第七十二話 ハンカチ
「ぐ……あ……」
膝をつき、だらりと腕を脱力させたザカルは、薄れゆく意識を必死に保とうと、霞む目を必死に見開こうとしていた。
ここで倒れるわけにはいかない、自分の敗北はマリアの喪失を意味する。それだけは避けなければいけなかった。だが、ザカルの意志に反して、彼の瞼は重く、視界を闇に閉ざそうとしている。
ザカルは実感した、死を。
そうして、やがて腕だけでなく、体を支えていた筋肉まで、力が抜けていくのを感じ始めた彼は、悔恨を胸に燻らせながら、背中を花畑につけようとしていた。
だが背中は地面に背をつける前に、何かによって支えられる。
ーーなんだ……なにが……。
その答え合わせをするかのように、暗闇に声が響く。
「気張れよ! 痛いぞ!」
瞼の裏側からでもわかる暖かい暖色の光に照らされたと思った瞬間、ザカルの全身に激痛が走った。
「うがあぁぁぁあ!!」
みじろぎ、暴れ出すザカル。しかし思った通りに四肢を動かせない、体に力が入らないのもそうだが、誰かに体を押さえつけられている。
誰だ、ザカルは重たい瞼をなんとか開き、押さえつけている張本人を睨みつける。
同時に、驚きがザカルの胸を射抜いた。
ザカルを押さえつけているのはドンキホーテだった。やけに激痛が伴うのは彼のヘタクソな回復魔法が原因だ。
それがその行為自体が気付けになるほどの、まるで傷に塩を塗るような回復魔法をドンキホーテが、敵が施している。
「な……なぜ…………ッ!」
その事実は思わず口に出してしまうほどザカルに取って疑問だった。
「あー喋んな、痛いんだろ? 無理すんなよ」
気遣うような物言いで、ドンキホーテは回復の魔法をかけ続ける。
「私は……ッ! 敵だぞ!」
「そうだな、だが殺したいわけじゃないのさ。アンタもわかってるだろ?」
「ほい、これで止血完了」そう言ってドンキホーテはザカルの体を、押さえつけていた片手を離す。
「甘いな……」
そんなドンキホーテをザカルは睨みつける。
「私は諦めるつもりはない!!」
「そうかい」
「でも」とドンキホーテは笑い、言った。
「どんなに理由を並べようが、俺はアンタを殺すつもりはない、アンタに見せたい景色があるからな」
「はっ」ドンキホーテの腕の中で、ザカルは嘲笑う、負け惜しみのせめてもの抵抗だ、決して自分の意志を曲げるつもりはザカルにはなかった。
どうせ、この後、ロランあたりにこの時の牢獄の解除方法を魔法で頭から盗み出されるとしてもザカルは精神的な抵抗を諦めてはいない。
そんな男を見てドンキホーテは「はぁ」とため息を吐く。
「べぇつに、アンタを説得しようと思ってるわけじゃねぇけどよ……ほらよ」
ザカルの胸にドンキホーテが何かを押し付けた。力を振り絞り、胸に押しつけられた物を震えるザカルの手が掴み取る。
そしてその力尽きそうな手を眼前に運び、ぎこちなく手の拘束を僅かに解くと、手の中から紐に括られた指輪がこぼれ落ちた。
指輪は紐が手の隙間に引っかかり、ザカルの顔の前で静止する。
「アンタの帰りを待つ人がいるってことは、覚えておいてくれよ、その人は今も待ってるんだぜ。アンタが帰ってくるの」
何故か視界がぼやけた、ザカルは自分自身に起こった目の異常を不思議がった。やがてこめかみに流れ込む暖かい雫に気がつきザカルはやっと実感した。
ーー負けたんだな……私は……。
一人の男の、悔恨と、寂寞感の滲んだ涙、ドンキホーテは黙って見ていた。
「私は……失いたくない……!! 彼女を……!!」
懺悔する様に、吐き出すかのように男は慟哭する。頷くことも、相槌をうつこともドンキホーテはしない。
「マリアが……私の全てなんだ……奪わないでくれ……頼む……! 私は……1人になりたくない……!」
「……ごめんな…………」
ただ一言、ドンキホーテは心から滲んだ感情を現すと、肩に涙を流すザカルを担ぎ歩き始めた。
「俺は……それでも進みたいんだ」
その自身を支える少年の言葉にザカルは愛しき妻の面影を見た。
「ああ……知っているさ……私だけだ……囚われていたかったのは……」
その瞬間、花クジラの背が大きく揺れた。
「うお!!!!」
ドンキホーテは姿勢を崩す。ザカルを背負っていたこともあってか、体勢が立て直せずそのまま花畑に顔から突っ伏した。
何が起こったか分からず理解もできない困惑したドンキホーテを他所に、クジラは体を傾け始める。
「待て待て待て待て!」
ドンキホーテの制止の言葉など花クジラは聞く耳を持たない。そうしてそのまま背の外へと2人は放り出された。
「な! ザカル!」
突然の出来事に、ザカルの手をドンキホーテは離してしまった。空中に放り出されるザカルに向かって彼は手を伸ばすも、距離が遠すぎる、ドンキホーテの手は届かない。
いや、それよりも危険が迫っていることをドンキホーテは実感する。
クジラが襲いかかってきていたのだ。巨大な口を開け、全てを飲み込むかのように。
このままでは二人とも飲まれるとドンキホーテは瞬時に理解し、テレポートのルーン石を発動させる。
近くの宙に漂う塔の瓦礫に瞬間移動したドンキホーテは、万力を込めて塔を蹴り飛ぶ。ザカルはすでにクジラの口に入りかけていた。
「間に合えぇぇ!」
ドンキホーテは背後で、クジラの口から押し出された空気の圧を感じながら、ザカルを口内から救い出す。稲妻の如き、速さでそのまま中に浮かぶ民家の屋根に彼らは不時着する。
「いった……ザカル! 無事か?!」
心配するドンキホーテを横目にザカルは方向転換するために、華麗に舞うクジラを見て悟ったように言った。
「契約が切れたか……」
訝しげな顔をするドンキホーテに対して、ザカルは口を重々しく開く。
「ドンキホーテ、君は逃げろ、私はクジラに食われる」
「はぁ!? テメェ、話聞いてたのかよ! テメェがいなきゃーー」
「ーーいいから!」
突然の怒声に面をくらうドンキホーテを無視しザカルは話し続ける。
「クジラは、私の生命力が弱ったことを察したようだ、今なら下克上できると踏んだらしい」
「どうしてだよ……アンタの僕じゃあねえのか?」
「奴は、ただの邪神の類だ、無理矢理制御下に置いたせいで……相当なご立腹らしい」
他人事のように言うザカルに対してドンキホーテは声を荒げる。
「おまッ……! クソッ! だったら一緒に逃げるぞ!」
「無理だ」
「諦めるつもりかよ!」
「違う……私とクジラは縁で繋がっている、どんなに逃げたとしても限界がある」
「そして」とザカルは続けた。
「邪神との縁を結んだ私が死ねば、この世界に奴を縛り付ける枷は……縁は切れる。そうすれば必然と奴は元の世界に帰る事ができるだろう……これしか無い……これが最善だ」
諦め、それがザカルの言葉に染みついていた。全てを諦観したかのようにザカルは遺言を紡ぐ。
「最後に、マリアに伝えてくれ……」
しかしザカルの口が重々しく閉じる。マリアの別れを意識し、心が潰れそうになりそれが喉をつぶしたのだ。
だが言わねばならないこれが本当に最後になるのだから。
ザカルは口を開く。
「すまなかったと、そして……どこに逝こうと私は貴女をーー」
「その先は自分でいいな」
ドンキホーテはザカルの言葉と眼前の景色を塞いだ。
光り輝く蒼のマントを背負う背中をザカルに見せながらドンキホーテは剣を抜く。
方向転換をし終え、徐々に加速を始めて迫り来る花クジラを睨みつけているドンキホーテにザカルは叫ぶ。
「何をやっている! 逃げろ! 敵わない!」
「うるせぇ!!」
不安をかき消すかのように叫ぶドンキホーテ。そしてそのまま不敵に笑う。
「黙って見てな、俺が始末をつける」
そう言ってドンキホーテは右手に持った剣を左脇に潜り込ませるように地と水平に構える。呼吸を整え、探した。この状況を突破できる経験を。
あの、地獄のような経験の渦の中掴み取った戦士達の経験に、技に魂に、ドンキホーテは追憶し、そして求めた。
打破する力を、絶望を覆す希望を、停滞を打ち壊す一撃を。
やがて、答えは帰ってきた。
「三日月のーー」
ドンキホーテのその言葉と共に彼の身体に、蒼の光が迸る。それは力強くそして、暖かい。だが全てを否定するかのような暴力性を孕んだ破壊の光のようにザカルには見えた。
そしてドンキホーテは告げる、終わりを、答えを。
「ーー破軍翔破」
ドンキホーテは剣を横一文字に振り払う。そして美しい三日月のような弧を描いた斬撃の軌道からさらに光が放たれた。
その光は太陽のように眩しく、巨大で、真っ直ぐと大きく口を開くクジラに向っていく。
光はクジラの口を裂く。それだけでは留まらず口に着弾した途端にその輝きは破壊をクジラの身体中に伝播させた。
花が散る。地割れのように花クジラに亀裂が入り割れていく。
最後に身の毛もよだつような、奇声を上げながらクジラは極彩色の閃光を放った。
その断末魔は、ドンキホーテ達を包み込み、そして世界を包み込むほどの光を放っていった。
「はっ!」
ドンキホーテは目を覚ます。いつのまにか、椅子に座りテーブルについていた彼は目の前を見渡す。いつもの冒険者ギルドだ、いやそれどころか目の前にはレーデンスとロランがいる。
「あ、レーデンス?」
「ド、ドンキホーテこれは一体……時が戻ってるのか? まて! 今はいつだ!?」
不安が押し殺さず、二人はロランの方を向く。まるで答えを求めるかのように。しかし理解できていないのはロランも同じだった。
「なんだよ……僕も混乱してるんだ……一体何がーー」
「おい大変だ! みんな! 外! 外!」
ギルドにあわてた様子の冒険者の男が入り込んでくる、何事かとざわつく中、その男は冒険者の同僚から渡された水を喉に流し込んだ後、興奮した様子で叫んだ。
「外にでけえ鯨の魔物の死体があんだよ!!」
そうして、ドンキホーテ達の目の前に今広がるのは、民家、数十軒の屋根を背にその身体を預けている巨大なクジラの花クジラの死体だった。
「間違いないな……」
そう言って絶句するレーデンスの横でドンキホーテ頷く。
「ああ、終わったんだ、やったんだ俺たち……! やったなおい!! ロラン! ロラーー」
ロランの方を振り向いたドンキホーテはギョッとする、あの生意気で、子憎たらしいロランがボロボロと泣いていたのだ。
必死に堪えようとしているのだろう、涙を素手で拭いながらロランは押し殺すかのように泣いていた。
ドンキホーテは口元を綻ばせた後、懐を探る。
探し物を見つけたドンキホーテは、しゃがみ、ロランと同じ目線に調整した後、手の中にある物を差し出して言った。
「使えよ、ハンカチ」
その言葉に、ロランは嗚咽を漏らしながら問うた。
「なんで、知ってーー」
ドンキホーテは微笑みながら返した。
「だって……言ったろ? ハンカチ貸すって」
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