8-1
8-1
ケイが入院してから、もう何日もが過ぎた。
最初は寝返りするのも辛そうだったけど、今ではベッドから降りて歩き回れるくらいにまでなっている。
そんな彼の快復具合は、私にとっても嬉しく思えてくる。
でも、毎日はお見舞いしていない。
どうしてか。
馬鹿馬鹿しいから。
彼を気遣う事ではなくて、病院に行く事が。
いいんだけどね。
退屈混じりにあくびをしたら、サトミに笑われた。
「小さな口ね」
「体が小さいもん。全てのパーツが小さいの」
「そのくせ、食べたがるんだから。前世はリスじゃない?」
また笑うサトミ。
いつもよりも明るい、朗らかな笑い。
「そんなに面白い?」
「ええ。退屈はしないわ」
「その理由は、別にあるんじゃないの」
今度は私が笑い、彼女の隣にいるヒカルへ視線を送る。
「僕が、何か」
脳天気な事を言う、サトミの彼氏。
この人は鈍いんじゃなくて、そういうのを突き抜けてるんだ。
弟のケイとは違う意味で、馬鹿である。
「お前、修士論文はいいのか。提出期限は年内なんだろ」
「期限は、一応延ばしてもらった。それに今年が駄目でも、まだ早過ぎるくらいだよ」
「だよな。まだ15才だもんな」
妙に感心するショウ。
確かに普通なら、大学院卒業は24才。
つまりヒカルは、10年あまり先を行っている訳だ。
変な人だけど、頭はいいからね。
ケイが入院してすぐ、ヒカルは私達の元へとやってきた。
彼がガーディアンをやれない間、その代わりをすると言って。
大事な修士論文を放っておいてまで、こうして駆け付けてくれた。
そういう人なんだ、浦田光という男の子は。
「治安いいよね、このブロック」
「雪野優と玲阿四葉がいるのよ。暴れる人なんて、いるはず無いわ」
「確かに」
深く頷き合うサトミとヒカル。
嫌な所で納得しないでほしい。
「それはいいけど、そろそろパトロール行くぞ」
「もう、そんな時間」
昨日の寝不足を引きずり、もう一度あくびをする。
ケイから借りたゲームが、面白いのよ……。
最近色々あったので、4人でパトロールにあたる私達。
それなりに広い区画が管轄なんだけど、本当にトラブルは少なくなっている。
サトミの言う私達の存在もあるだろうし、沙紀ちゃんや舞地さん達の存在も大きいだろう。
舞地さん達はここ専従ではないけれど、顔を出す機会は多い。
要は、強面が揃っているという事かな。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
「頑張って下さい」
「あ、どうも」
「いい天気ですね」
「そ、そうですね」
脳天気な挨拶をするヒカルに、戸惑いつつ返事を返す生徒達。
一見無意味な行為だけど、実際はそうじゃない。
声を掛けられた方は、自分へ目が向けられていると強く感じる。
そうすれば気分的に悪い事はし辛いし、自分が一人じゃないという気分にもさせてくれる。
単純な、そして基本的なテクニック。
と言いたいけれど、ヒカルがそこまで考えているかどうかは知らない。
聞けば、「勿論、そうだよ」
と答えるだろう。
でも多分そうじゃないので、聞きはしない。
鼻で笑い、何もしない弟よりはましだけどね。
「んー、雰囲気が悪いな」
まだ挨拶をしていたヒカルが、手を上げつつショウへ顔を寄せる。
脳天気だけど、ガーディアンとしては優秀な人なのだ。
「あそこの、教室の手前」
「俺とユウで行く。二人は、後から来い」
「なんか、昔みたいね」
「過ぎ去りし、青春の日々って?」
くすっと笑い、私の肩を抱くサトミ。
そういえば、昔はこのメンバーだったっけ。
ケイがまだ、生徒会に在籍していた時の話。
懐かしく、そして楽しかった。
全てが新鮮に、輝いて思えていた日々。
「玲阿君、行こうか」
「分かった、雪野さん」
私はあの頃と同じ溌剌とした笑顔を浮かべ、ショウと共に駆け出した。
「はい、止めて」
背中から抜いたスティックを振り抜き、対峙していた男の子達の間を通す。
空を切る音がして、彼等の髪が大きく揺れる。
「あ、あ……」
言葉もでないという様子。
これでも、かなり手加減したのに。
本当、私も穏やかになった。
昔なら、床にヒビが入ってたかもね。
「ID、見せてもらおうか」
呆然とする二人を軽くつつき、提示を求めるショウ。
どういう攻撃にも対応出来るよう、膝と腰は微妙に沈んでいる。
そこまでやる必要は無いんだけど、昔を懐かしんでだろう。
「は、はい」
「……生徒会の特別監査無し、停学、訓告、口頭注意無し」
マニュアルに沿って、データを保存までしてる。
最近は面倒でそれにきりがないから、やってない事だ。
初心忘れるべからず、かな。
よく分かんないけど。
「さて、原因は」
「別に、何でも……」
怒ったような顔で否定しかけた男の子の鼻先に、ショウの裏拳が飛ぶ。
早さはない。
しかしその威圧感は、目の当たりにした者しか分からない。
当たっていなくても、それ以上の衝撃が当人にはあったようだ。
「……こいつが、女の子のアドレスを渡さないから」
「あれは俺がもらった物で、お前には……」
掴みかかろうとしたもう一人の男の子に、スティックを伸ばす。
喉元寸前でそれを止め、そのまま正中線を下に降ろしていく。
ショウ程の威圧感はないが、動けばどうなるかは本人が一番分かっているはずだ。
「ちょっと二人とも、何やってるの」
呆れた顔で私達に近付いてくるサトミ。
その後ろからは、楽しそうに笑っているヒカルもやってきた。
「まあまあ。お互い怪我もなかったし、ここは仲直りと言う事で」
「トラブルの原因は解決してないわ」
「アドレス、見せて」
男の子からアドレスを転送してもらい、それをチェックするヒカル。
「……聡美、これは」
「ええ。現在、使用不可の物ね。古いデータよ」
ため息を付き、端末のボタンを押すサトミ。
すると男の子が、叫び声を上げた。
「ア、アドレスがっ」
「使用不可のデータだから、消しても問題ないわ」
悪びれもしない、平然とした答え。
「女の子も、何か勘違いしてたんだね。だから二人で、もう一度聞きに行けば」
「え、でも」
「人間、顔を合わせれば情も沸く。恋愛の基本だよ」
大きく頷くヒカルに、納得した表情を浮かべる二人。
「さあ、早く行って。この件に関しては、未処理とするから」
「あ、ありがとう」
「そ、それじゃ」
元々は仲の良い友人同士だったのだろう。
笑いながら、廊下を駆けていく二人。
軽快な彼等の足音も、その姿と共に消えていく。
「一件落着」
「何が、恋愛の基本だ」
「嘘も方便。ね、聡美」
苦笑して、隣を見つめるヒカル。
「偽のアドレスを教えられて傷付くより、逢いたいという気持を持っていた方がいいじゃない。騙すより、騙されろともね」
「詐欺カップルなんだから」
「騙してばかりで、よく言うぜ」
廊下に響く笑い声。
中等部の頃と同じ様な、あの感覚。
私とショウが暴れ、サトミとケイがフォローして。
最後には光が控えていた。
もう昔には戻れないけれど、心だけはあの頃へ戻った気になった……。
彼氏がいるのは大きいらしく、サトミの機嫌が良い。
ただ私としては冷たい表情も綺麗で好きなので、もう少し機嫌が悪くても良い。
私を怒らなければ、という前提付きで。
「サトミは」
「彼氏と、提出書を出しに行ってる」
「ふーん、羨ましい」
薄く笑い、私の前へ腰掛けるモトちゃん。
ガーディアン連合の仕事が一区切り付いたので、遊びに来たのだ。
自分のオフィスへ戻らないのは、さぼっているからだろう。
普段人に仕事しろと怒るのに、これだ。
「モトちゃんこそ、早く戻らないと」
「あっちは木之本君がいるから良いの。それに私がいると、先輩に気を遣わせるから」
「そろそろ、独立したらどうだ」
ショウの指摘に、彼女の表情が思慮深いそれへと変わる。
「潮時だとは思ってる。一応ガーディアン連合の幹部である私がいると、先輩達も何かとやり辛いだろうから」
「モトを誘ってくれた先輩は、なんて」
「賛成してくれてる。私と一緒に加わった6人で、やってみなさいって」
そうか。
確かにお互いやり辛いだろうし、今のままぎくしゃくしているよりはいいだろう。
サポートには木之本君がいるから、何の問題もない。
他の人も、みんな優秀だしね。
「じゃあ、オフィスはどこにするの?」
「空いてるブロックに入れてもらう。塩田さんからあなた達を監督するよう言われてるから、多分ここの近くになるわね」
塩田さんという名に、私は少しの動揺を覚えた。
彼を怒鳴りつけたあの一件から、どうも気まずい。
あの後何度か顔を合わせたけれど、以前のように気楽には話せない。
向こうは気にしていない素振りでも、こちらは昨日の事のように覚えているのだから。
「……丹下さんとも相談して、Dブロックにでも入れてもらうわ」
「いっそ、一緒にやるか」
「エアリアルガーディアンズとして?そんな度胸、私にはない」
はっきりと言い切るモトちゃん。
別に私達と一緒に行動するのが嫌なのではなくて、外から見守っているという気持も込められていると思う。
ちなみに彼女が今所属しているガーディアンズの名前は「ガーディアン連合・I棟Dブロック第8班」という、味気ない物。
というか大抵は番号やアルファベット順の名前が多く、具体的な名前を付けているのはそう多くない。
生徒会やフォースは完全に番号制だし、今言ったようにモトちゃん達もそう。
自分達で1から作り上げたガーディアンズだけが、名前を名乗ったりしている。
だから名前が付いているガーディアンズがいるのは、ガーディアン連合だけなのだ。
ちなみに私達は「エアリアル」。
それ程悪くないと、私は思ってる。
後で加わったケイには、不評だったけど。
土曜日。
天気がいいので外に出た。
一人、枯れ葉舞う公園を歩いていく。
冷たい晩秋の風にはためくダッフルコート。
葉の落ちた木々、高い青空、澄み切った空気。
枯れ始めた芝生を横切り、湿った土を踏みしめる。
私は木立の中にあるベンチへ腰を下ろし、バスケットと水筒を隣に置いた。
周りの木々に風が遮られ、木漏れ日が優しく差し込んでくる。
温もりに包まれる、心穏やかな時。
コップに注ぐ紅茶が、芳しい香りを立ち上らせる。
両手でコップを包み、先の方へ視線を向けてみた。
朽ちた木が横たわり、周りにたくさんの若い草を生えさせている。
そこへ射し込む木漏れ日。
寂しい、だけど微笑ましい光景。
最近色々あったせいか、少し感傷的になってるようだ。
休みの日には、たまに来ている。
ここへ、誰かを連れてきた事はない。
別に何かをする訳ではなく、いつも時が経つのに任せ佇んでいる。
公園の奥からさらに入った場所なので、私以外に立ち寄る人はいない。
静かな、心落ち着ける場所。
夏場は涼しい風が吹き、冬場は木漏れ日が暖めてくれる。
一人で過ごすにはもったいないと思うけれど、何となくみんなには教えていない。
大袈裟に言うなら、聖域。
それとも原風景とでも言うんだろうか。
私の心を奥へ進んでいったら、多分こんな景色が広がっているんだと思う。
だから、誰にも言っていない。
ショウや、サトミにすら。
今日来たのは、特に意味があった訳はない。
少し気持を落ち着けようとしただけだ。
塩田さん、前自警局長達、ディフェンスライン、学校。
そしてケイ。
色々あって、気力が無くなってきてる。
前のように、明るく笑えない。
どこか無理をしている自分に気付く。
自信が持てない。
以前はあれ程あったのに。
仲間を守ろうと決意して、そのためなら何でも出来ると思っていたのに。
結局は何も出来なかった。
ショウも、サトミも、ケイも。
誰の手助けにもならなかった。
勿論みんなはそれを求めてはいないし、私を責める真似なんてしない。
ただ私には、あまりにも辛い事実である。
出来ると思っていた事が出来なくて、自分があまりにも無力だと思い知らされた。
結局、思い上がっていたのだろうか。
今までだって、挫折感は何度も味わっている。
だけど、ここまでの気持になった事はない。
目の前でケイが倒れた時、全てが終わったと思った。
自分が切られるよりも苦しく、辛かった。
あんな思いは、もう耐えられない。
それを乗り越えようという気すら起こらない。
臆病者。現実から目を背けているのかも知れない。
それでもいい。
あんな思いを繰り返すくらいなら。
中等部と同じように、ただ楽しく過ごしていればいい。
責任や義務、期待なんて私には関係ない。
今は、自分の事だけで精一杯なのだから。
木漏れ日の中、私は物思いに耽っていた。
いつまでも、いつまでも……。
完全に整理出来た訳ではないけど、少しは気が楽になった。
これからは、小さな視点でやっていこう。
身内を守る、それだけで。
今までもそうだったけど、多少はガーディアンとしての責任や周りの期待を意識していた。
その結果が塩田さん達の過去に振り回され、ショウやサトミ、そしてケイのああいう結果を招く事になった。
勿論ガーディアン自体は続けるけど、あくまでもこのブロックだけに専念しよう。
無責任でも無関心でも何でもいい。
まず大事なのは、自分の事なんだから。
「悩み事?」
「ん、別に」
止まっていた箸を口へ運び、カツオ梅の風味を楽しむ。
これさえあれば、どれだけでもご飯が食べられる。
気になる。
私はどれだけ頑張っても、お茶碗3杯が限界だ。
普段は軽く盛って、2杯食べるかどうかだし。
どうでもいい事だけど。
「ヒカルは」
「大学へ、資料を取りに行ってるわ。一応は院生だもの」
「勉強が好きな子だね。私はとても」
ヘヘッと笑い、豚バラ肉の焙り焼きをサトミの皿へこそっと移す。
しかし彼女はそれを目ざとく見つけ、箸を鼻先へ伸ばしてきた。
「ちゃんと食べなさい。食堂の料理は、カロリーと栄養を考えて作ってあるんだから」
「いいの。私は標準より小さいから。量が多いのよ、ここの料理」
ネギのみのシンプルなおみそ汁をすすり、一息付く。
「おかずの品数が少ないって、いつも文句言ってるのに」
「それはそれ、これはこれ。質は求めるけど、量は求めてないの」
「分かったわよ、もう」
苦笑して、お肉を食べてくれるサトミ。
ありがとうと思っていたら、彼女の手がデザートのプリンへと伸びてきた。
「こ、これは駄目」
「多過ぎるんでしょ」
「甘い物も別」
猫のようにフーと唸り、プリンの乗った小さなグラスを抱える。
何と言われようと、これだけは譲れない。
誰が作ってるか知らないけど、美味しいんだこれが。
お店でも出せるんじゃないかと、私は密かに思ってる。
「色々考えないと、難しいわね」
「え、何が」
「これからの事」
耳元の髪をかき上げ、もずく酢に口を付けるサトミ。
口元へ残ったもずくを舌で舐め取り、少しむせ込んでいる。
「何やってるのよ、恥ずかしい」
「酢が、気管に……」
おばあちゃんだね、まるで。
仕方ないので私は席を立ち、彼女の背中をさすってあげた。
「あ、ありが……」
言ってる側からむせ込んでる。
本当に、何やってるんだか。
「も、もういいわ」
「全く。酢に遊ばれてどうするの」
「あー、苦しかった」
お茶を飲み、一息付くサトミ。
そして白い頬を、下らない理由で赤らめている。
「で、何が難しいって?」
「これからの事よ。私達のこれからをどうするか」
落ち着きを取り戻した彼女の言葉。
私自身考えていた事であり、ショウも洩らしてた内容。
「成り行きに任せて流されるのも、悪くはないと思うわ。それとも流れに逆らって、自分達の事だけに専念するのか」
「サトミ」
「難しいわよね。塩田さん達には恩があるけど、ケイのあんな姿を見たら気持も揺らぐわ」
私の考えを代弁してくるような言葉。
彼女自身がどう思っているのかは言わないけれど、岐路に立たされているのは確かである。
「……まだご飯残ってるけど、場所変えましょうか」
お茶のペットボトルを手に、空いている小さな教室へとやってきた。
私達以外には誰もいなく、窓から見えるグラウンドではジャージ姿の生徒達が見える。
椅子を動かすだけで、その音は教室全体へと広がる程の静かさ。
だからサトミのささやくような声も、私にははっきりと聞こえていた。
「高校に入ってから、何度かおかしな事を仕掛けられたわ。勿論それは全て解決して、中等部の頃と同じだと私もたかをくくっていた」
「そうだね」
「でも実際は違っていて、どうやら私達を狙っているのは学校らしいという事。正確に言えば狙われているのは塩田さん達で、それに巻き込まれた格好なんだけれど」
日の当たらない陰。
サトミの端正な顔が翳りを帯び、心が震える程の美しさを生み出す。
そんな私の感慨をよそに、視線を落としたままの言葉が続く。
「学校が実際には何をやりたいのかは、よく分からない。分かるのは去年あった、生徒同士のトラブル。その時塩田さん達が、学校と対立していたという事くらい」
「どうして、私達を巻き込もうとするんだろう」
「後継者、と考えているのかも知れないわね。学校よりも、塩田さん達が。自分達の果たせなかった夢を、私達に託すとでも言うのかしら」
サトミは醒めた感じで鼻を鳴らし、お茶を一口含んだ。
グランドからは、生徒達の歓声が小さく伝わってくる。
静かな教室に届くそれは、却って静かさを作り出していく。
「ユウの言う通り、勝手な話よ。私達の気持ちや考えはお構いなしで、あるのは自分達の都合だけ。こっちにはメリットよりも、デメリットの方が圧倒的に多いわ」
「ケイとか、ショウやサトミがおかしな目に遭った事?」
「それだけじゃない。もし対立する相手が学校となったら、私達はどうなると思う?生徒会への反抗とは訳が違う。退学、進学取り消し、就職斡旋の停止、退寮勧告。とにかく学校生活に関わる全ての事が、関わってくるのよ」
先程よりも、さらに醒めた物言い。
冷たさの混じった眼差しが、私達の前にある机をじっと捉える。
「確かに塩田さんには、中等部の頃から世話になってる。あの人のお陰で助かった事も何度かあるわ。でもそれと、私達に起こった出来事は釣り合いが取れてるのか」
「ギブアンドテイクみたいな考えは、あまり好きじゃないんだけど」
「そうね。ただそれを抜きにしても、私達が学校と対立する必要があるかしら」
サトミの口調に厳しさが強まり、翳りを帯びた表情が鋭さを増す。
視線だけはそのまま、机を捉え続けたままだ。
「義理、人情、貸し借り、先輩後輩。そういったしがらみを別にして考えると、現状のおかしさに気付くわ」
「塩田さん達に、利用されてるって?」
「極端に言えばね。だからユウだって、あの時叫んだんでしょ」
「まあ、そうだけど」
曖昧に頷き、ペットボトルに口を付ける。
渋みが口の中に広がり、私は微かに眉をひそめた。
「あの時は、頭に血が上ってたから。ただ、サトミが言った様な気持は今でもあるわよ。私だって、理由もなく学校に睨まれたくないもん」
「じゃあ、大人しくしていられるかしら?」
「そのつもりではいる」
しかし私を見つめるサトミの視線は、微かに疑いを含んでいる。
私の塩田さんへの思い。
強く憧れ、慕った先輩。
一時は、恋愛感情に近い物まで抱いていた。
そんな人から託された願いを、無下に出来るのかと言いたいのだろう。
私をよく知るサトミにしてみれば、そう考えるのも無理はない。
そして私は、返す言葉がない。
「分かってるだろうけど、ユウを責めてる訳じゃないの。ただ塩田さんの態度によっては、私も考え方を変えるわ」
「どういう意味?」
「もしユウのそういう感情を利用して私達を巻き込んでいるのなら、……私は絶対に許さない」
固められたサトミの白い拳が、机の上に置かれる。
沸き上がる感情を必死で抑え込んでいるのが、私にははっきりと伝わっていた。
私を想っていてくれる、そしてそのために戦ってくれる。
そんな強く、気高い思いが。
「勿論そんなはずはないと思う。けれど、結果としてそうなってるのは事実だから」
「分かってる」
私は彼女の拳を両手で包み込んだ。
小さな私の手ではこうしないと収まらない、綺麗なサトミの手を。
暖かく、そして微かに震えている。
私なんかのために、一生懸命になってくれる人がここにいる。
それだけで、もう何もいらない。
私は全ての言葉と思いを代えて、その手を握りしめた。
「やっぱりサトミだよね」
「何が?」
「色々考えてるなって。私も悩んではいるけど、自分の事しか考えてないから」
「私は、マイナス方向に考え過ぎるのよ。取り越し苦労っていう、あれ」
くすっと笑い、髪を後ろへなびかせるサトミ。
寂しげではなく、自分自身への理解と自信を込めたように。
その後もしばらく話し込んでいた私達は午後の授業を休んでしまい、結局ガーディアンの仕事もせずに寮へと戻っていた。
ヒカルは大学に行っていて、ショウはまた実家への顔出しで留守。
おじさんがセキュリティコンサルタントの仕事を辞める辞めないで、色々あるらしい。
また仮に実家へ戻ってきた後、玲阿流をどうするのかとか。
今はショウのおじさんが師範で、従兄弟の風成さんが師範代。
そこに戻っていく訳だから、順列がまた違ってくる。
当人達は気にしなくても、古い家なので周りがうるさいと言っていた。
それはともかく。
今私達がいるのはサトミの部屋で、落ち着いたシックなレイアウト。
ダークブラウンで統一した家具の上には、猫をかたどった小物が幾つも置かれている。
また化粧台なんていう私の部屋には無い物もあり、そこにはいくつかの化粧品も並べられている。
「何時、今?」
「もう12時回ってるわ。子供は寝たら」
ベッドに寝ころんで雑誌を読んでいたモトちゃんが、からかってくる。
という彼女も、サトミの部屋へ泊まりに来ている。
ベッドに3人寝るとさすがに狭いし、私は間に挟まれて苦しかったりする。
でも、嬉しかったりする。
間で寝るのには理由があって、体格上壁際だと押し潰されるから。
またベッドサイドだと、床へ押し出される。
という訳で、間で寝るしかない。
ソファーで寝れば、という意見がないでも無いけど。
それが、女の子同士の友情なの。
「いいじゃない、明日休みなんだし。それより、お酒飲もうか」
「それ、いい」
「良くないわ」
苦笑するサトミを放っておいて、勝手にキッチンへ行く。
えーと、私がこの間持ってきた白ワインが……。
何これ、バーボンなんてある。
「モトちゃんの?」
「ええ。池上さんからもらったの」
「ちっ。私にくれればいいのに」
悔しいから、全部飲んでやれ。
飲めないけどさ。
「みんなで飲んでという意味よ、私にくれたのは。ユウだってその白ワインは、舞地さんからもらったんでしょ」
「まあね」
「二人ともどうしてお酒をもらうの。私は、少しでいいから」
あまり飲めないので、サトミが最初から断ってくる。
私だって、そうは飲まない。
多分。
そう思いたい……。
「かんぱーい」
何度目になるか分からない乾杯をして、グラスに口を付ける。
うー、晩秋でもビールは美味しいね。
勿論ワインやバーボンは、まだ残っている。
ただお酒も、色々飲みたいの。
と、自分に言い訳をする。
「サトミ、ビール飲む?」
「もう寝る……」
さっきからベッドで横たわっていたサトミは、眠そうな声で答えてきた。
そのまま顔が伏せられ、可愛らしい寝息が聞こえてくる。
お酒が強い方じゃないし、心労がたまっているのだろう。
ガーディアンとしての仕事に加えて、ケイの怪我。
ヒカルがいる分普段よりは明るい表情も浮かべても、彼女だって完全な人間じゃない。
サトミにとってケイは、恋愛感情とは違うけれど特別な思いを抱ける子なのだ。
そんな彼女の気持は、察するに余りある。
だから口元が小さく開いているのも、また愛らしく思えてくる。
こういう寝顔を、ヒカルが見てると思うと結構怒れてくるけど。
あの子がいい子だと分かっていても、腹が立つのは腹が立つ。
池上さんより以前に、サトミは「私のサトミ」何だから。
これだけは誰にも、絶対に譲れない。
いや、一人いる。
私の目の前で、オンザロックを飲み干している女の子が。
「ふー、美味しい」
「よく飲むね」
「自分もでしょ。でもこの年で酒飲みになってたら、仕方ないわね」
酔いが回っているのか、いつもより朗らかに笑うモトちゃん。
私も釣られて、くすくすと笑った。
サトミは完全に寝たらしく、起きる気配はないようだ。
「色々大変よね、これから」
「サトミも、そんな事言ってた」
「あら、そう。先を越されたか」
悔しそうな顔をして、すやすや眠る女の子を睨み付けるモトちゃん。
「これからどうなるのかって、ユウは考えてる?」
「少しは。結論は出ないけど」
「焦る必要はないわよ。追いつめられている訳ではないんだから」
そう言いつつ、モトちゃんは表情を引き締めた。
私もグラスを置き、それとなく彼女の言葉を待つ。
「問題はそれだけじゃなくて、舞地さん達がどう動くかよね」
「え?サトミは何も言ってなかったけど」
「この子は何だかんだといって、結局優しいから。確かに私より推測力は優れているし、先の事や全体を把握する事も出来る。でも、身内は疑えないタイプなのよ」
冷静な、一切の感情を排した口調。
モトちゃんが持つ、優しいだけではない一面。
「それって、舞地さんが何か企んでるっていう意味?」
「企むとは言わないけど、隠し事の一つや二つはあるでしょうね」
「そうかな……」
言葉では否定しつつ、モトちゃんの言葉を噛みしめる。
確かに彼女達が、何らかの考えなり目的を持っているのは私にも分かる。
ただ、それを突っ込んで考えはしなかった。
避けていたともいえる。
こうしてモトちゃんに言われなければ、何かあるまでずっと考えなかっただろう。
「私も言いたくはないし、考えたくも無い話よ。だから、もう言わない」
「え?」
「一応気を付けてと、言いたかっただけ。ケイ君がいれば心配ないんだけど、その代わりと思ってね」
薄く微笑むモトちゃん。
私達が嫌な思いをすると知っていて、自分自身も辛いと分かっていて。
でも、そう言ってくれる。
私はただ頭を下げるしかなかった。
そしてこうも思った。
やっぱりケイは、普段からそんな事も考えているんだなと……。
昨日のお酒が残っているため、ぼんやりと授業を聞いていた。
メモを取る気力もなく、正直眠い。
寝よう……。
「ユウ、起きないと」
「あ?」
「授業中だよ」
朝から爽やかな笑顔を振りまいているヒカル。
大学院生なのに、高校の授業を受ける人でもある。
内容は分かっていても、その雰囲気が好きなんだとか。
「私はいいから、授業に専念してて」
「友達と相談してもいいから、この問題を解くようにって今言っただろ」
「寝てたから、聞いてない」
あくびをかみ殺し、ヒカルが差し出したプリントに目をやる。
明治維新について述べよ?
こういう、論文形式の問題は苦手だ。
暗記力を問われる問題も苦手だけど。
「ケイに聞いてきて。病院にいるから」
「冗談はいいから、はい」
ペンが渡された。
大政奉還と王政復古により、幕府から朝廷~薩長などへ権力が委譲された。
その結果中央集権と新たな官僚機構の創設、税制の改革など近代化の道を歩む。
また軍備拡張により、ヨーロッパ列強と同様アジアへの植民地化政策を推し進める事となる。
文化面では西洋的な技法を取り入れつつ、従来の日本文化と融合を果たし独自の文化が育まれる事となる。
「こんな感じ」
「悪くないよ」
私だって一応は勉強しているので、このくらいは書ける。
参考書に少し頼るけどね。
「ただレポートは、論点というものがあって。自分が何を言いたいか、それが分かるように書くんだ」
「論点」
「僕も、大学の卒論で初めて知った」
そう言って、白紙のレポートに書き込んでいく。
少し小さいけれど、綺麗で丁寧な文字である。
「……例えば僕は、西洋化の波に飲み込まれたという論点で書いてみた」
「ふーん。そう言われてみれば、そうかな」
「明治維新については他の視点でもよくて、社会制度の変革や軍拡・アジアへの侵攻とかでもいいね。身分制度もまた、一つのポイントではある」
また別な紙を取り出して、黙々と文字を埋めていくヒカル。
良く書けるなと思うけど、好きなんだこれが。
「……取りあえずは、こんな所。ただ大事なのは、正解を導くだけじゃなくて考える事。どうしてそうなのか、何故そうなのか。試行錯誤と推測を繰り返して、結論へと辿り着く。人によってはつまらない作業だけど、僕はそれが面白くて」
熱く語る浦田光君。
さすが、伊達に大学院生ではない。
レポートも何とか提出して、一安心。
サトミなんて、まだ寮で寝てるのに。
いいよね、頭のいい人は。
私は、授業での考査点がないと苦しいのよ。
「まだ書いてるの?」
「あ、これは修士論文の方。少しあがこうと思って」
屈託のない、明るい笑顔。
大変だとか辛いという言葉は、全く聞かれない。
「無理してるんじゃない?」
「平気ではないけど、高校生活も楽しいから」
「そう……」
傍らには統計学の本や、英語の論文。
端末ではネットワーク上の資料を検索中だ。
本当は大変だと思うんだけど、彼の顔は楽しさに満ち溢れている。
ただ、私には私なりの考えがあった。
「ちょと休んだら」
「え?」
「少しくらいは院生の立場を忘れて、高校生の気分でいたらって事」
一瞬動きを止めて、私をじっと見入るヒカル。
そして、端末の画面が静かにフェイドアウトした。
「そうだね。ごめん、変に気を遣わせちゃって。これじゃ、ケイの代わりになってないか」
「謝るのは私の方。本当なら修士論文の追い込み中なのに、迷惑かけてるのは私達だから」
「となると、悪いのはその原因である珪かな」
「言えてる」
私達はどっと笑い、お互いの荷物をリュックへと詰めだした。
高校生は勉強だけじゃない。
遊びだって、する事の一つ。
少なくとも、私はそう思っている。
だから私達は、教室を飛び出した。
自分達がすべき事のために……。
という具合にいけば、誰も苦労はしない。
廊下を走っているところで木之本君に見つかり、あえなく御用。
怒られた。
「たまに来たんだから、ちゃんと勉強しないと。僕や元野さんは普段授業に出たくても、出られないんだよ」
「真面目だね、相変わらず」
「これが普通だと、僕は思ってる」
毅然と言い放つ木之本君。
参ったね。
「考え方の違いだよ。僕だって、授業には出たい。でも、学校生活も楽しみたい。貴重な時間を有効に使うには、多少の犠牲があってもやもう得ない」
「論点がずれてる。僕は授業への出席を促しているんであって、君の考えや楽しみ方を聞いてはいない」
「ああ、そうか」
妙に納得する院生。
でもって生真面目な男の子は、私にも目を向けてきた。
「な、なによ。いいじゃない、私は楽しみたいの。理屈なんて関係ないのよ」
「雪野さん、子供じゃないんだから。楽しむのも大事だけれど、それは自分の責任を果たした上ですれば」
「私の責任って、何」
「まずは勉強、次にガーディアンとしての職務、成人間近の人間として持つべき、自分の意見」
「パス。私は、もう自分の事だけに専念するって決めたから。ガーディアンの職務は、除外してるの」
少し真面目に答えたら、意外な程驚いた顔をされた。
それ程ガーディアンという事柄は、私にとって近しい関係にある。
正確には、「あった」だ。
「浦田……。えーと、珪君の事?それとも、塩田さん達と揉めたから?」
「まあまあ、木之本君もそれくらいで。人間言い辛い事、話したくない事があります。ましてや、思春期の女の子なんだから」
「……そうだね。僕が悪かった」
「いやいや」
何だか大仰に頷くヒカル。
人のいい木之本君はすっかり立場を逆転させ、申し訳なさそうに視線を伏せている。
「別に責めた訳じゃないわよ。ただ、私はもう辛い思いをしたくないから」
「でも、一旦巻き込まれている以上難しくないかな。学校か誰か知らないけど、向こうは雪野さんの気持なんて分かろうとはしないから」
「そのために僕らがいる。いや僕は駄目だけど、ショウや聡美やモト達が。木之本君だって、そのつもりじゃないの」
「まあね」
小さく、でもはっきりと頷き合う男の子達。
私は言葉に詰まって、頭を下げた。
二人の気持ちに、そしてみんなの思いやりに。
本当なら、自分がみんなを守っていきたかったのに。
今は、その気力も自信もない。
何より、力がない。
だから、みんなに頼る気持が強くなっている。
それがいいのか悪いのか。
とにかく今の私には、そうする事しか出来ないのだから……。
「何してるの」
澄んだ鈴の音のような響き。
沈んでいた顔を上げると、心配そうにサトミが私を見つめていた。
「ちょっとね。この子が、勉強しろってうるさいの」
「うるさいって、勉強して当たり前だろ」
「そうそう。木之本君の言う通り」
自分の事を棚に上げ、大袈裟に頷いているヒカル。
「分かったわ。でもユウはまだ少し調子が戻ってないから、今日は多めに見てくれないかしら」
「それは分かるけど、でも遠野さん……」
途中で言葉を切った木之本君は、不承不承といった具合に頷き小脇に抱えていたバインダーを持ち替える。
私はその隣へと動き、追い打ちとばかりに耳元でささやいた。
「あなたも名誉会員なんだから、サトミの言う事は素直に聞いてよ」
「だから僕は、何も会員じゃ……」
「ユウ、木之本君。どうかしたの」
「こっちの話」
適当に答えて、念を押すように彼を見上げる。
名誉会員というのは私設遠野聡美ファンクラブ、通称TFCの事。
当たり前だが私設で、サトミのあずかり知らぬ秘密運営組織。
会長は勿論私で、モトちゃんが幹事。
勝手に入れられた木之本君も、今では名誉会員にまで昇格している。
ちなみに最近の入会者は池上さんで、それより前に入った沙紀ちゃんの後輩だったりする。
身内しか構成員はいないけどね。
そんなたわいも無さと意味の無さが、結構面白い会なのだ。
また定例会も会報もない、個人の思いだけで存続している会でもある。
「それより、次の授業始まるわよ」
「分かってる。じゃあ木之本君のリクエストに応えて、出席するとしますか」
「学生は、勉強しないとね」
分かったような事を言うヒカルを放っておいて、サトミの側へ寄る。
「よく寝た?」
「おかげ様で。目が醒めたらユウもモトもいなくて、少し焦ったわ」
「邪魔したら悪いと思って。もし、ヒカルが尋ねてきたらとか」
悪戯っぽく笑い、彼女の脇を肘でつつく。
サトミは珍しく顔を赤らめ、大袈裟にそっぽを向いた。
「べ、別に、そんな事無いわ。今までも、逢いたい時に逢ってたんだし」
「高校生として逢うのは、また違うと思ったの。甘酸っぱい思いを抱いて欲しかったのよ」
「それはユウの願望でしょ。何、甘酸っぱい思いって」
「胸のときめき。キューってなるの。キューって」
私は小さな胸元へ両手を寄せ、儚い表情で目を閉じた。
「アシカじゃあるまいし、キューなんて鳴かないわ」
「鳴くんじゃなくて、キューってなるの。切ないのよ」
「ドラマの見過ぎね。私は、ときめきも切なくもなりません」
はっきりと言い切り、膨らんだ胸元を反らすサトミ。
何よ、私は小さいから切ないって?
いや誰もそんな事言ってないけど、そう思えたの。
気付いたらヒカルと木之本君の姿はなくて、私達二人だけが廊下に立っていた。
あの二人は意外と気が合うので、つもる話でもしているのだろう。
これでショウがいれば、善人トリオの完成だ。
「……授業、始まってるわね」
「仕方ない。ラウンジで、一休みしようよ」
「悪くないわ、それ」
くすっと笑い、私の手を取るサトミ。
私もその手を握り返し、並んで歩き出す。
こういう瞬間が、たくさんあればいいと思っている。
何でもない、だけど小さな幸せが幾つも積み重なれば。
大きな事は、望まない代わりに。
ラウンジで椅子に座ると、サトミが前にあった椅子を蹴り出した。
怒ってるんじゃなくて、半分癖みたいなもの。
不器用なこの子が唯一アクロバティックな事を出来るのも、この椅子を使った行為だし。
今は床に貼られているタイルのラインと、椅子の足を合わせているらしい。
意味はないけど、合わせる事には大きな意味があるのだろう。
サトミだけに通用する理屈として。
「ヒカルがいて、楽しい?」
「ま、まあね。たまには悪くないんじゃないかしら」
はにかみつつも、素直にその気持ちを聞かせてくれるサトミ。
お互いいつも一緒にいたいと思う性格じゃないけれど、すぐに顔が見えるのはやはり嬉しいものなのだろう。
それに、離ればなれよりは何倍もいいに決まっている。
「少し、考える事が無くもないけれど」
「え、何を」
「ん、大した悩みじゃないわ。私は取り越し苦労が過ぎるから、それよ」
チョコの欠片を頬張り、嬉しそうにするサトミ。
その雰囲気や表情からは、彼女の言う「考える事」や「悩み」は読み取れない。
「ユウが心配しなくても大丈夫だから」
「本当に?」
「ええ。時期を見てその内話すわ。それに、解決する方法はもう分かってるし」
消えかかる語尾と、一瞬浮かんだ儚げな表情。
でも私は何も聞かず、黙ってその言葉を受け入れた。
少なくとも悲しんではいないし、苦しんでもいないから。
もしそうならば、サトミは言ってくれる。
この間の一件以来、私達は約束した。
お互いに秘密は持たないと。
辛い時、苦しい時はそれを分かち合おうと。
「ショウは」
「実家で、家族会議。あの子、おぼっちゃまだから」
「私達は、庶民だものね」
人気のまばらなラウンジを見渡し、二人でくすくす笑う。
「そういえばモトちゃんが、先輩の所から独立するかも知れないって」
「……何か、あるって事かしら」
「さあ」
サトミは一転して表情を引き締め、端末を取り出した。
しかしジョグボタンへ触れていた指が止まり、端末もしまわれる。
「聞かないの?」
「悩みの種を自分から増やしても仕方ないもの。それに何かあれば、自分から話してくるわ」
私はさっきモトちゃんから聞いた、舞地さん達の事を思い出していた。
彼女達の思惑、それを憂うモトちゃん。
サトミも気付いているだろうけど、口には出さない問題。
避けているのとは違う、彼女達を信頼したい気持。
それはモトちゃんだけではなく、舞地さん達へも当てはまる気持である。
「とにかく、これ以上揉め事に巻き込まれるのは勘弁して欲しいわね」
「大丈夫だとは、思うけど」
「ええ」
お互いトーンが低くなり、顔が下がり気味になる。
この間沢さんが言ってたように、そして今日木之本君が言ったように。
結局私達は、すでに巻き込まれている。
自分達が否定しようと、逃れようと。
その事実が、重荷となってのしかかってくる気分。
ただヒカルがいる分、私達は助かっているのだろう。
あの明るさと、信頼感。
彼さえいれば大丈夫だと思わせてくれる、あの笑顔に。
ケイの代わりではなくて、彼自身にしか出来ない事。
それが私達を救っている。
依存、かもしれないけれど。
それでも私には、必要な存在である。
今の、前とは違ってしまった自分には。
自分の気持ちや力に、信頼がおけなくなった私には。




