第二十九話 紗良と銀色の狼
「ジョバンニ! 大丈夫?!」
転げるように階段を駆け下りてきた紗良は、素早く地下室を見渡した。紗良の視線が捉えたのは、わなわなと震えながら鉄格子を指さしているジョバンニの姿であった。
紗良は、すぐにジョバンニに駆け寄ると彼の目の前で勢いよくしゃがみこんだ。
彼の体を心配そうにしてぺたぺたと触りながら、
「あなた、大丈夫? どこも怪我していない? おさるさん逃げ出しちゃって――」
紗良は、言いながらジョバンニの顔を見上げた。彼は依然として前方を向いている。紗良など目に入らぬといった様子で目を見開いたまま、口をパクパクとしていた。
紗良は、いつもの反応がないジョバンニに、怪訝な表情をしながらゆっくりと後ろを振り返った。彼女の視線の先には、牢屋の中で優雅に横たわる大きな銀色の狼がいた。
「あれ? へ? あの男の人は?」
どこに行ったの? と紗良は、呆けた表情をしながら首を傾げた。しばらく牢屋を眺め続ける。
「へ、へいか――」
ジョバンニは、ようやく掠れた声を絞り出した。
ジョバンニの発した声に、彼を振り返りながら紗良は、「へいか?」とジョバンニにオウム返しのようにしてそのまま尋ねた。
顔を真っ青にしながら、コクコクを頷くジョバンニ。
紗良は、未だ理解できないといった様子で、首を傾げながらもう一度牢屋の方に視線を移した。
首を傾げたまま、紗良は、男性に尋ねた。
「へいか?」
紗良の言葉に頷きながら、優雅な笑みを浮かべた銀狼は、ゆっくりと口を開いた。
『いかにも――』
低く伸びのある声音が薄暗い地下室に響き渡った――。
「――すまんな、突然」
男性が、ニコニコとしながら言った。彼は、居間の丸テーブルの前で優雅に胡坐をかいている。
牢屋から出された男性は、それから彼の希望で湯あみをした。カイルに手伝ってもらい全身を磨いた男性は、浜辺に打ち上げられていた時のぼろ雑巾のような姿など微塵も感じさせないほどに艶やかになっていた。
体調もすっかり良くなり、身ぎれいになった男性は、カイルが用意した昼食を食べた後、ようやくひと息ついていた。
男性は、笑顔を崩さず、目の前に正座している面々を楽しそうに眺めている。
彼の視線の先では、申し訳なさそうに背中を丸めながら正座をしているジョバンニと、物珍しそうに男性を見ている紗良がいた。紗良の背中では、ヴォルフがすやすやと眠っている。
――コンコンコン
普段は聞かないノック音が居間の扉から聞こえた。紗良は、その音にはっとして立ち上がると、急ぎ足で扉へと向かった。
扉を開けた先には、カイルが緊張した面持ちでお盆を持っていた。
お盆に乗せられたグラスと水差しが小刻みに揺れている。
紗良は、「カイル、ありがとう」と笑みを見せた。
カイルはぎこちない笑顔を紗良に返しながら、カクカクと棒のように歩いてテーブルのそばまできた。
ジョバンニの隣にきたカイルは、床に膝をついて震える手で男性の前に、グラスと水差しを置いた。
カタカタと震えながらテーブルにグラスを置くカイルを見ながら男性は、
「そう緊張せずともよい」と、笑顔を浮かべ続けている。
カイルは、「は、はいっす」と消え入るそうに答えると何とか口角を上げた――。
グラスに口をつけて優雅に水を飲み始める男性。彼を無言で凝視している三人、広い居間にヴォルフの寝息のみが響いている。
「――あの」
沈黙を破って紗良が、おそるおそる口を開いた。
男性は、にこにこしたまま「ん?」と紗良の方を見た。
「陛下は、その、いつ頃お帰――」
紗良の言葉にジョバンニがハッとして顔を上げると、紗良を小突いた。カイルが慌てた様子で、紗良の言葉を継いだ。
「あの、これから夕食の仕込みをするます。陛下は、食べられないものあるですすか?」
「ん? 食事か? 何でもよいぞ。食べられぬものは、食べぬゆえ、気にすることはない」
男性はカイルの質問に、にこやかによいよい気にするな、と手をひらひらさせながら答えた。
カイルは、男性の言葉にえ? と、目を見開きながら紗良に視線を移した。どうすればいいのかと紗良に無言で尋ねている。
紗良は、思わず腕を組んで天を仰いだ。突然いつもの調子に戻った彼女の態度に驚いたジョバンニは、冷や汗をかきながらまた彼女を小突いた。
男性は、そんなジョバンニを見ながら「おぬし――」鋭い視線を彼に向けた。
ジョバンニは、丸めていた背中を一気に伸ばして、「ひっ。はッ、ハイ!」と声を張り上げた。
「女性に――」
低く響く声で男性は続ける。
「乱暴なことをするでない」
ジョバンニにキッと厳しい視線を投げつけた男性。ジョバンニは顔を真っ青にした。
「も、申し訳ありません!!」
がばっと頭を下げ、額を勢いよくテーブルにぶつけた。衝撃でテーブルが激しく揺れ、水差しが倒れる。
カイルは慌てて立ち上がり、エプロンのポケットから布を取り出すと素早くテーブルを拭きだした。
紗良は、「ジョバンニ、大丈夫?!」慌てながらジョバンニに手を伸ばした。
ジョバンニは、痛みに悶えながら頭を抱えている。
大きな音で目を覚ましたヴォルフが、背中から身を乗り出してジョバンニの頭をぺちぺちと叩いた。
キャッキャと楽しそうに笑うヴォルフ。彼を背中に感じながら紗良は、肩の力を抜いた。
眉尻を下げながら、
「陛下、申し訳ありません。みんな初めてのことで緊張しておりまして」
「よいよい。そう気にするな」
紗良の言葉に男性は穏やかな表情をしながら、また、手をひらひらとして見せた。
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げた紗良は、それから意を決して口を開いた。
「それで、あの陛下――」
男性は「ん?」と笑顔を見せた。
「――今日は、夕食後、何時ころ陛下のお迎えが来る予定ですか?」
紗良は、緊張した面持ちで男性を見上げた。彼は、不思議そうにして首を傾げた。
「迎え?」
「ええ、お迎えです。あ、すみません、もしかしたら今日はお泊りの予定でしたか? それでしたらすぐに部屋を用意させます」
カイルと紗良は目配せした。カイルは、紗良に黙って頷くとすぐに立ち上がった。踵を返し部屋を出ようと一歩踏み出したところで、男性は答えた。
「迎えは、来ない」
男性の言葉に紗良は、えっと声をもらした。カイルの背中を見ていた紗良は、驚いた様子で男性に視線を戻した。
カイルとジョバンニも男性の言葉に目を見開いている。
男性は、三人に優雅に微笑みながら、
「迎えは、当分ない。私は、ここでしばらく暮らす。そうだな、春先ごろには、アレックスが来てくれるやもしれんな」
グラスを持ちながら男性は、窓の外を見遣った。くすくすと楽しそうに笑いながら、
「こんな季節に、無傷でこの海を渡ることのできる船などない」と、目を細めた。
紗良は、男性の視線先の窓を眺めながら、また、へ? と声をもらした。




