第1話「半分死んで、半分生まれた日」
俺の名前はアルヴァン。二十三歳。職業は、つい先日まで倉庫作業員だった。
今はただの借金持ち。いや、借金塗れと言った方が正確か。
目の前には鬱蒼とした森が広がっている。深淵――そう呼ばれる禁域。魔法生物や霊法生物が闘歩し、常人が足を踏み入れれば生存率はほぼゼロ。
そんな場所に、俺は自分の意思で来ていた。我ながらどうかしている。
きっかけは単純だ。知人に頼まれて名義を貸した。それだけのはずだった。気がつけば、俺は身に覚えのない契約書の連帯保証人になっていて、知人は蒸発。残ったのは返済不能な額の借金だけ。
合法だと言われた。法的には問題ないと。
いやいや、問題しかないだろ。俺の人生が詰んでるんだが。
深淵には貴重な素材があるという噂がある。一攫千金を夢見て足を踏み入れ、二度と戻らなかった馬鹿共の話も山ほど。それでも、俺には他に選択肢がなかった。
いや、あったのかもしれない。でも考えるのが面倒だったし、どうせなら派手にいきたいじゃないか。人生最後の大博打ってやつだ。
……最後にしたくはないけど。
「よし、行くか」
誰に言うでもなく呟いて、俺は森の中へ足を踏み入れた。
◇
森の空気が変わったのは、入ってすぐのことだった。
外界とは明らかに違う。湿度が高いわけでも、温度が低いわけでもない。ただ、空気そのものが重い。呼吸をするたびに、肺の中に何か異質なものが入り込んでくるような感覚。
木々の間から差し込む光は薄緑色に濁り、地面を覆う苔は不自然な発光を帯びている。どこかで何かが動く気配。視界の端で、影がちらつく。
……うわ、なんだこれ。思ってたよりずっとヤバいところに来ちまったな。
魔法生物か、霊法生物か。正直、区別がつくほどの知識は俺にはない。そもそも、俺たちみたいな一般人は魔法も霊法も使えない。使い方を教わることもなければ、使う許可すら与えられない。
誰が決めたルールなのか知らないけど、おかげで俺は丸腰だ。素手で来るやつがあるか、って話だよな。今さらだけど。
足元の枯れ葉を踏みしめながら、俺は奥へと進んだ。せめて何か、持ち帰れそうな素材を見つけなければ。
そう思っていた、その時だった。
◇
視界が開けた場所に出た。
そこに、女がいた。
銀灰色の長い髪。俺と同じくらいか、もう少し若いくらいの見た目。整った顔立ちで、纏っているのはローブのような、しかしどこか実用的な印象を受ける衣服。
けど、何より目を引いたのは、その目だった。外見の若さに似合わない、どこか達観したような深い色。
そして彼女の前には――
なんだ、あれは。
体長は二メートルほど。全身が硬質な鱗に覆われている。四肢には鋭利な爪。裂けたような口からは、かすかに蒸気のようなものが漏れ出ている。
見たことがない。当たり前だ、こんな生き物が日常にいてたまるか。
だけど、本能が告げている。あれは危険だ。人間が対峙していいものじゃない。獣とも違う。もっと根源的な、生き物としての格が違う何か。
同時に、目が離せなかった。
恐ろしい。けれど、美しい。この世のものとは思えない威容。俺は今、とんでもないものを見ている。その興奮が、恐怖と混ざり合って胸の奥で渦を巻いていた。
女は微動だにしない。その異形もまた、彼女を睨んだまま動かない。空気が張り詰めている。
逃げるべきだ。
頭ではそう分かっていた。この場に俺が介入する余地などない。むしろ邪魔になる。明らかに。
なのに。
「――っ!」
体が動いていた。
女を守るように、俺は二人の間に飛び出していた。異形の視線が俺を捉える。その瞬間、世界がスローモーションになった。
何やってんだ俺。
そう思った直後、
「……何をしてるの、あなた」
呆れたような声が耳に届いた。女の声だ。若い声なのに、妙に落ち着いている。
同時に、衝撃。
体の真ん中を、何かが通過した。
熱い。いや、熱くない。痛みすらない。ただ、体の感覚が半分、消えた。
視界が傾く。地面が近づいてくる。赤い。たぶん俺の血だ。
最後に見えたのは、やれやれ、という顔をした女と、その足元で大人しく座っているあの異形の姿だった。
あ、もしかして。飼ってるやつだったのか、あれ。
なんだよそれ、聞いてないぞ。
そんな間抜けなことを考えながら、意識が途切れた。
◇
暗い。
何も見えない。何も聞こえない。
ただ、体が半分になった感覚だけが、妙にはっきりと残っている。
これが死ってやつか。
意外と穏やかだな。痛みがないのは助かる。苦しくないのも。ただ、このまま消えていくのかと思うと、ちょっとだけ寂しい。
借金のことは――まあ、死んじまえば関係ないか。返す相手もいなくなるし。迷惑かけるやつもそんなにいないだろ。
せめて、深淵で何か一発当ててから死にたかったなあ。
そんなことをぼんやり考えながら、意識が薄れていく。
このまま――
違和感。
何かが、俺を引っ張り上げている。
◇
意識が浮上した。
最初に感じたのは、柔らかい寝台の感触。次に、ほのかな薬草の匂い。そして、誰かの気配。
目を開ける。
天井が見えた。石造りだけど、丁寧に整えられている。壁には棚が並び、瓶や書物がぎっしり。どこかの研究室みたいな空間だ。
そして、すぐ傍らに、あの女がいた。
「目が覚めた?」
穏やかな声。けれど感情はあまり読めない。銀灰色の髪が、薄暗い室内でも不思議と目立っている。近くで見ると、やっぱり俺と同じくらいの年齢に見えるのに、纏っている空気が違う。
「……ここは?」
「私の家よ」
簡潔な答え。女は手元の器具に目を戻しながら続けた。
「そんなことより、この森に何しに来たの? 何の準備も能力もない人間があそこに入ったら死ぬ――それくらいは聞いてたでしょう? 自殺志願?」
「いや……まとまった金が必要で、仕方なく……」
「なるほどね」
女は小さく頷いた。興味なさそうで、でも一応は聞いているという態度。
「自殺志願なら助ける義理はないんだけど、勘違いとはいえ私を助けようとしてくれたみたいだし。助けるのは吝かじゃないわ」
助ける。その言葉に、俺は首を傾げた。
「……助ける? 痛みもないし、奇跡的に無事だったんじゃ……」
「ああ、まずは現状確認からいきましょうか」
女は俺の言葉を遮った。器具を置き、こちらに向き直る。
「今のあなたは首を動かして喋ることはできてると思うけど、上半身の感覚はある? ちなみに動かれると困るから、動けないようにしてあるの」
言われて初めて気づいた。確かに、体が動かない。でも――
「手の感覚は、あります」
「下半身は?」
「…………」
意識を集中する。足を動かそうとする。けど、何も返ってこない。感覚そのものがない。
「……ないです」
「そうでしょうね」
女は淡々と言った。
「説明すると、あの時あなたの体は上半身と下半身で真っ二つになったの。私の飼い竜がやったことよ。……まあ、あなたが勝手に飛び出してきたのが原因だけど」
飼い竜。やっぱりそうだったか。
「それをなんとか運んで、一命をとりとめたのが今。でも、あなたからは見えないようにしてあるけど、下半身はまだくっついてないの。さすがにその施術は大変だから、自殺志願者じゃないことを確認してからやろうと思って」
真っ二つ。
上半身と下半身が、別々に。
頭では理解できる。けど、感覚が追いついてこない。目の前の女が、あまりにも普通のことみたいに話すから、余計に現実感がない。
「……なんで、助けてくれるんですか」
素朴な疑問だった。見ず知らずの人間を、わざわざ運んで、一命を取り留めさせて、これから大変な施術までしようとしている。その理由が分からない。
「言ったでしょ。勘違いとはいえ、私を助けようとしてくれた。それは事実だもの」
女は軽く肩を竦めた。
「あとは……そうね、久しぶりの人間だから。実験体としても興味があるかな」
「実験体?」
「冗談よ。半分は」
冗談に聞こえない。けど、今の俺に選択肢はない。
「それで、最後の確認」
女の目が、まっすぐに俺を見た。銀灰色の瞳。あの森よりもなお深い、底の見えない色。若い顔立ちなのに、その目だけが何百年も生きてきたみたいな重さを持っていた。
「助かりたい?」
その問いに、俺は。
「――助けてほしいです」
迷わず、そう答えていた。
◇
女は頷くと、立ち上がった。
「じゃあ、始めましょうか。そうだ、名乗ってなかったわね。私はオリーゼ。本名は捨てたし、忘れちゃった。今はそう呼ばれてるの」
「俺は……アルヴァン、です」
「アルヴァン。長いわね。ヴァンでいい?」
「……どうぞ」
勝手に愛称を決められた。けど、不思議と嫌な気はしなかった。
「じゃあヴァン、これからあなたの体を繋ぐわ。少し特殊なやり方になるけど、説明は後。今は黙って見てて」
オリーゼが手を翳す。
その瞬間、世界が変わった。
彼女の右手の指が、流れるような動きで形を作る。印、とでも言うべきか。淀みがない。まるで何千回も繰り返してきた所作のようだった。その指先から、淡い緑色の光が生まれた。
「樹」
短く呟いた。宣言のようにも、独り言のようにも聞こえた。
緑の光が俺の体を包み込む。同時に、切断面のあたりで何かが動き始める感覚。見えないけど、分かる。何かが、再構築されている。
「高分子の再合成を開始。まずは断面の繊維組織から」
何を言っているのかは分からない。けど、体の中で何かが繋がっていく感覚だけは、はっきりと伝わってくる。
オリーゼは独り言のように呟きながら、左手の指を次々と動かしていく。親指と中指が触れ合い、やや青みがかった透明の筋が加わった。
「右の水。血流の方向制御」
体の中で、液体が流れ始める感覚。ばらばらになっていたものが、一定の方向に整列していくような。
「右の樹。化学エネルギーを上げて合成速度を促進」
緑の光が強くなり、細い繊維のように体の中を這っていく。温かい。体の奥で何かが絡み合い、繋がっていくような、不思議な感覚だ。
「左の炎。局所の熱を下げて炎症を抑制」
今度は赤橙色の、しかし穏やかな光。じんわりとした熱が引いていく。
魔法。これが、魔法か。俺たちが使うことを許されない力。噂では聞いていたけど、実際に目にするのは初めてだった。
けど、オリーゼの表情が少し険しくなる。
「……やっぱり、神経接続は私の回路だけじゃ足りないわね」
彼女は傍らの台に手を伸ばした。そこには、ガラス瓶がいくつか並んでいる。中には、淡く発光する結晶のようなものが入っていた。
「これは魔法回路。魔法生物から摘出したものよ。人間の回路だけじゃ限界がある施術には、これを使うの」
説明しながら、瓶の一つを開ける。取り出されたのは、青白く脈動する結晶。
「雷の回路。神経の電気信号を繋ぐのに使うの」
結晶が俺の体の上に配置される。オリーゼの指が新たな印を結んだ。
「雷。右の雷も重ねる。神経のプラズマ化と電流増幅」
ばちり、と小さな音。マゼンタの光が一瞬弾け、体の中を電気が走る感覚。痛くはない。むしろ、途切れていた回路が繋がっていくような。
「……あ」
「喋らないで。集中が乱れる」
言われて口を閉じる。けど、確かに感じた。下半身の感覚が、少しずつ戻ってきている。
オリーゼは別の瓶に手を伸ばした。今度は、灰色がかった結晶。
「地の回路。骨格の固定に使うわ」
「地。右の地も。イオン結晶の再構成と位置エネルギーの固定」
体の芯に、何か硬いものが通る感覚。骨が、繋がっていく。
施術は続いた。どれだけ時間が経ったのか分からない。気がつけば、オリーゼの額には汗が滲んでいた。あの涼しげな顔が、わずかに歪んでいる。
これだけの労力を、見ず知らずの俺のために。
なぜ。
その疑問を飲み込んだまま、俺は彼女の施術を見つめ続けた。
◇
「……終わったわ」
オリーゼが手を下ろした。
室内に静寂が戻る。彼女は椅子に腰を下ろし、深い息を吐いた。疲労の色が見える。若い見た目なのに、その仕草はどこか老成していて、アンバランスだった。
「どう? 足の感覚はある?」
問われて、俺は意識を集中した。右足。左足。指。膝。太腿。
「……あります。全部」
「そう」
短い返事。けど、どこか安堵したような響きがあった。
「動けるようにしてあるから、ゆっくり起き上がってみて」
言われるままに体を起こす。腕で上体を支え、足を床に下ろし、立ち上がる。
立てた。
自分の足で、立っている。
「すげえ……」
思わず声が漏れた。真っ二つになった体が、こうして繋がっている。歩ける。動ける。いや、マジか。マジでくっついてる。
「当然よ。私がやったんだから」
オリーゼは涼しい顔で言った。けど、その口元がわずかに緩んでいるように見えたのは、気のせいだろうか。
「ただ、一つ言っておくことがあるの」
「なんですか?」
「あなたの体、ただ繋いだわけじゃないの」
オリーゼは立ち上がり、俺の方へ歩いてきた。そして、俺の腹部――ちょうど、切断されたはずの位置を指差した。
「接合部に特殊な魔法回路を組み込んだの。あなたの根っこの属性が空だったから可能だったんだけど……要するに、付け外しができるようになってるわ」
「……付け外し?」
「下半身の、よ」
さらりと言われた言葉の意味を、数秒かけて理解した。
「ちょっと待ってください。付け外しって、この足を?」
「そう。同調できる機構を組み込めば、機械でも魔法生物でも接続できる。まあ、性能によって必要なリソースや訓練は変わるけどね」
なんだそれは。便利すぎないか。いや、怖いわ普通に。
「……あの、そもそも俺、魔法使えないんですけど」
「使えないんじゃないの。使い方を教わってないだけ。回路は最初から持ってるのよ。確認したら空属性だった。だから、こういう施術ができたってわけ」
空属性。正直、それが何を意味するのか、半分も分かっていない。ただ、その属性だったから接続ができた、ということだけは理解した。
あまりにも多くの情報が一度に押し寄せてきて、頭が追いつかない。けど、一つだけ確かなことがある。
「……とりあえず、助けてもらったことには感謝します。本当に」
「ん」
「でも、なんでここまで?」
聞かずにはいられなかった。
オリーゼは少し考えるような素振りを見せた後、軽く肩を竦めた。
「暇だったから」
「暇」
「あとは興味かな。空属性の人間は珍しいし、研究材料として――」
「それさっきも聞きました」
「ふふ」
笑った。無表情だと思っていた彼女が、確かに笑った。若い顔に浮かんだ笑みは、見た目相応に可愛らしいものだった。
「冗談よ、半分は。……さて、ヴァン」
オリーゼは俺の顔を見上げた。立ち上がると、俺の方が少し背が高い。
「あなた、これからどうするの?」
その問いに、俺は答えられなかった。
どうする。借金は残っている。深淵から戻っても、待っているのは地獄だ。かといって、ここに留まる理由もない。
「……正直、分かんないです」
「そう」
オリーゼは頷いた。
「なら、しばらくここにいる? 私の助手として。ご飯と寝床は提供するわ。その代わり、研究の手伝いをしてもらうけど」
「助手?」
「嫌なら別の道もあるわよ。この森の奥に、私が用意した隠れ里があるの。そこで暮らすこともできる」
選択肢を与えられた。どちらを選んでも、少なくとも今日明日の心配はなさそうだ。
けど。
「……研究って、何を研究してるんですか?」
「魔法と霊法の循環利用。エントロピーの逆転、とでも言えばいいかしら。資源を無限に循環させる方法よ」
壮大すぎて、全然分からん。
けど、不思議と興味を惹かれた。この人の傍にいたら、退屈はしなさそうだ。少なくとも、倉庫で荷物を運ぶよりはずっと面白い。
いや、そういう問題じゃないか。
俺は命を救われた。真っ二つになった体を繋いでもらった。その恩を、何かで返したい。返せるかどうかは分からないけど、少なくともそうしたいと思った。
「……助手、やります」
気がつけば、そう言っていた。
「そう」
オリーゼは満足そうに頷いた。
「じゃあ改めて、ようこそ深淵へ、ヴァン。……まずは歩けるか確認して。そこからね」
言われるまま、俺は一歩を踏み出した。
自分の足で。新しい、この足で。
深淵での生活が、こうして始まった。
……あ、そういえば聞いてなかった。
「オリーゼさん」
「何?」
「あの飼い竜、名前あるんですか?」
「ああ、あの子? リュートよ。あとで紹介してあげる。……真っ二つにされたこと、根に持たないであげてね」
「いや、根に持つわ普通に」
「ふふ」
また、彼女は笑った。
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第1話「半分死んで、半分生まれた日」 ―― 了 ――
【あとがき】
リュートの「切っていい対象リスト」は、オリーゼが定期的に更新している。
追加も削除も口頭で可能。便利な仕組みだが、ヴァンのように更新前に遭遇すると大変なことになる。
なお、リュート自身に悪意はない。指示通りに動いただけである。
犬と同じだ。しつけの問題だ。




