第6話:泥水を啜る王子、黄金を食む令嬢
凍てつくような雨が、ヴァリエール王都の路地裏を濡らしていた。
数日前まで、王宮の温かな寝台で眠っていたはずのジュリアンは、今や汚れきった外套を頭から被り、ゴミ捨て場の隅で震えていた。
「……腹が、減った……」
胃を掴まれるような空腹。
かつては一口食べては「味が薄い」と投げ捨てていた最高級の料理が、今や遠い夢の中の出来事のようだ。
彼は震える手で、ポケットに残った唯一の「財産」を取り出した。
王家の紋章が入った、純金のカフスボタン。
「これがあれば……パンの一斤くらい……」
彼はふらふらと立ち上がり、近くのパン屋へ向かった。
だが、店主はジュリアンの姿を見るなり、汚物を避けるような目で鼻を鳴らした。
「おい、そのカフスを出せ。パンを一つやる」
「……一つ? 貴様、これがどれほどの価値があると思っている! これ一つで、お前の店が丸ごと買えるのだぞ!」
「はっ! いつの話をしてやがる」
店主は地面に唾を吐いた。
「今やこの国はアルカディア帝国の『経済封鎖』下だ。金なんてただの金属だよ。価値があるのは、帝国が発行する『エリザベート金貨』か、現物の小麦だけだ。そのガラクタでパン一個。嫌ならどきな、後ろがつかえてる」
ジュリアンが振り返ると、そこにはかつての「忠実な国民」たちが、飢えに血走った目で彼を睨みつけていた。
「お前のせいだ、ジュリアン!」
「エリザベート様を追い出したから、俺たちは凍えてるんだ!」
「そのカフスを寄こせ! 俺たちの税金で作ったものだろう!」
「ひっ……、やめろ! 私は王子だぞ! 離せ!」
かつての英雄は、民衆に揉みくちゃにされ、泥の中に突き倒された。
純金のカフスは無慈悲に奪い去られ、彼の手元に残ったのは、石のように硬く、カビの生えた一切れの黒パンだけだった。
彼は泥水に浸かったそのパンを、泣きながら口に運んだ。
屈辱の味がした。
――その頃。
アルカディア帝国の帝都、その中心にそびえ立つ「黄金の離宮」。
「あら。今日のフォアグラ、少々火入れが甘くていらして?」
エリザベートは、クリスタルグラスに注がれた深紅のワインを揺らしながら、優雅に呟いた。
彼女が座るテーブルには、絶滅したと言われる幻の鳥の肉や、南方から魔法輸送されたばかりの新鮮な果実が並んでいる。
「申し訳ございません、エリザベート様。すぐに作り直させます」
控えていたのは、帝国の最高料理長だ。
彼は、皇帝カエルス以外の言葉には耳を貸さないことで有名な男だったが、今やエリザベートの「舌」の鋭さに心服し、彼女の指摘を至上の喜びとしていた。
「構いませんわ。……それより、セレーネ。例の『報告書』を」
「は。……旧ヴァリエール王国、現在の『帝国直轄領・第十三区』ですが、計画通り食料自給率が零になりました。現在、民衆の九割が、お嬢様の肖像が刻印された給食引換券のために、帝国のインフラ工事に従事しております」
「ふふ、素晴らしいわ。剣を使わなくても、人は胃袋一つで簡単に支配できますのね」
そこへ、足音が響いた。
皇帝カエルスが、公務の合間を縫って姿を現したのだ。
彼はエリザベートの隣に腰を下ろすと、彼女が食べ残した果実を一つ、親密そうに口に含んだ。
「エリザベート。貴公の提案した『新通貨政策』のおかげで、帝国の国庫は昨年の倍に膨れ上がった。……もはや、貴公なしではこの国は回らん」
「あら、陛下。私はただ、自分の居場所を心地よく整えているだけですわ」
「欲のないことだ。……時に、あの『元王子』だが。今朝、パン一つを巡って平民と殴り合い、肥溜めに落ちたそうだぞ」
カエルスの言葉に、エリザベートは一瞬だけ動きを止め、それから何事もなかったかのように微笑んだ。
「肥溜め……。まあ、彼にはお似合いの寝床ですわね。……ふふ、くすぐったいですわ、陛下」
カエルスが、エリザベートの銀髪を指に絡め、その耳元で低く囁く。
「奴が泥を啜っている間、私は貴公と黄金の夜を過ごそう。……準備は良いか?」
「ええ。……『準備はすべて整っております』わ」
エリザベートは、窓の外で輝く帝都の夜景を見つめた。
そこには、かつての故国にあったような、消え入りそうな魔法の灯りではない。
彼女の知性と財力が生み出した、永遠に消えることのない、黄金の輝きが満ち溢れていた。
「泥」と「黄金」。この圧倒的な対比こそが、復讐劇の醍醐味ですわね。
ジュリアンの転落に快感を覚え、エリザベートの覇道に胸を熱くしていただけましたら、
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皆様の声が、次なる「ざまぁ」の解像度を上げ、敵をさらに惨めにいたします。
次回、第7話『地下牢の再会、聖女への引導』。
正気を失いかけたリリアンの前に、エリザベートが「慈悲」という名の毒を届けに参ります。
お楽しみに。




