第2話:翌朝、地獄の目覚め
王太子ジュリアン・ド・ラ・ヴァリエールが目を覚ましたのは、不快な冷気と、けたたましい怒号によってだった。
「……なんだ、この寒さは。暖炉はどうした」
寝台から身を起こしたジュリアンの声は、ひどく掠れていた。
いつもなら、彼が身動きひとつしただけで、洗練された侍従たちが最上級の香草茶を運び、魔法によって完璧な温度に保たれた部屋で着替えが始まるはずだった。
しかし、返ってくるのは静寂、そして遠くで聞こえる悲鳴だけだ。
「おい、誰かいないのか! リリアンはどうした!」
苛立ちを募らせて呼びかけると、ようやく部屋の扉が乱暴に開かれた。
駆け込んできたのは、顔を真っ青に染めた財務官の老貴族だった。
「で、殿下! 大変でございます! すぐに、すぐに謁見の間へ!」
「朝から騒々しい。エリザベートという『重し』が取れて、ようやくこの国に真の自由が訪れたのだぞ。もっと優雅に――」
「自由どころではございません! 国が、国が止まってしまったのです!」
引きずられるようにして向かった謁見の間。
そこには、昨夜の祝祭の残り香など微塵もない、絶望に支配された光景が広がっていた。
窓の外を見れば、王都を包んでいたはずの黄金色の輝き――外敵や魔物から国を守る『大結界』が、虫食いのように穴だらけになり、今にも消え入りそうに明滅している。
「……結界が、なぜこんなことに」
「昨夜、エリザベート様が仰ったことは真実でした! あの結界は、彼女が個人的に精霊王と結んでいた『私的契約』によって維持されていたのです。彼女が契約を解除した今、再起動には我が国の年間予算の三倍に相当する魔力石と、高位の魔導師が百人は必要になります!」
財務官が震える手で差し出したのは、山のような請求書の束だった。
「さらに、王室が運営していた商会の八割が、今朝未明をもって業務を停止。全ての資産はローゼンベルク公爵家名義で『回収』されました。殿下が昨日まで飲んでいたワインも、着ていた絹のシャツも、すべて彼女の好意という名の『私財』だったのです!」
「馬鹿な……公爵家は王家に仕える身だろう! あいつの持ち物は、私の持ち物だ!」
「契約書を読み直してください、殿下! 『婚約解消の際は、エリザベート・フォン・ローゼンベルクが持ち込んだ、または構築した全資産の所有権は彼女に帰属し、即時返却されるものとする』……この条項に、殿下は昨日、自らサインされたのですよ!」
ジュリアンの脳裏に、昨夜のエリザベートの冷たい微笑が蘇る。
『言質は取りましたわ』――。
あの時、彼女は既にこの「破滅」を完成させていたのだ。
そこへ、もう一人の人物が崩れ込むように入ってきた。
昨日、エリザベートに代わって「真の王妃」に指名されたはずの聖女、リリアンだ。
「ジュリアン様……助けて、体が、変なの……っ」
ジュリアンは、思わず絶句した。
そこにいたのは、瑞々しい美少女リリアンではない。
髪はパサパサに乾き、肌は生気を失ってくすみ、何よりその指先が、まるで老人のように萎び始めている。
「リ、リリアン……? その姿は、一体」
「鏡を見て、悲鳴を上げました……。魔法が、魔法が使えないんです! 誰の傷も治せないし、私の肌も、元に戻らない……!」
傍らにいた宮廷魔導師が、苦々しい顔で告げる。
「当然です。彼女の『聖女の奇跡』は、エリザベート様が特注で作らせた魔力供給機によって増幅されていた、言わば『作り物』でした。供給源であるエリザベート様がいなくなった今、彼女はただの魔力の薄い、平民の娘に戻ったのです」
「そんな……! 嘘よ、私は聖女よ! 愛されているのよ!」
リリアンがジュリアンに縋り付こうとする。
だが、美しさを失った彼女の姿に、ジュリアンは本能的な嫌悪を感じて一歩退いた。
「寄るな! ……くそ、エリザベートだ。あいつを連れ戻せ! 今すぐ公爵家へ向かい、彼女に謝罪……いや、命令して結界を戻させろ!」
「……手遅れでございます、殿下」
伝令の騎士が、震える声で告げた。
「ローゼンベルク公爵家は、昨夜のうちに全領民を引き連れて隣国『アルカディア帝国』への亡命を完了。……そして現在、帝国の国境沿いには、エリザベート様を『国賓』として迎えたカエルス皇帝陛下の親衛隊が展開しております」
ジュリアンの膝が、がたがたと震え始めた。
隣国アルカディア。
この王国が逆立ちしても勝てない、大陸最強の軍事帝国。
その皇帝が、自分たちが「ゴミ」のように捨てた女を、最高級の礼遇で迎え入れた。
窓の外で、ついに『大結界』が完全に霧散した。
不気味な魔物の咆哮が、遮るもののなくなった王都に響き渡る。
ジュリアンはようやく理解した。
自分たちが捨てたのは、疎ましい婚約者などではない。
この国の「命」そのものだったのだと。
その頃、国境を越えた先。
帝国の豪華な天蓋付きベッドの中で、エリザベートは優雅に目を覚ましていた。
「お目覚めですか、エリザベート様」
控えていたセレーネが、温かい紅茶を差し出す。
窓の外には、朝日を浴びて整然と並ぶ帝国軍の銀の鎧が光っている。
「ええ。……あちらの国では、そろそろ最初の『絶望』が朝食代わりに配られている頃かしら?」
エリザベートは、真っ白な陶器のカップを口に運び、この上なく満足げに微笑んだ。
「さあ、始めましょうか。あの国が、塵一つ残さず崩れ去るための……最高の『後片付け』を」
「ざまぁの幕開け」に胸がすく思いをしていただけましたら、
ぜひ【評価】や【ブックマーク】で、エリザベートの再出発を祝ってくださいな。
次回、エリザベートが隣国で「真の力」を見せつける一方、
王太子は「平民の怒り」という名の地獄に直面します。
お楽しみに。




