9-7
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街灯とヘッドライトを頼りに、走り慣れない道を行く。
田園風景であるはずの周りは殆ど見えず、道路上の反射板や時折あるガードレールだけが浮かんでいる。
時計は11時を回り、外気温は氷点下に近い。
「あー。紅が負けた」
助手席でTVを見ていたサトミが、悔しそうな顔をする。
「別に、どっちが勝ってもいいでしょ」
「賭けてたのよ、紅に。ボールが、後3つあったら……」
睨まれているTVが煙を噴きそうな、鋭い目線。
綺麗だけど、怖い。
「しかし、何もないところだね」
「熱田神宮にすればよかったって、後悔してない?」
「少し」
苦笑して、アクセルを軽く踏み込む。
今日は大晦日。
初詣に行こうと思ったまではよかった。
すぐ近くには、熱田神宮もある。
格式も、雰囲気も申し分ない。
そしてそう思うのは、私だけではない。
何せ三が日だけで、何百万人という参詣者が来るんだから。
行ったはいいが、冗談抜きで押し潰される。
「みんなも来ないし。駄目ね、たるんでて」
伸びをして、シートに倒れ込むサトミ。
ただみんなはたるんでる訳ではなく、名古屋にいないだけの話だ。
モトちゃんは両親と海外旅行、ショウは実家でなにやら儀式めいた事をしている。
沙紀ちゃんも実家、ケイは謎。
それと木之本君は、一人金沢の永平寺へと旅立っている。
何でも、自分を見つめ直すんだとか。
わざわざそんな寒い所へ行かなくても、鏡見てればいいのに。
そういう問題じゃないって分かってるけど、本当に真面目というかまっすぐな子だ。
「私も、眠い」
オートドライブに切り替え、小さくあくび。
こうしておけば、事故はまず無いと言っていい。
車や道路に装備されたセンサーが極端な速度超過や接近を感知して、減速したり方向を変えてくれるのだ。
ただセンサーの性能上、速度はあまり出せない。
それが不満な人には不向きな機能である。
「運転、代わ……」
「さーて、そろそろ着くかな」
サトミの言葉を強引に遮り、オートドライブを切ってアクセルを踏み込む。
この子の運転で行くくらいなら、その辺の野良猫に任せた方がまだましだ。
別な意味で、神様の所へ行きかねないんだから。
ナビの地図を確認して、車を道路の脇へ止める。
コート越しに伝わる凍えるような冷気。
多度山系から吹き付ける風が、一気に眠気を覚ませてくれる。
「小さい神社ね」
「人も少ないよ」
石段を登り、玉砂利の敷き詰められた境内を歩いていく。
周囲を囲む背の高い木々。
その奥に見える、こじんまりした社。
参拝しに来ている人達は近所の人らしく、私達以上にラフな服装だ。
それでも初詣用にか、微かな明かりがあちこちに灯っている。
幻想的に浮かび上がる狛犬や灯籠。
微妙な陰影と揺れる影が、怖さよりもせつなさを感じさせる。
「あそこ、水が出てる」
「禊ぎでもしたら。頭から、水を被って」
自分ではその気もないらしく、ベージュのロングコートから手も出そうとしないサトミ。
私は革手袋をして、その隣をてこてこと歩いている。
別にそういう音がしている訳ではないけど、綺麗な彼女と歩く時は周りからそう見られてるんだろう。
サトミの黒髪が夜風に流れ、幾本かがその口元に重なる。
かすれるような明かりに照らされ、儚く浮かび上がる彼女の横顔。
同性で付き合いの長い私ですら、震えてしまうくらいに綺麗な。
「どうしたの」
「別に」
見惚れてましたと言っても仕方ないので、背中を丸めて社の前に立つ。
そこには臨時に作られた大きめの賽銭箱があり、中にはかなり高額な紙幣も数枚見えている。
「えい」
小銭を適当に投げ、取りあえずサトミをうかがう。
「え、えい」
賽銭箱の枠に蹴られ、玉砂利へ転がる小銭。
「ケイの事言えないじゃない」
「わ、わざとよ」
神様の前で嘘を付き、柏手を打つサトミ。
私もすぐそれに倣う。
そして目を閉じ、願う。
「……何頼んだ」
「みんなが、幸せでいられますように」
無難な答えが返ってきた。
「他には」
「もう少し、肌に張りが出ますように」
そういう事を頼むから、こっちへ回ってこないんだ。
神様、今のは聞かなくていいからね。
「ユウは」
「もう少し、全体的にボリュームが増しますように」
「ご飯、たくさん食べれば」
誰が太りたいと言った。
「甘酒売ってるわよ」
話題を変え、売店を指さすサトミ。
それには興味があるけど、飲んだら運転出来ない。
するとサトミが運転する事になる。
「いらない。サトミ飲めば」
「私、あまり好きじゃないの。酒粕の味が、どうも」
「あれが美味しいのに。全然分かってない」
喉を焼くような甘さと、ショウガの香り。
そして鼻孔へ抜けていく、酒粕の……。
取りあえず、お持ち帰りはしよう。
小さな破魔矢を受け取ると、カウンターの脇にある筒が目に付いた。
八角形のそれには、「吉凶占い」とある。
つまりは、おみくじだ。
「やられますか」
優しい笑顔を見せてくれる、巫女姿の女の子。
そんな薄着で寒くないのかなと思ったら、空になった甘酒のカップが奥に見えた。
笑顔が溌剌としているのは、きっとそのせいだ。
フランクというか、面白いというか。
「サトミ」
「はいはい。済みません、二回分」
サトミにお金を出させ、筒を振る。
乾いた音がして、小さな穴から細長い棒が出てきた。
「ほ-1です」
「では、こちらを」
折り畳まれた紙を受け取り、開いてみる。
そこには赤い字で「小吉」とあり、その下に小さな字で短い文章が書かれていた。
「どうだった」
「吉。可もなく不可も無し、といったところね」
「ふーん。私のと、どっちがいいの」
「ユウの方。小吉は登り調子というか、前途が開けているという意味よ」
さすが天才美少女。
巫女さんも、感心した顔をしている。
私は、口を開けたまま何度も頷く。
かなりの違いだな……。
「この下に、うだうだと書いてあるのは」
「うだうだじゃなくて、あなたの運勢よ」
「意味分かんないもん」
サトミに渡し、解説してと目で訴える。
「難しい事は書いてないでしょ。……奥深き山の雪原も、幾星霜を経て里に清水を伝えるなり。田畑に注ぎしそれは、陽光を受け春雷と共に染み込むが如し」
「だから、なに」
「せっかちね。つまり目に見えなくても、少しずつ物事は変化しているという意味。後はその結果、みんなが幸せになるくらいね」
「ふーん。わざわざ聞く事じゃなかった」
巫女さんにお礼を言って、怖い顔で睨んできたサトミを置いていく。
というか、聞いてもよく分からなかった。
当たり障りがなく、どうとでも取れる内容だ。
神様、もう少し分かりやすく言ってよ。
でもこれを書いてるのは、神主さんかな。
本当に、どうでもいいか……。
結局家へ着いたら、二人ともすぐに寝てしまった。
初日の出なんて、遠い世界の話。
初夢は今日見るんだと、サトミに車の中で教えられた。
私はずっと、大晦日の夜に見るのがそうだと思ってたのに。
だって、一月一日に見てるんだから。
しかしこれといった夢を見た事はないので、それ程問題はない。
大体、お正月からなすびの夢を見てもね……。
「あー」
大吟醸に口を付け、思わずため息を洩らす。
ビールもいいけど、日本酒もいい。
それにお正月だから、お屠蘇代わりとも言える。
とにかく、まだまだ飲める。
「優、変な声出さないの」
「自分だって、家だと唸ってるじゃない」
「まさか。済みません、おかしな子で」
人の脇腹をげしげしつつくお母さん。
娘には容赦なしか。
「雪野さん、さあどうぞ」
「あ、済みません」
高そうなブランデーをショウのお父さんに注がれ、恐縮しつつ口にする私のお父さん。
アルコール度数は結構高いはずなのに、褐色の液体は一気に消えて無くなった。
私がお酒に強いのは、お父さんの遺伝だろう。
お母さんはたしなむ程度で、少し飲めばすぐに頬が赤らんでくる。
ただお互い楽しいお酒というのは、たまに晩酌に付き合う身としても嬉しい限りだ。
「瞬さんも、どうぞ」
「あ、どうも」
瞬さん、つまりショウのお父さんは注がれた分を一気に飲み干した。
年齢は私のお父さんより上だけど、短く刈り上げた髪型やラフな服装からかなり若く見える。
少し落ち着きがないため、余計そう見えるのかもしれない。
対してそのお兄さん、ショウの伯父にあたる月映さんは落ち着いている。
穏やかな顔立ちもその風貌も、何もかもが。
彼の息子である風成さんは、かなりちゃかついてるけど。
何しろ玲阿家のリビングは広いため、これだけの人数がいても狭さを感じない。
料理も高そうなのが次から次へと出てくるし、本当に世の中こういう世界があるんだなと思わされる。
一応は年賀の挨拶なんだけど、ただ食べて飲んだくれてるとも言える。
集まってるのが身内だけなので、余計に。
また他の部屋では軍関係者や古武道の関係者が集まっていて、玲阿家の主賓がいるのはそちら。
ショウのお母さん達は、そっちでお客をもてなしている。
瞬さん達がここにいるのは、逃げてきたからだ。
何せ将軍クラスの人も来ているらしく、私は近付きたくもない。
「そういえば、お年玉を上げてなかったな」
うっすらと赤くなった顔で、のし袋を取り出す瞬さん。
そういう年でもないんだけど、向こうに取ってみればまだまだ子供なのだろう。
「まずは、聡美さんに」
「済みません」
達筆で書かれたのし袋が渡される。
私には、のし袋が違うのへと変わった。
仔猫が居眠りしていて、「おとしだま」と可愛らしい文字で書いてある。
「あの、これは」
「別格なのよ。おじさん、ユウのファンだもの」
くすくす笑うサトミ。
どう考えてもそうは思えないんだけど、取りあえず開けてみる。
ちなみに私達は振り袖は着て無くて、二人して白い襟の赤いワンピースを着ている。
サトミはともかく、私が来たら七五三だしね……。
「幾ら入ってるの」
「これだけ」
サトミの袋には、数枚の紙幣。
では、私のは。
「……重いんだけど」
「小銭っていうオチ?」
「まさか」
少しの悲しさを覚えつつ、袋を逆さにする。
出てきたのは、一枚の硬貨。
硬貨なんだけど。
「金貨?」
「いいだろ、それ」
子供のような笑顔を浮かべている瞬さん。
確かにいいけど、これをどこで使うんだろう。
ゲームじゃないんだし、1ゴールドって。
「……北欧連合政府発行の、聖騎士金貨。その名誉を高く評価されている、現存枚数が100枚に及ばない物と聞きますが」
金貨を手にしたサトミが、知性に溢れた眼差しを瞬さんに向ける。
すると彼ではなく、兄の月映さんが身を乗り出した。
「聡美さん。済みませんが、貸してもらえますか」
「どうぞ」
丁寧に金貨を受け取り、窓辺の光に当ててチェックし始める月映さん。
しばらくして、その穏やかな顔が弟の瞬さんを捉えた。
今まであまり見た事のない、威圧感を含んだ笑顔で。
「これは私が女王陛下から頂いた物だって、知ってるかな」
「ああ。シスター・クリスの保護や、ヨーロッパ戦線での活躍を認められた結果だろ。さすが我が兄貴。破門になった不肖の弟とは大違いだな」
「金庫の奥に、保管してあったはずだが」
「正月気分で、浮かれて出ていたんだよ」
ふざけた事を言って受け流す瞬さん。
一瞬月映さんの体から炎のような闘気が立ち上ったけど、それはすぐに消えて無くなった。
諦めた、とも言える。
「雪野さん、申し訳ありません。これはちょっと、差し上げられなくて」
「は、はい。わ、分かってます」
「代わりにといっては何ですが、後で例のワインをお渡ししますから」
「お、おい。あれは大統領をボディーガードして、その報酬に貰った……」
しかし月映さんを見て、慌てて首を振る。
こちらからは見えなかったけど、瞬さんはお化けにでも会ったかような顔だ。
子供だね、まるで。
「んー、玲阿少佐は」
「はっ」
突然リビングへ入ってきた赤ら顔の男性に、月映さんは姿勢を正して敬礼をした。
よく知らないけど、軍にいた頃の上官だろうか。
「ホスト側の君がいなくては、話にならんぞ」
「私ごときが顔を出すのは失礼かと思いまして」
「確かに、佐官クラスではな」
露骨に鼻を鳴らす、スーツ姿の男性。
頭は薄いしお腹は出てるし、絶対にデスクワークしかしていない人間だな。
「それでも一応は、ヨーロッパ戦線で活躍した英雄だ。君の、弟も」
「恐れ入ります」
慇懃に頭を下げる瞬さん。
しかし月映さんとは違い、その目付きは異様な程鋭い。
「大尉。何か言いたいのか」
「俺はとっくの昔に、退役しましたから。軍籍をここで持ち出されても」
「瞬、控えろ。申し訳ありません、准将。弟の非礼は、私に免じまして」
「君程度に頭を下げられても、何にもならんが。まあいい、正月だし無礼講と行こうか」
馬鹿笑いをする男に、付き従っていた部下らしい男性達も大笑いをする。
聞いているこっちが怒れてくるけど、月映さん達が我慢しているのなら仕方ない。
「……彼は」
「雪野さんです。前回の大戦で、シベリアに抑留された方です」
「ていのいい脱走兵でなければいいんだがな。君、階級は」
「二等兵であります、閣下」
敬礼をして、礼儀正しく答えるお父さん。
連中から失笑が洩れるが、その態度は変わらない。
「兵卒か。まあそうやって現場の人間がいるからこそ、指揮を執った我々も腕の振るい甲斐があったという物だ」
「松本の地下シェルターで震えてた男が、何言ってんだ」
一応は、男達に聞かれないように呟く瞬さん。
月映さんが目線でたしなめるが、全く意に介していない。
「それは……」
「私が、北欧連合政府から頂いた物です」
先程の金貨を手に取った准将の顔が、一気に険しくなる。
「閣下も勲章は山のように貰ってますから、そんなのどうという事はないでしょう」
皮肉そうな顔で見上げる瞬さんに、准将は無理矢理頷いた。
ただ月映さんが貰った金貨はその功績に対してであり、男が貰った勲章はその地位に対してだろう。
「俺も幾つか持ってますけど、邪魔でしょうがないですよ。兄貴、あれってどこにあるんだ」
「北米政府から贈られた大鷲勲章も、中華連合から贈られた金竜章も金庫にある」
「あ、そう。所詮は人を殺して手に入れた物だし、どうでもいいけどな」
鼻で笑った瞬さんは、グラスにブランデーを注ぎ一気にあおった。
味方の中華連合はともかく、敵国であった北米政府からも勲章を贈られているとは知らなかった。
このいかにも権威主義的な准将が、瞬さん達を疎ましく思う訳だ。
「……それで、君は何か持っているのか」
「いえ、私はただの一兵卒ですので」
丁寧に頭を下げるお父さん。
准将はそれで自分の自尊心を回復したのか、鷹揚に頷いた。
少し、私の頭が熱くなる。
「卑下する事はない。兵卒は兵卒としての役目がある。我々軍全体を指揮監督する将軍とは、また違う役目がな」
「恐れ入ります」
「ははっ」
高笑いが、広いリビングに響いていく。
誰も口を開かない。
月映さんも、瞬さんも。
上等だ。
将軍だか准将だか知らないけど、人の親を馬鹿にしてただで済むと思っているのか。
何も、殴りはしない。
でも、一言くらいは言わしてもらう。
そう思って腰を浮かし掛けたら、赤いスーツ姿のお母さんが立ち上がった。
一瞬にして全員の視線が彼女へ向けられ、リビング内に静けさが訪れる。
「失礼ですが、閣下。私の夫も、勲章を頂いております」
「ほう。それは、どんなものですかな。抑留者を賞する慣習は、我が軍には無かったはずですが」
「抑留者への戦時補償を、軍上層部が横領していた件を議論したいのならかまいませんが」
准将達が息を飲んだのを確かめ、お母さんはセカンドバッグから小さな青い箱を取り出した。
私も見覚えがある、確かにお父さんが「勲章」だと言っていた物だ。
「公式な物ではありませんけれど、お確かめ下さい」
「そんな物を、どうして私が……」
文句を言いたげに、箱を開け中に入っていた小さなプレートを取り出す准将。
青銅に似た不思議な青で、何かの絵と文字が刻まれている。
しかし文字が読めないのか、しきりに眉をひそめている。
「よく分かりませんな。その辺で売っている、骨董品にも見えます」
鼻で笑う准将。
そろそろ我慢の限界だな。
「……失礼ながら、私にも見せていただけますか」
「ああ」
プレートを受け取った月映さんの表情に、見る見る真剣味が帯びていく。
「シベリア臨時政府が唯一制定した勲章と、非常に酷似しています。いえ。箱の但し書きを読む限りは、その物ですね」
「ま、まさか」
「現在シベリア臨時政府という国家がない以上、それを確かめる術はありません。しかし私が聞いた勲章の形状やスタイルと、これは全く同一です。レリーフの特徴も、それを裏付けています」
「さすが元情報将校、詳しいな」
軽く月映さんの肩を叩き、プレートを手にする瞬さん。
「ナイフで、刻んだのか?手書きの文字が彫ってある。САМУРАИ……サムライか」
「箱にはロシア語で、こう書いてあります。「日本のサムライに、敬意を評して」ただ送り主が、シベリア中央政府の議長ではないですね」
珍しく軽い笑顔を浮かべた月映さんが、おもむろに口を開く。
「サインの名は、白き狼となっています」
「おい。それってシベリア戦線で北米軍とEU軍をパニック状態に追い込んだ、あの英雄か?」
「一度彼のサインを見た事がありますが、この筆跡はそれと同一です」
一斉にどよめく私達。
白き狼は世界史の教科書にも載る程の人物。
前回の大戦でシベリアを開放に導いた後、臨時政府の議長職を断り以前の放牧生活へ戻ったという伝説の人。
でもその人が、どうして。
私達全員の疑問を感じ取ったらしく、お父さんがはにかみ気味に口を開いた。
「えと。抑留されていた時に、彼と会う機会が一度だけありまして。終戦後、妻の元へ届いたらしいんです」
「臨時政府ではなく、彼個人からのようですね」
「私は、勲章を頂く程の事はしていませんよ」
あくまでも恥ずかしがるお父さん。
「という訳だそうです、閣下」
「あ、ああ。そ、そうか……」
棒読みで答えた准将は、蒼白い顔をしてお供の人に付き添われながら部屋を出ていった。
頭から水でも掛けてやりたかったけど、今日は我慢しておこう。
「すごいっ。お父さんすごいっ」
そんな事はすっかり忘れ、お父さんに思いっきり抱き付く。
もうなんていうのか、それ以外言葉が出てこないし何も出来ない。
とにかく、すごい。
さすが、私のお父さん。
「お母さん、これは持ち出しちゃ駄目だよ」
「いいじゃない。私も、これの素性が分かって安心したわ」
将軍相手に啖呵を切ったお母さんは、しらっとした顔でそう言ってのけた。
私の血の気が多いのは、間違いなくその血だな。
「参ったな。済みません、彼にも悪い思いをさせてしまったようで」
「構いません。あのくらいしないと、自分の馬鹿さ加減に気付かないでしょう」
辛辣に評する瞬さん。
もっと言ってもいいくらいだと、私は思うけど。
なおもわいわい盛り上がっていると、ショウと風成さんが入ってきた。
二人とも、正月だというのに道着姿。
初稽古をしてたんだろうけど、ちょっと嫌だ。
「青白い顔したおっさんがいたけど、何かあった?」
「悪酔いしたようです」
平然と答える月映さんに、風成さんは適当に頷いた。
元々、大して関心はなかったんだろう。
「四葉が無茶して、参ったぜ。叔父さん、息子の教育がなってないんじゃないの」
「それは申し訳ありませんな、師範代」
「ちっ。親子揃って」
一人むくれる風成さん。
「仕方ないだろ。総合格闘技ルールでやるって行ってたのに、あいつが目を狙ってくるんだから」
「腕を折るなと、俺は言ってるの」
思わず顔をしかめるサトミ。
それを見て、ショウが慌てて手を振る。
「折ってない、折ってない。外しただけだ」
「同じよ。あなたはお正月から、何やってるの。強いんだから、もっと穏便に済ませなさい」
まさに、正月から怒られる男の子。
強い、と言われている割にはちょっと悲しい姿である。
「済みません、不肖の息子で」
「本当です。お父さんがお父さんだから、こうなるんですよ」
「あ、はい」
恐縮する玲阿親子。
本当に怖いな、この人は。
「お母さんは落ち着いて、優しいのに」
「いや。母さんも結構あれだけど」
「人の腕は外しません」
「そうですね……」
部屋の隅で小さくなるショウ。
勿論体は大きいんだけど、雰囲気的にね。
「サトミ、もういいわよ。ショウだって、悪気があった訳じゃないんだから」
「優さんは優しいな。四葉、お前も礼を言え」
「あ、ああ。どうも、ありがとう」
「いえ。どういたしまして」
正月から頭を下げ合う私達。
全然意味が分からないし、第一その意味自体あるの?
「それで、初稽古はどうでした」
「師範に来てくれとさ。親父、飲んだくれてないで行って来いよ」
「分かりました」
山が動くように立ち上がる月映さん。
しかし重さは微かにも感じられず、かといって張りつめた雰囲気もないまさに自然体。
ショウも相当強いとは思っているけど、この人にはその足元にも及ばないだろう。
さすがは玲阿流師範である。
「あー、面白くない」
「どうかしたの」
「別に」
と言う割には、ビールをがぶ飲みする風成さん。
その隣では、ショウがさきいかをかじっている。
「初勝負で負けたんじゃ、仕方ないさ」
「え。ショウが勝ったの」
「まあな。って、サトミ聞いてるか」
キャビアが美味しいらしく、一粒ずつ食べているサトミ。
ショウが誰に勝とうと、どうでもいいのだろう。
「まぐれだ、まぐれ」
「勝ちは勝ちだ。今年は、いい事ありそうだな」
「くー。叔父さん、なんか言ってくれ」
「男は口じゃなくて、これで語れよ」
ワイルドに微笑んだ瞬さんが、固めた拳を突き付ける。
その男らしい仕草と、凛々しい様。
思わず唸る風成さんと、頷くショウ。
男達の熱い思いが盛り上がりかけた、その時。
「随分、封建的なんですね」
小声で突っ込むお母さん。
同時に、一気にしぼむ男達の熱気。
本当に、馬鹿なんだから。
まともなのは、うちのお父さんだけだな。
子供のひいき目とも言うけど。
「はい、お父さん」
「ありがとう」
私が注いだ日本酒を美味しそうに飲むお父さん。
とにかく今日はいい話を聞けたから、尽くして尽くし過ぎる事はない。
それに一年の計は元旦にあると言うし、それを信じよう。
きっといい事があると、願いたい……。
カーペットに座り込み、クッションを抱えてTVを観る。
隣にはサトミが、同じような恰好で座っている。
彼女もクリスマス前から、私と一緒に実家へ宿泊中。
自分で言っているように家族みたいな物で、お父さん達もそう接している。
雪野家の血筋にはない、綺麗な顔立ちではあるけど。
番組がCMに入ったので、チャンネルを変える。
するとすぐ元の画面へと戻った。
「ちょっと」
文句を言って、またチャンネルを変える。
「止めて」
再び戻る画面。
「何するの」
「私だって見てるのよ」
とうとうリモコンを放り出し、掴み合う私達。
周りにはクッションがあるので、倒れても痛くない。
ワーワーと二人で騒いでいたら、エプロン姿のお母さんがやってきた。
「お母さん。サトミがいじめる」
「嘘よ。ユウが、勝手に暴れてるだけじゃない」
「二人とも、じゃれてないでお使いしてきて。卵が切れてるの」
即座に離れ、睨み合う私達。
「ジャンケンッ」
「勝ったっ」
「負けたっ」
勢いよく立ち上がり、サトミのコートを手に取って玄関へと走る。
「優、財布は」
「サトミのがあるっ」
「あ、あなた何言って……」
もう後は聞こえなくて、私は一気に家を飛び出した。
木枯らし吹きすさぶ夕暮れの街並み。
スーパーの駐輪場に止めておいたスクーターのフリースペースに生卵を入れ、キーを取り出す。
ふと鼻をくすぐる、香ばしい香り。
屋台の焼鳥屋さんだ。
甘い、たい焼きの匂いもする。
みたらしの、いい香りも。
夕食前なので、間食は控えたい。
でも、お金はある。
へぇ、カスタード焼きか。
「あ……」
スーパーの前にある道を歩いていた人と、つい目が合う。
例え知り合いでも、それだけならこんな気持ちにはならない
「よう。久し振りだな」
精悍な顔に浮かぶ、屈託のない笑顔。
私はぎこちなさを押さえて頷くで精一杯だった。
「買い物か。お前の家って、この辺じゃないだろ」
「このスーパーに、いい卵が売ってるので」
よりによって、今の心境でこんな事を話す羽目になるとは。
以前ならもっと明るく受け答えが出来ていた。
でも今は、もう。
「少し、時間いいかな」
「え、ええ」
端末で時間を確かめ、もう一度頷く。
「ちょっと、話がしたいんだ。すぐ済む」
すぐ近くの喫茶店に入り、コーヒーと紅茶を前にする私達。
軽快なBGMや明るい内装とは裏腹に、気分は重い。
あれ程慕っていた先輩を罵倒した、あの時から。
後悔はしていないけれど、胸は痛む。
悪いのは彼だけでないと分かっている分、余計に。
「年末にお前らを襲った連中。あれは、学校が臨時に招いた他校の生徒だ」
「らしいですね」
「ただ警察には、生徒同士のケンカとして報告された。一応大山が聴取したけど、お前らと舞地達を襲えと命令されただけらしい。それ以外は、全く無関係の連中だ」
小さく頭を下げる塩田さん。
私は黙って、それを見つめていた。
「学校はまだお前達を、俺の仲間だと思ってる。狙われたのも、そのためだろう」
「分かってます」
「今回襲った理由ははっきりしないが、お前達に迷惑を掛けたのは確かだ。済まない」
答えに詰まる私。
冷たく返したい気持と、素直に自分も謝りたい気持。
まとまらない考えが、頭の中を周り巡る。
「私は……」
「何も言わなくていい。ただ、俺が勝手に謝りたかっただけだ。お前達を巻き込んで、迷惑かけて。こうしてまたお困らして」
鼻を鳴らし、コーヒーカップを傾ける塩田さん。
ブラックでは無いはずなのに、その顔が曇る。
「思い上がってたんだよな。お前達なら出来るというか、やってくれるって。それが俺達のわがままと知りつつも」
「いえ。期待に添えない私達が……」
「無理するな。とにかくこれから何かあっても、それは俺達が責任を持って処理する。今回の件も、お前には迷惑が掛からないようにする」
レシートを手にして立ち上がった塩田さんに、私も続く。
夕日は西の空へ傾き、木枯らしはなおも吹きすさぶ。
コートの襟を立てていても、その寒さが止む事はない。
「買わないのか」
「え?」
苦笑しつつ、屋台を指さす塩田さん。
私がさっき見つめていた焼鳥屋さんだ。
「お詫びでもないけど、適当に選べよ」
「でも」
「遠慮する事でもないだろ。済みません」
私を置いて、塩田さんは炭火の前にいたおばさんに声を掛けた。
「3人だよな」
「今、サトミが泊まりに来てます」
「じゃあ4人分、適当に包んでください。ほら、希望は」
「え、えと」
よく分からないまま、焼き鳥を注文していく。
「遠野にもよろしく言っておいてくれ」
「はい」
「また、はともかく。それじゃな」
手を振り、夕闇に消える背中。
私も、小さく手を振った。
彼に気付かれないくらい、小さく。
それが今の自分に出来る、せめてもの事だった。
わだかまりは消えていない。
お互い、それは分かっている。
でも、私は手を振った。
微かな笑顔と共に。
一瞬振り返るその背中。
薄闇に溶け、彼の顔は見えない。
向こうも、私は殆ど見えていないだろう。
それが今の、私達なんだと思う。
見えないと分かっていながら、こうして手を振るのも。
彼の優しさを受け入れられず、かたくなな態度を崩せないで。
胸の痛みを感じつつ、私はその手を下ろした……。
お正月も三が日を過ぎ、華やいだ気分や浮かれた気持も薄れてきている。
元々、そういう気持ちは少なかったけれど。
私はまだ実家にいて、何をするでもなくのんびりとした時を過ごしていた。
サトミは寮へ戻り、昼に顔を出す程度。
寂しいとも、一人でゆっくりと考える時間が出来たとも言える。
ただ今まで色々考え過ぎたため、それ以上思考が進まない。
結論が出ている訳でもないのに。
いや、結論が出る話ではないのだろう。
私の行動が正しいかどうかなんて、自分自身にすら分からない。
「眠いの?」
リビングのソファーにもたれていると、お母さんが顔を覗き込んできた。
「ん、そうでもない」
「最近、あまり元気ないわね。あなたも思春期だから、悩みの一つや二つはあるのかしら」
くすっと笑うお母さん。
私も少しだけ笑う。
「いちいち口を挟みたくないけど、危ない事はやめなさいよ」
「分かってる。それに、これからは大人しくするって決めたから」
「そう」
特に何も言わず、お母さんはリビングを出ていった。
私を信頼しているという意味なのか。
それとも、私らしくないと言いたかったのか。
どちらにしろ、考え方を変える気はない。
もう、決めたんだから。
久しぶりのいい陽気。
庭に降り、わずかな緑を目に収める。
その中でも特に目を引く、ドングリと白樺。
白樺はおそらく、この間聞いた白い狼さんから贈られたものだろう。
詳しくは教えてくれなかったけど、友情の証。
お父さんが言うには、会ったのは数回だけ。
しかも最初の出会いは、敵としてだったらしい。
それでも二人は、友情で結ばれている。
時や距離、民族も越えて。
口で言うのは簡単だ。
でも実際には、とても難しい事だ。
舞地さんとも疎遠になりかけ、塩田さんとのわだかまりは未だに消えない。
先輩として慕い、毎日でも顔を合わせられる関係なのに。
理屈や建前だけではどうにもならない。
自分の気持ちすら、分からない。
「分かんない」
ドングリの木に手を触れ、一人呟く。
日差しに照らされてはいるものの、植物特有の冷えた感じが伝わってくる。
今年付けた実はすぐ実らず、来年になってようやく成熟するらしい。
観察した訳ではないので、そういう実感はないが。
時間を掛けて、成長しているのは確かだ。
このドングリだって、最初の記憶にある姿は私の背ほども無かった。
それが今は、見上げる程。
私もこうして、成長していく事が出来るのだろうか。




