第4話「砕けた脚と、立ち方を教わった日」
深淵での生活も二週間が過ぎた。
毎朝の歩行訓練、空属性の練習、光る茸のスープ。繰り返しの中に少しずつ変化がある日々だ。デンドロイドの義足も、だいぶ言うことを聞いてくれるようになった。
そして今朝。俺はオリーゼに言った。
「ちょっと、外に出てみてもいいですか」
オリーゼは本から目を上げた。朝食のスープを飲みながら、何やら分厚い書物を読んでいる。いつものことだ。
「外?」
「空属性の練習です。屋敷の中だと慣れすぎちゃったんで、外でも『繋がる』感覚を試したくて」
半分は本当だ。もう半分は、単純に外を歩きたかった。
この二週間、俺の行動範囲は屋敷と中庭、そして一度だけ行った里がほぼ全てだ。深淵の森がどんな場所なのか、自分の足で確かめてみたい。二十三年間、倉庫の中で荷物を運ぶだけの日々を過ごしてきた人間にとって、未知の領域という言葉は、恐怖より先に好奇心を刺激する。
……まあ、一度真っ二つにされている森なんだが。
「いいわよ。でも、屋敷から見える範囲にしなさいね」
「はい」
「あと、魔氣の残量には気をつけて。前みたいに魔氣切れを起こしたら、義足が動かなくなるわ」
「分かってます」
俺が立ち上がると、肩の上でノクタが「クー」と鳴いた。
「お前は留守番な」
「クー」
不満そうだが、ノクタは俺の肩から飛び降りて、テーブルの上に着地した。小さな手でスプーンを掴み、スープの残りを飲み始める。行儀が良いのか悪いのか、よく分からない生き物だ。
玄関を出ると、中庭にリュートがいた。いつものように丸くなって日向ぼっこをしている。
俺を見ると、ぱっと顔を上げた。尾が左右に揺れる。犬か、お前は。
「リュート、お前も一緒に行くか?」
「クルルル」
嬉しそうに喉を鳴らして、のっそりと立ち上がった。体長は俺の倍近い。翼を畳んだ状態でも、存在感が凄い。
こいつに真っ二つにされた日のことを思い出すと、未だに背筋がぞわっとする。だが、二週間も一緒にいると分かる。リュートは基本的に穏やかだ。俺の顔を舐めてくるし、中庭で寝てばかりいるし、ノクタに尻尾を引っ張られても怒らない。
あの日のことは――まあ、事故みたいなものだったんだろう。たぶん。
「じゃ、行くか」
俺は屋敷の裏手に続く獣道に足を踏み入れた。
◇
深淵の森は、相変わらず異質だ。
木々は通常の何倍もの太さがあり、幹には苔と地衣類がびっしりと張り付いている。枝の隙間から差し込む光は薄い緑色で、空気自体がほのかに光っている。この森は、十五日目の今でも慣れない。
デンドロイドがザクザクと落ち葉を踏む。木の足は意外と足場を選ばない。根が張り出した地面でも、まるで仲間を見つけたみたいに安定する。
歩きながら、空属性で「繋がろう」としてみた。目を閉じて、意識を周囲に広げる。
……ぼんやりと、感じる。
足元の樹の根に、微かな脈動。枝の先で光る苔にも、何かが走っている。森全体が、うっすらと「生きている」感じがする。
「おお……」
目を開けても、感覚は残っていた。見える世界の上に、もう一枚、別の層が重なっている。
「クルル?」
リュートが俺の顔を覗き込んだ。
「ああ、大丈夫。ちょっと練習してた。……お前の回路も感じるぞ、すげぇ密度だな」
リュートの体内の魔法回路は、森の木々とは比較にならない。太く、複雑で、そして安定している。オリーゼが手塩にかけて育てただけのことはある、というところか。
しばらく歩くと、森の様子が少し変わった。木々の間隔が広くなり、苔に覆われた岩場が点在している。地面は湿っていて、どこかから水の流れる音がする。
リュートが、不意に俺の上着の裾を咥えた。
「ん? どうした」
「クルッ」
引っ張る。森の奥ではなく、来た方向に戻ろうとしている。
「なんだ、帰りたいのか? もうちょっとだけ」
「クッ、クルルッ」
少しだけ強く引っ張られた。だが、俺は岩場の向こうに見える苔むした大岩に目を引かれていた。ちょうどいい高さと大きさだ。あそこに座って少し休憩しよう。
「すぐ戻るから。あの岩んとこで少し休んで帰る」
リュートの口から裾を引き抜いて、岩場を越えた。
苔だらけの大岩。高さは俺の腰くらい。平たくて座りやすそうだ。
俺はそこに腰を下ろそうとして――
座った。
岩が、動いた。
「は?」
それは、一瞬の出来事だった。
俺の尻の下にあったはずの岩の表面が、ぐらん、と傾いた。苔に覆われた甲殻の継ぎ目から、何かが展開する。
見えた。
鋏だ。
俺の体の倍はある巨大な鋏が、岩の下から飛び出すように展開し、空気を裂いた。
反射的に飛び退く。空で義足に繋がる。デンドロイドの回路が応答し、バネのように跳躍――
間に合った。上半身は。
だが、着地の瞬間、凄まじい衝撃が右の脛を貫いた。
バキィッ!
鋏の先端がデンドロイドの脛部分を直撃した。木人の素材が、乾いた木が裂けるような音を立てて粉砕される。
俺は地面に転がった。
「っ……!!」
痛みはない。義足だからだ。だが、右足の膝から下が、完全に砕けている。立てない。
岩が、起き上がった。
いや、岩じゃない。それは生き物だった。
黒褐色の甲殻。苔と地衣類に覆われた扁平な体。低い重心。六本の短く太い脚。そして――畳まれていた二本の鋏が、ゆっくりと俺に向けられる。
デカい。体長は一メートル半。小さな複眼がいくつも並んでいるが、こちらを「見て」いる感じはしない。何か別の方法でこちらを感じ取っている。
咄嗟に空属性で探った。
……何も感じない。
こいつには、魔法回路がない。
木にも苔にもリュートにもあった回路の脈動が、この生物からは一切感じ取れない。
……何だ、こいつ? 俺の空属性では――干渉できるものが、何もない。
「……マジかよ」
鋏鬼蟲が鋏を体の下に戻し始めた。畳み直している。次の一撃の準備だ。遅いが、確実に近づいてきている。
片足では走れない。立つことすらできない。
そのとき、頭上から影が落ちた。
リュートが、翼を広げて俺と鋏鬼蟲の間に降り立った。
「クルルルッ!!」
低く唸る。今までに聞いたことのない声だ。喉の奥に炎が揺れているのが見える。
鋏鬼蟲が動きを止めた。複眼がリュートの方を向く。
リュートが口を開いた。橙色の炎が吐き出され、鋏鬼蟲の甲殻を舐めた。直撃ではない。牽制だ。炎は甲殻の表面を焼き、苔を焦がし、わずかに甲殻の縁を削った。
鋏鬼蟲は一歩、二歩と後退した。鋏を防御的に構えている。
リュートは追わなかった。炎を吐くのをやめ、ただ俺と鋏鬼蟲の間に立ちはだかっている。
鋏鬼蟲は逡巡するように止まっていたが、やがてゆっくりと方向転換し、岩場の向こうへと消えていった。時速五キロほどの、のろのろとした移動。あの一撃のスピードが嘘のようだ。
……いなくなった。
リュートが振り返り、俺の顔を舐めた。
「……サンキュ」
礼を言いながら、俺は砕けた義足を見下ろした。膝から下がこっぱみじんだ。木片が散らばっている。
リュートが体を低くして、背中に乗れ、と言わんばかりに首を傾げた。
「すまん、頼む」
俺はリュートの背に跨がり、砕けた右足をぶら下げたまま、屋敷への帰路についた。
行きは徒歩で二十分。帰りはリュートの背で五分だった。
◇
「あら、早いお帰りね。……何があったの?」
オリーゼは俺の砕けた義足を見て、まず呆れた顔をした。次に、ほんの少しだけ目を細めた。心配しているのだと、二週間の付き合いで分かるようになった。
「岩だと思ったら、バカでかい蟲でした。座ろうとしたら鋏で殴られました」
「……それ、鋏鬼蟲ね」
「キョウキチュウ?」
「深淵の掃除屋よ。死んだ魔法生物の遺骸を食べて分解する。普段は岩に擬態していて、近づいた獲物を鋏で仕留める。一撃が重いけれど、足は遅いの」
「足が遅いって嘘でしょう。あの鋏のスピードは――」
「鋏だけは速いわ。でも移動は遅い。だから逃げようと思えば逃げられる」
逃げようと思えば。片足が砕けていなければ、だが。
「それと……」
オリーゼは砕けた義足の断面を手に取り、しげしげと眺めた。
「義足で良かったわね。自分の脚で行っていたら、替えがなかったわよ」
「……ですね」
笑えない。いや、笑うしかない。
「空属性で探ったんですけど、あいつ、魔法回路が全くなかった」
「鋏鬼蟲は実法生物よ。魔法を一切使わない生き物」
「だから、俺の空属性じゃ……」
「干渉できないわね。でも、『回路がない』と分かっただけでも成果よ」
……成果って言われても。それが分かったからって、鋏が止まるわけじゃないんだが。
「あと、リュートが助けてくれたんですけど――なんであいつ、倒さなかったんですかね。火を吐いて牽制しただけで」
オリーゼは一瞬だけ言葉を止めた。それからふわりと微笑んだ。
「リュートにも色々あるのよ」
はぐらかされた。まあ、今はいい。
「……で、この義足、直せますか?」
「直すより新しいのを作った方が早いわね。ちょうどいいから少し強化しておくわ」
オリーゼは砕けた木片の中から、リュートが削り取った鋏鬼蟲の甲殻の破片を拾い上げた。リュートの炎で縁が焼けた、黒い破片だ。
「これ、使えるわ」
「それ、あいつの甲殻ですよね?」
「ええ。この甲殻、とても硬いの。義足に組み込めば、ずいぶん丈夫になるわ」
「……やられた相手の素材で強くなるのか」
「世界はよくできているでしょう?」
全然よくできてねえよ、と思いながらも、少し面白いとは感じた。
「ただ――」
オリーゼの声が少し真剣な色を帯びた。
「義足が頑丈になっても、あなた自身が戦えなければ同じことよ。魔法が通じないなら、体で戦うしかない」
「体でって……武術ってことですか」
「ええ」
「俺、殴り合いとかやったことないんですけど。倉庫でダンボール運ぶのが精一杯だったんですけど」
「知ってるわ」
オリーゼは立ち上がり、奥の部屋に消えた。しばらくして戻ってきたとき、手のひらに小さな石のようなものを乗せていた。
いや、石じゃない。霊珠だ。
薄い灰色の、少し欠けた珠。中に白い何かが埋まっている。骨、だろうか。
「これは?」
「昔――三百年ほど前の話だけど、私の護衛をしてくれていた人の霊珠よ」
「護衛……」
「腕の立つ武人だった。死後もしばらくは顕霊として傍にいてもらったの。……生前に、そう約束していたから」
オリーゼの声が、わずかに柔らかくなった。三百年前の知人の話を、まるで昨日のことのように語る。三百年を生きた魔女にとって、過去はどのくらいの距離にあるんだろう。
「リュートたちと暮らし始めてからは、護衛の必要もなくなったし、呼ぶのをやめていたのだけれど――」
オリーゼは霊珠を手のひらの上で転がした。
「あなたに武術を教えられる人はこの深淵には私しかいないし、私は教えるより研究がしたいの」
「率直ですね」
「だから、この人に頼むわ。……ただ、一日三十分が限界ね。それ以上は私の霊氣がもたないわ」
「三十分……」
「それと、霊依も傷んでいるから、本来の力は出せないと思う」
三十分。短い。だが、無いよりはマシだ。
「あと、骨から作った霊珠だから、生前の記憶があるの。少しびっくりするかも」
「今さら驚きませんよ」
「そう。なら大丈夫ね」
オリーゼは庭に出て、霊珠を地面に置いた。その横に古びた布の包みを広げる。中には、擦り切れた革と麻でできた人型の器が入っていた。霊依――霊魂の体になるものらしい。あちこちにヒビが入り、粉を吹いている。三百年もしまっていれば、そりゃ劣化もする。
オリーゼが霊珠の上に手をかざした。唇が小さく動く。指先が霊依の紋様を辿った。
霊珠が淡く光り、光が霊依の中に流れ込んだ。革と麻の器が膏らみ、人の形を取り始める。
数秒後、男が立っていた。
大柄。筋肉質。短く刈り上げた黒い髪。鼻筋を横切る古い刀傷。武人、という言葉がそのまま立っているような男だ。
ただ、左腕の肘から先と、右足の踵のあたりが半透明になっていた。あのボロボロの霊依のせいだろう。
男は、ゆっくりと目を開いた。
鋭い目だ。しかし、その目がオリーゼを捉えた瞬間、わずかに細められた。
「……オリーゼか」
低い声。ぶっきらぼうで、しかし、どこか懐かしさを含んだ響き。
「久しぶりね、ゼク」
「前より穏やかになったな」
「三百年も一人でいれば角も取れるわよ」
「……三百年か」
ゼクトと呼ばれた男は、自分の手を開いて閉じた。半透明の左腕を眺め、軽く溜息をついた。
「この体じゃ、本気は出せんな」
「充分よ。教える相手は素人だから」
「素人?」
ゼクトの視線が、俺に移った。
鋭い。見るだけで品定めが完了する目。倉庫作業員の時の上司より、ずっと怖い。
「……こいつか」
「アルヴァン。ヴァンでいいわ」
「ゼクトだ」
名乗りは一言。手を差し出す気配もない。
「オリーゼ。こいつに武術を教えろと?」
「ええ」
「理由は」
「深淵の実法生物に脚を砕かれたのよ。空属性だから、魔法回路のない相手には干渉できないの」
ゼクトは俺の足元を見た。今は義足が壊れているから、オリーゼに応急で繋いでもらった棒切れの仮足だ。
「……その足はどうした」
「下半身が義足で、換装式なんですけど……今朝壊れて。今は仮の脚です」
「外せ」
「え?」
「義足を外せ。自分の脚で立て。道具に頼るのはその後だ」
俺は一瞬面食らったが、ゼクトの目は真剣だった。オリーゼに目を向けると、彼女は小さく頗いた。
棒切れの仮足を外し、繋ぎ目から下の義足パーツも外す。自分の脚――オリーゼが繋ぎ直してくれた、生身の脚が現れた。義足に頼りきりだったこの二週間、自分の脚で立つのは久しぶりだ。
ふらつく。当たり前だ。筋力も落ちているし、デンドロイドの補助もない。
「なら足技は後回しだ。腕と体幹で戦え。足がどうなろうが関係ない部分を先に叩き込む。……それに、まずは自分の体を知れ」
的確すぎる即断だった。
「それで、何を教えればいい」
「あなたの活殺術をお願い」
「活殺術を素人に? 殺すぞ」
「加減なさい」
「……ったく」
ゼクトは半透明の左腕を揺らしながら、俺の前に立った。顔半分だけの苦笑。この男、怖い見た目のくせに笑顔は人懐っこい。ギャップがすごい。
「坊主。構えろ」
「構えるって、どう――」
言い終わる前に、世界が回った。
気づいたら俺は地面に転がっていた。
「……え?」
「立て」
何が起きたか分からなかった。ゼクトは一歩も動いていないように見えた。ただ俺の肩に触れただけだ。それだけで、俺の体は一回転して地面に叩きつけられた。
立ち上がる。今度は注意して――
また転がった。
「……」
「立て」
「ちょっと待って。今何しました?」
「お前の立ち方が悪い。重心が高くて、片方に寄ってる。指一本で崩せる」
義足に頼りきりで自分の足の感覚が鈍っている。言い訳にしたいが、ゼクトの言う通りだ。まずは自分の体で立つことからだ。
「いいか。戦う前に、まず立て。立てない奴は避けられない。避けられない奴は死ぬ。殴り方は後でいい。まず、何をされても崩れない立ち方を覚えろ」
ゼクトが構えを見せた。
肩幅より少し広めに足を開き、膝を軽く曲げる。背筋は伸ばさず、かといって猫背でもない。自然体。だが、どこにも隠がない。岩のようだ。
……いや。あの鋏鬼蟲こそ岩だったが、こっちの方がよっぽど「揺るがない」感じがする。
「真似しろ」
俺は真似した。ゼクトが俺の肩を押した。転がった。
「もう一回」
真似した。押された。転がった。
「違う。膝だ。膝で地面を掴め」
膝で地面を……掴む?
「自分の足で地面を掴んでみろ。指で土を掴むみたいに、足の裏で地面を掴む。膝の角度と腰の位置を意識しろ」
自分の足で地面を掴む。義足じゃない、生身の足。土の感触が足の裏から伝わる。この二週間、忘れていた感覚だ。
俺はもう一度立った。膝を意識する。地面を「掴む」イメージ。
ゼクトが押した。
……耐えた。一瞬だけ。
次の瞬間、反対側から軽く足首を払われて、やっぱり転がった。
「だがさっきよりはマシだ」
褒められたのか? 褒められてないか。
そこから三十分間、ひたすら「立つ」と「崩される」の繰り返しだった。殴られはしなかった。ゼクトは手加減という概念を知らなそうな見た目だが、実際には致命的な攻撃は一切しなかった。転がすが、壊さない。達人の「加減」だ。
途中から、崩された瞬間の体の使い方を変え始めた。「崩されないように踏ん張る」のではなく、「崩されても受身を取って、すぐ立ち直る」。ゼクトは何も言わなかったが、俺がそれをやった時だけ、ほんの少しだけ顎を引いた。肯定の合図だとは後から気づいた。
残り五分になった頃、ゼクトが動きを止めた。
「今日はここまでだ」
「えっ、まだ立ち方しか――」
「立ち方が全ての土台だ。これができん奴に打撃も組技も教えても意味がない」
正論だった。反論できない。
ゼクトの体が、末端から薄くなり始めた。霊氣が切れてきているのだろう。半透明だった左腕はもう、ほぼ見えない。
「また明日な、坊主」
「……はい。ゼクト師匠」
ゼクトは少しだけ目を丸くした。それから鼻で笑った。
「師匠か。柄じゃねえな」
そうして、光の粒子に溶けるように消えた。残ったのは、地面に置かれた霊珠と、ボロボロの霊依だけ。
俺は芝生の上に仰向けに倒れた。全身が痛い。転がされた回数なんて数えていない。二十回か三十回か。たった三十分で、体中が筋肉痛の予兆を訴えている。
「お疲れ様」
オリーゼが近づいてきた。手に何か持っている。
「はい、これ」
小さな杯だった。中には黒い液体が入っている。
見覚えがあった。以前、飲んだら死ぬと言われた、養魔酒。
「……これ、飲めるんですか?」
「薄めてあるわ。一口なら大丈夫よ」
恐る恐る口に含んだ。
……苦い。
舌の奥がびりびりする。生薬のような渋みと、発酵した何かの重い風味。正直にいうと、うまくはない。
だが。
「……思ったより、飲める」
「体が魔素に慣れてきた証拠ね」
オリーゼは微笑んだ。本当に微かな、目元だけの笑みだ。
「新しい義足は明日には出来てるわ。甲殻の破片も組み込んでおく」
「ありがとうございます」
「あと、養魔酒と養霊酒、多めに仕込んでおいたわ。あなたもそのうち必要になるだろうから」
そのうち。いつかは分からない。でもオリーゼがそう言うなら、きっとそう遠くない話なんだろう。
「そうだ、あとゼクト師匠って呼んだら鼻で笑われました」
「あら、あの人にしては珍しい反応ね。嫌がってたわけじゃないと思うわ」
「そうですか?」
「ゼクは不器用なの。昔からね」
昔から。三百年前の「昔」。
オリーゼがゼクトの霊珠を丁寧に布に包み直す手つきは、研究者というより、古い友人の形見を扱う人のそれだった。
俺は杯の残りを飲み干した。苦い。けど、体の芯がほんのり温かくなる気がする。
空を見上げた。深淵の空は木々の隙間からしか見えない。薄緑色に光る枝葉の向こうに、かすかに青い空が覗いている。
今日やったこと。岩に座ろうとして、脚を砕かれた。三百年前の武人に、立ち方だけを教わった。苦い酒を一口だけ飲んだ。
それだけだ。
でも不思議と、昨日より一歩進んだ気がする。
肩の上に、いつの間にかノクタが戻ってきていた。
「クー」
「……お前、どこから来た」
「クー」
小さな手が俺の首をぺちぺち叩いた。多分、「何やってんだバカ」という意味だ。
俺は笑って、屋敷の中へと歩き出した。義足なしの、自分の足で。少しふらつくけど、さっきよりは地面を感じられる気がする。
深淵での生活、十五日目。
まだ立ち方も覚えていないが、転び方だけは少し上手くなった気がする。
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第4話「砕けた脚と、立ち方を教わった日」 ―― 了 ――
【あとがき】
鋏鬼蟲の甲殻は、魔素を吸着するミネラルを含んでいる。
魔素濃度が高い深淵でも平気で生きていられるのは、耐えているのではなく、甲殻が魔素を吸い取っているからだ。
利用しているわけではない。ただ吸っているだけ。
そういう生き方もある。




