ただ存在を愛する
行動が運命を動かす。
遠くにホームの灯りが見えてきた。
夜の空気に溶けるように白く浮かび、そこが別れの場所だと告げている。
「あと少しですね」
速水の何気ない一言に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
——まだ、離れたくない。
いつもそう思っている。
けれど、そんな気持ちを打ち明けられないまま、別々の場所へ帰っていく。
それしか選べない運命のように、今日もそうなるはずだった。
けれど、何度も蓋をして、抑え込んだはずの感情が、息をするたびに広がっていく。
「……あの」
立ち止まり、逃げ場を失ったような心臓の鼓動の中で、言葉を押し出す私に振り向く速水。
「またお願いしても……いいですか」
一瞬の間。
「はい」
溶けるような静かな視線。その変わらない誠実さに、余計に引き返せなくなる。指先が冷たくなるのを感じながら、息を吸い込んだ。
「握手じゃなくて……」
俯いた。視線を上げられない。
「……ギュッてしてもらえませんか」
恥ずかしさを超えて、気持ちを止められなかった。
拒まれても仕方がない。けれど、この気持ちだけは嘘をつきたくない。
「いいですよ」
「えっ?」
思わず顔を上げる。
嬉しさと躊躇いの境界線の上で、今さらのように心の準備をする。
「で、でも……どこで?」
こんな駅前では誰に見られるかわからない。胸の鼓動が早まり、視線が落ち着きなく周囲をさまよう。
速水は少しだけ辺りをそっと肩に触れた。
「ええっ、 こんなに人通りがあるのに……」
躊躇う私にかまう事なく、黒いセーターが私の視界を素早く遮った。
音のない世界。
先程まで往来していた人の姿は消え、静寂に包まれる。
好きという感情を抑える苦しみが、世間体や価値観を壊し、強く強く、もっと傍で感じるようにギュッと強く抱きしめ返すと、独りで抱えてきた不安が消えてゆき、光に包まれているような別世界。
好き。
見た目や収入、結婚しているからなんて関係ない。条件ではなく、ただその存在を愛してしまった。
崇高なまでの美しさに満ちた安心感と幸福感。この包容こそが特別なのだと気づいている。
「ありがとう」
ぼんやりとしたシャボン玉のような桃色の吐息にお礼を乗せ離れる。
「では、また。よろしくお願いします」
走り出した車の窓の向こうで揺れる景色を眺めながら、あの腕のぬくもりを思い出す。
どんな気持ちで抱きしめてくれたの?
義理で抱きしめたと考えるには長過ぎる時間の意味を、理解出来ずにいた。
けれど、その翌日。世界の見え方がわずかにずれたように、気づきを求めるかのような出来事が、はっきりと姿を現し始めた。
交差点でぼんやりと考え事をし、無意識に踏み出しかけた瞬間、誰かに腕を引かれたように身体が止まった。
ブレーキの音にハッと振り返ると、そこには誰もいない。ただ背中に残る温もりが、あの夜の静かな力強さを思い出させる。
「速水さん?」
呼んだ声だけが空気に溶けていく。残された温もりの意味を掴めないまま、不思議な感覚だけが心の底に沈んだ。
それが偶然では済まされないと知るのは、まだ少し先のことだった。
数日後、荷物を抱え、階段を降りていると足先がわずかに滑った。
――落ちる
そう思った瞬間、身体がふわりと支えられたような感覚に、しっかりと足を踏み出し落ちずに済んだ。
偶然。そう片付けようとしてみるが、倒れる瞬間私を包んだ影は、間違いなく速水だった。
なんか変。そういえば……
この間、美術館に行った時もそうだった。
いつもより少しだけおしゃれをして、“見せたい” なんて自分でも曖昧な期待を抱きながら扉を開けた瞬間、目の前に速水が立っていた。
偶然にしては出来すぎている再会。
あのときはただ驚いただけ。けれど、今になって思い返すと、導かれたような感覚だけが静かに残る。
やがて私は、見過ごせなくなっている自分に気づき始めていた。
この違和感の正体は?




