第一話 見知らぬ幽霊少年
二〇一七年四月十一日。コンクリートの地面に散る桜の花弁を、いくつもの足跡が踏みにじった光景を覚えている。
わたしはまだ着慣れない中学の制服に身を包んで、鉄パイプの椅子に座っていた。耳に入るのは誰かのすすり泣く声とお坊さんのお経のみ。声が右から左へ流れるとはこういうことなんだろうな、とぼんやり考えながら時間が過ぎるのをじっと座って待つ。両親に続いて見よう見まねで焼香をあげ終え、再び席に戻る。またぼーっとしていれば、ようやくお経が終わった。
仕事を終えたお坊さんを見送って隣の部屋に移る。会ったことも、見たこともない親戚が和気藹々とテーブルに着いていくのが信じられなかった。仮にも、人が一人死んでいるというのに。
目元を赤くさせた母親の隣に座り、目の前に並べられた豪華な料理の山々に視線を滑らせる。名称もわからない、色とりどりの料理が妙にキラキラと輝いて見えていた。
父親が立ち上がり、手元の紙に書かれた文章を読み上げる。それは葬儀に参列してくれた親戚への挨拶と死んだ人物、わたしにとっては父方の祖母に当たる人に関することだった。内容はほとんど覚えていない。途中から父親も涙声になったおかげで聞き取れない箇所が多々あったからだ。しかし、父親のスピーチを聞いた何人かの親戚は涙ぐんでいた。ハンカチで目元を拭っていた。わたしはただ静かに、ぼーっと、料理を眺めていた。そんなわたしは親戚にどう思われていたのだろうか。
スピーチが終わり、食事会が始まった。注がれたオレンジジュースを飲み続け、よくわからない料理には手を出さない。食欲はなかった。ジュースでお腹を膨らませた。
食事会もあっという間に終わった。親戚は次々式場を後にして、わたしたち一家は明日の火葬のために式場に宿泊するらしい。残念ながらシャワーはないが、一日くらいなら……なんとか耐えられる。大丈夫。スマホの充電器もあるし。コマンドカード選択式の戦闘ソシャゲの周回でもしていれば時間もとけてる。だっていつもそう。時間は足りない。
本当に足りない。わたしだって、もっと祖母と会いたかった。話したかった。遊びたかった。寂しい。悲しい。悔しい。それは感じてる。思ってる。でも、どうして。
「泣けないの」
目元の赤い母。親戚の前で涙を流した父。羨ましくなるほどに、わたしは冷静だった。祖母の訃報だって、何故かスッと受け入れられた。
――でも、涙を流すのは恥ずかしいことだから。
知らず知らずのうちにわたしの中に根付いていた価値観。他人が泣くのはいい。好きに泣けばいい。しかしわたし自身が泣くことだけはどうしても受け入れられなかった。その点では式で泣かなくてよかったな、なんて思う。こんなこと、両親や亡くなった祖母に聞かれたらなんて言われるかわかったものじゃないけれど。
ブルーライトを浴びて、ポチポチと指先を動かして、時間がとける。時間をとかす。早く明日が来ればいいのに。
不意に空気が冷たくなった。隙間風だろうか。式場と宿泊部屋を区切る襖を見る。空いていない。しかし何故だろう。ピンと、頭の中に糸が張ったような感覚。気になって、拭いきれない違和感があった。
時計を見れば、二十三時。父親は既に布団で眠っていて、母親は動画サイトを閲覧している。見ているのは最近人気のアイドルだ。
さてそんなことはどうでもいい。わたしは布団から起き上がり、式場へ向かう。母には一言「どこに行くの」とだけ聞かれたが、トイレと答えればまた意識がアイドルの動画へ戻っていった。
散々履き潰された靴のかかとを更に履き潰し、そっと襖を開く。音を立てたか立てないか微妙なラインの余韻を残して開いた先には、誰もいなかった。それはそうだろう。だってもう深夜。いくら親戚でも来るのは遅すぎる。
そう思って視線を右にずらした途端、ぎょっとした。祖母の棺の前に、人影があったのだ。確かにさっきまでは誰もいなかったのに。
随分と小柄な……多分、わたしと同じくらいの身長……いや、わたしの方が少し大きいか? くらいの大きさをした子供。こんな時間に一人で何をしに? 保護者は? いやいや、そもそもうち(の祖母)とどんな関係?
たくさんの疑問符が頭に浮かぶ。子供は真っ白なローブを着てフードも被り、容姿は全く想像もできない。黒いローブなら死神かとも思えたけれど、これならまるで天使みたいだ。
ぽけーっと後ろから視線を送っていると、子供はようやくこちらを振り返った。
一言で表すなら、金髪碧眼の美少年。長い睫毛を鬱々と伏せて、足を踏み出す。ふと、目が合った。すぐにふいと逸らされてしまったけれど、わたしは妙に彼が気になってしまったのだ。
「あの」と、気が付いたら声をかけていた。美少年は驚いたように目を丸くして、再びわたしを見る。それこそ、幽霊でも見たような顔をして。
声をかけたはいいものの、何を言おう。考えるより先に行動に移す悪いクセをこれほど憎いと思ったことはない。一瞬で背中に冷たい汗をかいて口の中に唾液が溜まった頃、彼の方から口を開いた。
「きみ、僕が見えるの?」
「えっ」
時が止まった気がした。それこそ、幽霊を見た気分になった。サッと血の気が引いて逃げようと宿泊部屋の襖に手をかけた瞬間、首筋に何か針のように細いものが刺さった感覚がした。痛くはないが、すぐに全身から力が抜けてその場に崩れるように座り込む。
「ど、どうなってるの……⁉︎」
思い通りにいかない体を動かそうとするが全く言うことを聞かない。まるで金縛りにでもあったみたいに。金縛りなんて生まれてこの方なったことないけど。
そうこうしているうちに幽霊少年(仮)はわたしの真横に立っていた。しゃがみ込み、じーっとわたしの顔を見つめてくる。真夏のギラついた日差しを受けてきらりきらりと光が反射する爽やかな海のように澄んだ碧い瞳。吸い込まれそうな、ある意味で蠱惑的かつ知識欲を覗かせたその目をじっと見つめ返してしまう。あまりの美しさと神秘的な風景に、脳みそがぐるんと回る、感じたことのない奇妙な境地にまで辿り着いていると、幽霊少年は急にわたしの頬を抓った。
「いひゃいいひゃい!」
「やっぱり僕の幻覚じゃないよな……」
「じぶんのれためしらさいよ!」
ぱっと離れた指先から守るように両手で頬を押さえていると、幽霊少年はくすりと笑ってフードを外した。ふわりと広がる金糸のやわらかな髪。軋みや痛みなんて知りませんって顔で滑らかに舞う、月みたいに優しい色をしたショートヘア。男の子にしては長いそれが現れるとより一層、天使だと錯覚しそうだ。
「きみさ、蘭子さんのお孫さん?」
「蘭子って、おばあちゃんのこと……?」
聞けばそうだと頷かれる。
「僕は蘭子さんのお母さんの……きみにとってはひいおばあさんの知り合いなんだ。蘭子さん、亡くなっちゃったんだね。まだ若かったのに」
「おばあちゃん八十九だったけど……? 十分長生きじゃない?」
「聞けば死因は怪我だって言うじゃないか」
「まあ、発端は……お風呂で滑って尻もちついて、腰悪くしたんだっけ」
「それがなければ九十三までは生きたよ、蘭子さん」
「九十三⁉ って、なんでわかるの? ……あ、お、同じ幽霊だから、寿命が見えるとか……!」
「失礼だな。僕は歴とした生者だよ。ほら」
手首を掴まれて首筋にまで持っていかれた。確かに、どく、どく、と血液が脈打っている。
「い、生きてる……」
「だろ?」
「じゃあ、『僕が見えるの?』ってどういうことだったの?」
口から出た疑問に少年はにんまりと笑う。それは自分の企みが成功したような、かわいい子供の顔だった。
「きみには“素質”があるようだ。今日はもう遅いから、また今度ここに来てよ」
そう言って手のひらに握らされた紙切れには、『駄菓子屋しゑる』と書かれていた。折り畳み式で、中はスタンプカードになっているらしい。
じゃあね、とひらり手を振って式場から出て闇夜に消えていく少年。随分と失礼な子供だな、と思うと同時に、あのくらいの子供が何故わたしのひいおばあちゃんと知り合いなのだろう、とも考えが浮かんだ。
ひいおばあちゃんなんて、つい最近に十三回忌を迎えたばかりなのに。




