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 ああ、本当に面倒臭い。

 生きるってことはどうしてこんなにも面倒臭いことばかりなのか。



 駅の乗り換えの連絡橋を渡りながらそう思った。

 いや、毎日のように思っている。


 17時半を過ぎたターミナル駅の構内は、学生と社会人とその他が程々の割合で混ざり合い、帰宅ラッシュが始まる寸前の予兆のような喧騒に満ちていた。


 走行車線も追越車線も存在しない無法規道路を前から横から後ろからと数多の人間が行き交い、誰ともぶつからずに通り抜けるように歩く人々は、さながら古い時代のシューティングゲームのプレイヤーか。


 敵機に衝突すると物理ダメージだけでなく精神ダメージが入るという最悪の仕様をしており、ついでに電車通勤をする時点でプレイ不可避という鬼畜ゲー。



 そんな面倒なゲームを反射的にこなしながら、最寄り駅へと向かう路線のホームまで急ぐ。乗り換えは3分しかない。途中で数十秒もたついたら乗り遅れてしまい、次の電車まで7分も待たなくてはならない。


 いい加減にしてほしい。7分でどれだけ社会生活エネルギーを消費すると思ってるんだ。スマホ見て7分くらいすぐに潰れると思ったら大間違い。


 なんて考えてたら目の前から来たご婦人と危うくぶつかりそうになり、咄嗟に左に避けて事なきを得た。幼い頃の通学路でバイクとスレスレの距離ですれ違ったことを思い出し、あの時は命の危機すら感じたのに、今や人間と衝突する恐怖なんて通過後数秒で消え去るのか。鈍くなったもんだな。



 階段でホームまで降りるとちょうど電車が到着するところだった。

 間に合ったことに少しだけ安心したが、次の瞬間には別の憂鬱が脳を埋める。


 今から最寄り駅まで15分、車内でストレスを溜め続ける羽目になる。

 ドア脇の手すりのある部分は取れるだろうか。そこが取れないと車両中ほどのロングシートの前で吊革を掴むことになるのだが、ロングシートの前に立つのは正直あまり好まない。


 だって、目の前で座ってる人間に監視されているような気がするから。

 その人の手に持っているスマホの角度が上向きだと、盗撮されてるんじゃないかっていう疑念が生まれる。あと通路を通る人がぶつかってきて嫌な気分になる。ドア脇なら自分の後ろ側なんて気にしなくていいのに。




 結局、ドア脇は取れなくてロングシートの前に陣取った。せめてもの抵抗に目の前の席にいるのが女性のところに立った。こっちの方がマシだと思う。本当にマシでしかないけど。


 で、あと15分。とりあえずAirPodsを取り出して耳に付けて、適当にポッドキャストを再生する。今日の経済ニュースを伝えてくれる番組を2本流せば15分は潰せるだろう。耳を塞げば、車内の煩い会話も聞こえなくて済む。


 ニュースが流れる。地域間の文化格差のニュースだった。

 地方に在住している子供は、都会在住の子供に比べると芸術などの文化に触れる機会が少なく、学習機会や文化経験による感受性の成長などの面で格差を生み出しており、早急な是正が求められるのだという。



 一応この国の首都がある都道府県で育った人間としては、確かに地方に住んでいたら今の自分の感性には至らなかっただろうと思う。


 なんだか自分が悪いことをしている気持ちになる。

 偶然生まれた場所が都会だったから良い思いをして文化に恵まれて育って、運悪く地方に生まれた人との格差を生んでいる。申し訳ない。私程度の人間が恵まれて、自分よりよっぽど真面目な人たちが文化格差をもろに受けている。



 はあ、ニュースなんか聞くんじゃなかった。やめやめ。

 もういいや音楽に切り替えてなんか適当に流してあと10分我慢しよう。


 サブスクを開いて、でもお気に入りのプレイリストには何も入ってなくて、とりあえずこの新着リストを流して誤魔化すことにしようか。



 知らない曲が流れる。イケメンっぽい男性の声。

 アーティスト名を見ると、SNSで名前を見かけたアイドルグループだった。名前だけ知ってる。本当にその程度。だって他人に興味ないし。


 ――いや、名前だけじゃないな。もう一個知ってる。

 あの時のSNSのニュースで見たのは、このグループのファンたちがCDを大量に購入してオリコン週間ランキングの1位にランクインさせたという情報だった。


 そのニュースに連なっていた当事者たちの投稿には「私たちの頑張りでゆーくんを1位にできてよかったです!」「これからもゆー活頑張りましょうね☆」などの明らかに若年層女子っぽい文体が並んでおり、ひとまず「ゆーくん」というメンバーがいることが伝わって、後はよくわからなかった。


 その先の投稿も適当に眺めたところ、一人でCDを何十枚も購入しているファンの投稿も見られ、そこで吐き気がしてSNSを閉じた。


 甘い言葉で客から金を巻き上げてるゴミ企業がこの世に蔓延っていることは当然知っているし、人間は感情を動かされた瞬間に金を払うチョロい生き物だってことも十分承知してるが、それにしても平然と人間の心を掘り起こして金を搾り取る手口を見ていると同じ人間とは思えない。




 エーリッヒ・フロムというドイツの学者がいた。

 氏の代表作である『自由からの逃走』は、当時のドイツの民衆がナチズムに傾倒した原因を分析した著書として後世まで読み継がれている。


 その中で、民衆は宗教改革などによって束縛や抑圧から解放されて(消極的な)自由を得たが、その先で何かを成し遂げるという積極的自由を得ることができず不安を覚え、不安を消してくれる権威を求めてヒトラーに傾倒していったと記されている。


 このアイドルグループのファンたちは、自分で何かを成し遂げるという積極的自由を得られず、好きなアイドルに貢ぎ続けることで自尊心や安心感、一体感を獲得し、その感覚を捨てることができずにファン活動へ傾倒しているのだろう。


 世界はいつだって巻き上げる側と巻き上げられる側で出来ている。

 その事実に余計気分が悪くなる。




 音楽を止めたら、イヤホンは何も音声を流さなくなった。

 ノイズキャンセリング機能が車内のくだらない喋り声を懸命に消そうとしてくれている。もういっそのこと電車の走行音を暴走族のバイクくらいの音まで大きくしてくれれば、もう世間の声なんて聞かずに済むのに。



 はあ……やっぱりなんか流そう。

 YouTubeでクラシックピアノの演奏とかを流せば、今度こそ雑念は生まれない。


 私はもう一度スマホの画面を指でタップする。






 ―――






 誰もいない部屋に帰り着く。時刻は18時少し前。


 通勤用の鞄からイヤホンケースと弁当箱だけを引っこ抜き、片付けと夕飯の準備を進める。昼休みに空になった弁当箱は一応軽く洗ったけど、洗剤までは使えてないので早くしっかり洗わないと汚れが残るかもしれない。


 あっ、でも先にメイク落としたいし、Tシャツとジャージに着替えたいし、でも財布の中のレシートも整理したいし、あと立ち上げたPCで巡回してるサイトを開きたいし……ああもう面倒臭い。やることが多すぎるんだよ。


 家に帰れば心が休まるって思ってたのに、結局休まらない。

 他人がいないだけ遥かにマシなんだけど。そうなんだけど。



 さて、この先のスケジュールも決めないといけない。


 明日も出勤だから朝6時起床はマスト。9時間寝るには21時就寝が必須。

 となると20時半には就寝前の薬を飲まないといけないが、胃が空っぽな状態で飲むのは怖いし、適当に摘まむロールパン1個を20時20分に食べて、30分までの間に歯間ブラシで歯を磨いておき、30分に飲んで、すぐに歯ブラシで歯を磨いて、45分には部屋の電気を消して就寝前のシャットダウンの時間にし、55分には布団で横になり、21時には意識がぼーっとし始めるので程なく就寝できるはずだ。経験則的にこうだ。


 ロールパンを食べるのが早すぎると胃が空っぽのまま薬を飲むことになってしまい、じゃあ早く薬を飲むと寝るよりも前に意識が朦朧としてきて、ベッドに入る前に全身の倦怠感で死にかねない。かといってロールパンを食べるのが遅いと寝ようとした時にもまだ胃が重く、就寝の妨げになる。つまり今決めたタイミングしかありえない。


 20時20分にロールパンを食べるとなると、20時までにはお風呂から上がっておきたいし、お風呂が20分と考えると19時40分には入浴しないといけない。しかし運動直後に入浴は良くないと聞くので、19時30分には日課の有酸素運動を終えないといけない。運動は30分予定だから19時スタートになる。この日課の運動を欠かすと本当に体調が悪くなってしまう。


 しかし、夕飯後すぐに運動はできないので、夕食後30分は空けたいし、18時半までには食事を終えないといけない。食事20分と仮定して18時10分食事開始。すると夕食の冷凍弁当は18時2分には加熱開始し、18時7分からは冷凍した白ご飯を解凍しないと間に合わない。となると18時には片付けを終えておきたい。




 ……あっ、片付け終了予定時刻、たった今過ぎた。



 待ってほしい。まだメイクすら落としてないんだけど。

 このまま顔面に肌を痛める物質を塗りたくったまま家で過ごしたくはない。


 はあ、早く済ませないと。

 でも、元々肌が弱いからちょっと急いで適当に落とそうとしたらすぐ肌が痛くなるんだから困る。もっと強い肌に生まれてればよかったのに。本当に困る。


 面倒臭い、ああ本当に面倒臭い。

 家でのスケジュールをいちいち立てないといけない自分も面倒臭い。


 わかってる。ここまで考えてる自分が馬鹿だってことくらいわかってる。

 でも仕方ないんだよ。これくらい考えて自分の体調とうまく擦り合わせて行動しないと絶対どこか悪くなるんだよ。他人から見たらなんでそんなに神経質になってんの?とか言われるって知ってるけどどうしようもないんだよ。


 こんな風に考えないといけないのって私だけなの?

 違うよね? 同じような人は世の中にもたくさんいるよね?


 でも自分からは見えないし、SNSでそういう人を探してみると投稿内容がメンヘラっぽかったり、過度に感情的になってたりして気持ち悪くて見てられない。



 まるで自分だけが生きづらくてしょうがないように思える。

 絶対そんなことないし、もっと生きづらい思いをしてる人は山ほどいる。


 わかってる。わかってるのに、自分だけが悲劇の主人公に思えてくる。

 この苦しい気持ちはネットに吐き出してもメンヘラの共感の餌に使われるだけで、現実で話しても考えすぎと言われるだけで、誰にも言えない。



 ねえ、なんでまだ生きてるんだろう?

 こんなに苦しいなら死ねばいいのにね。だってそれが最短の逃げ道じゃん。


 人生の苦痛全てから逃げ切って、もう何も感じなくて済むようになるための最善手は自殺だ。本当に不幸な自殺は世の中に溢れてるけど、世界から逃げ切ることができた幸福な自殺だってきっとたくさんある。



 そういう人たちのことが羨ましい。

 自分もそこに行きたい。でも実行できないのは失敗が怖いからだ。


 もし首を吊って失敗したら、どんな後遺症が残るかわからない。

 それは私にとって真の破滅であり、死よりも苦しい現実を甘受し、再度自殺を図ることすらままならなくなる最悪のルート。絶対にそれだけは嫌だ。



 だから、私はまだ生きてる。


 こんなゴミみたいな人間が溢れる世界で、自分だけが苦しくて生きづらいと思いながら、いつか苦しまずに確実に死ねる日を待ちながら暮らしている。



 ……今日はもう、趣味に手を付ける時間はない。

 デスクトップPCの画面に立ち上がったそのプログラムを動かす余裕はない。



 早く夕食を済ませて、運動して、お風呂入って、薬飲んで、寝よう。


 今夜は悪夢を見ないといいな。

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