第十九話 紗良とカイルとじいじの大きな氷室
「カイル、本当に大丈夫? 昨日の今日でそんなすぐに起きなくてもいいのよ?」
紗良は、心配で仕方ないといった表情でカイルに尋ねた。カイルは、自身の右手を上げながら大丈夫っすと、紗良に微笑みかけている。紗良はカイルの寝室にいた。カイルは、ベッドに座っている。
紗良は、ベッド脇の椅子に座っていた。赤ちゃんヴォルフを抱きながら紗良は、まだ寝ていなきゃだめよとカイルに横になるように促した。
「もう、本当に大丈夫っす。起きれるっす。熱も、痛みも引いたっす。あとは、腫れとこの痒みだけっす」
カイルの手には、ぐるぐると包帯が巻かれていた。包帯には、ところどころに緑色の染みがついている。
――長らく放置されていた森の中で赤ちゃんヴォルフの離乳食である赤い木の実を探していたヴォルフは、その帰り道に伸び放題になっていた毒草に触れてしまった。
毒による炎症反応で右腕の痛みと発熱に一晩中苦しんだカイルは、紗良とジョバンニに看病されて今朝遅く、ようやくベッドから起き上がることができるようになった。
「――それにしても、じいじの薬草があって本当に良かったわ」
紗良の笑顔に、笑顔で頷き返したカイルは、しかし、それから表情を暗くした。
「俺、油断したっす。あそこ、じいじが定期的に手入れをしていたっす。毒草もあんなにまでなる前に、ちゃんと刈り取ってたっす。俺、最近、見回りしてなかったから――」
肩を落としているカイルに、紗良は眉尻を下げながら、
「ごめんね、カイル。あなたを私とヴォルフ、ジョバンニの世話で手一杯にさせてしまっていたわ。島の管理も、これから私とジョバンニで手伝うから、これから少しずつじいじがいた頃に戻れるように一緒に頑張りましょう」
紗良の言葉に、カイルはすんませんっすと小さく呟いた。
「さ、今朝は、ジョバンニが朝食を作ってくれるみたいだから、あなたが起きられそうなら、一緒に居間に行ってみんなでご飯を食べる?」
紗良は、立ち上がりながら明るい声音で尋ねた。カイルは、元気よく頷いた。
カイルの表情を見て安心した紗良は、腕の中で大人しくしているヴォルフのお尻をぽんぽんと叩いた。
「ヴォルフも、カイルが取ってきてくれた木の実を用意してあるのよ。搾りたての離乳食よ。今日からみんなでご飯を食べれるわよ――」
赤ちゃんヴォルフは、紗良の言葉に手をばたつかせて笑顔を見せた――。
「――すまん! 焼き過ぎた」
ジョバンニが頭を下げた。彼の目の前のテーブルには、真っ黒になったパンが、三つ並んでいる。
「ジョバンニ、あなた、パンを温めるだけなのに――」
残念そうな表情をしている紗良とカイルに、ジョバンニは頬を膨らませた。
「なんだよ、人が素直に謝っているのに。仕方ねえだろ。俺だって、こんなん……」
ジョバンニは、膝を抱えながら顔をふいと背けた。
仕方ないわねとパンに手を伸ばした紗良は、黒こげのパンに噛り付いた。
「かった。硬すぎる。これは――私の歯、全部持ってかれるわ」
しかめっ面をしながらパンを眺めている紗良に、眉を顰めたジョバンニは、皿に残っているパンを一つ掴んだ。
ガリっという音を響かせながら、
「痛って。刺さった。パンが――歯茎に刺さった」
口を押さえながら悶絶した。
焦げパンに苦戦している二人を心配そうに見ていたカイルが、控えめに声を上げた。
「パン、まだ新しいのがあるっす。氷室にあるっす」
紗良は、カイルを振り返りながら「氷室? それってもしかして、昔の……天然の冷蔵庫ってこと? うそ、行ってみたい!」
紗良は、目を輝かせた――。
「うわぁ。これが氷室ね。広いわね。結構寒いのかなと思ったけど――ひんやりしてて気持ちいい。ヴォルフ、冷えないようにっておくるみを二重にしてきたけど、一枚で十分ね」
ヴォルフをくるんでいた布を解いた紗良は、それを自身の肩にひっかけた。ヴォルフを抱き直した紗良は、それから興味津々といった様子で洞窟内を見回し始めた。
彼女の横にいるジョバンニも、物珍しそうに辺りを見回している。彼は、感心した様子で壁を叩きながら言った。
「へぇ。この洞窟全体が氷室になっているのか。すげえな。しかし、こんなに大きいのは初めて見たな。俺ん家のは、もっと小さくて、こう四角くて、石やら木で組まれていたから――この天然の氷室は、本当に貴重なものだぞ。壁も冷たくて気持ちいいな」
ジョバンニはそれから上を向いて、天井も高いなと言って感心しながら腕を組んだ。
カイルは、嬉しそうに頬を緩めながら、
「じいじと一緒にがんばったっす。ここ、岩がごつごつしてて木箱とかを置く場所がほとんどなかったすけど、じいじと二人で岩を砕いて――それでようやくここまで広げられたっす」
「え? これ、二人でここまで広げたの?! カイルすごい!」
紗良の言葉に照れくさそうにへへへと笑みを浮かべたカイルは、隅の木箱に手を伸ばした。
木箱の上で硬く縛られている紐の結び目に手を置いたカイルは、片手で結び目を解こうとしていた。彼を見た紗良はヴォルフをジョバンニに託すと、カイルに駆け寄りながら言った。
「カイル、片手じゃ大変でしょう。私が紐を解くわ」
紐に手をかけた紗良は、結び目のひとつを摘まんだ。それを引っ張り上げながら、何とか結び目を解こうと苦心するもびくともしなかった。
「紗良さん、ちょっといいっすか?」
うんうんと力を入れている紗良に、カイルが尋ねた。
紗良は、結び目から手を離し一歩引いて申し訳なさそうに「お願い」と肩を竦めた。
「――え? うそ、カイルすご。どうやったの?」
左手だけでするすると紐をほどいて見せるカイルに、紗良は驚きを隠せずに尋ねた。
「じいじの技っす。じいじ、病気で右手が動かなくなったっす。今の俺くらいに動かなくって、それでじいじ工夫して、片手で紐を結んだり解いたりできるようにしたっす。それで、俺もそれを教えてもらったっす。この結び目は、じいじの秘伝っす」
カイルは箱の中からパンをいくつか取り出しながら紗良に答えた。カイルにパンを手渡してもらいながら、紗良は、悲しそうな表情をした。
「そう、じいじ。右手が使えないのに、それでも一生懸命この島を守っていたのね」
「そうっす。だから、俺も、じいじの跡を継いでこの島をちゃんと守っていくっす。じいじの大好きだった侍婆様の島をずっと守るっす」
「そうね。一緒に守っていきましょう」
笑顔でカイルに言った紗良は、それから辺りを見回して、
「他に持って行くものはない? 私、まだ、運べるけど――」
パンを入れた麻袋を手にしながら紗良はカイルに尋ねた。
「じゃあ、ちょっと重いっすけど、そこの芋が入っている木箱を持ってもらってもいいっすか? ヴォルフ殿下の離乳食用に使いたいっす。固形物はまだヴォルフ殿下には、早いけど――美味しく食べてもらうために少しずつ練習したいっす」
カイルは紗良の背後を指さしながら言った。紗良は、了解と勢いよく振り向いた。
床に置かれている小さな木箱に手をかけた紗良にカイルが心配そうに尋ねる。
「大丈夫っすか? 持てそうっすか? 小さくても結構重いっすよ?」
カイルは横目でジョバンニを見た。ジョバンニは、ヴォルフを抱いたまま我関せずといった様子で、大きなあくびをしている。
カイルの視線の先を睨みつけた紗良は、大きなため息を吐きながら箱の前にしゃがみ込んだ。
木箱の底に手を入れながら、
「大丈夫よ、これくらい。これくらいの重さ、持てるようにならないと――。ヴォルフも大きくなってきてるし、それに――あのぐうたら。
言ったことしかやらない、指示待ち執事を頼りにしたって、仕方ないもの。おばさんは、自分で自分の道を切り開くのよ」
ふんっと木箱を上げた紗良。
ブッ――
「うわっ。お前、また屁こいたな。くっさ!」
ジョバンニは、眉間に皺を寄せて鼻を隠した。
紗良は、顔を真っ赤にしながらおそるおそるカイルを見上げた。
カイルは、黙って首をブンブン振っていた。
しかし、紗良は見逃さなかった。首を振りながらカイルが鼻をほんの少しだけ膨らませたことを。
「もう、最悪――」
紗良は、がっくりと肩を落とした。