9-5
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吹き付ける風は冷たさを増し、舞い上がる砂がグラウンドを滑る。
足元の影は薄く、紅い夕日が西の空へと消えていく。
器具の片付けや着替えも終わり、大きなバッグを担いだまま何となく眺め続ける。
すでに生徒の姿はなく、照明が一つまた一つと消えていく。
胸が締め付けられるような眺め。
何度見ても、この光景にはいい知れない思いが募る。
「お待たせ」
私と同じ大きなバッグを担いだニャンが、隣へとやってきた。
他の子達はもうみんな帰っていて、ここにいるのは私と彼女だけだ。
「日記、書けた?」
「日誌。個人的な出来事を書いてどうするの」
「そうか」
私達の笑い声が、無人のグランドへと吸い込まれていく。
「お腹、空いたね」
「食堂はまだやってるけど、どうする?」
「んー、悩む」
バッグを担ぎ直し、端末を取り出す。
よく行く店の地図やアドレスを幾つか表示していくと、個人のアドレス帳に切り替わった。
「誰?」
画面に見入っていた私の顔を覗き込むニャン。
「先輩」
一言呟き、端末をしまう。
あれから舞地さんとは、一度も会ってない。
池上さんや名雲さん、柳君とも。
それが何を意味するのか、私には分からない。
「あなたも、先輩なんていたの」
「失礼ね」
「だって、そうじゃない。塩田さん以外で、あまり知らないけど」
ニャンの言う通りで、私達に親しい先輩は少ない。
中等部の頃は生意気だと疎まれた事もあったので、それも理由の一つだろう。
また親しい後輩も、そうはいない。
ガーディアンとしては4人でやってきたし、後輩達と一緒に行動する機会が少なかったから。
「最近知り合ったの」
「ふーん」
元々関心が薄かったらしく、適当な相づちを打つニャン。
私もあまり話したい気分ではなかったので、端末をしまって歩き出した。
「それで、ごはんどうするの」
「ニャンが作ってくれたりして」
「ネコマンマなら作るよ」
「そのままじゃない」
再び私達の笑い声が、真っ暗なグランドへ消えていく。
軽快な足音も添えて。
初冬の冷たい風から、逃げるように……。
土曜日の午後。
寮でゴロゴロしていると、端末が音を立てだした。
手が届かないので、カーペットを転がってテーブルに手を伸ばす。
どっちにしろ、ゴロゴロする。
「はい」
「今、どこ」
「自分の部屋」
「休みなのに、寂しい子ね」
嫌みな台詞と高笑い。
「じゃあ、自分はどこにいるの」
「自分の部屋」
何だ、それ。
姿勢を低くして、慎重に廊下を歩いていく。
えーと、ここだ。
「へえ、そうなんだ」
いい加減に返事をして、インターフォンを押す。
「ごめん、ちょと待ってて」
「いいよ」
素早く壁際に張り付き、腰をためる。
「はい」
インターフォン越しに聞こえる、しとやかな声。
しかしパーカーのフードを被った私が、誰か分からない様子だ。
「あの、どなたでしょう」
声を出さず、遠慮気味にドアを叩く。
向こうも不憫に思ったのか、そのドアがわずかに開いた。
背格好も小さいし、危なくはないと思ったのだろう。
「えと、私に何か……」
顔を出した女の子目掛け、一気に飛びかかる。
「きゃっ」
可愛らしい声を出し、後ろへのけぞるサトミ。
私はフードを取って、へらへらと笑い出した。
「あ、あなた。何してるのっ」
「サトミちゃん、冗談じゃない。それに、不用心よ」
「わ、私はね」
真っ赤な顔で大声を張り上げ掛けたサトミだが、私の後ろを通っていった女の子と目が合い軽く咳払いをした。
「とにかく、入って」
「はいはい」
部屋に入っても目付きの悪いサトミを無視して、パーカーを脱ぐ。
「あなた、こんなの持ってた?」
「ケイの。夏休みに借りたままで、忘れてた」
この間出したクリーニングのタグが付いていて、それからはクローゼットに入りっぱなしだった。
先日まではショウのパーカーもあったんだけど、あれは返却済みだ。
「人をからかってる暇があったら、勉強しなさい」
「いいの。私はスポーツ少女として生きるもん」
「それでも馬鹿なんて、誰も相手にしてくれないわよ」
さっきのが余程驚いたのか、刺々しく返してくるサトミ。
まったく、ちょっと頭が良いからって。
それでもって、ちょっと綺麗だからって。
いや、ちょっとじゃないか……。
「大体、自分こそその格好は何」
「エアコン効いてるから、かまわないでしょ」
上は胸元だけのタンクトップに、下は程良く色の落ちたホットパンツ。
世が世なら、手打ちにするところだ。
「女子寮なんだもの。このくらい平気よ」
「男の子も出入りするじゃない」
「部屋の中にまでは入ってこないわ」
そうなんだけどさ。
ちなみに私はよれた白のTシャツと、洗い過ぎて色の落ちた黒のジャージ。
やはり寮だからという理由なんだけど、引き立て役にもならないね……。
二人でぐだぐだやっていると、サトミの端末が鳴り出した。
「……はい。……ええ、そうね。……また、ご冗談を。……だから、そうじゃないって。……はい、また後で」
端末をしまい、キッチンへと向かうサトミ。
「誰」
「丹下ちゃん。話したい事があるって」
「サトミに?」
「ユウには不向きな内容なんでしょ」
くすっと笑い、黒髪をたなびかせる美少女。
失礼とは思わないけど、あまりいい予感はしない。
サトミを頼るのは、それだけ頭を働かせるという事なのだから。
少しして、髪を下ろした沙紀ちゃんがやってきた。
ポニーも似合っているけど、ロングも素敵だ。
彼女はジーンズとオレンジ色のトレーナーで、暖かな格好。
この時期なら、それが普通とも言える。
「あ、優ちゃん」
「ごめんなさい。その子、さっきからずっと居座ってて」
人を野良猫みたいに言うサトミ。
失礼な子の足をくすぐり、沙紀ちゃんへ顔を向ける。
「とにかく、私帰るね」
「いいの。ただ、あまり面白くない内容だから」
少し間を置いた彼女は、コーヒーの入ったマグカップを受け取り口を開いた。
「矢田君の事なんだけど」
その名前を聞いただけで、苛々が募る。
サトミはそれすら通り過ぎたという顔で、ポッキーをかじっている。
「なるほどね」
「どうでもいい」
とはいえわざわざ話をしに来てくれた沙紀ちゃんに悪いので、私達は姿勢を正した。
「生徒会上層部の話で、彼が学校か理事から便宜を図ってもらったんだって」
「信憑性は」
「かなり高い。内々だけど、公式な物らしいわ」
「所詮、その程度の男なのよ」
腹立ち紛れに、ハイチェストを裏拳で何度も叩く。
すると持ち主のサトミが睨んできたので、仕方なく自分の手の平を叩く。
「それで、ケイには?」
「まだ。この間の様子からして、知らせたらまずいと思って」
「周りを固めてからにした方が無難ね」
頷き合う二人。
生徒会長室へ殴り込みをかけたり、この間も予算編成局でトラブルを起こしたり。
確かにケイの怒りは相当な物なので、そうした方がいいだろう。
怪我のせいか、最近沸点が低いし。
冷静かと思えばそういうところもあるから、困った物だ。
「ここは、お姉さんの意見も聞いた方がいいわね」
「元野さん?」
「それにあの子なら、何か情報を掴んでるかもしれないから」
という訳で、いつものように呼び出されるモトちゃん。
一緒に学校へいたらしく、木之本君も付いてきた。
「なんか、恥ずかしいな」
殊勝な事を言う木之本君。
確かに女の子ばかりだし、サトミなんていい格好してるからね。
一応足元はタオルケットで隠してあるけど、それが薄幸の美女ぽくってそそるんだ。
いや、私から見た感想だけど。
「僕も、噂としてなら聞いてる。草薙グループへの、就職斡旋だって。勿論大学を卒業した後で」
「それは、生徒会関係者なら珍しく無いでしょ」
「違うんだ、丹下さん。彼が内内定を受けたのはグループの中核、草薙総合学習研究所。名前は変だけど、新カリキュラムの開発や一般教育の研究をする国際的な組織だよ」
熱く語る木之本君。
私も詳しくはないが学校経営とは別の、その名の通り教育を研究する所。
身近にいる新カリキュラムといえば生徒会長で、確か彼も幼い頃からそこで学んだと聞いた記憶がある。
「丹下ちゃんも生徒会なんだから、入れてもらったら」
「パス。私はお気楽に生きていくつもり」
明るく笑い、コーヒーを飲む沙紀ちゃん。
しかし、おんぶお化けのように取り憑くケイの姿をイメージしてしまった。
あれは、一度お祓いしないと駄目だな。
「将来のために生徒を売る、か。私は矢田君と親しくないけど、ちょっとがっかりね」
「私だって親しくないけど、がっかりよ。あんな奴、どこでも行け」
またハイチェストを叩いたら、やはりサトミに睨まれた。
仕方ないので、モトちゃんの肩をペシペシと叩く。
「止めて」
「だって」
「だってじゃないの。あなた、ストレスがたまってるんじゃない。また、温泉行ってきたら」
人を、人生に疲れきった主婦みたいに言って。
でも、温泉は行こう。
「それで、優ちゃんはどうするつもり?」
「どうもこうもない。今さら何かを聞きたいとは思わないし、会いたくもない」
「大人になったね、雪野さん」
満足げに頷く木之本君。
丁寧に失礼だなと思いつつ、サトミの様子を窺う。
私以上に無関心な表情と、素っ気ない態度。
彼女も、同意見のようだ。
「ユウが言った通り、彼が何をしようと関係ないわ。仮に私達を材料に、学校や理事と取り引きしていたとしても」
「醒めてるわね、サトミ」
「元々よ」
薄く微笑んだサトミは、テーブルの上にあった端末を取り画面へ目をやった。
「どうしたの」
「ん、別に」
曖昧に答え、端末がしまわれる。
特に聞く事ではないので、私もそのままにしておいた。
「玲阿君は、どうなの」
「さあ。私達よりは複雑な気持ちだろうけど、結局は同じよ」
「矢田君に、愛想を尽かしてるって?」
沙紀ちゃんの問い掛けに、小さく頷くサトミ。
私も彼に聞いてはいないけど、そうだと思う。
裏切られたとまではいかないにせよ、今まで彼を信頼してきたショウの気持を考えると余計に腹が立ってくる。
とにかく、この件に関してはもう考えないでおこう。
自分の部屋に戻ると、端末が着信ありになっていた。
通話ではなく、メールが来ている。
見慣れないアドレスと、業務連絡のような素っ気ないタイトル。
ただセキュリティシステムを通って来ているので、おかしな物では無いはずだ。
「……何、これ」
そこに書かれた内容に、思わず声を出す。
「明日、自警局長室へ出頭するように・自警局長、矢田誠也」
消そうかとも思ったけど、かろうじて踏みとどまった。
しかしその真意を尋ねるため、連絡を入れる気もしない。
さっきサトミが端末を見たのは、多分これが届いていたのだろう。
すると、ショウやケイの元にも行っている可能性がある。
それにしても、今さらなんで。
まさか資格制止の解除でもないし、新たな処分なんてあり得ない。
私達の不信感を取り除くための、状況説明。
忌憚のない意見を聞かせて欲しい。
そんな事でも言われたら、たまった物じゃない。
ただ問題は、「他の3名以外には他言しないように」
との文言だ。
当然とも言えるし、引っ掛かる部分である。
モトちゃんや沙紀ちゃんへ連絡を取るのは簡単だけど、直接の接触は監視されている恐れがある。
端末を使って……。
いや。他人へ連絡を取るなと書いてある。
それを破るのは簡単だ。
気付かれない自信もある。
だけど、それは出来ない。
子供じみた、自分の中のルールとして。
口約束だろうとなんだろうと、他人との約束は守りたい。
相手が誰だろうと、今回だけは譲ろう……。
サトミやショウから連絡があったのは、その翌日。
みんな、自分なりに考えをまとめていたのだろう。
それこそ、眠らない夜の中。
「眠い」
あくびをして、机に伏せるケイ。
彼も、色々考えて眠れなかったのだろうか。
「マンガ、50巻あってさ。意地で読んだら、朝になってた」
「授業は」
「眠いのに出席するなんて。そんな失礼な事、僕には出来なくて」
最悪だ。
しかも、こうして放課後には来てるのに。
ちなみにオフィスは追い出されているので、今私達はラウンジの隅っこに固まっている。
あの狭い部屋よりは開放感があり、食べ物や飲み物も手に入るので悪くはない。
ただあそこを思い出すと、一抹の寂しさがあるのもまた事実だ。
「それで、どうする」
拳に包帯を巻いているショウが、サングラスを外して尋ねてくる。
実家で相当激しく稽古をしているらしく、目の周りにはうっすらとあざが付いている。
でもそれはそれで、格好良い。
見た目ではなく、彼のそういう姿勢が。
「聞きに行くしかないわ。直接来いと、書かれてたんだから」
「気乗りしないな。あいつに会うのは」
「私だってそうよ。でもわざわざ呼び出したからには、それなりの理由があるはずだわ」
「理由、か」
ケイばりに鼻を鳴らすショウ。
サトミも、面白く無さそうに前髪をかき上げた。
「俺としては、会ってどうするって気持だけどね」
その二人以上に醒めた顔付きのケイ。
眠そうな素振りはある物の、その思考は正常に働いているようだ。
「会いました。彼の色んな話を聞きました。それで、俺達はどう思う?」
「納得はしないな」
「だろ。局長命令になってるから、俺も一応は行くけど。ショウと同じく、気乗りしない」
すでに彼の端末から、局長のメールは削除されている。
内容すら見ていなくて、今朝ショウからの連絡で知ったらしい。
その事からも、ケイの心情が理解出来る。
それからしばらくして。
「……場所を変更、J棟の小講堂へ。何よ、これ」
「向こうの事情は知らないわ。それに、考えても仕方ないわよ」
「遊ばれてるんじゃないのか、俺達」
険しい目付きで、特別教棟の辺りを見渡すショウ。
特に怪しい人はいないけど、疑おうと思えば何もかもが疑える。
ここまで近くに来させておいての、急な変更。
だいたい呼び出し自体が、怪しいのだから。
私達はそれとなく周囲に気を向けつつ、J棟へと行き先を変えた。
「相当に嫌な予感」
気楽な口調でそう言うケイ。
言っている事と態度が、まるっきり逆だ。
しかし彼の目も、決して笑ってはいない。
「どう思う、サトミ」
「引くって言いたいの?」
「俺としては」
「確かに、あなたの言う通りかもしれない」
すでに私達は、J棟の中。
周りに生徒はいなく、それに代わって奇妙な静けさだけが感じられる。
シスター・クリス来校の際、雨宿りで入った教棟で味わった感覚。
あの時は入った途端だったけれど、今はそれ程でもない。
ただ二人の言う通り、いい気分でもない。
「小講堂は、どこ」
「その階段を上がって、まっすぐ。地図が正しいなら」
ケイが示す端末の地図を確認して、一旦足を止める。
意地で突っ込むのはたやすいけど、私もあまり気が乗らない。
今の状況と、矢田自警局長に会うという二つの理由で。
「戻ろう。無理して会う必要は無いんだし」
即座に全員が頷き、来た道を戻ろうとしたその時。
端末が、メールの着信を告げた。
あまりにもいいタイミング。
「監視されてるわね」
と言う割には、平然と端末を取り出すサトミ。
「技術工作室に変更。出頭しない場合は、生徒会へ停学申請を出す。ですって」
「ますます怪しいな。はまったんじゃないの、俺達」
相変わらず楽しそうなケイ。
「でもアドレスは、彼の物よ。デジタル認証もあるし、その点では何一つおかしな点がないわ」
「いいんだけどね。この先に、何が待っていようと」
「俺が先にいく。ユウとサトミはその後、ケイは後ろだ」
早口で告げ、ショウが先を急ぎ出す。
何かを見つけたらしい。
工作室へ続く階段を一気に駆け上がると、それまでよりも広い廊下へと出た。
壁際には大きな窓ガラスがあり、それが延々と先の方まで続いている。
どうやら、展望スペースになっているようだ。
ガラスに近寄っても怖くないよう、外は一応テラスのようにもなっている。
外の明かりがそのまま差し込み、照明がいらないくらい。
広く、明るい廊下のスペース。
そこにいる、数名の男女。
矢田自警局長ではない。
しかし見慣れた。
いや、親しんだ顔。
慕うと言ってもいいくらいに。
「久し振りだな」
やや低い、小さな声。
「そうね」
私も声を抑え、そう答える。
「この先へ、進む気か」
「呼び出されたら、行くしかないでしょ」
「そういう連絡は聞いていない」
全てを切り捨てるように言い放つ舞地さん。
キャップの下から覗く怜悧な視線が、私を捉える。
「舞地さんには関係ない」
動悸が速まるのを理解しつつ、彼女との距離を詰める。
「止まれ。それ以上来るな」
「どうして」
「誰も通すなという指示を受けている。特に、お前達には会いたくないらしい」
腰をためた舞地さんに反応して、私も膝を軽く曲げる。
隣にいるショウも。
「玲阿、お前も動くな」
舞地さんよりは感情のこもった声。
しかし名雲さんも、それとなく構えを取る。
「本気、ですか」
「気は乗らないけど、私達も事情があってね」
距離をおいて対峙するサトミと池上さん。
ただ私達と違い、お互い敵意めいた物は感じられない。
「柳君は」
「命令、だから」
ケイの問いに、辛そうな顔で答える柳君。
ただ彼も、私達を前へ進ませる気はないようだ。
廊下はかなり広く、横に動けば駆け抜けられるくらい。
相手が、彼らでなかったら。
実力、経験、戦略。
おそらく、どれを取っても向こうが上。
それに、私達には無理に先へ進む理由がない。
停学させるというメールも、今さらだ。
「分かった。私達は、もう帰る」
「ああ」
舞地さんが頷き掛けたところで、またもや端末がメールの着信を告げる。
サトミは池上さんと話していて、それに気付いていない様子。
ショウも名雲さんと睨み合っていて、その余裕がない。
「ケイ」
「……なるほど」
端末を取り出し、鼻で笑うケイ。
彼は画面を指で弾き、私の傍へとやってきた。
「なに」
「停学が決定した。矢田自警局長のデジタル署名付きで」
「え?」
「俺は平気だけどね」
頭の中に、様々な思いが駆けめぐる。
停学自体は、本当に今さらなんとも思わない。
自分が原因ならば。
しかし、今回は違う。
私達には全く非がないのに、停学だなんて。
そんな事、あっていいはずがない。
「サトミ、ショウ、ケイ」
舞地さんを見据えたまま、みんなに声を掛ける。
答えは返らない。
ただ、彼らの視線だけが感じられる。
「矢田自警局長へ会いに行く」
理由も何も言わない。
そしてみんなも。
聞く必要も、言う必要もない。
そうと決めたからには、もう。
「久し振りに、表情が引き締まったな」
淡々と語る舞地さん。
その佇まいは、気を抜いたら後ずさってしまいたくなるくらいだ。
だが私も、それは変わらない。
彼女が言う通り、力がみなぎってくる。
矢田自警局長に会うという目的ではなく、彼女達と向き合うこの感覚。
今まで忘れていた、殻に閉じこもってた以前の自分。
それは一時の高ぶりで、気力が戻ってきた訳ではないとも分かっている。
でも私は、思わず笑わずに入られなかった。
舞地さんと、こういう状況になった事に。
例え不謹慎だと言われようとかまわない。
彼女と、本気でやり合ってみたかった……。
「何を、笑っている」
「さあ」
腰を下ろし、膝をためる。
やや開いた彼女との空間。
ただすぐに詰めれない距離ではない。
そう思っていると、ショウと対峙していた名雲さんが後ろへ下がった。
それと入れ替わるようにして、柳君が前に出てくる。
「やらないのか」
「そうしたいが、お前相手じゃ勝ち目無くてな。ここを通すなという命令を守るためには、柳の方がいい」
「なるほど」
いつの間にかしていた革手袋をはめ直すショウ。
柳君は今まで見た事もない厳しい顔付きで、腰を落としている。
「名雲さんには悪いけど、玲阿君は僕がもらう」
「俺に勝つって言う意味かな」
「お互い、そのつもりでしょ」
「ああ」
こくりと頷くショウ。
二人とも視線は、相手しか捉えていない。
表情はすでに、戦士のそれである。
「聡美ちゃんは?」
「なにもしません。池上さんと、同じように」
「そう言ってくれて、助かった。真理依達には悪いけど」
私達と違い、全く敵意を見せない二人。
戦いに不向きだという理由と、彼女達なりの生き方考え方があるのだろう。
それは否定しないし、そうであってほしい。
また名雲さんが下がったとはいえ、結局舞地さんと柳君が相手になるのは折り込み済みだ。
彼女達を倒せば、前に進めるのも。
「来い」
一言、舞地さんが言う。
同時に私は床を蹴り、一気に間合いを詰めた。
膝を出しつつ、両手で首を掴みに行く。
視界の外から影を感じ、即座に床へ転がる。
頭上を通り過ぎるショートフック。
上へ引っ張られる感覚を感じつつ、床を滑ってスライディング気味な足払いを狙う。
バッグステップでかわされたのを確認して、予想していた位置へ足を振り上げる。
顎を引かれ、それもかわされる。
壁に背中が付く音。
素早く前転を打ち、肘を脇腹へと持っていく。
「いい動きだ」
「当たらなければ、意味がないわ」
壁を打った肘を動かし、バックステップで下がる。
最低でもかすらせるつもりだった。
しかし舞地さんは、息も乱さず私を見下ろしている。
手加減など、殆どしていない。
それなのに、これだ。
だからこそ、彼女とやり合った甲斐がある。
「思った以上にやる」
「舞地さんも」
「ただ、遠慮している余裕はないと思うが」
お見通しか。
それも、また良しだ。
「お互い様でしょ」
「ああ」
ジージャンについたコンクリート片を払う舞地さん。
私の肘を受けて砕けた壁の傍にいたせいた。
そこに足を掛け、宙を舞う彼女。
顔を上げる間もなく、かかとが視界に広がっていく。
素早く体を前へ引きつけ、かろうじてやり過ごす。
同時に派手な音が起き、コンクリート片が降り注いできた。
ブーツを履いているとはいえ、とてつもない威力だ。
しかし、このくらいでなければ。
鋭いジャブをバックステップでかわし、その腕を絡めに行く。
すると逆に腕を取られ、床へ投げられた。
反転する光景。
すぐ足を彼女の首へ回し、こっちも彼女を投げ飛ばす。
判断よく私を解放する舞地さん。
こちらも足が取られるのを警戒して、足を離す。
宙に浮いた所に、膝が飛んできた。
かわしようのない体勢。
私は膝に手を乗せ、そこを軸にして前転を打った。
唸りを上げて飛んでくる肘を鼻先でやり過ごし、壁を蹴って彼女との距離を保つ。
「本気になりそうだ」
「私も」
不敵に笑い合う私達。
この状況でどうしてと、人は思うだろう。
私だって、そう思っているくらいだ。
でも、笑わずにはいられない。
これほどの相手とやり合う事、しかも手加減抜きでやり合うなんて。
その理由も何も関係ない。
彼女と拳を交えるという、限りなく純粋な喜び。
いつまでもこうしていたいと思えるほどの高揚感。
今までの鬱積が嘘のように消えていく。
他にはもう、何もいらない。
こうして彼女と向き合っていられるならば。
頬を伝う汗も、激しく打ち続ける動悸も、きしむように痛む筋肉も。
全てが歓喜となって自分を鼓舞していく。
この時を、この感覚を味わえるなら。
全てをなげうってもかまわない。
それが自分には出来ないと分かっているのに、そう思わせてしまう。
それ程までに甘美で、狂おしい程に切なく、澄み切った感覚。
もう二度と、こんな時は無いかもしれない。
だからこそ、この瞬間を……。
距離を取り、間合いを確かめ合う私達。
お互い手の内の全てを明かした訳ではないけど、取りあえずの状態は掴んだ。
私は今の余韻に浸っているため、しばらくこうしていたい気持。
彼女も一緒なのか、牽制気味な動きは見せても大きくは踏み込んでこない。
それがまた、私に喜びを与えてくれる。
私と同じ思いを抱いてくれる人。
この間のショウや普段のサトミ、ほんの一瞬のケイもそうだ。
そして今の舞地さんも、また。
この人としか共有出来ない、希有な瞬間。
言葉にならないけれど、それでも何かを伝えたい。
そう思い、口を開きかけたその時。
「映未っ」
突然叫ぶ舞地さん。
そして一気に私との距離を詰めようとする。
しかし先程までの鋭い気迫はなく、焦りの表情が微かに読み取れた。
「きゃっ」
「サトミッ」
彼女を振り返る余裕はなかった。
窓ガラスを蹴破り、ロープの反動を利用した黒ずくめの連中が飛び込んできたのだ。
完全に不意を付かれ、その中の一人の回し蹴りを喰らう。
ガードが取れず、壁際へと吹き飛んでいく。
そこに叩き込まれる数本の警棒。
息が詰まり、体が折れていく。
「くっ」
素早く背中のスティックを抜き、連中の足を手加減抜きでなぎ倒す。
それをかわした連中は、舞地さんの警棒で叩きのめされた。
「雪野っ」
「わ、私は大丈夫。それより、サトミ達をっ」
「分かった」
彼女の気配が消える。
痛む頭を押さえて立ち上がると、視界が曇った。
手に感じる、ぬめった感触。
額が切れている。
打撲はないようだが、鈍く痛む。
「くっ」
足をくじいたらしい。
腕も痛む。
目が見えにくいのは、何かスプレーを撒かれたせいだろう。
舞地さんはキャップの鍔で、それを遮れたのだ。
おぼろげに見える光景に、池上さんの肩を借りているサトミの姿がある。
おかしな連中は全員床に転がっていて、動く気配がない。
「誰だ、こいつら」
覆面を脱がし、首を傾げるショウ。
「言い訳にきこえるかもしれないが、私達も分からない」
「私を助けてくれたのは、池上さんですから。疑う気は、全くありません」
「遠野、休んでいろ」
「はい……」
舞地さんに言われ、壁に背を持たれてしゃがみ込むサトミ。 池上さんもどこか怪我をしているのか、辛そうな顔付きだ。
「これでも、まだ矢田に会いに行くか」
「勿論」
壁に手を付き、かろうじて答える。
「手加減はしない。分かっているだろうけど」
「かまわない。条件がどうあれ、私は自分のしたいようにするだけだから」
手を離し二本の足だけで立って、舞地さんを見据える。
はっきりとしない視界に映る彼女の顔は、先程までと変わらない凛々しい物だった。
なんの迷いも、同情も見せていない。
だから、私は彼女が好きなんだ。
「……エアリアルガーディアンズに勝つ事で、一定のステータスを得る。俺達の力を削いで、それを他の誰かに与える。どこかで聞いたような、でも悪くないやり方だよ」
視界には見えないけれど、ケイの声が聞こえる。
元気そうな感じで、怪我はしていないようだ。
「それに、俺達も舞地さん達も乗せられたな。でも、まだやるって」
「雪野はその気だ。それに、指示を受けている」
「矢田君から?」
皮肉めいたケイの言葉に対する返答は、あまり予想していなかった応えだった。
「指示をしたのは、生徒会長だ」
覆面男達の呻き声の中、舞地さんが低い声で語り出す。
「正確には矢田自警局長の指示に従うよう、生徒会長から命令を受けた」
「その理由はともかくとして、どうして生徒会長の命令を聞くんです」
オフィスやラウンジで話しているような、落ち着いたケイの口調。
それは、舞地さんも変わらない。
「以前、ある約束をした。草薙高校の生徒会長に従うようにと」
「契約、と考えていいんですか」
「ああ。今まで行使されなかったが、お前達が来たためにこうなった。私はただ、その約束を守っただけだ」
峻烈に言い放つ舞地さん。
契約を、約束を守る。
ただそのためだけに、この場にいる。
私への気遣いも、何もない言葉。
それは少し寂しく、だけど彼女らしくもある。
「ユウ」
「大丈夫……。何となくは、見えてる」
「舞地さん」
「私は、この場を死守するよう言われている」
あくまでも譲らない舞地さん。
そして、私。
ケイのため息が聞こえるが、それを振り払って前に出る。
そうは言った物の、視界は殆ど霞んでいる。
痛みがないだけ、まだましか。
「遅い」
一言の元に切って捨てられ、顔が横に流れる。
それが顎に入った掌底だと気付いた時には、壁際に手を付いていた。
闇雲に手を動かすが、なんの手応えもない。
そして。
「かはっ」
鳩尾を押さえ、床へ膝を付く。
膝、それともボディーアッパー。
とにかく、突き抜けるような衝撃が全身に走った。
激しくむせ返し、壁を伝って立ち上がる。
「くっ」
ジャブからの前蹴り。
最も基礎的な、最も練習したコンビネーション。
目は見えなくても、体が動かなくても。
これだけは出せる。
意識とか無意識とかじゃない。
もう、私の中に染み込んでいるから。
息を吸う、歩く、食事をする。
そのくらい、私にとって身近な動き。
だから、これだけは……。
「気合いだけは、認めてあげる」
小さな、優しい声。
耳元でそれを聞き、彼女の体に倒れ込む。
カウンター気味に顎を捉えた掌底が、頭を激しく揺らした。
足が震え、体には力が入らない。
今は舞地さんにしがみつくのがやっとだ。
「まだ、やる?」
声が出ない。
首すら動かせない。
それでも私は、前に進もうとした。
摺るように足が動き、床へと体が崩れていく。
舞地さんが支えていなければ、とっくに倒れているだろう。
「矢田と会って何をしたいのか知らないが、後は私達に任せろ。悪いようにはしない」
「ひ、人任せに、したく、ない……」
彼女の胸に顔を埋めながら、そう呟く。
結果はもう出ている。
私には、これ以上何も出来ない。
でも、足は動いている。
前へ進もうとしている。
だから私は、諦めない。
諦めたくない……。
頬が一度、そしてもう一度打たれる。
「努力で補えるとか、頑張れば報われるとか思わない方がいい。勝つのはいつでも、強い者だけなんだから」
強烈な、今までの私への否定。
「気持ちさえあればなんとかなる。そんな理屈が通用する程、世間は甘くはない」
「い、言われなくたって」
頬が打たれ顔が横へ流れる。
「今の自分がそうだ。もう結果は見えてる。気合いがあろうと無かろうと、負けは負けだ。そんな自己満足は、どこでも通用しない」
「わ、分かって……」
音を鳴らす頬。
痛みや悔しさはなく、ただ彼女の手の平だけが感じられる。
何を思っているのかも、どうして叩くのかも分からない。
だけど……。
「舞地さん、そこまで。ユウはやらせない」
「なら、代わりにお前がやるか」
舞地さんとケイの会話が、ぼんやりと聞こえてくる。
体が動かされ、壁際に座らされたようだ。
「全体での負けは認める。でも、ユウは負けてない」
「雪野の敗北は、お前達全員の負けより大きいとでも言いたいのか」
「まあね。頭がいれば、後はどうでもいい。例えば俺が舞地さんに勝ったら、ワイルドギースとしての面目は立つかな」
何を言いたいのか、何となく分かる。
しかし思考が付いていかない。
「私に勝てるとでも」
「足止めくらいは出来る」
「やって……」
舞地さんの言葉が止まり、突然水の降る音がする。
雨ではない。
スプリンクラーが作動したようだ。
「面白い」
「前、見えないでしょ。水性の絵の具らしいから、害はない。技術工作室前とは、いい襲撃場所を選んだくれた」
「女相手に、遠慮なしか」
苦笑気味な舞地さんの声。
さらに今度は、辺りが突然明るくなった。
「こっちは、油性の絵の具を溶かす油。越えられます?」
「お前も燃えるぞ」
「足はね。でも、舞地さんも燃える」
かすかに見える光景には、炎の中で組み合ってる二人の姿がある。
ケイが、必死で食い止めている。
私を完全な負けに追い込まないために。
逃げる機会を作ってくれている。
思う事も、言いたい事もたくさんある。
でもそれは、後にすればいい。
今私が彼に出来るのは、この場を立ち去る事だ。
そう思った途端、ケイの体が壁際へ吹き飛んだ。
同時に舞地さんも、軽い身のこなしで炎を飛び越える。
後はもう、殆ど見えない。
「怪我を治してから出直してこい」
「じ、自分こそ、怪我人に容赦なしか。脇、蹴って」
「言っただろ。ここを死守するために、私はいると。それを妨げる連中に、気を遣う必要はない」
おぼろげに見える視界に、舞地さん姿が大きくなっていく。
赤い絵の具の色をまとい、水に濡れ、炎を背負い。
キャップで隠れたその瞳に、私はどう映っているんだろう。
情けない姿を、見られたものだ。
でも、仕方ない。
それが私の実力で、彼女の方が強かったというだけの事。
どっちにしろ、もう負けたのだから。
後はそれを、どれだけはっきりとした形にするか。
骨は折らないだろうけど、顔にあざくらいは出来るだろう。
それを見たみんなが、「雪野優は負けた」と分かるくらいの。
まあ、いいか。
相手が、舞地さんなら。
「待った」
舞地さんのシルエットが消え、大きな背中が見える。
振り向いたその顔は、もう見えない。
「玲阿……。司は、どうした」
「あそこ」
「なるほど」
苦笑する舞地さん。
ショウはゆっくりと下がり、私の手を取った。
「ここは俺達の負けでいい。停学でも、なんでも。ただ、ユウにはこれ以上手を出させない」
「停学。そういう連絡が来ているのか」
「だから、無理をしても矢田に事情を聞きたかった」
「分かった」
少しの間があり、舞地さんが誰かと連絡を取っている。
「……停学の申請は、差し止めた。出所ははっきりしないが、その心配はもう無い」
「どうも」
「しかし、司に勝つとは。成長したな、玲阿」
「紙一重だよ」
握っている彼の手は、血でぬめっている。
そして、とても熱い。
打撲、切り傷。とにかく、彼もひどい怪我を負っているのは間違いない。
「司」
「……雪野さんがいた分、玲阿君に分があった。そう、言い訳させて」
「ああ。映未」
「私は大丈夫。聡美ちゃんも」
不意に体が持ち上がり、ショウの背中が目の前にやってきた。
「あ、歩けるから」
「いいって。サトミ、こっちだ」
「ええ」
池上さんに手を引かれているらしく、彼女の声がすぐそこに聞こえてきた。
「私は、大丈夫。手だけ、貸して」
「ああ。舞地さん、今日は……」
「何も言わなくていい。騙されたのは、お前達だけじゃないんだから」
「名雲さん」
「いいから、早く手当てしてこい。柳、重くなったなお前」
「名雲さんが、非力になったんだよ」
どうにか聞こえる笑い声が、心を暖かくする。
結果はともかく、笑えるのはいい事だ。
「この連中は、俺達が責任を持って調べておく。お前らは、何も気にするな」
「だけど。これから……」
「雪野、気にするなと言った」
私の言葉を強引に遮り、そっと手を握ってくれる舞地さん。
入らない力を入れ、私も握り返す。
「ユウ、サトミ。行くぞ」
「うん」
「ええ」
弱々しいサトミの声を耳にして、ショウの背中に揺られていく。
池上さんが、サトミを気遣うような事を言っている。
何か謝っている柳君の声、それを励ます名雲さんの声。
でも今はもう、なにも考えられない。
痛さと疲労、そして微かな悲しみ。
舞地さんに負けたという、その事実。
後になって、それはより現実感を増すんだろう。
そして今は、こうして揺られるしかなかった。
頼り甲斐のある、ショウの大きな背中の上で。




