第39話:十二人目の守護者、帰還(後編)
第39話:十二人目の守護者、帰還(後編)
佐藤家の屋敷を揺るがす地響きは、もはや単なる崩壊の合図ではなかった。
それは、歪んだ愛を積み上げて築かれた呪神の城が、その核を失い、自らの重みに耐えかねて断末魔の叫びを上げているようであった。
「……凛。行かせ、ない。健太様を連れて行くなら、この屋敷ごと、灰にして差し上げますわ……。」
床に這いつくばった結衣の指が、自爆装置の起動スイッチを非情に押し下げた。
刹那、屋敷の深部から不気味な脈動が伝わり、主寝室の壁には赤い警告灯が狂ったように点滅し始める。
「結衣さん……。貴女は最後まで、健太様を自分の一部としか思えないのですね。」
凛は、志保の投薬でぐったりとした健太を、自らの背中にしっかりと固定した。
「凛ちゃん! 逃がさない! 逃がさないよぉ! 健太お兄ちゃんを返して!」
杏奈が、崩れ落ちる天井の瓦礫も厭わず、凛の足首に文字通り死に物狂いでしがみついた。
「杏奈さん、離してください。このままでは貴女も命を落とします!」
「いいもん! お兄ちゃんと一緒なら、死んじゃってもいいんだもん!」
杏奈の純粋すぎるゆえの狂気。
それは他のメイドたちにも伝播し、倒れていた遥や舞、莉奈たちまでもが、地獄の亡者のように凛へと手を伸ばした。
「……健太を、渡さない……。」
「私の、私の、私のものなのよぉ!」
崩れゆく豪華絢爛な内装。
その中で、11人のメイドたちの執念が一つに溶け合い、凛と健太を飲み込もうとする巨大な情念の津波となっていた。
「……健太様、目を閉じていてください。少しだけ、荒っぽいことをいたします。」
凛は健太の耳元で優しく囁くと、懐から一本の銀色の針を取り出した。
それは、海外の修行で得た、自らの生命エネルギーを一時的に爆発させる「気」のブースターであった。
凛が自らの秘孔にその針を突き刺した瞬間、彼女の周囲に目に見えるほどの衝撃波が渦巻いた。
「――道を開けなさい。愛を知らぬ、哀れな姉妹たちよ!」
凛の咆哮と共に放たれた気の波動が、しがみついていたメイドたちを優しく、しかし抗えぬ力で弾き飛ばした。
凛はそのまま、崩落し始めた中央階段を一気に駆け下りる。
背後では、志保の研究室が爆発し、彼女たちが健太を管理していた膨大なデータが炎の中に消えていった。
「凛! そこまでよ!」
正面玄関の前に、満身創痍の遥が仁王立ちで立ち塞がっていた。
「退いてください、遥さん! 屋敷が持ちません!」
「退かない! 私の筋肉が、健太を離すなと叫んでいるのよ!」
遥の放った渾身の拳。
それは、愛する者を繋ぎ止めたいという一途な、しかし歪み切った純粋さの結晶であった。
凛はその拳を避けなかった。
彼女は自らの肩でその衝撃を受け止め、そのまま遥の懐に飛び込むと、彼女の耳元で静かに告げた。
「……遥さん。貴女が本当に彼を愛しているなら、彼の『自由』を、一度だけ信じてあげてください。」
その言葉が、遥の心の奥底に眠っていた「かつての優しいメイド」の記憶を呼び覚ましたのか。
遥の拳から、ふっと力が抜けた。
「……健太……。私は……。」
凛はその隙を見逃さず、遥の脇をすり抜け、爆発の炎が迫る正面玄関を蹴破った。
夜の冷たい空気が、煤けた顔の二人の肌を撫でる。
凛は一度も振り返ることなく、屋敷の敷地を囲む高い鉄柵を、強化された脚力で飛び越えた。
数秒後。
背後で、佐藤家の屋敷が巨大な火柱と共に完全に崩壊した。
11人のメイドたちの絶叫が夜空に響いたが、それもすぐに、瓦礫の崩れる音にかき消されていった。
凛は健太を抱えたまま、深い森の中を走り続けた。
追手は来ない。
屋敷の崩壊と自爆システムの作動により、メイドたちは自らの「檻」の中に閉じ込められたのだ。
夜が明け始めた頃。
二人は、屋敷から数十キロメートル離れた、名もなき海辺の断崖に辿り着いた。
「……健太様。……健太さん。聞こえますか?」
凛は健太を草の上にそっと降ろし、志保の薬の効果を中和するツボを丁寧に刺激した。
朝日が水平線の向こうから顔を出し、海面を黄金色に染め上げる。
その眩い光の中で、健太の瞳が、数週間ぶりに意志の輝きを持って開かれた。
「……凛……さん……?」
掠れた声。
しかし、そこには志保に操られていた時の人形のような虚無感はなかった。
「はい。凛です。お迎えに上がりました。」
「僕は……屋敷は……あのみんなは……?」
「すべて、終わりました。あそこにはもう、貴方を縛るものは何もありません。……もちろん、私も含めて。」
凛はそう言って、健太に差し伸べていた手を少しだけ引いた。
彼女自身も、自分の中に芽生え始めた「健太を守りたい」という強い情念が、11人のメイドたちと同じ狂気に変わることを恐れていたのだ。
しかし、健太はその凛の手を、震える指で力強く掴み返した。
「……行かないで。……お願いだ、凛さん。僕を、どこか……誰も知らない、普通の場所へ連れて行ってくれ。」
健太の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは、狂気に支配されていた日々を洗い流す、浄化の涙であった。
「……承知いたしました。お金はありません。贅沢な暮らしも、もう約束できません。……それでも、よろしいですか?」
「ああ。……君と、一緒にいられるなら。」
凛は、健太を抱きしめた。
それは独占するための抱擁ではなく、一人の傷ついた人間を、温めるための抱擁であった。
「行きましょう、健太さん。新しい、私たちの人生へ。」
二人は立ち上がり、朝日が照らす海岸線を歩き始めた。
佐藤家の狂気という名の長い夜は、今、完全に明けたのである。
海風が二人の背中を押し、自由への階段を一段ずつ登らせていった。
第1部完




