エピソード(外伝) 7-1 ~名雲祐蔵視点~
本当の事
前編
固く、冷たい感触。
それが徐々に熱を帯び、やがて感覚が無くなっていく。
初めは聞こえていた鈍い音すらも。
「フッ」
揺れるサンドバックを膝で止め、構えを解く。
赤くなった拳が、自分でも少々やりすぎだと思わせる。
人気のない、アパート近くのトレーニングジム。
ようやく日が昇り掛けた頃なので、ここいいるのは俺だけだ。
いつもという訳ではないが、草薙高校へ転校してからはよく利用している。
しかし、この程度の努力では及ばないだろう。
あいつらには。
素質、センス、技術。
そして、俺以上の努力。
以前は多少あった格闘技への自信も、今ではあっさりと消え去っている。
とはいえ、諦めた訳でもない。
同じ人間である限り、かなわないとは思わない。
他人はともかく、俺はそう考えている。
壁際に置いていたタオルを取り、顔の汗を拭く。
タオルと一緒に置いてあったネックレスが、暗がりの中目に付いた。
ナンバーの消えた、少し歪んだIDプレート。
これに、縛られ過ぎているのだろうか。
親父の形見に向かい、俺は一人苦笑した……。
例により直属班の待機室にやってくると、柳が出迎えてくれた。
「おはよう、名雲さん」
男の俺でも気恥ずかしい程の、可愛らしい笑顔。
しかしその腕は、鬼神も三舎を避けるというものだ。
ただ過去の出来事から、今では俺を兄の様に慕ってくれている。
「ああ、お早う。舞地達は」
「真理依さんは寝てる」
隊長である舞地に割り当てられた部屋を指差す柳。
またか。
ただあいつは寝ているのではなく、体を休めていると言った方が正確だ。
舞地の基本は静であり、本心はこんな事を辞めてのんびりしたいと思っているだろう。
それを言い出さないのも、またあいつらしいのだが。
「池上さんは、遠野さんの所」
これも、まただ。
昔はもっと大人しくて、舞地よりも控えめな部分があった女の子だった。
今でもその本質は変わっていなく、遠野達に会いに行くのは単純に気が合うから。
お互い知性で勝負する連中なので、分かり合える部分が多いのだろう。
「暇、だよね」
「トラブルの少ない学校だからな」
俺はあくびをして、柳の前に腰掛けた。
そのまま端末を起動させ、数学のレポートを始める。
「真面目だね、名雲さん。そんなの出さなくても、単位は取れるでしょ」
「勉強は、自分のためにするんだ。義務でやってる訳じゃない」
「だから分かってる数式を、改めて勉強しなくてもいいんじゃないの」
顔の割には鋭い事を言ってきた。
勿論それは分かっているが、俺的な義務感がレポートの提出を促してくる。
普段授業にあまりでない分、これくらいはやっておきたい。
池上がここにいたら
「本当、真面目よね」
と言われ、うしゃうしゃ笑われるところだ。
「済みません。これ、教えてもらえますか」
顔を上げると、ショートカットの女の子が目の前に立った。
彼女も直属班の一人で、別な隊に属している1年生。
ちなみに直属班や直属隊というのは通称で
「自警局自警課・局長直属特別編成班」
などという名称があるらしい。
それはいくつかの隊から編成されていて、舞地も隊長の一人という訳だ。
ともかく俺は、彼女に向き直った。
「参勤交代の意義と問題点か。要は、雄藩の勢力を削ぐという観点だろ。幕府に対する謀反を防ぐために……」
「こういう問題は、浦田君がいると助かるんだけどね」
ぽつりと洩らす柳。
その浦田は現在入院中で、当分学校へはこられない。
あいつが怪我をした一因は俺達にもあるので、柳の表情が曇るのも無理はない。
「まあいい。で後は……」
俺はそんな考えを振り払い、続きの説明に頭を切り換えた。
「ありがとうございます。お陰で、助かりました」
丁寧に頭を下げた彼女が、何げに顔を近付けてきた。
下らない期待をする間もなく、一言囁かれる。
「……矢田君が、女の子と揉めてるらしいですよ」
「あいつが?まさか」
「その、まさかなんです。怒鳴られてるのを見た人が、何人もいるんですから」
彼女に顔を向けられた、1年の男が頷く。
「俺もよく知らないけど、中等部からの知り合いだとか」
「名雲さんは、どう思います」
女の子はきらりと目を輝かせ、俺に詰め寄ってきた。
そうはしゃぐタイプの子ではないが、この手の話はやはり別なのだろう。
そしていつしか室内全体に、矢田の名前が挙がっている。
「どうって。おい、少し静かにしろ。矢田が来たらまずい」
「ああ、そうだった」
取りあえず静かになる一同。
勿論声をひそめただけで、噂話は続けている。
「名雲さん」
じっと俺の顔を見上げる彼女。
意外と押しが強いな。
「あいつも男だ。そういう事もあるさ」
「否定はしないんですね。男女の仲だって、認めるんですね」
「まあな」
俺がそう言うや、彼女は拳を突き上げた。
それは顎先をかすめ、鼻に涼しげな風を送ってくる。
別にショートアッパーを放った訳ではなく、喜びを表現しただけのようだ。
「ほら見なさい。これで、ジュースおごってもらうから」
「名雲さん、考え直して下さい」
今度は、さっきの男が詰め寄ってきた。
賭けしてたな、こいつら。
「直さない。お前も男なら、すぱっと諦めろ」
「だって、購買のジュースじゃないんですよ」
真顔の顔が、ずいと迫ってくる。
じゃあ、何なんだ。
「ほら、今度名古屋港に出来たテーマパーク。ポートサイド・マルシャチ」
「ああ。それが?」
「あそこで、売店のジュースをおごれって……」
何だ、それは。
呆れる俺の視線を受け、Vサインを送ってくる彼女。
おまえらこそ、男女の仲じゃないか。
「俺は知らん。……ちょっとこい」
男の腕を掴み、部屋の隅へ連れて行く。
「知り合いからもらった、あそこのペアチケットだ」
「くれるんですか?」
「ああ。その代わり、飯くらいおごってやれ」
「は、はい」
俺の意図を分かってくれたらしく、はにかんだ笑みが返ってくる。
全く。
結局、楽しいのは当人ばかりか。
こっちは一緒に行く相手がいなくて、困ってたというのに。
「もったいなかったね、チケット」
妙に楽しそうな笑顔で近づいてくる柳。
その後ろには、ファンらしい女の子達が遠巻きに付いてきている。
あまり近寄ってこないのは、俺の存在があるからだ。
怖がらせているつもりはないが、彼女達はそう思わないらしい。
これでも前よりは、穏和になってるのに。
と、自分に言い訳をする。
「いいんだよ。それより、何食べる」
「ランチ。ここのご飯、美味しいから」
確かに。
学生は最初に納入する学校維持費だけで、無料のセットを朝昼晩と食べる事が出来る。
何しろ大企業がスポンサーで、多数の学校を抱える草薙グループが運営母体。
雪野に言わせれば、「拝みたくなる」様な食事が支給されている。
少々量は少ないが、値段の倍はその価値があるだろう。
「辛い」
柳はがぶがぶと水を飲み、舌を小さく出した。
「普通だろ」
対して俺は、鼻に抜けていく香辛料を楽しむ。
どれだけ煮込んでるのか知らないが、ルーに入っている肉が舌の上で溶けていくようだ。
「僕には、ちょっと」
と言いながらも食べていく柳。
しばらくして舌も慣れたのか、汗を吹きながらになった。
思わず拭いてやりたくなる程。
とはいえ、無論そんな事はしない。
いつも一緒にいるので誤解されるが、そういう仲ではない。
全く、どいつもこいつも。
「あら、もう食べてるの」
やや高い、はきはきとした声。
ブルーのニットシャツに、黒のミニスカート。
その長い足によく似合う、皮のロングブーツ。
薄茶のロングヘアをかき上げた池上が、俺の隣に座った。
「お前、どこ行ってた」
「女の子に、そういう事を聞かないの」
ふざけた事を言い、五目ご飯を食べ始める。
どうせ、ずっとふらふらしていたのだろう。
「お前な。遠野達は授業に出てるんだから、邪魔をするなって」
「息抜きも大事なの。それに今は浦田君がいないから、励ましに行ってるんじゃない」
「へぇ。偉いな、池上さんは」
素直に感心する柳。
騙されるなと言いたかったが、ここは我慢してサラダを口に運んだ。
「それよりも、真理依は」
「さあ。一緒に来てたけど、どうしたんだろ」
「まさか、行き倒れてるんじゃないでしょうね」
池上はうしゃうしゃ笑って、胸元で手を合わせた。
しかし、いつも楽しそうだな。
それがこいつの長所とも言えるのだが。
「あ、来たよ」
スプーンをくわえたまま、柳が指を差す。
食堂のカウンターから、無愛想な顔で歩いて来る舞地。
知らない奴が見たら、怒っていると思うだろう。
「遅いじゃない。何してたの」
「並んでた」
素っ気なく、また短い言葉。
それでも丁寧に、トレイがテーブルへと置かれる。
「松茸セット?何、これ」
「30名限定で、今配ってた」
黙々と食べ始める舞地。
松茸のために並んだ訳ではなく、ランチをもらおうと並んだらその列がそうだったというだけだろう。
「ふーん。美味しそうね」
池上は箸を延ばし、断りもなく松茸ご飯を持っていく。
それに対して舞地は何も言わず、ただ食べ続けている。
お互い仲が良いというのもあるが、物への執着が薄いタイプなのだ。
食事を終え、ソフトドリンクを前にくつろぐ俺達。
他の生徒は授業があるので、先程に比べ席はかなり空いている。
暇そうにあくびをする柳。
確かにトラブルのサポートが俺達の主な仕事なので、普段は本当にやる事がない。
また一定時間の拘束が義務づけられているため、気軽に遊び回る訳にもいかない。
というのは建前。
実際のところ直属班の連中は、かなり自由にやっている。
出動要請があった場合は待機室にいる者が出ていき、お互いで融通を効かす。
待機当番やローテもあるのだが、それを正確に守っている者は殆どいないだろう。
「さてと」
ふらりと席を立つ池上。
「元野の所にでも行くのか」
「真理依も来る?」
「あの子も忙しいんだから、邪魔をしたら悪い」
そう言いつつ、舞地も立ち上がる。
結局は、という訳か。
「僕も行く。どうせ、やる事無いし。ほら、名雲さんも」
「ああ」
残っていたオレンジジュースを飲み干し、氷をかじる。
貧乏性と言われるが、俺なりのささやかな楽しみである。
氷をかじるために、ジュースを頼んでいると言ってもいい。
我ながら、さすがに情けないとは思う。
「……あれは」
前を歩いていた舞地が、不意に速度を緩めた。
それに反応して、俺と柳が左右に開こうとする。
「いや、トラブルじゃない」
「矢田君でしょ、あれ」
柱の陰に隠れる池上。
狭いので、どうしても体がくっつく。
少なくとも、4人が隠れるには幅がなさ過ぎる。
「ちょ、ちょっと。名雲君離れてよ」
「仕方ないだろ。大体、隠れる必要があるのか」
「黙って。聞こえない」
厳しい声で、俺達をたしなめる舞地。
自分は一番後ろにいるので、苦しくないのだ。
「ま、真理依さん押さないで」
「ああ、悪い」
「悪いじゃなくて……」
俺の後ろにいる柳が、何やら唸っている。
おそらく、舞地が遊んでいるのだろう。
そのあおりを受け、俺も前へと体が傾く。
「だからっ。離れてよっ」
池上は一番前にいるので、柱と俺の間でよれている。
ただ、こいつが言う程はくっついていない。
見た目は派手で男好きのような印象があるが、そっち方面には照れが入る女の子である。
「や、やっ。ど、どこ触ってるのっ」
「俺じゃないぞ、それ」
「え?」
両手を上に上げている俺。
舞地達程度の体重なら、足腰だけで軽く支えられる。
すると、池上の腰辺りを撫でていたのは。
「真理依っ。あ、あなたね」
「静かに。声が聞こえない」
すっとぼける女。
「あ、後で、話があるわよ」
「真理依さん、重い……」
後ろを振り返ると、柳は両手で押されていた。
「いいから。隠れてないと、後で気まずい」
無表情でやっているので、こっちとしては笑うしかない。
「あっ」
池上の声に、すぐ顔を戻す。
平手打ちを受け、数歩よろめく矢田。
そしてやり返す事もなく、頭を下げている。
そこに浴びせかけられる、冷たい罵倒。
頭を下げ続ける矢田。
平手打ちを喰らわせた相手は、一瞥もくれずその場を立ち去った。
「怖い女だ」
「あなた程じゃないわよ」
するりと俺の前から出ていく池上。
舞地は肩をすくめ、黒のキャップを被り直した。
「それで、あれは誰なんだろうね」
「あいつらが言ってた、矢田の知り合いだろ。確かにああいうのを見ると、その関係を賭けたくなるな」
「同感」
午前中の経緯を分かっている柳だけが笑ってくれる。
「それより、どうするの」
「放っておけばいい。仮にも自警局長として、人の上に立つ人間だ。この程度を乗り切れないようでは、話にならない」
さっきのふざけ振りが嘘のように、冷たく言い放つ舞地。
それは、俺も同意見だ。
背を丸め重い足取りで歩いていく、あいつの背中を見ていなければの話だが。
「済みません。せっかく来てもらったのに、こんな事させてしまって」
「気にしなくていい。どうせ、暇だから」
俺は抱えていた書類の束を持ち直し、申し訳なさそうな顔をする元野さんに微笑んだ。
「重く、無いですか?」
「まだ倍はいける」
それは冗談にしろ、彼女の気を休めるには十分だったらしい。
聡明そうな瞳がさらに細くなり、やや大仰に俺の背中を叩いてくる。
「後で、ジュースでもおごりますね」
「それはどうも」
チケットを上げるんじゃなかったなと、ちょっと後悔した。
無論、あそこでおごってくれとは言い出せないが。
「どうかしました?」
「いや。舞地達はちゃんとやってるかなと思って」
「大丈夫ですよ。みんな、私よりも優秀ですから」
謙遜めいて笑う元野さん。
その舞地達は、彼女が所属しているガーディアン連合の古いデータの転送と書き換えの手伝いをやっている。
俺が運んでいるのは、これから行う打ち込み分のデータだ。
正直気が遠くなりそうな量で、いつ終わるかの見通しすら立てられない。
「後で、サトミも手伝いに来てくれますから」
「あいつは得意だろうけど、おまけに雪野が付いてきたらどうする」
「その辺で寝ててもらいます」
くすっと笑い、元野さんは大きめの封筒を抱え直した。
「玲阿も苦手そうだし。浦田がいれば、ってところだな」
「いなくて分かる、そのありがたみ。いたらいたで、また困るけど」
「なるほど」
言い得て妙だ。
あいつが裏で色々やっているからこそ、雪野や玲阿達が自由に行動出来ると言っても良い。
普通の状況なら遠野の方が使えるのだが、いざという時はあいつがポイントとなる。
またそれを使いこなせる、雪野の度量とも言える。
何にしろ、敵に廻したら辛い連中だ。
「お疲れさまでした」
「お疲れ」
グラスを合わせ、ジョッキを傾ける。
軽い刺激と共に喉を通っていくこの瞬間が、何とも言えない。
「ふー。あ、済みません」
空になった元野さんのジョッキにビールを注ぎ、自分の方にも満たしていく。
「手酌、ですか」
「気を付かせたら悪いからな」
「はっきり言うところが、また色々深読みしたくなるんですけどね」
探るような視線。
ただ緩んだ口元が、彼女の気持ちを表している。
と、俺は勝手に解釈した。
「おごるのはジュースだろ」
「私は、お酒が好きなんです」
単純明快な答え。
とはいえこれを、深読みする事だって出来る。
俺も酒は好きだし、普段彼女達を助けているお礼も兼ねてか。
しかしそんな事を考えながらでは美味しくないので、俺は純粋にこの苦みを味わっている。
「元野さん、知ってるかな」
「知りません」
はっきりと言い切られた。
普通なら、「何を」と聞き返してくる場面。
そうしないのが、また彼女らしい。
勿論、分かってやっているのだろうが。
「矢田が、女と揉めてるらしい」
「へぇ、意外」
サラミをかじり、何度も頷いている。
やはり、派手に驚く真似はしない。
「彼も男の子ですから。そういう面もあるんじゃないですか」
「まあね。ただ、仲が良いとは言えない様子だった」
「……なるほど。そういうのが、流行ってたりして」
「浦田の件か?」
「あれだって、逆恨みですよ。自業自得、とも言いますけど」
最後は冗談だろうが、正直俺の耳には痛い話だった。
大内とは顔見知り程度の知り合いだったにしろ、結果的には浦田に大怪我をさせた。
また雪野や遠野達の心を傷付けてしまった。
頭を下げて済む事ではないし、取り返しが付かないのも分かっている。
今後の展開を思い描くと、余計気が滅入ってくる。
「名雲さんも悩みあり、ですか」
俺の心の中を見通すような澄んだ瞳。
アルコールで赤くなった頬が、微かに揺るんだ。
「前も言ったように、私に出来る事ならお手伝いしますけど」
「気持だけ受け取っておく」
「なるほど」
穏やかな元野さんの顔に、珍しく鋭さが宿る。
むしろこちらが本質ではと思わせるくらいの凛々しさ。
そんな俺の視線に気付いたのか、彼女は素知らぬ顔でジョッキを傾けた。
「悩みや謎の一つくらいあった方が、人間としての深みを感じますからね」
「どこかで聞いた台詞だな」
「気のせいですよ」
俺のジョッキにビールを注ぎ、おかしそうに笑う元野さん。
だが俺に、そんな彼女の笑みを受け入れる資格があるのか。
今の頼られる先輩としての立場が、いつまで続くのか。
この学校に来た目的。
勿論それが、即彼女達と敵対する理由になるとは限らない。
だが、無いと言い切れもしない。
俺だけでなく、舞地達も抱える問題。
元野さんの注いでくれたビールは、いつになく苦かった……。
その翌日。
低アルコールなので二日酔いはないが、何となく気分が重い。
昨日の下らない考えが、寝付きを悪くしたのだ。
彼女の前では明るく振る舞っていたが、すでに見通されているかも知れない。
つながり、関わり、関係。
少し考えた方がいいのだろうか。
あまりにも今の状況に、流され続けている。
俺達を素直に受け容れてくれる玲阿達。
その居心地の良さ、信頼の眼差し。
だがそれは、ある日一転する可能性がある。
この間の雪野の言葉。
「勝手に人を巻き込むな」
耳が痛い。
俺達がここへ来た理由、そして過去の行動。
あいつらにとって、決してメリットがあるとは思えない。
むしろ危険に晒すだけだろう。
すでに浦田は、間接的にしろその被害を被っている。
大内は仲間ではないにしろ、それなりに付き合いがあった。
また俺達自体に恨みを持つ人間もまた、少なくない。
そいつらが雪野達を巻き込む危険性だって、十分考えられる。
距離を置くべきだろうか。
今なら、それが可能だ。
雪野は頭に来ている分、俺達との別れを感情で受け入れられる。
他の連中も、温度差こそあれ大差ない。
その後で少し揉めるとしても、あいつらを傷付けるよりは良い。
すでに怪我を負った浦田には、申し訳ないが。
「寒い」
ジャケットの前を合わせ、肩を震わせる柳。
無駄な脂肪分がないため、寒さには弱いらしい。
「着なさいよ」
セーターの上に薄茶のコート、ロングスカートの下にも厚手のストッキング。
毛糸の手袋までした、まん丸の池上。
髪もストレートにして、出来るだけ露出部分を無くしている。
ただこいつはそういう格好を楽しんでるだけで、柳のように本当の寒がりではない。
「気の持ちようだ」
舞地は相変わらず、ジーンズにジージャン。
下もコットンのシャツで、こいつは意外と寒さに強い。
「やせ我慢してる」
という池上の意見もあるが。
「寒くないの?」
「別に」
俺は素っ気なく答え、手に持っていたパーカーを柳に渡した。
こっちもシャツとジーンズだけだが、本当に寒くない。
「鈍いのよ」
呆れ気味に、池上がよく言ってくる。
「もこもこになりそう」
と言いつつ、パーカーを着込む柳。
こいつは足さえ動いていれば大丈夫なので、俺は特に気にしなかった。
大体、そう揉め事が……。
休日で賑わう繁華街。
若者、家族連れやカップル、露天商、呼び子など。
秋の風はやや寒いが、それを吹き飛ばすような活気である。
だがその光景に、わずかな異変が起きていた。
大きな本屋の前。
数名の若者が、輪を作っている。
中心には一人の男がいて、彼等に反論を試みているようだ。
その勇気は買うが、少々無謀な気もする。
華奢な体格に気の弱そうな彼の顔を見ていると、余計に。
「頑張ってるな」
他人事のように呟く舞地。
勿論そうなのだが、関心は殆ど持っていないらしい。
柳も同じで、ケンカだから目を離さないと言ったところだろう。
「止めてあげなさいよ」
困った顔で、池上が俺を促してくる。
基本的にトラブルが嫌いなため、二人みたいな傍観はあまりしない。
沢のように、相手が特殊な場合はまた別だが。
「男が一人で頑張ってるんだ。ここは任せてもいいんじゃないのか」
「それはあなたの考えよ。気持ではともかく、暴力を振るわれたらどうするの」
「過保護だね、池上さんは」
俺以上に苛烈な生き方をしてきた柳が、珍しく皮肉めいた口調を取る。
二人の視線が瞬間交わるが、例によって柳の方から目を逸らす。
ケンカの腕はともかく、人格の強さではまだまだ及ばない。
「いじめられた」
「馬鹿」
拗ねる柳の肩に触れ、軽く体を解す。
過保護という意見には賛成だが、見過ごせる場面でもない。
それが「甘い」のなら、仕方ない。
俺は、こうでしかいられないのだから。
男が連れ込まれた路地に来ると、案の定音が聞こえてきた。
人を殴る鈍い音、それを楽しむ笑い声が。
「こういう事をやらない連中に見えたんだけど」
「そういう奴ほど、自分の下を欲しがるのさ」
「ふーん。僕には分からないな」
のんきに呟き、軽快なフットワークを取る柳。
「司、程々で済ませろ」
「大丈夫、僕はやる気無いから」
振り向いたそれは、全然分かってない顔である。
舞地は小さくため息を付いて、キャップを被り直した。
こいつも、苦労が絶えないな。
俺達が路地に入っていくと、彼等の顔から血の気が引いた。
向こうは男ばかり、こっちは女が二人込み。
ただ暴力を振るっている場面を見られた事が、一種の混乱を招いたのだろう。
後悔と、苦悩、そして残虐さの残る視線がこちらを向く。
「だ、誰にも言うなっ」
ダウンジャケットの男が、金切り声を上げた。
「言わないから、そいつを放せよ。もう参ったって顔だぜ」
「お、お前に関係ないだろ」
「そ、そうだ」
明らかに虚勢を張る連中。
放っておけば、俺達にも掛かってきそうな勢い。
しかし殴られるのは趣味じゃないので、仕方なくこっちから動く。
俺の意図を即座に悟った柳も、同時に飛び出した。
要はバックナックル。
速度が速いのと、出し方が変わっているだけの。
しかしそれだけで、男達は全員地面へ転がった。
そして鼻を抑え、泣きそうな顔で俺達を見上げている。
以前浦田が大内にやったのと同じ、鼻の上を軽く叩いただけなのだが。
「何か、言いたい事はあるか」
当然首を振る男達。
ここで掛かってくれば、少しは見直すところだ。
その結果は言うまでもないとして。
「一人の人間を、数名掛かりで殴るとはね。立派な考え方してるよ」
浦田の事が頭に残っているのか、苛立った声を出す柳。
泣き出しそうな程怯える男達。
これ以上は悪循環なので、俺はそれとなく後ろを振り返った。
「どうする」
「……謝って下さい、彼らに」
脇腹を押さえながら、矢田自警局長はそう呟いた。
「おい、何言ってんだ。俺達は、お前を助けようと……」
「いいから、謝って下さいっ」
地を裂く程の気合いが、矢田から発せられる。
大抵の事では動じない俺達ですら、思わず息を飲むほどの。
何か適当に言って、誤魔化すという事が出来ない。
俺達を見つめ続けるその瞳は、何があろうと一歩も引かぬ戦士のそれだった。
「悪かった」
最初に舞地が謝る。
「悪い」
「ごめん」
「ごめんなさい」
それに続けて俺達も、全員が頭を下げる。
すると男達は却って怖がってしまい、それこそ歯の根も合わないほど震え出した。
矢田を、黒幕か何かと勘違いしたのだろう。
「とにかく済みませんでした。もう、引き取ってもらっても結構ですから。本当に、申し訳ありません」
「い、いえ」
「そ、そんな」
「じゃ、じゃあ……」
勿論の事ながら、バタバタと逃げ出す男の子達。
俺達は顔を見合わせて、苦笑するしかなかった。
「どういうつもりなんだ、あんな事させて」
俺の質問に、深く頭を下げる矢田。
「お前が謝ってどうする」
「いえ。僕を助けてくれたのに、あんな事をさせてしまって、申し訳ありません」
「そこまで分かってて、何でだ?」
矢田は俺達を一人ずつ見渡し、微かに顔を伏せた。
「あなた達の拳は、ここで振るうべき物ではないはずです。その証拠に彼らは、頭を下げただけで逃げ去りました」
「それで平気なのか。殴られて、頭を下げて」
舞地の言葉に、矢田の表情が曇る。
「確かにいい気分はしません。でもこれは、一つの収穫でもあります」
「収穫?」
「ええ。僕は最近、トラブルの原因や問題点をデータベース化してまして、その解決方法をチェックしてるんです」
矢田はポケットから端末を取り出し、細かな字が表示されているディスプレイを指差した。
「同じ様なトラブルでもその原因や解決方法は殆ど異なります。でも、ほんの希に重なるケースがある。それを幾つも幾つも積み重ねていけば、理想的な解決方法が見つかるのではないかと思いまして」
「力ではなく、マニュアルでトラブルを解決出来るって言うの。矢田君は」
柳は面白い話を聞いたとばかりに、傷の付いた彼の顔を覗き込んだ。
「夢物語だな。それには気が遠くなる程のデータがいるし、本当に正しい解決方法かを検証する作業も果てしなく必要だ」
舞地の言う事はもっともだ。
俺も納得しかねるという視線で、矢田を見つめた。
「自分でも馬鹿げてるとは思っています。最初に思いついた時は、やる気も起きませんでした」
「それでもやるっていうの。何があなたを、そこまでさせるのかしら」
池上が真摯な表情で矢田に問いかける。
「……誰かがやるべき仕事ですから。僕が卒業するまでに出来なかったら、その後を誰かが継げばいい。その人が駄目なら次の人が、そしてまた次の人がやればいいんです」
気の遠くなりそうな、そして発案者である矢田の事すら忘れ去られるだろう作業。
それでもこいつは、目を輝かせて俺達に語っている。
いつか、その考えが実現する日をそこに見ているかのように。
「せいぜい、頑張ってくれ」
しかし舞地は何の感慨も見せず、矢田に背を向けて歩き出した。
柳は曖昧に微笑み、すぐその後に続く。
「本当、頑張るしかないわよね」
池上が俺の肩に触れ、後を付いていくように促した。
「冷たいな、お前は」
「理想は理想。現実は現実。名雲君も、分かってるでしょ」
そう言い残し、路地を後にする。
「あいつらの事は、あまり気にするな」
「ええ。本当に、申し訳ありませんでした」
頭を下げる矢田に苦笑して、俺も池上達を追った。
感心はしても、理想に感動する程甘くはない。
昔の俺ならともかく、今はただ現実を知るだけだ。
自分の置かれた立場と、その意味。
純粋さだけで生きてはいけない。
俺達は、そんな現実をくぐり抜けてきたのだから。




