第32話:共鳴する狂気
第32話:共鳴する狂気
佐藤家の屋敷全体が、生き物のように脈動している。
健太の主寝室を満たす空気は、もはや酸素よりもメイドたちの情念の方が濃いのではないかと思えるほどに、重苦しく、甘ったるい腐敗臭に似た香りに満ちていた。
ベッドの中央で、健太は志保の投与した強力な鎮静剤によって、泥のような眠りの淵へと引きずり込まれていた。
「健太様の脳波が、ようやく私の望む波形を描き始めたわ。これで彼は、外部からの刺激よりも、内部に植え付けられた私の『声』を優先するようになる。」
志保はモニター越しに健太の生命維持データを凝視し、恍惚とした表情でキーボードを叩き続けた。
「志保さん、その数値的な管理はもう十分ですわ。これからは、わたくしの肌の温もりこそが、健太様の唯一の現実となるのですから。」
結衣は健太の胸元に耳を当て、トクトクと刻まれる鼓動を数えながら、自身の心臓の音をそれに同調させていく。
「……誰にも、邪魔はさせない。たとえ姉妹であっても、健太様の深層心理に触れるのは私だけでいい。」
舞は影の中から、音もなく結衣の背後に立ち、その手に握られた短刀の冷たい光を健太の寝顔に反射させた。
「舞、その物騒なものは仕舞いなさい。健太様を傷つける可能性があるものは、わたくしが許しませんわ。」
絵里が健太の手に自分の手を重ね、指を一本ずつ絡ませながら、所有権を主張するように強く握りしめた。
「そうだよ! 健太お兄ちゃんは杏奈とずっと一緒に遊ぶんだもん! ねえ、お兄ちゃん、杏奈のこと、夢の中でも呼んでくれてる?」
杏奈は健太の耳元で、壊れた蓄音機のように同じ言葉を繰り返し、彼の無意識に自分を刻み込もうと必死になっていた。
「杏奈ちゃん、うるさいわよ……。健太様は今、私のハーブティーの香りで、最高に幸せな悪夢を見ている最中なんだから……。」
陽葵は虚ろな目で、使い古されたティーポットから、どす黒い液体を健太の唇に一滴ずつ垂らしていく。
「ハーブティーなんてぬるいわ。私の特製シチューを胃袋に流し込めば、健太様の体は内側から私に染まるのよ……ふふふ……。」
莉奈は、自分の指を噛み切って混ぜ込んだシチューの皿を抱え、狂気に満ちた笑みを浮かべて健太を見つめていた。
「……うるさい。全員、黙って。私のトレーニングの邪魔をしないで。健太を守るためのリズムが狂うじゃない!」
遥はベッドの足元で、健太の足を自らの太腿で挟み込みながら、狂ったような速度で腹筋運動を繰り返していた。
「遥さん……その筋肉の軋む音さえも、私の『愛のクロニクル』には不協和音として刻まれるわ。でも、それもまた破滅へのスパイス……。」
詩織はペン先から飛び散るインクで顔を汚しながら、健太が精神的に死に至るまでのカウントダウンを紙に刻み込んでいた。
「皆さん、争うのはおやめなさい。健太様は、私の髪の毛の檻からは、死んでも逃げられないのですから……。」
琴音は部屋の天井にまで、健太の髪を編み込んだクモの巣のような糸を張り巡らせ、部屋全体を巨大な繭へと変えていた。
「……あ……う……。」
薬の副作用か、あるいは過剰なストレスか。
健太の口から、魂の抜け殻のような掠れた声が漏れた。
その瞬間、11人のメイドたちの動きがピタリと止まり、全員の視線が一点、健太の唇へと集中した。
「健太様! 今、何とおっしゃいましたか? わたくしの名前を呼んでくださったのね!?」
結衣が健太の顔を両手で包み込み、強引に自分の方を向かせた。
「違うわ! 健太は『助けて』なんて言ってない! 私を呼んだのよ! 遥って言ったのよ!」
遥がトレーニングを中断し、健太の胸ぐらを引き寄せようとして、結衣と激しく接触した。
「どきなさい! 健太の脳波は、私の名前の周波数に反応しているわ! 科学的な事実よ!」
志保がモニターを指差しながら、狂乱の叫びを上げた。
11人の愛が、ついに共鳴を始めた。
それは調和ではなく、互いの存在を塗りつぶし、健太という唯一の椅子を奪い合うための、破滅的なフィードバック現象であった。
「健太様はわたくしのものよ!」
「いいえ、私のよ!」
「杏奈のものだもん!」
「物語の主人公は私と健太様だけ!」
重なり合う声が、佐藤家の屋敷を物理的に震わせ、窓ガラスに細かい亀裂を走らせた。
健太の意識は、その喧騒の中でさらに深い闇へと沈んでいく。
彼の自我は、11分割された愛の重圧に耐えきれず、鏡が割れるように静かに、しかし決定的に崩壊の一途を辿っていた。
「……ああ……もう……何も……聞こえない……。」
健太の瞳から光が消え、ただ人形のようにメイドたちの欲望を受け入れるだけの器へと成り果てていく。
佐藤家という名の密室は、救いのない永遠の地獄へとその姿を完全に変貌させた。




