13-6 暁闇
轟音が、轟く。
もうもうと立ち込める土煙が、僅かに収まった時、最初に声を上げたのは、イザベラだった。
「何を…しているんですか…!」
ほとんど、泣いていた。
階下の炎に焼き尽くされて、天井を支え切れなくなった柱はその役目を手放した。そして、巨大な天井の一部が崩落した。王座の間を分断するように、崩落した天井の真下にいたイザベラは、無傷だった。
何者かが、彼女を突き飛ばした。
体勢を崩して逃げ遅れた彼女を突き飛ばしたのが、ウルサーン国王だった。
崩れ落ちる一瞬前に飛んで避けたアリアの腰を、更にさらったシグルーンは、呆然とその様子を見ていた。
半身が天井の下敷きになりながらも、王は生きていた。真っ赤な血だまりが、じわりじわりとその面積を増やしていく。咳き込んだ拍子にごぽりと血反吐をはき、喘鳴の混じる吐息のうちに、イザベラに何事かを囁く。
「…分かり、ました。」
彼女はきりりと奥歯をかみしめてすべての言葉を喉の奥に飲み込んだ。
天井は落下し、難を逃れたというのにアリアは真っ青なまま、細かく震えていた。
「ぅあ…。」
両手で顔を覆って、ふるふると頭を振る。黙したまま、掌の隙間から、大きく息を吸い込んだ。そして、何かを決したように顔を上げた。
震える手でシグルーンから離れると、ウルサーン国王のもとにしゃがみこむ。
「…シグは、いい奴なんだけど…。」
怪訝そうな顔を、イザベラが上げた。
「違うな…うん。何て言ったらいいんだろ。」
ふとイザベラの方を見上げ、その後、ちらりとシグルーンの方にも視線を投げた。
階下からは、あいも変わらず怒号と、炎の食い散らかす音が聞こえる。
すぅっと息を吸い込んで、アリアは口を開く。
「雪崩が、来る。間もなく、だ。」
冷気をまとわりつかせながらアリアがはっきりと宣告する。
はっきりとシグルーンが緊張した。
「氷の一族がいない今、雪崩はいつ起こってもおかしくはない。…今、この城は燃えている。さて…この城が燃え落ちたとしたら、城が堰となってとどめている山脈の雪が雪崩落ちてくるのは明白。」
にじみ出る冷気ははっきりと周囲を凍らせていく。それに合わせるように、アリアの表情も凍りつく。
白い、けぶる睫毛を僅かに伏せて続けた。
「本気で逃げれば、遊撃隊は間に合うかもしれない…けど、下の民衆は確実に全滅だ。」
イザベラが唇を噛んだ。僅かに、血がにじむほどに。
「それだけなら…最悪、仕方ないかもしれないけど。さっきも言ったように、氷の一族は今いない。一つでも雪崩れれば、アレストリアとは違ってこっちは人為的な雪崩じゃない。抑えがなくなった状態…だから、そこから先は雪崩が次々おこるだろう。ウルサーンは山沿いに耕作地帯が広がっていた…来年以降、復興がさらに遅れるはず。」
そこで、ようやくアリアは話を途切れさせた。
茫然とするシグルーンも、イザベラも意に介せずアリアはウルサーン国王…セレスタンに尋ねた。
「…どうする?」
少しだけ、笑って。
「どうしようも、ないだろう…?……何もかもが、無意味だったとは…。」
絶望に沈む瞳で、彼は血だまりの中から答える。
ふっとアリアが破顔した。
「あんなこと、言ってたけどやっぱり国の、国民の、ためじゃない。…さっきも言ったけど、シグは良い奴なんだ。この国から搾取することはないし、お兄さんたちから嫌われてるみたいだから、アレストリアに組することもないんじゃないかな?」
アリアの周りでははっきりと床が凍りつき始めていた。セレスタンが流した血はとっくに固まっていた。空気が煌めく。
「おい…っ!」
シグルーンが慌てたようにアリアの肩に手を掛け…ようとして、弾かれたように腕を引いた。
空気が煌めくのは、空気中の水分が凍りついて、煌めいているせい。
シグルーンが慌てたのは、アリアの言葉か、はたまた、その冷気か。
「ダメかな?」
ぱきぱきと氷を砕いてアリアは振り向いた。にっこり笑って、シグルーンの方を。
放射状に氷は広がっていく。かつて、アリアの居た、牢がそうであったように。空気が凍りつき、水蒸気が煌めきながら降る。
「ア、リア…!」
叫ぶシグルーンとは対照的に、イザベラはかたかたと震えて立ちすくんでいた。
「そうしてくれると嬉しいんだけど。…どうかな?」
大きく目を見開いたシグルーンに、すがる様な声がかかる。
「…頼…む。アレストリアの、王…子。…シグ、ルーン。」
血と、喘鳴の混じったひどく聞き取りにくい音。それでも。
「…承知、した。あなたの用意した台本通りになるだろうが。あなたは、悪役のままで、構わないと?」
イザベラがそれを聞いて、膝から崩れ落ちた。彼女の仕える王のそばに屈んで、そっと手を握った。
「…後の、ことは、頼む…。」
氷の浸食がすすむ城は、急激に冷えてゆく。
空気が凍りつき、気圧が下がっていく。ざわざわとアリアの周りに風が吹き込む。
ゆっくりと王座の間の巨大な扉が吸い込む風で、内側へ向かって閉じようとしていた。
「さあ、行って。シグも、あなたも。」
そっとアリアが立ち上がると、一段と気温が下がる。
ウルサーン国王の手をそっと握ると、イザベラは顔をぬぐって立ち上がった。一度だけ振り向くと、目礼だけを残し、扉の向こうへと消えて行った。
ひどく緩慢な動作で、シグルーンも立ち上がり、王座の間の扉に手を掛けた。
ひびの入った柱や、壁の隙間を這い上るように氷が埋め尽くしてゆく。じきに、その巨大な扉も氷に覆われてしまうだろう。
階下で、猛威を振るっていた炎は、極低温にふれた場所から次々にその身を縮め、代わりに、氷が城の中を征服する。霜に覆われた城は、真っ白に染まる。
扉の向こうに立ち尽くすシグルーンの元にアリアがゆっくりと近づいた。その一歩を踏み出す度に霜柱が立ち上がり、踏まれて、砕けおちる。
凍りついた様な顔を、少しだけ笑みの形にした。
白い顔の上で氷が砕ける。
「そんな顔しないでよ。ちょっと寝るだけだし。」
怒号と轟音は氷に食らいつくされ、代わりに静寂が辺りを支配していた。
「…みんなが目覚めるまで、暫くかかるし、さ。…ちゃんと約束は守ってよ?」
シグルーンは何か言いたげに、だが、全て、胸の内にしまい込んだ。
「分かっている。」
「あ、そうだ。シグには言ってなかったかもだけど…この寒波は来年以降は収まるはずだよ。アレストリアも、ウルサーンも、きっと元に戻ると思う。」
唇を引き結んだまま、アリアを見つめた。
「…もしも。」
聞こえないほど、小さな声でアリアが呟いた。まなじりの涙はこぼれて、頬を伝って、凍りつく。
「もしも、もしも、シグが人間としての生を終わらせた後で、それでもまだ、私の事、覚えててくれるなら、迎えに…迎えに、来てくれたら、嬉しい…。私は…待ってる。…いつでも、ここに居るから。」
小さな囁きは唇からこぼれるたびに凍りつくようだった。
涙は一つ残らず零れ落ちる前に凍りつく。
だから、とアリアは笑った。
「今、シグの事を待ってる人たちの所へ、行って。」
「必ず!…」
シグルーンが言い終わる前に、巨大な扉は吸い込まれるように閉じた。扉の隙間も、全て氷が埋め尽くしてゆく。
「…迎えに、…。」
断絶された扉の向こうに呟いた。
ただ一つ、重い、深い溜息をその場に落としてシグルーンはつま先を返す。
民衆は、英雄の凱旋を待っている。
こぼした真っ白な溜息は煌めいて、凍りついた。
真っ白な夜は終わりを告げて、
陽が、登る。
シグルーンのつま先の氷も、朝日を弾いて、真っ赤に輝く。アリアの瞳のように燃え盛る、生命の色。
奇跡を起こした城は、朝日に煌めき、新しい時代を歓迎する。
輝く暁に、虚ろな英雄は、凱旋する。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
完結まであと3話のつもりです。お付き合いいただければ幸いです。