前編
選んでいただきありがとうございます。
ゆるっとふわっと設定も多いと思いますが、お楽しみいただければ幸いです。
王都神殿の朝は、鐘より先に水の音から始まる。
まだ空が白みきる前、サシャは聖水槽の縁に膝をつき、底へ沈んだ銀の皿をそっと指でなぞっていた。水面は一見澄んでいる。夜明けの薄い光を受けて、淡い青を帯びてすら見える。けれど指先に返ってくる感触は、昨日よりわずかに重かった。
濁っている、というほどではない。巡礼者が口にして倒れるほどでもない。ただ、底の方で祈りの流れが滞り、細い糸が絡まったように動きづらくなっている。
こういうものは、気づいた時にほどいておかないと、三日後には水の匂いが変わる。五日後には祝福の効きが落ちる。七日後には、誰かが「近頃、聖水の力が弱い」と言い出す。
そこまで行けば、皆が騒ぐ。
けれど、今ならまだ誰も気づかない。
サシャは袖口が濡れるのも構わず、皿の周囲に溜まった魔力の淀みを指先で掬った。冷えた水が手首まで染みて、骨の奥に小さな針を刺すような痛みが走る。祈りの言葉を口にするほど大げさな仕事ではない。息を細く吐き、絡まった糸を一本ずつほどくように、流れを元へ戻していくだけだ。
派手な光は出ない。
花弁が舞うような華やかさもない。
聖歌隊が振り返るような奇跡も起こらない。
ただ、底に沈んだ銀の皿が、ほんの少しだけ軽く鳴った。
澄んだ鈴のような凛とした音。小さい、彼女だけにしか聞こえない音。
サシャはその音を聞いて、ようやく手を引いた。水面に落ちた雫がいくつか輪を作り、すぐに消える。昨日より澄んだ匂いがした。朝の石床の冷たさと、清めの香の残り香が混ざって、喉の奥に薄く残る。
「……これで、午前の祈祷までは大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟いてから、サシャは立ち上がった。
聖水槽の確認が終われば、次は東側の礼拝堂だった。あそこは昨夜から灯の揺れ方が少しおかしい。風もないのに炎が右へ傾く時は、外壁側の結界に細い歪みがある。
裂け目と呼ぶほどではない。布に針を通した程度のものだ。誰かに説明しても、大抵は「そんな小さなことで」と笑われる。
けれど針穴を放っておけば、そこから雨が染みる。
染みた水は石を弱らせる。
石が崩れてから、ようやく人は壁が壊れたと気づく。
サシャが礼拝堂へ入ると、祭壇前の灯はやはり落ち着きなく揺れていた。赤い炎の縁が、薄く青へ滲んでいる。火そのものが弱いのではない。火を支える祈りの場が、少しだけ歪んでいた。
彼女は燭台の前に立ち、両手を重ねた。
目を閉じると、礼拝堂全体の気配が肌に触れる。石壁の継ぎ目、古い聖句を刻んだ柱、祭壇の下を流れる細い魔力の筋。どこが傷んでいるのか、言葉で説明しろと言われると難しい。ただ、長く使った櫛の歯が一本曲がっているのに気づくように、そこだけ指先が引っかかる。
サシャはその引っかかりを探し、そっと撫でた。
炎の揺れが一度だけ大きくなり、それから静まる。
ほっと息をついたところで、背後の扉が開いた。
「またこんな時間から、祈祷場にいるのか」
声だけで、誰か分かった。
ローレンス神殿長だった。
サシャはすぐに振り返り、濡れた袖口を反対の手で隠した。隠す必要など本当はない。けれど、濡れていると分かれば「水仕事までしていたのか」と言われる。水仕事。清掃。祈り場の雑務。そういう言葉でまとめられるのは、慣れているはずなのに、朝の冷えた指先にはまだ少し堪えた。
「おはようございます、ローレンス神殿長。東礼拝堂の灯が乱れておりましたので、確認を」
「灯?」
ローレンスは祭壇を見た。
今はもう、炎はまっすぐ立っている。
彼は短く息を吐いた。呆れたようにも、面倒なものを見たようにも聞こえる息だった。
「私には、いつも通りに見えるが」
「今は整えましたので」
「サシャ」
名を呼ばれ、サシャは背筋を伸ばした。
ローレンスは悪人の顔をしていない。声を荒らすことも少ない。身分の低い者へ怒鳴り散らす神官なら、まだ分かりやすかったのかもしれない。彼はいつも穏やかな顔で、もっともらしい言葉を選ぶ。そのぶん、こちらの訴えが大げさに見えてしまう。
「君は熱心だ。それは認めている。だが、聖女に求められるのは、祈祷場の小さな管理ではない。人々に分かる奇跡だ」
諭すように、静かに。
分かる奇跡。
その言葉を聞くたび、サシャは口の中に残った冷たい水の匂いを飲み込む。
「承知しております」
「今日の午前には、エリザベスが巡礼者の前で癒やしの祈りを行う。彼女には準備が必要だ。君も、余計なところに気を取られず、彼女の補助に回りなさい」
補助。
サシャは小さく頷いた。
エリザベスの癒やしの力は、確かに強い。怪我人の傷を塞ぎ、熱に浮かされた子どもの呼吸を整え、痛みに泣いていた老人の顔を和らげる。白い光が手のひらから溢れる様子は、見る者の胸を打つ。あれを奇跡と呼ぶことに、サシャも異論はなかった。
ただ、力が大きいものほど、本来は繊細に扱わなければならない。
祈りは聖女ひとりの中で完結するものではない。祈祷場の結界石が力を受け、聖水槽が熱を逃がし、神殿全体の魔力が一度だけ大きく脈打つ。癒やしが強ければ強いほど、通り道になる場にも負荷がかかる。
普通なら、多少の負荷は祈祷場が受け止める。
けれどエリザベスの力は、清らかで強いぶん、流れの制御がまだ甘かった。細い水路に勢いよく水を流すように、必要な場所へ届く前に周囲を削ってしまう。本人に悪気はない。むしろ目の前の相手を救いたい気持ちが強いからこそ、力が跳ねる。
それを端で整えるのが、サシャの仕事だった。
癒やしはできない。
白い光も出せない。
けれど、力が通った後の歪みなら読める。
その違いを口にすれば、ローレンスはきっと「嫉妬か」と受け取るのだろう。平民出身の聖女候補が、貴族の血を引く新聖女に難癖をつけている。そう見られるのは、もう分かっていた。
「エリザベス様の祈祷場は、先ほど確認しておきました」
「そうか。ならば結構」
ローレンスは頷いたが、その顔に安堵はない。彼にとってそれは、祭壇の布を整えたとか、花瓶の水を替えたとか、その程度の報告なのだろう。
サシャは礼をして、礼拝堂を出た。
廊下へ出ると、神官たちの声が奥から聞こえてきた。今日は巡礼者が多い。エリザベスの癒やしを見るために、昨日から列ができていると聞いている。人々は分かりやすい奇跡を好む。白い光、癒えた傷、涙を流して感謝する誰か。そういうものは、誰の目にも美しい。
その陰で灯が揺れなくなったことを、覚えている者はいない。
覚えられるようなものでもない。
大広間へ向かう途中、サシャは控えの間の前で足を止めた。扉の隙間から、柔らかな笑い声が漏れている。
「エリザベス様、本日の衣もよくお似合いです」
「ローレンス神殿長も、今日の祈りには大変期待しておいででしたわ」
「まあ……私に務まるでしょうか」
不安げな声は、どこか甘やかだった。エリザベスは悪い人間ではない。少なくとも、サシャを直接傷つけようとしたことはない。むしろ廊下で会えば微笑むし、困った巡礼者には本気で手を差し伸べる。
ただ、自分の祈りの後で、神殿のどこに負荷が残るのかを知らない。
知らなくても、誰かが直している。
その誰かの名前を、たぶん考えたこともない。
サシャは扉を叩き、中へ入った。
控えの間には、朝の光が高い窓から差し込んでいた。白い衣をまとったエリザベスが椅子に座り、二人の神官が髪飾りを整えている。淡い金の髪に真珠の飾りが置かれるたび、部屋の空気まで明るくなったように見えた。
「おはようございます、エリザベス様」
「おはよう、サシャ。今日も早いのね」
「祈祷場の確認をしておりました」
そう答えると、近くにいた若い神官の一人がが小さく笑った。
「サシャは本当に、そういう細かなことが好きねぇ」
悪意はなかったのだろう。
だからこそ、返す言葉が見つからなかった。
サシャはただ微笑み、その場をやり過ごす。
「香炉を少し下げてもよろしいでしょうか」
「ええ、お願い」
エリザベスは素直に頷く。
祈祷場のエリザベスの足元に置かれていた香炉の位置を少しだけ直した。半歩、祭壇側へ。近すぎる。このままだと癒やしの祈りが強く出た時、香の流れが逆巻いて、後ろの結界布に触れる。
もう一人の若い神官は笑った。
「香炉の位置ひとつで何か変わるものか」
「変わります」
思ったより早く、声が出た。
部屋の中が、ほんの少し静かになる。
サシャはすぐに目を伏せた。袖の中で指先が冷えている。強く言うつもりはなかった。ただ、変わるものは変わる。変わらないと言われたままにしておくと、あとで直すのは自分だ。
「……祈祷場の魔力の流れに、少し影響しますので」
「そうなのね。じゃあ任せるわ」
エリザベスが穏やかに言ったため、いったん場は収まった。
若い神官も、それ以上は何も言わなかった。やや不服そうな表情を隠しはしないが。
準備が整い、午前の祈りが始まる頃には、大広間は巡礼者で埋まっていた。足の悪い老人、熱の引かない子を抱いた母親、長旅で疲れ切った商人。誰もが壇上のエリザベスを見ている。
サシャは壇の端に立ち、足元の結界石へ目を落とした。
古い石だ。
ただの備品ではない。王都神殿の基礎結界と繋がり、祈りの力を受け止め、聖水槽へ余分な熱を逃がすための要石だった。表面には細かな傷が無数に入っているが、目に見える傷よりも厄介なのは、内側に残る魔力の偏りだ。
取り替えるとなれば、神殿を数日閉じ、大規模な儀式と予算を用意しなければならない。だから普段は、調律と補修で保たせる。そういうものだと、サシャは教わってきた。
もっとも、そう教えてくれた老神官はもういない。
今の神官たちは、ひび割れていない石を傷んでいるとは思わない。
今日の祈りなら、耐えられる。けれど、エリザベスが緊張して力を出しすぎれば、右奥の石に負荷が寄る。
サシャはそっと立ち位置を変えた。
誰にも気づかれないように、右奥の結界石へ自分の魔力を薄く通す。支えるというより、添えるだけ。倒れそうな花瓶に指を添える程度でいい。
やがて、エリザベスが祈りの言葉を唱えた。
白い光が広間を満たす。
巡礼者の間から、息を呑む声が上がった。母親に抱かれていた子どもの頬に赤みが戻り、老人が震える手で杖を握り直す。誰かが泣いた。誰かが「聖女様」と呟いた。
ローレンス神殿長は満足げに頷いていた。
エリザベスの額には薄く汗が浮かんでいる。けれどその表情は美しかった。自分の祈りが誰かを救っていると信じている顔だった。
サシャはその光の端で、右奥の結界石が小さく軋む音を聞いた。
力そのものは澄んでいる。
ただ、流れが少し太い。細い水路へ、綺麗な水が勢いよく流れ込みすぎている。水が悪いのではない。水路が古く、流し方が荒いのだ。
爪の先ほどの裂け目が、石の奥で生まれる。
サシャは息を止め、すぐに塞いだ。
奇跡の光ともてはやされる白い光は、最後まで乱れなかった。
祈りが終わると、大広間は拍手と感謝の声で満ちた。エリザベスの周りには神官たちが集まり、ローレンスも珍しく柔らかな笑みを浮かべている。
「見事だった、エリザベス。これこそ王都神殿に必要な奇跡だ」
その言葉に、エリザベスは頬を染めて頭を下げた。若い神官が駆け寄り、額の汗を優しく拭う。
サシャは壇の端で、結界石に残った微かな熱を手のひらで押さえていた。石の奥に残る歪みを、今のうちに整えておかなければならない。次の祈りまで放置すれば、今度は礼拝堂側に響く。
「サシャ」
ローレンスの声に、手を止める。
「はい」
「片づけは任せた。エリザベスは休ませる。午後にも巡礼者が来るからな」
「承知しました」
ローレンスはそれだけ言うと、エリザベスを伴って広間を出ていった。神官たちも続く。誰かが「今日の奇跡は素晴らしかった」と言い、別の誰かが「王都神殿の誇りです」と答える声が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
広間に残ったのは、消えかけた香の匂いと、床に落ちた花びらと、まだ熱を持つ結界石だけだった。
サシャは膝をついた。
石に手を当てると、さっき塞いだはずの裂け目の奥で、細い痛みのようなものが残っていた。完全には整っていない。午後の祈りまでには直せる。たぶん、昼食の時間を削れば間に合う。
水仕事ではない。
片づけでもない。
けれど、誰かにとってはその程度のものなのだろう。
サシャは息を吐き、床に落ちた花びらを横へ払った。指先に石の熱が移る。朝、聖水槽に触れた時の冷たさとは違う熱だった。冷えても痛い。熱くても痛い。そう思ったら少しだけおかしくて、けれど笑うほどの力は残っていなかった。
広間の高い窓から、白い光が差している。
その光の中で、エリザベスの奇跡を讃える声だけが、まだどこかに残っている気がした。
*****
午後の祈りが始まる前から、大広間の前には人の列ができていた。
午前の奇跡を見た者が、外で待つ者たちへ話したのだろう。白い光に包まれた子どもの熱が下がったとか、杖をついていた老人が帰りには自分の足で歩いたとか、そういう話は人の口を渡るうちに少しずつ明るく、大きくなる。廊下には濡れた外套の匂いと、清めの香と、人々の期待が混ざっていた。
サシャは大広間の端で、結界石に手を当てていた。
午前の祈りで軋んだ右奥の石は、表面だけならもう静かに見える。白く磨かれた石にはひびもないし、通りかかった神官が見ても、ただ膝をついて床に触れているだけにしか見えないだろう。けれど石の奥には、まだ熱が残っていた。
熱といっても、手のひらが焼けるようなものではない。
薄い紙を何枚も重ねた奥で、火種がくすぶっているような感触だった。ここへもう一度強い祈りを流せば、たぶん右奥だけでは済まない。床下の筋を通って、東礼拝堂か聖水槽のどちらかへ歪みが逃げる。
本当なら、今日の午後は小さな祈りに留めた方がいい。
サシャは手を離し、壇上を見た。
エリザベスは控えの間から出てきたばかりだった。午前より少し顔色が白い。けれど、列の先頭にいた母親が幼い子を抱きしめながら頭を下げると、すぐに柔らかく微笑んだ。
あの人は、目の前の苦しみを見過ごせないのだ。
それは美徳だと思う。
思うからこそ、厄介だった。
「サシャ、そこにいると準備の邪魔になるわ」
背後から声をかけられ、サシャは立ち上がった。午前にエリザベスの髪を整えていた若い神官だった。手には香炉へ入れる香草の小皿を持っている。
「右奥の結界石に熱が残っています。午後の祈りは、少し出力を抑えていただいた方が」
「出力?」
若い神官は、まるで知らない国の言葉を聞いたように瞬いた。
「癒やしの祈りは、巡礼者の苦しみに応えるためのものでしょう。弱めてどうするの」
「弱めるのではなく、流れを細くしていただければ」
「エリザベス様は今朝、あれほど見事な奇跡を起こされたのよ」
若い神官は理解できないとでもいうような声色で告げる。悪気はない声だった。
ただ、そこには最初から結論があった。午前の祈りは成功した。多くの人が救われた。ローレンス神殿長も称賛した。だから、問題など起きていない。
サシャの手のひらに残っている石の熱だけが、どこにも行き場を持たない。
「もちろん、エリザベス様の癒やしは本物です。ただ、力が大きいぶん、祈祷場に」
「サシャ」
低い声が割って入った。
ローレンス神殿長が、大広間の入り口に立っていた。淡い金の刺繍が入った祭服をまとい、いつもより表情が明るい。午前の祈りの反響がよほど良かったのだろう。
「巡礼者たちを待たせている。細かな確認はあとでよろしい」
「ですが、神殿長」
「君は本当に熱心だな」
柔らかな声だった。けれど、その声の中で、サシャの言葉は最初から届く場所を失っていた。
「今求められているのは、石の機嫌を伺うことではない。苦しむ者を癒やす聖女の祈りだ」
石の機嫌。
サシャは喉の奥が細くなるのを感じた。
結界石は機嫌を悪くするものではない。負荷がかかれば歪み、歪みを放置すれば神殿全体の流れが乱れる。そう言えばいいのに、言葉は胸の奥でほどけずに沈んだ。ここで食い下がれば、また嫉妬だと思われる。平民出身の聖女候補が、新聖女の晴れの場を曇らせようとしている、と。
「……承知しました」
サシャが引くと、ローレンスは満足したように頷いた。
エリザベスは、少し不安そうにこちらを見ていた。サシャが何か言おうとしていたことには気づいているのだろう。けれど、その意味までは分からない。分からないまま、彼女は小さく微笑んだ。
「サシャ、あとで教えてね。私、まだ祈祷場のことは詳しくなくて」
その声に嘘はなかった。
サシャは胸の奥で、何かがさらに言いづらくなるのを感じた。
「はい。祈りの後に」
そう答えると、エリザベスは安心したように息を吐いた。
祈りが始まる。
広間へ入れられた巡礼者たちは、午前より明らかに多かった。足を引きずる者、熱に浮かされた子ども、古傷の痛みに顔を歪める兵士。誰もが壇上のエリザベスを見つめている。
その視線を受けて、エリザベスの肩に少し力が入った。
サシャには、それが分かった。
癒やしの光が生まれる前から、場の魔力がわずかに震えていた。期待に応えたいという気持ちが、祈りの前に力を押し上げている。清らかで、まっすぐで、だからこそ太い。
大きな力ほど、細く扱わなければならない。
それは水でも、火でも、祈りでも同じだ。強い水を細い水路へ乱暴に流せば、いくら水が綺麗でも岸を削る。強い火を雑に灯せば、照らすより先に布へ燃え移る。
エリザベスの力は濁っていない。
ただ、制御が甘くまだ細くできない。
サシャは壇の端へ立ち、午前よりも深く右奥の結界石へ魔力を通した。添えるだけでは足りない。けれど、支えすぎれば自分の魔力が祈りの流れに巻き込まれる。
呼吸を浅くし、足元へ意識を落とす。
エリザベスが祈りの言葉を唱えた。
白い光が広間へ広がる。
午前より、明るい。
巡礼者たちから、はっきりと歓声が上がった。母親に抱かれていた子どもの顔に赤みが戻り、兵士の腕に残っていた古い傷が淡く光る。エリザベスはそれを見て、さらに祈りを強めた。さらにきらびやかな光が舞う。
サシャは奥歯を噛んだ。傷はもう閉じている。これ以上流せば、癒やしきれなかった痛みではなく、祈祷場の方が受けてしまう。
けれど、壇上でそれを止める者はいなかった。
ローレンスは満足げに頷き、神官たちは奇跡を見る顔でエリザベスを見ている。巡礼者たちの涙の中で、サシャだけが足元の石の奥を走る音を聞いた。
午前よりは細い。けれど、長い。
右奥の結界石から床下へ、針で引いたような歪みが伸びる。白い光の余波がそこへ流れ込み、歪みが一度、脈打った。
サシャは迷わず膝をついた。
「サシャ?」
誰かが小さく呼んだ気がした。
返事をする余裕はなかった。床へ両手を当て、裂け目の先を探る。右奥だけではない。歪みは祭壇の下を通り、聖水槽へ続く細い筋へ逃げようとしている。
ここで逃がせば、夜には聖水が重くなる。
明日の朝には、底に沈めた銀の皿が鳴らなくなる。
サシャは息を吐き、裂け目の先へ自分の魔力を薄く広げた。押さえつけてはいけない。逃げ道を塞ぎすぎると、別の場所が割れる。力の流れを殺さず、細くし、余分な熱だけを聖水槽側へゆっくり流す。
額に汗が滲む。
床の冷たさが膝から上がってくるのに、手のひらだけが熱い。自分の呼吸がうまく聞こえない。広間は拍手と祈りの声で満ちているはずなのに、サシャの耳に届くのは、石の奥で鳴る細い悲鳴のような音だけだった。
エリザベスの光が、さらに広がる。
「聖女様……!」
誰かが泣きながらそう呼んだ。
その声に反応して、エリザベスの力がまた跳ねた。
サシャは喉の奥で息を詰めた。歪みが一瞬、彼女の手元を逃れて東側へ走る。礼拝堂の灯が揺れた気がした。見えるはずのない場所なのに、炎の縁が青く滲む様子が頭に浮かぶ。
まだ間に合う。
サシャは左手を石から離し、自分の胸元に触れた。そこにあるのは、小さな銀の祈り輪だ。正式な聖女へ与えられる聖印ではない。見習いにも、補助にも、調律役にも同じものが配られる。誰かが見れば、ただのありふれた道具だ。
それでも、ないよりはましだった。
祈り輪へ魔力を通し、右奥の石と聖水槽へ細い道を作る。ほんの一時だけ、熱を逃がすための仮の水路。きちんとした修復ではない。あとで必ず戻さなければならない。その場しのぎ。応急処置。
けれど、今はそれでいい。
大きく広がっていた白い光が、ようやく収まり始めた。
祈りが終わる。
広間は、午前よりも大きな拍手に包まれた。
エリザベスは壇上で、疲れた顔のまま微笑んでいた。兵士がその場で膝をつき、彼女の手へ額を寄せる。母親は子どもを抱きしめたまま泣いている。年老いた巡礼者が震える声で感謝を述べ、周囲の者たちも口々に聖女を讃えた。
サシャは膝をついたまま、床から手を離せなかった。
「サシャ」
ローレンスの声が、拍手の向こうから落ちてくる。
サシャは顔を上げた。
ローレンスは壇上の横からこちらを見ていた。眉間に寄った皺は、心配のものではない。大勢の巡礼者の前で、場を乱されたことへの不快感だった。
「何をしている」
「結界石に、負荷が」
「今、この場で?」
巡礼者の何人かがこちらを見た。若い神官たちも、気まずそうに顔を見合わせている。エリザベスだけが、何が起きているのか分からないという顔でサシャを見ていた。
サシャは手を床から離し、立ち上がろうとした。
膝に力が入らなかった。
一度よろける。近くにいた神官が手を貸そうとしたが、ローレンスの視線を見て、すぐに引っ込めた。
サシャは自分の力で立った。
「申し訳ございません。祈りの流れが聖水槽側へ強く寄りましたので、応急の調律を」
「エリザベスの祈りが、神殿を乱したと言いたいのか」
その言葉に、広間の空気が一瞬止まった。
違う。いや、違わないが、そういうことが言いたいのではない。
エリザベスの力は人を救った。実際に救った。問題は力の流し方で、受け止める場の古さで、誰かが横で整えなければならないことだった。けれど、それを今ここで説明すれば、エリザベスの奇跡に傷をつける言葉にしかならない。
サシャは唇を開き、閉じた。
「……そのような意味ではありません」
「では、今は控えなさい。巡礼者の前だ」
ローレンスは声色固く、それ以上言わせなかった。
そして、巡礼者へ向き直る。
「ご安心ください。王都神殿の結界は揺らぎません。エリザベスの祈りは、今日も多くの者を救いました」
拍手が戻った。
少し遅れて、さらに大きくなる。
人々は安心したかったのだろう。奇跡を見た直後に、不吉な言葉など聞きたくない。サシャが何をしていたのか、誰も知らない。知る必要もない。白い光は美しく、救われた者は確かにそこにいる。
それだけで、広間の物語は完成していた。
サシャは壇の端へ下がった。
手のひらが震えている。指先に石の熱が残っていた。熱いのに、体の芯は冷えていた。
祈りの後、ローレンスは広間の記録係へ命じた。
「本日の午後祈祷、癒やしを受けた者は三十四名。うち重症者七名、長期の不調を訴えていた者が十一名。詳細に記録しておきなさい」
「承知しました」
「王都神殿の新聖女として、申し分ない成果だ」
その言葉に、エリザベスは戸惑うように目を伏せた。午前よりも疲れている。けれど称賛されれば、拒むことはできない。彼女は人々の感謝を受け止め、何度も頭を下げていた。
サシャは記録係の隣で、別の板を手に取った。
結界石、右奥から祭壇下へ歪み。聖水槽側へ熱流入。仮調律済み。夜間再調律必須。
そう書こうとして、手が止まる。
ローレンスは、こういう記録を嫌がる。
エリザベスの成果の隣に、瑕疵になりそうなことを並べるなと言うだろう。けれど記録しなければ、明日の朝に何が起きたのか誰も辿れない。サシャがいなければ、なおさら。
サシャは少し迷い、記録板の端へ小さく書き込んだ。
正式な祈祷記録ではない、走り書き程度。
調律役用の控え。
彼女以外、ほとんど誰も見ない板だった。
夕方になっても、石の熱は抜けなかった。
広間から巡礼者が去り、神官たちがエリザベスを休ませ、ローレンスが来客対応へ向かったあと、サシャはひとりで結界石の前に戻った。床には昼間の花びらが残っている。白い花弁の縁が、魔力の熱に触れたせいか、少しだけ乾いて丸まっていた。
やはり、東側にも響いている。
サシャは花びらを拾い、指先で崩れた縁を見た。
これが人の肌なら、皆すぐに気づく。
熱い、痛い、苦しいと声が上がるから。
けれど石は叫ばない。聖水も、自分から濁ったとは言わない。灯も、揺れている理由を説明してはくれない。だから誰かが見るしかない。触れて、聞いて、まだ誰も気づかないうちに直すしかない。
サシャは聖水を小瓶に移し、石の継ぎ目へ一滴ずつ落とした。
水が触れるたび、石の奥で細い音がした。午前より深い音だった。小さな鈴ではなく、遠い場所で薄い硝子が擦れるような音。痛んでいる。完全に割れてはいないが、傷は残っている。
彼女は膝をつき、両手を石へ当てた。
今度は急がなくていい。
だからこそ、慎重にやらなければならない。
仮に作った水路をほどき、逃がした熱を聖水槽へ流し直し、乱れた筋を一本ずつ元へ戻す。大きな祈りのあとに残る歪みは、絡まった糸とは違う。太い縄が一度強く引かれ、元の形を忘れてしまったような硬さがある。
ほどくのに、時間がかかった。
窓の外が暗くなる。
ランプをひとつ灯す。
広間の広さに対して、その灯りはあまりに頼りなかった。昼間、エリザベスの光が満ちた場所とは思えないほど、夜の大広間は冷えている。サシャの影が床へ長く伸び、結界石の白さを少しだけ曇らせた。
額から汗が落ちた。
手首が痛む。
それでも、歪みはまだ残っている。
扉が開いたのは、聖水の小瓶が三本空になった頃だった。
「まだ終わっていなかったのか」
ローレンスだった。
サシャは立ち上がろうとして、少し遅れた。膝が痺れていた。ローレンスはその様子を見ても、特に表情を変えない。
「午後の祈りのあと、結界石に熱が残りました。今夜中に抜かなければ、明日の聖水槽に」
「またその話か」
声が、少しだけ硬かった。
サシャは言葉を止めた。
ローレンスは広間を見回す。磨かれた床、整えられた祭壇、静かに揺れるランプ。外から見れば、何ひとつ壊れていない。だから彼は、問題がないと判断する。
「サシャ。君の役目は、神殿の秩序を保つことでもある。今日のように巡礼者の前で不安を煽るのは、控えなさい」
「不安を煽るつもりはありませんでした。ただ、結界石の負荷が」
「見えない負荷を理由に、奇跡の場を乱すなと言っている」
サシャは口を閉じた。
見えない負荷。
また、その言葉だった。
見えないから、自分が見ている。聞こえないから、手を当てている。誰も気づかないうちに直すために、朝も昼も夜もここにいる。
それを言うべきだと思った。
けれどローレンスの目には、もう答えがあった。
「エリザベスは今日、多くの者を救った。王都神殿に必要なのは、ああいう力だ。君も補助として、彼女を支えることに専念しなさい」
「……支えております」
思ったより、小さな声だった。
ローレンスが眉を寄せる。
サシャは自分でも少し驚いた。いつものように、承知しました、と言うつもりだった。けれど喉の奥に残った石の熱が、言葉の形を少しだけ変えてしまった。
「今日の祈りも、支えました。午前も、午後も。右奥の結界石に負荷が寄り、午後は聖水槽側へ熱が逃げかけました。今、それを戻しています」
「サシャ」
咎める声だった。
それだけで、続きは塞がれた。
「自分の仕事を大きく言う癖は、改めた方がいい」
ランプの火が小さく揺れた。
サシャは、指先が冷えていくのを感じた。
怒鳴られたわけではない。罰を与えられたわけでもない。ただ、ひどく丁寧に、存在していたものを存在しなかったことにされた。
「……申し訳ございません」
いつもの言葉が出た。
ローレンスはしばらく彼女を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「明日の朝、私の執務室へ来なさい」
「はい」
「今夜はもう下がってよろしい。あまり勝手に祈祷場へ手を入れられても困る」
サシャは床に置いた小瓶へ目を落とした。
まだ終わっていない。
熱は残っている。東礼拝堂の灯も、たぶん今夜また揺れる。けれど、ここで続ければ命令違反になる。
「……承知しました」
サシャは小瓶を片づけた。
聖水を戻し、布を畳み、記録板を胸に抱える。調律役用の控えには、午後の負荷と応急処置のことを書いたままだ。消すべきか迷ったが、消せなかった。
廊下へ出ると、夜の神殿は静かだった。
昼間、あれほど多くの人が奇跡を求めて集まっていた場所とは思えない。遠くで水の音がする。朝と同じ音のはずなのに、少し重く聞こえた。
サシャは足を止め、聖水槽の方を見た。
見に行きたい。
明日の朝まで待てば、濁りが出るかもしれない。今ならまだ間に合うかもしれない。
けれどローレンスの声が耳に残っていた。
あまり勝手に祈祷場へ手を入れられても困る。
サシャは、抱えた記録板に指をかけた。
木の縁が、手のひらに食い込む。
誰かが救われる場面は、こんなにも明るい。
誰かが壊れないように支える場面は、どうしていつも、誰にも見えないのだろう。
その考えが浮かんで、すぐに飲み込む。
考えても仕方がない。明日の朝、執務室へ行かなければならない。そこでまた説明するのだろう。伝わらないかもしれない言葉を、できるだけ穏やかに、できるだけ短く。
サシャは廊下を歩き出した。
背後の大広間では、ランプの火が一度だけ揺れた。
*****
翌朝、聖水槽の水音は鈍かった。
いつもなら、夜明け前に底へ沈めた銀の皿が、小さく澄んだ音を返す。誰にも聞こえないほどの音だったが、サシャにはそれだけで十分だった。流れが整っている。聖水がまだ水として息をしている。そう分かる音だった。
けれど、その朝は鳴らなかった。
サシャは聖水槽の縁に手を置き、底を見下ろした。水面は澄んで見える。巡礼者が見れば、昨日と同じ聖水にしか見えないだろう。けれど、水の奥にある重さが違った。指を沈める前から、手首の骨が冷えるような感覚がある。
やはり、夜のうちに聖水槽側へ熱が流れたのだ。
見に行きたい。
手を入れて、底の銀皿を整えたい。
今ならまだ正しく戻せる。
サシャは袖口を少しだけたくし上げかけて、止めた。
あまり勝手に祈祷場へ手を入れられても困る。
ローレンスの声が、朝の石床よりも冷たく耳に残っていた。
鐘が鳴る。執務室へ行かなければならない。
サシャは聖水槽から手を離した。濡れてもいない指先が、なぜか水を含んだように重かった。
ローレンス神殿長の執務室は、王都神殿の中でもっとも日当たりのいい場所にある。高い窓から光が入り、壁には歴代の聖女たちの肖像が並び、机の上には磨かれた銀の聖印が置かれていた。
サシャが入ると、ローレンスは書類へ目を落としたまま、すぐには顔を上げなかった。
「来たか」
「お呼びと伺いました」
「昨日の件だ」
その一言で、室内の空気が少し重くなる。
サシャは胸の前で手を重ねた。爪の間に、昨夜の石粉がまだほんの少し残っている気がした。洗ったはずなのに、取れない。
「改めて確認だが。巡礼者の前で、結界石に負荷があると口にしたそうだな」
「申し訳ございません。ですが、実際に祈祷場の流れが聖水槽側へ寄っておりました。昨夜のうちに戻しきれなかったため、今朝の聖水にも」
「その話はもうよい」
静かな声だった。
怒鳴られるより、ずっとはっきり切られた気がした。
ローレンスはようやく顔を上げる。机の上には、サシャが昨夜抱えていた調律役用の記録板が置かれていた。いつの間に回収されたのか、板の端に書いた走り書きまで、丁寧に赤い印がつけられている。
結界石、右奥から祭壇下へ歪み。
聖水槽側へ熱流入。
夜間再調律必須。
自分の字だった。
「これは君が書いたものだな」
「はい」
「正式な祈祷記録ではない場所に、エリザベスの祈りが神殿へ負荷を与えたかのような記述を残す。これがどういう意味を持つか、分かっているのか」
サシャは一瞬、言葉に詰まった。
意味。
記録とは、あとで辿るために残すものだ。どこに熱が逃げ、どこに歪みが残り、次に何を直すべきか。そういうものを残さなければ、神殿は同じ場所から傷む。だから書いた。
それ以外の意味など、考えたこともなかった。
「事実を記録しただけです」
「事実かどうかを判断するのは、君ではない」
サシャはローレンスを見た。
窓から入る光が机の上で白く跳ねている。聖印の表面は磨き上げられていて、そこには傷ひとつ見えない。見えない場所にどれほど細い傷があっても、磨かれた表面だけを見れば、人はそれを清らかだと言う。
「神殿長。結界石の内側に残る歪みは、外からは見えません。ですが、放置すれば聖水槽へ出ます。今朝も、底の銀皿が鳴りませんでした。今日の祈りの前に整えなければ」
「サシャ」
ローレンスの声が、少し低くなる。
「君は、エリザベスの功績を曇らせたいのか」
その問いは、問いの形をしていなかった。
サシャは息を吸った。
違います、と言うのは簡単だった。実際、違う。エリザベスの癒やしは本物だ。救われた人々がいたことも、祈りに意味があったことも、サシャは否定していない。
けれど、否定していないことと、見えている危険を見えないことにするのは違う。
「私は、エリザベス様の力を否定しているわけではありません」
「ならば、なぜ毎回のように結界石だ、聖水槽だと騒ぎ立てる」
騒ぎ立てる。
その言葉で、昨夜の大広間の暗さが戻ってきた。
膝の痛み。
石の熱。
濁りかけた聖水。
誰にも読まれない記録板。
そして、目の前で閉じられていく言葉。
「騒ぎ立てているつもりはありません」
「周囲にはそう見えている」
ローレンスは書類を一枚めくった。すでに用意されていたものらしい。机の上に置かれた紙には、王都神殿の印が押されていた。
「君には、北辺境の修道院へ移ってもらう」
一瞬、言葉の意味が遠かった。
サシャは紙を見る。
異動命令。
北辺境。
修道院。
調律補助。
いくつかの文字だけが、光に照らされてやけにはっきり見えた。いつからだろう。
「……異動、ですか」
「そうだ。あちらは古い修道院で、人手も足りていない。君のように細かな管理を好む者には、むしろ合っているだろう」
ローレンスの声は穏やかだった。
まるで配慮しているように聞こえた。
「王都神殿には、今、エリザベスがいる。人々に必要とされる聖女だ。彼女の力を支えるためにも、神殿内の空気を乱す要素は減らさなければならない」
空気を乱す要素。
サシャは手を握った。
自分が見ていたのは、空気ではない。
結界石だった。
聖水だった。
灯だった。
神殿の底を通る、誰も気にしない細い流れだった。
「神殿長」
声が少し掠れた。
ローレンスは返事をしない。ただ、話せ、という顔でこちらを見ている。聞くためではなく、終わらせるための沈黙だった。
「私は、感謝されたいわけではありません」
言ってから、サシャは自分の声が思ったより静かなことに気づいた。
怒っていると思っていた。
悔しいのだと思っていた。
けれど、口から出た声には、それよりずっと重い疲れが混じっていた。
「ただ少し、理解してほしかっただけです」
ローレンスの眉が、わずかに動く。
サシャは続けた。
「聖水槽の底が重くなる前に、何が起きているのか。礼拝堂の灯が揺れる前に、どこが歪んでいるのか。結界石が割れる前に、どの流れが強すぎるのか。私はずっと、それを見ていました」
机の上の聖印が、光を反射する。
まぶしかった。
「私が何を直していたのか、神殿長は一度も見ようとなさいませんでした」
部屋の中が静まり返った。
窓の外で、鳥の声がした。朝の神殿にいつもある音だった。けれどこの部屋では、ひどく場違いに聞こえた。
ローレンスはしばらく黙っていた。
怒鳴るかと思った。
咎めるかと思った。
けれど彼は、ゆっくり息を吐いただけだった。
「やはり、君は疲れている」
そう言った。
サシャは、返事をしなかった。
「辺境で少し休むといい。王都神殿の重い役割は、君には荷が重すぎたのだろう」
それ以上は有無を言わせないとでも言いたげだった。
言っても届かないものは、もう分かった。
ローレンスは異動命令の書類を差し出した。
「出立は三日後だ。必要な荷物はまとめておきなさい。エリザベスの補助については、別の者をつける」
別の者。
サシャはその言葉を聞きながら、今朝の聖水槽を思い出していた。
底の銀皿は鳴らなかった。
別の誰かが、あの音のなさに気づくだろうか。
東礼拝堂の灯が青く滲んだ時、風のせいではないと分かるだろうか。
エリザベスが力を強めすぎた時、傷が閉じたあとで、もう十分だと止められるだろうか。
考えかけて、やめた。
それはもう、サシャには関係ないこと。今目の前の、ローレンス神殿長がはっきり告げたのだから。
サシャは書類を受け取った。
紙は思ったより軽かった。けれど指に触れた瞬間、肩に乗っていた何かが、ゆっくりと落ちていく気がした。重さが消えたというより、長い間そこにあったものが、自分の一部ではなかったとようやく分かる感覚だった。
「承知しました」
いつもの言葉だった。
けれど、今度は少しだけ違って聞こえた。
ローレンスは頷いた。
「最後まで、王都神殿の者として節度ある振る舞いを」
サシャは心持ち深く礼をして、執務室を出た。
廊下は明るかった。窓の外では、朝の光が石畳に落ちている。神官たちが忙しそうに行き交い、午前の祈りの準備をしていた。誰かがエリザベスの衣を運び、誰かが香炉を磨いている。
その手順の中に、自分の居場所はまだあるはずだった。
聖水槽を見に行くこともできる。東礼拝堂の灯を確認することもできる。記録板の続きを書くことも、昨日の歪みを戻すことも。
けれど、足はそちらへ向かなかった。
大広間の前を通りかかった時、扉の隙間からエリザベスの声が聞こえた。
「サシャ?」
振り返ると、白い衣を着たエリザベスが、控えの間の前に立っていた。昨日より少し疲れた顔をしている。けれど、サシャを見る目にはいつもの柔らかさがあった。
「ローレンス神殿長とお話だったの?」
「はい」
「昨日のことなら、私もあとで一緒に聞くわ。祈祷場のこと、教えてくれると言っていたでしょう」
サシャは、エリザベスを見た。
彼女は本当に、教わるつもりでいるのだろう。悪意なく、疑いもなく。昨日の大広間で自分の力がどこを削ったのか、知らないまま、それでも知ろうとしている。しかし、今まででも知ろうとする時間はたくさんあった。あったはずだ。
遅い、と思った。
けれど、それを口にするほど、サシャはもうこの神殿に対する思いは残っていなかった。
「申し訳ありません。私は三日後、北辺境の修道院へ移ることになりました」
エリザベスの目が大きくなる。
「え……どうして」
「人手が足りないそうです」
嘘ではない。
けれど、それだけでもない。
エリザベスは何か言おうとして、言葉を探すように唇を動かした。サシャはその前に、静かに頭を下げる。
「エリザベス様。癒やしの祈りの時は、傷が閉じたところで一度、息を置いてください。人の体が受け取れる力と、祈祷場が受け止められる力は違います」
いつもは少しうつむき加減のサシャも、今回ばかりはエリザベスの目を見てはっきり告げた。最後に言っておくべきことは、それだけだった。
エリザベスは戸惑った顔で頷いた。
「……分かったわ」
分かっていないだろう。
けれど、それでもよかった。
サシャはもう一度礼をして、歩き出した。
聖水槽の方から、かすかな水音が聞こえる。
昨日より重い、鈍い音。
足が一瞬だけ振り返りかけた。けれど、サシャは振り返らなかった。
大丈夫、と言いかけて、口を閉じる。もう、その言葉で自分を立たせる必要はなかった。
後編もぜひ!




