第26話:揺れる均衡と新たな火種
第26話:揺れる均衡と新たな火種
佐藤家の朝は、いつもと変わらぬ穏やかさで始まった……ように見えた。
しかし、リビングの空気を支配するのは、酸素ではなくメイドたちの澱んだほどの独占欲だった。
健太は食堂の主人の席に着き、莉奈が手際よく用意した朝食を口にする。健太の隣には椅子を極限まで近づけた結衣が、向かいには美波が座り、それぞれがフォークを奪い合うようにして健太の世話を焼いていた。
「健太様、今朝はハーブティーをお入れいたしましたわ。陽葵さんが特に健太様のために調合したものです」
結衣が差し出したカップから、甘く、どこか陶酔を誘う香りが立ち上る。健太はにこやかにそれを受け取った。その様子を、美波は少し眉をひそめて見ていた。
「健太、最近、陽葵のハーブティーばかり飲んでない? たまには私の入れたお茶も飲んでよ」
美波が拗ねたように言うと、陽葵が慌てて口を開いた。
「そんなことないですぅ! 美波さんのお茶も美味しいです! でも、健太様を夢の世界へ誘うのは、私の特製ブレンドだけなんですぅ!」
陽葵の言葉に、結衣はふふ、と冷ややかな笑みを浮かべる。
「愛に夢の世界など必要ございません。わたくしの愛は、いつでも現実のご主人様を完璧に支配いたしますから」
結衣の言葉に、美波は小さく舌打ちをした。
前夜のパーティーの熱狂の中で、結衣によって健太の理性は完全に「色に染まった」はずだった。しかし、その圧倒的な勝利の余韻の中で、他のメイドたちは決して諦めてはいなかった。この朝食の場は、健太の心という城塞を巡る、静かなる前哨戦だったのだ。
その日の午後、健太は庭のあずま屋で本を読んでいた。風が心地よく、ひと時の安らぎを感じていたその時、彼の影にそっと舞が寄り添う。彼女は無言で、健太が読み終えたページをそっとめくった。健太は舞の存在に慣れており、特に気にする様子もなく、そのまま読書を続けた。
しかし、その光景を、邸宅の窓から見ていた絵里が面白くなさそうに顔をしかめる。
「全く、あの娘はいつも健太様の側にいようとするんですから。隠密行動が得意なのがメイドとして長所なのは認めますけれど、愛の表現方法が古臭いこと」
絵里はティーカップをカチャリと音を立てて置くと、不機嫌そうに立ち上がった。彼女にとって、健太の香りを嗅ぎながら優雅にワインを飲むことこそが至高の愛の形であり、舞のような監視は下品だと感じていた。
絵里は舞を排除すべく、あずま屋へと歩を進める。
夕食時、莉奈が腕によりをかけた料理を健太の前に並べた。今夜は健太の好物ばかりだ。食卓は華やかで、健太も満足げな様子だった。その時、志保が突然、健太のフォークの動きを止めさせた。
「待て。健太、少し口を開けてくれないか?」
健太が戸惑いながら口を開けると、志保は小さなスプーンで何かを健太の口に入れた。
「これは私が特別に調合した、健太の精神を安定させつつ、私への依存度を高める栄養剤だ。味は保証できないが、効果は確実にある。私の愛を科学的に証明するためには、この段階が必要なのだ」
「ちょっと志保さん! 健太様の食事中に何を…! せっかくの料理が台無しです!」
莉奈が怒りの声を上げるが、志保は涼しい顔で答える。
「これは健太の健康のためだ。最高の状態を維持するためには、食事だけでは不十分だからな」
健太は志保の栄養剤の味に顔をしかめつつも、莉奈の剣幕に恐縮し、慌てて「美味しいよ…」と呟いた。その言葉に莉奈は狂喜し、志保はデータを取るためにタブレットを操作し始める。
その日の夜、健太が自室でくつろいでいると、彼の部屋のドアがわずかに開いた。隙間から顔を覗かせたのは杏奈だった。彼女は健太の姿を見ると、にこやかに部屋に入ってきた。
「健太お兄ちゃん、お疲れ様! 今日の疲れを吹き飛ばしに来たよ!」
杏奈はそう言うと、健太のベッドに飛び乗り、健太が使っていた枕を抱きしめた。
「杏奈、どうしたんだ? 部屋に帰ったんじゃ…」
「えへへ、健太お兄ちゃんの匂いがするから、なんだかとっても落ち着くんだ! このベッドは私のもの、健太お兄ちゃんも私のもの!」
杏奈は嬉しそうに枕に顔をうずめ、自分の匂いを徹底的に擦り付ける。その純粋な愛情表現に、健太は困惑しつつも、邪険にすることもできなかった。
一方、その頃、佐藤家の廊下では、遥が深夜のトレーニングを始めていた。彼女は健太の部屋のドアの前で腕立て伏せをしたり、ダンベルを持ち上げたりしていた。
「…ッ、ふぅ! 健太を狙う不届き者は、この私が許さない! 体力で拘束して、二度と結衣さんたちの前に出られないようにしてあげる!」
彼女の低い唸り声と、床に響く重い音は、健太の部屋から出ようとする者を牽制するかのように響き渡っていた。健太が部屋のドアを開けようとすれば、彼女の監視の目が光るのだ。
そして、その日の深夜、結衣は秘密の部屋で健太の私物を眺めながら、監視カメラの映像をじっと見つめていた。健太がベッドに入り、ぐっすり眠っている姿を確認すると、彼女はそっと唇を開いた。
「健太様…今日もお疲れ様でございました。他のメイドたちが、健太様への愛情を様々な形で示しておりましたが…心配はご無用ですわ。わたくしが、この佐藤家で健太様を誰よりも愛し、お守りいたしますわ。…あの娘たちには少し、締め付けを厳しくする必要があるようですわね」
結衣の瞳は、モニターに映る健太の寝顔を捉え、静かな、しかし破壊的な炎を宿していた。
それぞれのメイドたちが、健太への愛を深め、その表現方法をエスカレートさせていく中、佐藤家の均衡は少しずつ、しかし確実に揺らぎ始めていた。これは、愛という名の嵐の、ほんの序章に過ぎなかった。




