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深淵に住む魔女 ―アノンノア天則―  作者: 久和調


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第20話「散った羽と、増えた影」

 霧の中を歩いている。


 行きより濃い。十歩先が白い壁だ。足元の苔から湿気が立ち上り、木の幹の輪郭をぼかしている。灰白色の苔が、何もかもを同じ色に塗り潰す。


 だが——足取りは軽かった。


 前を歩くオリーゼの姿がぼんやり見えている。その右側に、リュートの藍色の鱗。大きな体が霧の中を割って進んでいく。そして俺の左——少し後ろを歩く、ルカの小さな影。


 行きの時は二人と一匹だった。オリーゼと俺とリュート。紐を木に巻きつけながら進んだ。方向感覚は最初の十分で狂って、紐とオリーゼの声だけが頼りだった。


 今は紐がない。


「左のほうに、十くらい固まっています。……右は大丈夫です」


 ルカの声だ。前を向いたまま、低い声で方角を伝えてくる。行きの時は「何かいる」くらいしか言えなかった。今は数と方向が分かる。ルカの声を聞く相手ができた。


「右に逸れましょう。群生地を避けるわ」


 オリーゼがすぐにルートを変えた。三歩、右に寄る。それだけで避けられる。


 足元に茸が生えていた。灰色がかった白。傘の大きさは手のひらほど。行きの時に踏み潰した、あの茸蛙だ。


「ルカ。あそこはどう」


 オリーゼが前方の少し左を指した。


「あそこに一体。群れから外れて生えています。……拍も弱いです」


「あら、ちょうどいいわ」


 オリーゼが近づいた。傘をそっと持ち上げる。裏側に、指の先ほどの蛙体がぶら下がっていた。薄い膜が脈打っている。振動膜だ。オリーゼが腰の革袋から小さな刃物を出して、蛙体ごと切り取った。手慣れている。


「振動膜は素材として使えるわ。残りは食べられるの」


 植物を摘むように採っている。緊張がない。


 足元の岩に手を伸ばした。表面に灰白色の苔が生えている。指先で剥がすように集めて、別の小袋に入れた。


 ルカは少し離れた場所で見張っていた。目を細めて、霧の奥に意識を伸ばしている。


「あちらの群生地は拍が強いです。近づかないほうがいい」


「分かったわ。ありがとう」


 遠足のような空気だった。



 ◇



 群生地の近くを通過した。


 茸蛙の振動膜が漂わせる拍が、足の裏から伝わってくる。行きの時は方向感覚を完全に狂わせた、あの拍だ。


 ——足元がふらついた。


 一瞬、左の木が右にあるように見えた。方角が滑る。魔探りには何も引っかからない。


 ルカが胸元の霊珠を握った。


 頭がすっと晴れた。方向感覚が戻る。木が、元の位置に見える。足が地面を正しく捉えている。


「ルカ、今のは?」


「……霊珠で少し抑えました。たぶん」


 たぶん、と言った。本人も仕組みを分かっていない。だが、効いた。


 リュートは平然としていた。尻尾を揺らしながら前を歩いている。拍の影響を受けている様子がない。——こいつはこういうのに強いのか。初めて意識した。でも今は深掘りする時ではない。先に行く。



 ◇



 空気が変わった。


 苔の色が薄くなっている。木の幹が太くなり、枝が高い位置で絡み合っている。霧は相変わらず濃い。だが足元の茸が消えた。代わりに——


 羽が落ちていた。


 小さな羽毛。灰白色の地に、細かい紋様が描かれている。行きの時にも見た。この羽が触れたものの見た目を変える。倒木が蛇に見え、岩が頭蓋骨に見えた。


 今回は——ただの羽毛にしか見えなかった。


「この先に……大きいのがいます。一体。鳥のような」


 ルカが足を止めた。霧の向こうに意識を張りつめている。


 行きの記憶が蘇った。低い鳴き声。ホーホー。腹の底を揺らす振動。理由のない恐怖。足が動かなくなった。目を閉じて、紐とノクタとオリーゼの声だけを頼りに歩いた。走ったら終わりだと言われた。


 あの時は、逃げるので精一杯だった。


 ——鳴き声が、響いた。


 ホーホー。深い。低い。霧を伝って、体の中に入ってくる。


 心臓が跳ねた。心拍が上がり始める。恐怖の兆候だ。体が覚えている。


 ルカが霊珠を握りしめた。


 ——収まった。


 心拍が落ち着いていく。恐怖が引いていく。波が引くように、体から抜けていく。


 木が、木に見える。石が、石に見える。倒木が蛇には見えない。岩が骨には見えない。


 頭が冷えている。行きとは、何もかも違った。


「……前は、この辺で全部が化け物に見えた」


 声が、思ったより落ち着いていた。


「ルカがいるとこうも違うのね」


 オリーゼが振り返らずに言った。さらりと。ルカが少し俯いた。——でも、目は逸らさなかった。



 ◇



 ルカが方向を教えた。


「あの方向です。枝の上。一体だけ」


 見上げた。霧の中に、太い枝がある。その上に——影があった。


 行きでは「巨大な影が一瞬見えた」だけだった。霧に隠れて、輪郭すら分からなかった。逃げるのに必死で、観察する余裕などなかった。


 今は見えている。


 大きい。人の胴体ほどの体躯。だが——そのほとんどが羽毛だった。灰白色の羽毛が体全体を覆い、一枚一枚に細かい紋様が描かれている。羽毛の奥に隠れた本体は、ずっと小さい。喉の下に、薄い膜で覆われた袋のようなものが見えた。あの低い鳴き声は、あそこから出ているように見えた。


 リュートが体を低くした。尻尾が下がっている。前脚の爪が地面を掴んでいる。——分かっている。


 俺はリュートの横に並んだ。


 鳥が鳴いた。ホーホー。恐怖が来る——来ない。ルカの霊珠が光っている。軽減されている。


 鳥が首を回した。こちらを見ている。——もう一度鳴いた。短く。強く。


 ——鳴き止んだ。


 鳥の体が傾いた。翼を広げかけている。——逃げようとしている。


「リュート」


 短く言った。リュートが跳んだ。翼を一振り、枝の高さまで一瞬で上がる。


 鳥が枝から飛び立った。霧の中に褐色がかった影が消えようとする——


 リュートが翼で空気を叩いた。


 風圧が霧を吹き散らした。羽毛が乱れる。体勢が崩れた。低空に落ちる。


 跳んだ。


 地の蹴り。右脚のデンドロイドに地を流す。足を置いて、踏んで、発動。一拍の衝撃が脚を通って靴底に走った。


 蹴りが入った。


 乾いた音がした。羽毛が散る。中身は驚くほど軽い。——見た目だけだ。紋様の描かれた羽毛が舞い上がり、霧の中を白い雪のように漂った。


 地面に落ちた鳥は、もう動かなかった。


 リュートが降りてきた。尻尾が大きく揺れている。——よくやった、と言っている顔だ。



 ◇



 オリーゼが鳥に近づいた。


 屈んで、散った羽毛を一枚拾い上げる。指先で紋様をなぞった。


「恐鳴梟ね。……珍しいわ」


 爪も調べている。喉元の袋を覗き込んでいる。——さっきまで俺たちを怖がらせていた相手を、もう素材としてしか見ていない。


「……オリーゼさん、楽しそうですね」


「楽しいわ」


 即答だった。


「この羽毛、使えるんですか」


「上等な素材よ。ただ、霊法で恐怖を撒き散らす相手だから、普通は近づけもしないの」


 ルカが少し離れた場所から覗き込んでいた。怖々と。だが目は離さない。オリーゼが羽毛を革袋にしまう手際を見ている。


「……その紋様が、見え方を変えていたんですか」


「少し違うわ。触れたモノの見た目を霊法で置き換えるマーカーになるの。面白いでしょう」


 ルカが頷いた。小さく。だが、興味のある頷き方だった。



 ◇



 谷の出口が近づいていた。


 霧が薄くなっていく。光が差し込んでいる。灰白色の苔が減り、地面に土の色が戻り始めた。ここまで順調だった。


 ——ルカが立ち止まった。


「……何か。すごく大きいのがいます」


 ルカの声が変わっていた。低い。緊張している。


「でも、遠いです」


 リュートが鼻を鳴らした。尻尾が下がっている。耳を伏せた。リュートにも感じている何かがある。


 俺は何も感じなかった。魔探りに何も引っかからない。


「ボスがいなくなった空白を、何かが埋めようとしているのかもしれないわね」


 オリーゼは足を止めなかった。


 谷の奥を一度だけ見た。霧だけだ。何も見えない。


「……遠ざかっていきます」


 ルカの声が、少し緩んだ。


 谷を出た。


 振り返らなかった。



 ◇



 登りにかかる。谷底から這い上がるように斜面を登る。苔が減っていく。空気が軽くなる。苔の匂いが薄れて、肺に入る空気が乾いていく。


 谷を抜けた。森に入った。


 霧が晴れていく。行きでは何があるか分からなかった。帰りでは、覚えている。


 ルカは知らない。初めて見ている。


 苔の生えた木の間を歩く。枝には、蜘蛛の巣が張り巡らされている。足元には茸。——見慣れた森だ。ルカの目が忙しく動いている。


 サータス村の方角を、ルカが一度だけ振り返った。——すぐに前を向いた。


 しばらく歩いた。


 リュートが急に尻尾を振り始めた。歩幅が大きくなる。前脚で地面を蹴って、少し先まで走る。——匂いを嗅いでいる。帰ってきた。体が覚えている匂いだ。


 木の密度が変わった。——違う。一本だけ、桁が違う。


 遠くに。霧のない、少し久しぶりな空気の向こうに。巨大な木の影が立っている。


「……あの木に、何か……?」


 ルカの声だった。立ち止まっている。


 一本の巨木だ。もう死んでいる。葉はない。だが幹は立っている。太い。十人で手を繋いでも囲めないだろう。根が地面から隆起して、石のように硬くなっている。枝が四方に広がり、空を覆っている。


 その巨木に——家が融け合うように建っていた。


 幹が柱になり、根が基礎になり、枝が屋根を支えている。死んだ木の体を使って、生きている家が組まれている。


「オリーゼさんの家だ」


 帰ってきた。


 ルカが巨木を見上げていた。口が少し開いている。


 オリーゼが先に歩いた。歩き慣れた足取りで、根と根の間の細い道を進んでいく。



 ◇



 屋敷の中に入った。


 壁が木の断面だった。年輪が見えている。乾いた木の匂いと、薬液のかすかな残り香。天井が高い。巨木の内側をくり抜いて広げたような構造で、梁が枝の形をしたまま残っている。


 どこかで何かが動いた。小さな音。棚の上を何かが走る。


 コビトだ。ノクタではない。二体、三体。棚の上を走り、壁の穴に消え、別の穴から顔を出す。薄い灰色の布で作られた小さな体が、ちょこちょこと動き回っている。


「……たくさんいるんですね、コビト」


 ルカが呟いた。村でノクタは見ている。だがこれほど多くのコビトが動き回っているのは初めてだ。


 オリーゼが短く唱えた。腰のポーチに手を入れる。


 ——ノクタが目を覚ました。


 ポーチの中で丸まっていた小さな体が起き上がる。帽子が引っかかって、ポーチの縁から半分だけ顔を出した。張り付いた笑顔の刺繍のまま、きょろきょろと首を回す。——知っている場所だ。


 ノクタが這い出してきた。オリーゼの手の上に立つ。


 ——俺を見た。


 飛んできた。顔面に。小さな拳が頬に当たった。痛くはない。でも張り付いた笑顔のまま殴ってくるのは怖い。


「分かった、悪かった」


 クー。


 三秒ほど腕を組んだまま動かなかった。——それからルカを見た。


 ルカも見た。


 ルカの肩に着地して、頭の横から顔を覗き込む。


 クー。


「……覚えてくれているんですね」


 ルカが少し笑った。ノクタが肩の上で座り込んだ。帽子のツバがルカの耳に当たっている。


「ここで暮らしてたんですか、ヴァンさん」


 ルカの声は静かだった。屋敷の中を見回している。巨木の内部。木の断面の壁。梁の枝。走り回るコビトたち。——自分がこれから暮らす場所を、初めて見ている。



 ◇



 オリーゼが廊下の奥に進んだ。ルカを手招きする。


「こっちよ」


 二階への階段を上がった。巨木の幹に沿って、螺旋のように曲がっている。俺の部屋はこの階段の途中にある。見慣れた扉を通り過ぎて、もう少し上がる。


 オリーゼが一つの扉を開けた。


 小さな部屋だった。ベッドが一つ。木の机。窓がある。巨木の枝の隨間から、灰色の光が斜めに差し込んでいる。埃が光の中を漂っていた。


「ここを使いなさい」


 ルカが部屋の中に一歩、入った。


 窓を見ている。外が見える。知らない木の枝が、知らない角度で伸びている。——ここが、これからの場所だ。


 ルカがしばらく黙っていた。


「……ここを、使っていいんですか」


「あなたの部屋よ」


 オリーゼが何でもないように言った。


 ルカが背中の荷物を下ろした。小さな荷物。着替えと、霊珠と、ヨルガが持たせた干し肉。それだけだ。


 机の上に置いた。



 ◇



「見せたいものがあるの」


 オリーゼがそう言って、一階に降りた。工房だ。


 俺にとっては見慣れた場所だった。ここでデンドロイドを直してもらった。義足の回路を組み替えて、酸泥をコーティングした。壁に道具が並び、棚に素材の袋や薬瓶が詰まっている。どこかで液体が垂れる音がしている。規則正しい。オリーゼが仕掛けたまま放置している何かだろう。


 ルカが入ってきた。足が止まった。


 壁面の道具を見ている。棚の上の瓶を見ている。作業台の上に散らばった素材に、目が止まっている。


「……すごい」


「ここで、ヴァンさんの足を?」


「ええ。義足だけじゃなく、色々作っているわ」


 ルカが一歩近づいた。作業台の上の素材に手を伸ばしかけて、止めた。


「触っていいわよ」


 オリーゼが言った。ルカの手が、作業台の隅に転がっていた木片に触れた。硬い。——トレント材だ。デンドロイドに使ったのと同じ。


 オリーゼが作業台の前に立った。研究者の顔になっている。


「あの人が言っていた制御鍵。魔汞と霊晶の強制結合体」


「……作れるかどうかは分からないけれど、試してみる価値はあるわ」


 ルカがオリーゼを見た。


「僕にも、手伝えることがありますか」


 オリーゼが振り返った。翡翠色の目がルカを見ている。


「あるわ。あなたにしかできないことが」


 それ以上は言わなかった。ルカも聞き返さなかった。



 ◇



 夕食を食べた。


 オリーゼの食卓。いつもの席にオリーゼと俺。そこに、ルカが一人加わっている。


 三人分の皿が並んでいる。煮込んだ芋と、干し肉を戻したスープ。茸蛙を薄く切ったものが添えてある。——今日採ったやつだ。


「食べられるんですか、これ」


「毒はないわ。歯ごたえが面白いわよ」


 ルカが恐る恐る口に入れた。咀嚼する。——驚いた顔をした。


「……こりこりしてます」


 ノクタはルカの肩から頭の上に移動しようとしている。ルカの髪を掴んで、よじ登ろうとしている。——ルカが少し顔をしかめた。


 クー。


 ——よじ登れた。


 張り付いた笑顔の刺繍はいつも通りだが、得意そうだ。



 ◇



 食後。


 中庭に出た。いつもの場所だ。巨木の根の一つに腰をかけて、空を見上げる。灰色の空。月に照らされ、ツキヒカリタケが光っている。虫の声は小さい。風の音が、枝の間を通り過ぎていく。


 リュートが隣に来た。鼻先を俺の膝に押しつけて、そのまま横になった。温かい。重い。いつもの重さだ。


 足音がした。


 ルカが来た。少し離れた根に座った。


 何も言わなかった。俺も何も言わなかった。


 嫌な沈黙ではなかった。初めて共有する、何もない時間。サータス村でもなく、遺跡でもなく、谷の中でもない。ただ、ここにいるだけの時間。


 ルカが胸元の霊珠をいじっていた。いつもの癖だ。だが今の手つきは、行きの時とは違う。落ち着いている。握りしめていない。指先で転がしている。安心して、触っているように見えた。


 ノクタはいつの間にかリュートの尻尾の上に移動していた。帽子を被ったまま丸くなっている。リュートは気にしていない。尻尾が一回、ゆっくり揺れた。


 二人だった場所が三人になった。それだけのことだ。


 だが——何かが変わった感じがする。


 深淵での生活、五十二日目。


---


第20話「散った羽と、増えた影」 ―― 了 ――

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