サシャのような者が足元の石ばかり気にしていては、その流れを曇らせる。
北辺境の修道院なら、彼女の細かさも役に立つだろう。
そう考えた時、壇下の巡礼者がひとり、咳き込んだ。
最初は誰も気にしなかった。
長旅で疲れた者は多い。香の匂いに慣れない者もいる。だが、続けて二人目が膝をつき、母親に抱かれていた子どもが顔をしかめた。
「お水を」
誰かが言った。
近くの神官が小瓶の聖水を差し出す。母親は礼を言い、子どもの唇へ少しだけ含ませた。
だが、子どもはすぐに顔をそむけた。
「苦い……」
小さな声だった。
けれど、ローレンスにはその呟きが聞こえた。
彼は眉をひそめる。神官が慌てて別の小瓶を開け、母親へ渡した。今度は子どもも飲んだが、咳はすぐには収まらなかった。
エリザベスの祈りは止まらない。
白い光が広がり、膝をついていた巡礼者の顔色が少し戻る。広間には安堵の息が広がった。ローレンスもすぐに表情を整えた。
問題はない。
体調を崩した巡礼者がいただけだ。
祈りの後、ローレンスは聖水係の神官を呼んだ。
「今朝の聖水に何かあったのか」
「いえ、その……底の方に少し、白いものが」
「白いもの?」
「濁っているというほどではありません。ただ、いつもより重いような」
言いながら、若い神官は視線を落とし少し落ち着きなく袖に触れた。
重い。
抽象的な表現に、ローレンスはわずかに苛立った。
神官たちの間で、そういう曖昧な言葉が増えている。重い。揺れる。流れが悪い。サシャが好んで使っていた言い回しだ。見えないものを見えているかのように言い、正式な異常ではないものを異常の手前として扱う。
「水槽の清掃は」
「昨日の午後に行いました」
「なら、様子を見る。聖水槽の管理記録を確認しておきなさい」
「はい」
若い神官は頭を下げた。
その日の午後、東礼拝堂の灯が消えた。
正確には、消えたのではない。礼拝中、風もないのに炎が大きく右へ傾き、青白く伸びたあと、芯だけを残して一瞬暗くなった。すぐに火は戻ったが、その場にいた修道士が悲鳴を上げ、祈っていた婦人が胸を押さえて座り込んだ。
「ただの風です」
夫人を落ち着かせるように対応に出た神官はそう言った。
「礼拝堂は古いので、隙間風が入りやすいのです」
婦人たちは納得したような、しないような顔で頷いた。誰も大きく騒ぎはしなかった。けれどその日の夕方には、東礼拝堂で灯が青くなったという話が、神殿内の使用人たちの間に広がっていた。
*****
ローレンスの耳に届いたのは、翌朝だった。
彼は報告を聞きながら、机に置かれた書類へ指を置いたまま動かさなかった。
聖水の濁り。
巡礼者の不調。
東礼拝堂の灯。
どれも単体なら、神殿を揺るがすほどの異常ではない。古い神殿なら、小さな不具合はいくらでも起きる。人が多く集まれば、体調を崩す者も出る。灯が揺れることもある。
それでも、何かが続いている。
そのことだけは、ローレンスにも分かった。
「サシャの後任は何をしている」
呼ばれた神官は、困ったように視線を泳がせた。
「一通り確認はしているようです。ただ、サシャのような調律は」
「調律など、正式な役職ではない」
ローレンスは切った。
「祈祷場の管理記録を持ってこい。聖水槽、東礼拝堂、大広間の結界石。過去一ヶ月分だ」
記録は、しばらくして運ばれてきた。
厚い帳面が三冊。正式な管理記録は整っている。清掃日、祈祷回数、巡礼者数、使用した香、補充した聖水の量。どれもきちんと記されていた。
問題はない。
帳面の上では、神殿は問題なく回っていた。
ローレンスは一冊ずつめくり、眉間に皺を寄せる。
「サシャの記録は」
「正式記録には、ほとんど」
「では、あの調律役用の控えを」
神官が少し躊躇った。
「神殿長、あれは走り書きのようなもので」
「持ってこい」
しばらくして、薄い板と綴じ紐で束ねられた紙が運ばれてきた。
サシャの字は小さかった。
正式な記録のように美しく整えられているわけではない。余白に書かれ、時には日付の横へ小さな印があり、同じ日の記録が二度、三度と重ねられている。だが、読むことはできた。
ローレンスは最初の一枚をめくった。
東礼拝堂、灯右傾。外壁側結界に細い歪み。朝調律済み。
聖水槽、底部滞留。銀皿鳴り鈍い。午前祈祷前に調整。
大広間右奥結界石、祈祷後熱残り。夜間に熱抜き。
エリザベス様祈祷後、力の流れ強く右奥へ寄る。香炉位置要注意。
聖水槽、白濁前兆。熱逃がし不十分。翌朝再確認。
めくっても、めくっても、同じような記述が続いた。
毎日。
本当に、毎日だった。
サシャは朝に聖水槽を見て、昼に祈祷場を確認し、祈りの後に結界石を整え、夜に東礼拝堂の灯を戻していた。正式な祈祷記録には載らない小さな不具合が、調律役用の控えにはびっしり残っている。
その中には、昨日と同じ言葉が何度も出てきた。
聖水が重い。
灯が右へ傾く。
右奥結界石に熱。
翌朝まで放置不可。
ローレンスは、ある日付で手を止めた。
エリザベス初回祈祷。癒やし成功。結界石右奥に負荷。サシャ補助にて安定。
エリザベス第二回祈祷。傷の閉鎖後も力流入。聖水槽側へ熱逃げ。調律済み。
エリザベス第三回祈祷。制御改善見られず。祈り後、東礼拝堂灯乱れ。修復済み。
修復済み。
その言葉が、妙に目についた。
済み。
済み。
済み。
起きていなかったのではない。
起きる前に、済まされていた。
ローレンスは紙を持つ指に力を入れた。
部屋の外から、慌ただしい足音が近づいてくる。
「神殿長!」
若い神官が扉の前で声を上げた。返事を待つ余裕もないように、扉が開く。
「北側の小結界が、一時的に落ちました」
ローレンスは顔を上げる。
「落ちた?」
「完全ではありません。ただ、巡礼者用の宿舎側で魔除けの護符が一斉に黒ずみました。近くにいた者が寒気を訴えています。今、エリザベス様が癒やしに」
「癒やしに?」
ローレンスは立ち上がった。
「怪我人は」
「大きな怪我はありません。ですが、数名がひどく気分を悪くしており」
ローレンスは机の上の紙へ視線を落とした。
北側小結界。
宿舎。
護符の黒ずみ。
サシャの控えの中に、似た言葉があった気がした。
彼は乱暴に紙をめくる。
北側宿舎、護符の反応鈍い。村側ではなく聖水槽側から流れ乱れ。大広間右奥の熱が残る日は要注意。
王都神殿内、結界の逃げ道が北側へ寄りやすい。祈祷後確認必須。
確認必須。
その確認をする者は、もういない。
ローレンスは、何か言おうとして言葉を失った。
廊下へ出ると、神殿内の空気がいつもより冷えていた。清めの香は焚かれている。灯もある。神官たちは走り回っている。けれど、いつもの王都神殿の落ち着きがどこか欠けていた。
小さなものが、少しずつ外れている。
そう思った瞬間、ローレンスは自分の考えに苛立った。
サシャの言葉に引きずられている。
見えない負荷。
細い歪み。
重い聖水。
そんなものに振り回されるわけにはいかない。
宿舎側の廊下では、数人の巡礼者が椅子に座らされていた。顔色が悪く、手を擦り合わせている。護符は黒ずんでいた。焼け焦げたのではない。外から何かを受けたというより、内側から力を吸い尽くされたような黒さだった。
エリザベスはその前に膝をつき、ひとりずつ手をかざしている。
白い光が、巡礼者の頬へ戻っていく。
それを見て、周囲の者たちがほっと息をついた。
「エリザベス様がいてくださってよかった」
誰かがそう言った。
エリザベスは微笑もうとした。
だが、その手はかすかに震えていた。
「……ローレンス神殿長」
彼女は声を低くした。
「癒やしはできます。でも、また同じ寒気が戻るかもしれません」
「何を言う」
「分かりません。ただ、傷や熱とは違うのです。どこかから冷たいものが入ってきているようで」
ローレンスは答えなかった。
エリザベスは、さらに言いづらそうに続けた。
「こういう時、サシャなら、どこを見るのですか」
その名が出た途端、周囲の神官たちが微かに黙った。
ローレンスは、その沈黙を感じた。
つい数日前まで、サシャが膝をついて床へ手を当てている姿を見ても、誰も気に留めなかった。邪魔だと思う者さえいた。祈りの場でみっともないと考えた者もいただろう。
今、その誰もが、同じ名前を思い出している。
「……調律役用の控えを確認する」
ローレンスはそれだけ言った。
自分の声が硬いことに、自分でも気づいた。
執務室へ戻ると、机の上にはサシャの記録が開かれたままだった。小さな字で、何日も、何月も、同じ神殿の傷が書かれている。
ローレンスは椅子に座らず、苛立たし気に机に手をついた。
王都神殿の正式記録には、奇跡の数が並んでいる。
癒やされた巡礼者の数。
寄せられた寄付の額。
参列者の増加。
サシャの控えには、それを支えるために塞がれた傷が並んでいた。
聖水槽。
礼拝堂。
結界石。
北側宿舎。
護符。
香炉の位置。
祈祷後の熱。
それらを、彼女はずっと見ていた。
「……サシャを」
呼びかけて、はっと言葉を止めた。
サシャを呼べ。
そう言おうとした。
だが、彼女はもう王都神殿にはいない。
北辺境の修道院へ移したのは、自分だ。
ローレンスは、机の上に置かれた異動記録を見た。自分の署名がある。王都神殿長として、正式に命じたものだ。
走り書きの控えの上で、サシャの小さな字が目に入る。
翌朝再確認必須。
その翌朝に、彼女はいなかった。
ローレンスはしばらく、その文字を見ていた。
廊下の向こうでは、まだ神官たちの慌ただしい足音がしている。誰かが聖水を運べと叫び、別の誰かが護符の替えを探している。エリザベスの癒やしの光は、今もどこかで巡礼者を落ち着かせているのだろう。
白い光は、まだどこかで巡礼者を落ち着かせているのだろう。
だが、癒やされた者の数をいくら増やしても、聖水槽の濁りは消えない。むしろ増える。
拍手がどれほど響いても、東礼拝堂の灯はまっすぐには戻らない。
ローレンスは、机の上の小さな字を見下ろした。
*****
翌朝、井戸の前には白い霧が残っていた。
北辺境の朝は、王都より土の匂いが濃い。井戸の縁に手を置くと、湿った石の冷たさが掌へ移り、サシャは昨夜温めてもらった手首を袖の中で一度だけ回した。痛みはまだ少し残っている。けれど、王都で夜明け前に聖水槽へ手を入れていた時の痛みとは、少し違っていた。
「こちらを使いますか」
若い修道女が、小瓶と清めの布を差し出した。
声は控えめだった。何をしているのか知りたい気持ちはあるのだろうが、覗き込むような距離ではない。マルタ院長も井戸の反対側に立ち、祈るでもなく、急かすでもなく、サシャの手元を静かに見ている。
見張られているのではない。
見守られている。
その違いに、サシャはまだ少し慣れなかった。
「ありがとうございます。まず、水を汲みます」
縄につけた小瓶を井戸へ下ろす。
水面に触れる音が、底の方で小さく返った。王都神殿の銀皿のような澄んだ音ではない。もっと低い。土の奥で眠っていたものが、寝返りを打つような音だった。
引き上げた小瓶を朝日に透かすと、底の方に白いものが沈んでいた。濁っているというほどではない。けれど、瓶を傾けると、それは一度ふわりと舞い上がり、またゆっくり沈む。
「礼拝堂の流れが戻ったぶん、井戸の底が少し動き始めています」
「では、悪くなっているわけではないのですね」
「はい。重さが浮いてきたのだと思います。底に沈んだままより、戻しやすいです」
マルタ院長が確かめるように言う。
サシャは祈り輪を井戸の縁に置き、清めの水を一滴、石へ落とした。水滴はすぐに吸われ、しばらく何も起きない。若い修道女が少しだけ息を詰める気配がした。礼拝堂から降りてきた流れが、井戸の底で丸まっている。流れきれなかった熱が白い粉のように沈み、清め石の周りに薄く絡んでいた。力任せに剥がせば、水そのものが荒れる。だから少しずつ、流れの端を引き上げる。
井戸の奥で、低い音が鳴った。
「今、鳴りましたか」
若い修道女が小声で聞いた。
サシャは振り返る。
「聞こえましたか」
「いいえ。ただ、水面が少し揺れたので」
見えている場所が違うのに、同じ変化を見ている。
サシャは、ほんの少しだけ笑った。
「底の清め石が返事をしました。まだ重いですが、戻せます」
「では、必要な水や布があれば言ってください」
若い修道女はそれだけ言って、また一歩下がった。
手伝おうとしてくれている。
でも、邪魔をしない。
その距離がありがたかった。
*****
井戸の調律は、昼前までかかった。白い沈殿はすぐには消えなかったが、水を汲むたび、底へ落ちる速さが変わっていく。重く沈んでいたものが、途中でほどけるように薄く散った。
村から水を汲みに来た女が、桶を持ち上げて首をかしげる。
「あれ、今日は軽いね」
ただ口から落ちたような声だった。
マルタ院長が、サシャを見る。
サシャは桶の水面へ視線を落とした。
「……まだ完全ではありません」
「でも、変わったのですね」
サシャは少しだけ間を置いて、頷いた。
それから数日、サシャは修道院と村を歩いた。
礼拝堂の灯を整えたあと、井戸の底を浄め、村境の木札を見て回った。畑へ出る者からは「夜の獣の声が近い」と聞き、井戸へ来る女たちからは「煮炊きの水が白く残る」と聞いた。年寄りは、礼拝堂で祈ると胸が重くなる日があると言った。
どれも、奇跡を求める声ではなかった。
ただ、日々の小さな不安だった。
サシャはそれを一つずつ聞き、違和感のある場所を確かめた。灯が右へ傾く場所には、壁の奥に流れのほつれがあった。井戸水の白い沈殿は、礼拝堂から逃げた熱が底へ降りたものだった。村境の木札は古びていたが、毎朝誰かが向きを直していたおかげで、まだ守りの形を忘れていなかった。
新しく作り替える必要はなかった。
残っているものを、少しずつ戻せばよかった。
サシャが木札を拭く横で、若い修道女が水を運び、見張りの男が縄を結び直した。マルタ院長は、サシャの言葉を短く記録した。日付、井戸水の沈殿、灯の揺れ、村境の見張り報告。王都神殿の記録板とは違い、その字は誰かに隠すためではなく、あとで誰かが読むために残されていた。
「ここまで細かく残さなくても」
思わず言うと、マルタ院長は羽ペンを止めた。
「細かく残さなければ、あとで誰も気づけません」
サシャは、返事ができなかった。
王都神殿の控え板を思い出す。小さな字。余白に押し込めた注意書き。翌朝再確認必須。誰にも見られず、見られた時には叱責の材料になった記録。
マルタ院長は、次の行に静かに書き足した。
井戸水、沈殿減少。サシャの調律後、村人より「軽い」との申告あり。
自分の名前が、仕事と一緒に書かれている。
それはまだ少し怖かった。
数日が過ぎる頃には、村の空気が少し変わっていた。
劇的な光が降りたわけではない。鐘が鳴り響いたわけでもない。ただ、井戸水で淹れた茶の味が戻ったと、年寄りが言った。夜の見張りが、森の鳴き声が遠いと報告した。礼拝堂の灯は、朝までまっすぐ燃えていた。
魔物は完全には消えていない。
けれど、畑の近くまで降りてくることはなくなった。
王都では雑務と呼ばれたものが、ここでは一日の形を変えていた。
ある朝、王家の紋章をつけた使者と辺境を治める若い貴族が修道院へ到着した。
礼拝堂の前には、修道女たちと村の者が集まっていた。サシャは井戸の記録板を抱えたまま呼ばれ、状況を理解しきれないままマルタ院長の隣へ立った。
使者は巻物を開く。
乾いた音がした。
王都神殿の執務室で、異動命令の紙を受け取った時の音を、なぜか思い出した。あの時の紙は軽かった。軽いのに、どこかを切り離すような音がした。
今、目の前で開かれた巻物は、同じ紙なのに、少し違う音がした。
使者の声が礼拝堂へ響く。
北辺境修道院の守護結界。
礼拝堂、井戸、村境の調律。
魔物被害の減少。
街道安全への寄与。
継続的な管理能力。
いくつもの言葉が、古い石壁に当たって返ってくる。
サシャはこの内容を他人事のように聞いていた。
その最後に、サシャの名前が呼ばれた。
「よって、調律補助サシャを、北辺境修道院付の守護聖女として認める」
守護聖女。
その言葉だけが、礼拝堂の灯のようにまっすぐ立った。
サシャは何も言えなかった。
聖女ではない。
王都では、そう扱われていた。
癒やしはできない。
白い光は出せない。
巡礼者が涙ながらに手を取るような奇跡も起こせない。
けれど、違う役割。守ることはできる。
水が濁る前に手を入れることができる。
灯が消える前に流れを戻すことができる。
誰かが眠る村の外側で、入ってきてはいけないものを止めることができる。
マルタ院長が、そっとサシャの背中へ手を添える。
「サシャ様」
その声で、息が戻った。
サシャは深く頭を下げた。
「……謹んで、お受けいたします」
声は少し震えていた。けれど、泣かなかった。
涙は目の奥にあった。喉の奥も少し痛かった。それでも、あの夜のように崩れはしなかった。
礼拝堂の灯が静かに燃えている。
井戸の方から、水を汲む音が聞こえる。
村境では、たぶん今朝も見張りの男が木札を確かめている。
見てくれる人がいる。
記録してくれる人がいる。
必要だと言ってくれる場所がある。
それを知っているから、サシャは今度は立っていられた。
使者が巻物を閉じる。
乾いた音が、古い礼拝堂の中で澄んで響いた。
*****
王都神殿からの書状が北辺境修道院へ届いたのは、守護聖女任命の三日後だった。
朝の祈りを終えたあと、サシャは井戸の記録板を抱えたまま、マルタ院長の部屋へ呼ばれた。窓際には乾かしている薬草が吊るされ、部屋の中には薄い苦味のある匂いが満ちている。王都神殿の香とは違う、生活に近い匂いだった。
机の上に置かれていたのは、白い封蝋の書状だった。
封蝋には、王都神殿の印が押されている。
それを見た瞬間、サシャの指先が少しだけ冷えた。
何の内容だろう。
白い封蝋を見るだけで、膝の裏に古い痛みが戻ってくる。夜の大広間で床に膝をつき、石の熱を抜いていた時の感覚。誰にも読まれない記録板を胸に抱え、重い水音を背中で聞いていた時の感覚。
マルタ院長は書状を開き、静かに目を通した。
声に出す前に、一度だけ眉が動く。
「王都神殿長ローレンス殿より、サシャ様へ説明を求めたいとのことです」
「説明、ですか」
「王都神殿の結界管理に関し、あなたの記録と見解を確認したい、と」
丁寧な言葉だった。
だが、サシャには別の音に聞こえた。
戻れ。
そう書いていなくても、手の届く場所に戻せと言っている。
サシャは書状を見つめた。
神殿の結界がどうなっているのか、聞かなくても少し分かる。聖水槽の底は重くなっただろう。東礼拝堂の灯は、青く揺れたかもしれない。北側の小結界も、たぶん何度か乱れている。
正直、気にならないわけではない。
扉が控えめに叩かれる。
入ってきたのは、レオンハルト辺境伯だった。
まだ若い。王都の貴族のような華やかさはないが、外套の裾には道の泥がついていて、手袋の革も使い込まれていた。サシャが初めて会った時、この人は真っ先に礼を言った。井戸と村境の記録を読んだうえで、礼を言った。
それを思い出して、サシャは少しだけ息をしやすくなる。
「王都神殿からですか」
レオンハルトは書状を見て、すぐに言った。
マルタ院長が頷く。
「ええ。サシャ様へ、結界管理について説明を求めたいと」
「王家からの任命状は、すでに届いています」
レオンハルトは懐から一通の書状を取り出し、机の上へ置いた。王家の紋章と、辺境伯家の印が並んで押されている。
「北辺境修道院付の守護聖女サシャ殿は、現在、北側街道および周辺村落の守護結界管理に従事している。こちらも長く席を空けられては困る立場です」
サシャは、思わず書状へ目を落とした。
困る。
王都では、彼女がいなくなってから初めて口にされたであろう言葉だった。けれどここでは、まだ目の前にいるうちから、そう言われている。
「王都神殿へは、私から返答します」
レオンハルトはサシャへ視線を向けた。
「必要な照会なら文書で受けます。ですが、サシャ殿を王都へ派遣することはできません。彼女はもう、北辺境の守護に必要な方です」
喉の奥が、少しだけ熱くなる。
泣くほどではない。あの夜のように、声を上げて崩れることはもうなかった。ただ、誰かが自分の代わりに線を引いてくれることに、まだ体が慣れていない。
「……よろしいのですか」
「困りますからね」
レオンハルトは、少しも迷わずに言った。
サシャは意味が分からず、瞬きをする。
「困る、ですか」
「ええ。井戸の水を見てもらう約束もありますし、南側の畑もまだ途中です。村境の木札も、あなたが明日また見ると言っていた」
指折り数えるように言われて、サシャは返事に詰まった。
どれも、確かに自分が言ったことだった。大きな誓いではない。守護聖女らしい言葉でもない。ただ、水を見て、畑を見て、木札を見直す。それだけの、明日の仕事だった。
「それに」
レオンハルトは少しだけ視線を外した。
「あなたがいなくなると、マルタ院長も困ります。村の者も困る。……私も、困ります」
最後だけ、声がわずかに低くなった。
マルタ院長が、何も言わずに茶器へ手を伸ばす。聞こえなかったふりをするには、少し遅い間だった。
「では……王都神殿への返答は、お任せしてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
レオンハルトは今度こそ、はっきりと頷いた。
「北辺境の大切な守護聖女を、そう軽く扱われては困りますから」
サシャは返事をしようとして、少しだけ失敗した。
守護聖女、という名にはまだ慣れない。けれど今は、その前についた「大切な」の方が、妙に胸の奥へ残っていた。
「……では、お願いいたします」
サシャがようやくそう言うと、レオンハルトは静かに頷いた。
その返書を、ローレンスが受け取ったのは翌々日のことだった。
王都神殿の執務室には、サシャの調律役用の控えが広げられたままだった。何度も読み返された紙の端は、少し反っている。
聖水槽、白濁前兆。
東礼拝堂、灯右傾。
北側小結界、要確認。
そのどれもが、今ではただの注意書きではなくなっていた。
ローレンスは、返書に押された王家の紋章と辺境伯家の印を見下ろした。
自分が北辺境へ送った娘は、もう王都神殿の都合で呼びつけられる者ではない。
その事実だけが、白い紙の上でやけにはっきりしていた。
王家の文言は短かった。
北辺境修道院付守護聖女サシャは、王家認定の守護職として北辺境の結界管理に従事中である。
王都神殿からの召還、命令、業務要請は認めない。
必要な照会がある場合は、王家および北辺境伯家を通すこと。
最後に、レオンハルト辺境伯の署名があった。
ローレンスは、その署名をしばらく見た。
サシャを北辺境へ送った時、彼はそれを処分だとは思っていなかった。むしろ、彼女に合った場所を与えたつもりでいた。細かなことを気にする者には、古い修道院が合っている。王都神殿には、人々に見える奇跡が必要だ。
そう考えていた。その考えは間違っていないはずだ。なのに、どこで間違えたのか。
その足元で何が歪んでいるのかを、正確に読める者はいなかった。
北辺境修道院では、昼の鐘が鳴っていた。
サシャは井戸の前で、村の女たちから水の様子を聞いていた。桶の重さ、煮た時の沈殿、茶の味。どれも正式な報告書には向かない言葉ばかりだったが、サシャには十分だった。
「サシャ殿」
振り返ると、レオンハルト辺境伯が井戸の向こうに立っていた。外套の肩に、細かな土がついている。修道院へ来る前に、村境を見てきたのだろう。
「王都神殿への返答は出しました」
「ありがとうございます」
サシャは頭を下げた。
レオンハルトは少しだけ眉を寄せる。
「礼を言うのは、こちらです。あなたがここに残ることで守られるものがある」
その言葉も視線も、まっすぐだった。
まっすぐすぎて、サシャは一瞬、視線を落とす。
井戸の水面が小さく揺れている。風のせいだろうかと思ったが、違う。水の底で、細い流れが少しだけ戻った音だった。
「まだ、直すところは多いです」
「なら、人手を増やします」
レオンハルトは当然のように言った。
「修道院と村だけに任せきりにはしません。記録係と、結界補修の職人を回します。あなたが全部背負う必要はない」
全部背負う必要はない。
サシャはその言葉を、すぐには受け取れなかった。
王都では、誰かが見ないなら自分が見るしかなかった。誰かが直さないなら自分が直すしかなかった。間に合わなければ、食事を抜く。夜に戻る。記録を端に書く。そうやって、どうにか神殿を朝へ渡してきた。
ここでは、背負わなくていいと言われる。
それが甘やかしではなく、仕事を続けるための言葉として置かれている。
「……慣れるまで、少し時間がかかりそうです」
レオンハルトはふっと笑い、サシャの手を取った。
「では、慣れるまで何度でも言います」
マルタ院長が、少し離れた場所で咳払いをした。
若い修道女が記録板に目を落としたまま、口元を隠している。
サシャはようやく、自分が少し赤くなっていることに気づいた。
「午後は、南側の畑を見るのでしたね」
レオンハルトは何事もなかったように言った。
「私も同行して構いませんか」
「辺境伯自ら、ですか」
「自分の領地ですから」
真面目な顔で言うものだから、余計に返事に困った。
サシャは井戸の縁へ視線を落とし、少しだけ遅れて頷いた。
井戸の縁へ手を置く。石はもう、昨日ほど冷たくなかった。水の底から、低くくはあるものの澄んだ音が返る。
まだ完全ではないが、戻り始めている。
「……では、お願いします」
サシャが答えると、レオンハルトは静かに頷いた。
昼の光が、井戸の水面に落ちる。
礼拝堂の灯は揺れていない。村境の木札は、朝の見回りで整えられている。遠くの森からは、獣の声が聞こえたが、もう畑のすぐそばではなかった。
隣に、レオンハルトの足音が並ぶ。
土の匂いがする。井戸水の匂いがする。
遠くで、マルタ院長が若い修道女に何かを指示している声が聞こえる。
直すべきものは、まだたくさんある。
南側の畑へ続く道の先で、風に揺れた木札が小さく鳴った。その音は、返事のようにも、始まりの合図のようにも聞こえた。
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