16話 Morning
7月19日、朝4時40分。
まだ夜が少し顔を出している時間。
空賀彼鉈は、アラームをセットした時間よりも早く起きてしまった。
「......ん」
昨日もあまり眠れていない。
青凪看空から届いた、深夜のDM。
『今から会えない?』
そこから始まった、午前6時の約束。
ベッドの上でしばらく天井を見つめていた。
「……なんでこんな早起きしてるんだろ」
答えは分かっていた。看空に会うためだ。
けれど、それを認めるのは少しだけ恥ずかしかった。
彼女をどうすれば救えるのか、そればかり考えていた。
生死の境界の管理人であるトレヴォは言った。
──お前自身が、彼女のそばにいるしかないだろう。
でもそばにいるって、具体的にはどういうことなんだろうか。
励ますのか。話を聞くのか。楽しい場所へ連れていくのか。
それとも、彼女の抱えている問題を全部解決するのか。
どれも正解のような気がして、どれも違うような気がした。
ずっとこのことが彼鉈の頭を支配していた。
だから、とりあえず会う。それだけでいい。そう思うことにした。
顔を洗い、適当に髪を整える。
財布とスマートフォンだけをポケットに入れ、静かに家を出た。
「行ってきます」
小声で言う。当然だが誰も起きていない。
外に出ると、思っていたより涼しかった。
蝉の声もまだ少ない。
朝の空気は、昼間とはまるで違う。
ゆっくり駅まで歩き、電車に乗る。
車内には、仕事へ向かう人が数人いるだけだった。
眠そうな顔をしている人。缶コーヒーを握っている人。
イヤホンをつけたまま、窓の外を眺めている人。
誰も、自分たちの世界が一日巻き戻っていることを知らない。
そう思うと、不思議な気分になった。
「……僕と青凪さんだけ、か」
口に出してから、少し怖くなる。
世界に2人だけ取り残されたような感覚。
それなのに、なぜか嫌ではなかった。
◇
午前6時20分、渋谷。
普段なら人で溢れているスクランブル交差点も、まだ朝の顔をしていた。
近くでは清掃員が歩道を掃除している。
シャッターの閉まった店、開店準備をする飲食店。
夜を越した人たちが、眠そうに駅へ向かっていく。
ハチ公前へ向かう。
「……いた」
水色の髪。ベージュのベレー帽。
青凪看空は近くのベンチに座っていた。
僕に気づくと、少しだけ目を細める。
「おはよう」
「おはよう」
「早かったね」
「そっちも」
「私は……」
看空は小さく欠伸をして、口元を隠した。
「眠れなかったから」
「……そっか」
それ以上は聞かなかった。
聞けば話してくれるかもしれないが、今はそれを聞くことが正しいのか分からなかった。
「朝ご飯、食べた?」
「食べてない」
「じゃあ何か食べようか」
「……うん」
二人で歩き出す。
朝の渋谷は、昨日までとは少し違って見えた。
「今日、何する?」
「それを今から考える」
「決めてないの?」
「決めてない」
看空が笑った。
「なんか安心した」
「何が...?」
「少しクマができてるから、夜遅くまで何かしてたんじゃないかなって」
「……まあ」
少しだけ考える。
「ちょっと調べ物をね...今日はやめようかなって思ってる」
「どうして?」
「分からないから」
看空がこちらを見る。
「分からない?」
「うん」
「幸福って何なのかも」
「……」
「どうすれば青凪さんが元気になるのかも」
彼女は何も言わなかった。
「......だから」
互いの顔を見合う。
「今日は、何も考えない日にしよう」
「それでいいの?」
「いいんじゃない?」
「この感じ、私明日も役員会議あるんだけど」
「知ってる」
「課題もある」
「それは僕もある」
「……ふふ」
笑い声が、朝の渋谷に溶けた。
その瞬間だけ。
昨日までの重たい空気が、少しだけ消えた気がした。
◇
最初は水族館に行こうという話になり、朝早くからやってる場所を探して池袋へ行った。
「朝から水族館って珍しくない?」
青凪さんが電車のなかで問いかける。
「そう?」
「普通もっと昼からとかじゃない?」
「だって、他に思いつかなかったし」
「雑だなぁ」
まぁ近くの良いスポットとかを調べただけなんだけど。
「じゃあ帰る?」
「それは嫌」
「どっちだよ」
看空が笑う。
水族館に着き、入館料を支払う。
水槽の中を泳ぐ魚を見ながら、二人で歩く。
青い光が、彼女の水色の髪に重なっていた。
「綺麗」
「魚が?」
「……そう」
「今、絶対魚じゃなかったよね」
「気のせい」
「そういうことにしておく」
クラゲの水槽の前で立ち止まる。
透明な身体が、ゆっくりと上下している。
「なんか不思議だね」
「何が?」
「同じ場所なのに、ずっと動いてる」
「クラゲ?」
「うん」
「……人生みたい」
「急に重いこと言うじゃん」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
二人で笑い合った。
昼になり、近くの店で食事をした。
会計を済ませて外へ出る。
前と同じ道を歩いているはずなのに、工事中だった場所に新しい看板が出ていた。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「昨日ここ、工事してたような...」
「昨日?」
「いや、なんでもない」
まだ確信はなかった。世界が変わっている。
そう考えるには、あまりにも小さな変化だった。
その日の午後。
彼鉈と看空は映画館へ足を運んだ。ラブストーリーの映画を見ようとしていた。
「映画って、スクリーンに向かってる時間の方が多いのにデートの定番なの面白いよね」
「......言われてみれば確かに」
その後はカフェへ行った。
この前までならそこで終わっていたが、今日は違った。
「ライブ、行ってみる?」
アイスカフェラテを飲みながら、彼女はそう言った。
「ライブ?」
「私、結構好きなんだよ」
青凪さんがスマートフォンを見せる。
「今日、小さいライブハウスでやってるみたい」
「……行こうか」
「いいの?」
「うん」
夕方、小さなライブハウス。
大音量の音楽。暗い照明。人の熱気。
看空は楽しそうだった。
彼鉈が死のうとしていたあの日、Kanaryyard Rockleのライブハウスにいたときと同じ表情をしていた。
博物館で見せていた顔とは全然違う。
音楽に合わせて、少しだけ身体を揺らしている。
その横顔を見ながら、僕は思った。
──この時間が続けばいいのに。
そう思った瞬間、自分でも少し驚いた。
最初は違った。彼女を救わなければならないと思っていた。
なのに今は、
「……楽しいな」
「え?」
「いや」
「何?」
「こっちの話」
ライブが終わる。
外へ出ると、夜の渋谷は昼間よりずっと明るかった。
青凪さんが夜空を見上げる。
「今日、楽しかったね」
「うん」
「また来たい」
「また来ればいいじゃん」
「……そうだね」
その言葉を聞いた瞬間。
彼鉈の胸に、妙な安心感が広がった。
◇
午後10時の渋谷駅。
「じゃあ、またね」
「うん」
「今日はありがとう」
「こっちこそ」
看空が地下鉄の改札へ向かい、彼鉈はその背中を見送っていた。
人混みに紛れていく水色の髪が見えなくなる。
「……」
一人になった瞬間。さっきまで楽しかったはずの世界が急に静かになった。
スマートフォンのメッセージを見る。
『今日はありがとう』
送信すると、すぐに既読がついた。
『こちらこそ』
それだけ。
この後電車に乗り、帰宅したのは午後11時を過ぎた頃だった。
ベッドに倒れ込む。
「……疲れた」
けれど、嫌な疲れではなかった。
スマートフォンを見る。
明日は何をしようか。そんなことを考えている自分に気づく。
昨日までなら、どうすれば看空を救えるか。
そればかりだった。でも今は違う。
「……明日は何しようかな」
その夜、彼鉈は久しぶりにすぐ夢の世界へ入ったのだった。
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