28話 会いたい
ふと目を開けると、空賀彼鉈は青信号のスクランブル交差点に戻っていた。
太陽が輝いており、暑さが滲み出る。
「──っと、危ねえな兄ちゃん」
「あ、ごめんなさい」
少しヤンキー風の男性が立ち止まっていた彼鉈とぶつかった。
彼鉈は反射的に頭を下げる。
「大丈夫か? ぼーっとしてたぞ」
「はい……大丈夫です」
男性は怪訝そうな顔をしながら、人混みの中へ消えていった。
昨日までなら、こんな何気ない出来事すら気にしなかっただろう。
けれど、昨日の世界には誰もいなかった。
信号だけが変わっていた。電車だけが走っていた。広告だけが流れていた。
それなのに、今は人がいる。
世界がある。
「……戻ってきたん、だよな」
小さく呟く。
けれど、喜べなかった。
トレヴォの言葉が頭から離れない。
──生死の境界が揺らぎ始めている。
──このまま繰り返せば、世界そのものが終端に近づく。
──超新星。
そんな言葉を聞いたところで、現実感なんて湧かなかった。
ただ一つだけ、分かっていること。
「……会いたい」
看空さんに。ただそれだけだった。
彼女を思いながら、彼鉈はスクランブル交差点を渡った。
人混みを抜ける。
昨日、誰もいなかった道を歩く。
そして、一軒のカフェの前で足を止めた。
ここだった。ライブハウスの近く。
看空と初めて出会った場所。
コミュ障すぎて全く会話ができなかった場所。
初めて、彼女の笑顔を見た場所。
「……」
ドアを開ける。
カラン、と小さなベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
店員の声。
それだけで、少し安心した。
いつものように席へ向かう。
窓際、二人が初めて座った席。
彼鉈は椅子を引き、腰を下ろした。
スマートフォンを取り出す。
DMを開く。青凪看空の欄で指が止まった。
何を書けばいい。
謝る?昨日のことを謝る?
それとも、トレヴォの話をする?
超新星、世界の終わり。
そんなことを急に言われても、看空さんはきっと困るかな。
画面を見つめる。何度も文章を打っては消した。
『昨日はごめん』
消す。
『大丈夫?』
消す。
『今どこにいる?』
消す。
そんなことを考えているうちに、気づけば14時になっていた。
時計の針を確認した後、一番簡単な言葉を入力した。
『今日、ここでずっと待ってる』
送信。すぐに既読はつかなかった。
彼鉈はスマートフォンを机の上に置いた。
「……来るかな」
誰に聞くでもなく呟いた。来なかったとしても、それは仕方ないのこと。
昨日、自分は「分かった」と言ったのだから。
放っておくと言った。
「……待つくらいなら、いいよな別に」
窓の外を見る。
太陽は、まだ高かった。
◇
同時刻。
豊洲に拠点を置く、サマーカルム・エンターテイメント本社では役員会議が行われていた。
「それでは、次の議題に移ります」
またこの声、部屋。資料。時間。
「我々が取り組んでいる児童支援事業についてですが──」
看空は椅子に座っていた。背筋を伸ばしている。
両手を膝の上に置く。
視線は正面。
口元には、僅かな笑み。
完璧な姿勢。完璧な表情。
完璧な青凪家の娘、を演じている。
「……はい」
自分でも分からない。
何回目なのか。
十回目かもしれない。
二十回目かもしれない。
もっと多いかもしれない。
最初の頃は彼鉈と同様数えていた。
一回。二回。三回。四回。
けれど、途中から分からなくなった。
同じ人間が、同じ言葉を。
同じタイミングで。同じ仕草をする。
もちろん些細な変化はあれど、大体同じだった。
母親が資料をめくる。
右側の役員が咳払いをする。
向かいの男がペンを置く。
そして。
「青凪さん、こちらについては──」
「失礼しました。看空さん、こちらについてはどう思われますか?」
来る。
分かっている。
「……私としては、将来的な展開を考えれば──」
口が勝手に動いた。答えも知っている。
何を言えば喜ばれるのか。
どこで笑えばいいのか。
どこで頷けばいいのか。
全部、全部知っている。
「……」
途中で言いかけて、どうでもよくなった。
「……看空さん?」
「……」
返事をしない。
「看空」
母親の声。
「……はい」
また笑う。
また答える。
また続くんだ。同じ一日が。
同じ会議に同じ人生。
「……」
看空は机の下でスマートフォンを握った。
通知はない。画面を開く。
何もない。
もう一度閉じる。
そして、また開く。何もない。
「……」
どうして、こんなにも気になるのだろう。
あれだけ喧嘩したのに。
『放っておいてよ』
自分で言った。
『……分かった』
彼鉈は、そう言った。
それで終わったはずだった。
なのに、終わっていない。終われていない。
会議の声が遠くなる。
「……」
看空は目の前の資料を見つめた。
文字がぼやけて見える。
──会いたい。
そう思った。
でも。
「……駄目」
小さく呟く。
会って、また喧嘩したら。
また傷つけたら。
今度こそ、本当に嫌われるかもしれない。
それが怖かった。
だから、今日は行かない。
そう決めた。
決めたはずだった。
14時頃に役員会議は終わる。
「終了時刻になりましたので、これにて役員会議は終了します」
「皆様また来週に」
いつも通り。
看空は急いで自宅へ戻った。
扉を閉め、ベッドに腰を下ろす。
静かだった。
あまりにも静かだった。
「……」
スマートフォンを見る。
何もない。
けれど、数分後。
画面が光った。DMの通知だ。
「……え」
指が震えた。
恐る恐る開く。
『今日、ここでずっと待ってる』
短い文章と、カフェの写真。
たったそれだけ。
「……」
看空は画面を見つめた。
ここ、この言葉だけで分かる。
初めて会ったカフェ。
「……なんで」
来ると思っていなかった。
来てほしいと思っていた。
でも、来られると困る。
「……ずるい」
ボソッと呟く。
会いに行けばいい。
ただ、それだけなのに。
それができない。
スマートフォンを伏せる。
ベッドに倒れる。
「……行かない」
目を閉じる。
「今日は、行かない」
もう一度言う。
「……行かない、し」
けれど、時間だけが過ぎていく。
午後6時。午後7時。午後8時。
......午後9時。
看空は何度も時計を見た。
そのたびに、同じことを考えた。
まだいるかな。もう帰ったかな。
待ってるって言ったけど。
本当にずっといるのかな。
「……馬鹿だね、ほんと」
自分に言う。
そして、時計は午後10時を指した。
看空はベッドから起き上がった。
クローゼットを開ける。
服を取り出す。帽子を取る。
鏡を見る。
「……」
自分の顔を見る。
酷い顔だった。
目の下には薄く隈がある。
髪も少し乱れている。
「……こんなんじゃ」
会えない。そう思った。
でも、手は止まらなかった。
上着を羽織る。バッグを持つ。
扉を開ける。
廊下に出た。
「お嬢様?」
使用人の黒木が驚いた顔をする。
「……ちょっと出てくる」
「この時間からですか?」
「うん」
「旦那様と奥様には──」
「言わなくていい」
「しかし……」
「お願い」
黒木は黙った。
「……どちらへ?」
看空は答えなかった。
ただ、スマートフォンを握りしめる。
「……大切な人に会いに行くの」
自分でも驚いた。
そんな言葉が口から出たことに。
黒木はしばらく看空を見ていた。
「……お気をつけて」
「……ありがとう」
看空は玄関を出た。
「これでクビになったら給料もらえるのかな...」
黒木の悲惨な呟きは、風とともに消えていった。
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