エピローグ
小刻みに揺れる車体。二等車のコンパートメントで、革張りの座席に背中を預け、ユリアナは車窓を流れる景色をぼんやり眺めていた。
そこに広がるのは一面のひまわり畑だ。地平線のむこうで沈みかけた太陽の光を浴び、燃えるような赤色に輝いている。
ザワザワと風に揺れるその景色とは、ともすれば、母国の荒涼とした砂漠の風景さえ、少女の胸のうちに思い起こさせるのだった。
「――よかったんですか?」
隣の座席から響いた声に、ユリアナは顔を上げ、「何が?」と答えた。
物言いたげな顔で、しかしクラエスは言葉を選びかねた様子で口を噤んだ。ユリアナはそれまで調べ物をしていた電子端末を脇に退け、代わりに紙袋を開けた。なかにぎっしりと詰まったひまわりの種を摘まむと、爪先でその殻を剥いていく。
「《聖なる右手》のことなら、もうとっくに諦めがついてるわ。それに、バラドが知りたがっていた謎はもう解けたもの」
「……謎?」
「アンドルツァも言っていたけど、《聖なる右手》は遺骨を収めるために作られたものよ。でも、ルスランはそうしなかった。――何故か? 答えはあの墓場にあったのよ」
オレーシャの墓に刻まれたロシア語は、ルスランに向けた目印であったに違いない。
彼らがどのような関係性を築いたのか、ユリアナにはわからない。何百年も前に死に別れたふたりを知る者さえ、この世界には残っていないのだから。けれども当時の文化については、ユリアナの力でも調べることができる。
「ルスラン・カドィロフはあの墓のなかにいるのよ、きっとね。ふたつの骨は溶けて、もう何も残ってはいないだろうから、確かめようはないけれど。――帝国は衛生上の問題で火葬をするけど、当時のソヴィエト圏は土葬が主流だったわ。分骨という概念もないから、収める骨もない。つまりあの右手は、骨を収めるために作られたわけじゃない」
「ええと……じゃあ、どうして?」
ユリアナは自分の右手を日に翳し、薬指を折り曲げてみせた。
「ソヴィエト圏では、右手の薬指に結婚指輪を嵌めたそうよ。ふたりが婚姻関係にあったという話は聞かないけれど――でも、きっと、ルスランは一生涯の愛の集大成として、彼女の右手を作ったんじゃないかって」
「……指輪、ですか」
クラエスが不思議そうに自分の右手を見た。帝国に結婚指輪を嵌める風習は存在しないため、奇異な文化として受け取ったらしい。
「そう。愛を貫いた証として、最期に右手を作ったの。宝物庫で見た右腕はたくさんの宝石が埋め込まれていたでしょう? オレーシャの右足を飾った《白鳥》と同じ金属を用いたくらいだもの――彼にとっては、右手そのものが輝かしい指輪なのかもね。右手が証明する愛は、スピネルではない、真実のコランダムよ」
まあ、推測に過ぎないのだけれど――ユリアナは肩を竦めて、ひまわりの種を口のなかに放り込んだ。香ばしいナッツに似た味が口のなかに広がる。
列車は、ガタン、ゴトン、と、時にけたたましく音を立てて揺れながら、ブカレストへの道途を辿っている。射し込む西日が眩しく、窓の日除けを下ろそうと腰を上げかけたところで、ふと、「ユリアナ」と小さな声で呼びかけられた。
「――ほんとうに、大丈夫ですか?」
「もう、さっきから要領を得ない質問ばかりしてくるわね」
しかし言外に何を心配されているのか、ユリアナも言われずとも理解をしていた。無言で両腕で日除けを下ろすと、周囲が薄闇に閉ざされる。
座席にぽすんと腰を落とすと、暫く黙り込んでから、言葉を続けた。
「あなたこそ、ずいぶん嫌な思いをしたんじゃないかしら」
座席の下に置かれた荷物を眺めながら、ユリアナは問いかけた。そのなかには、クラエスにお使いをさせた日用品が詰まった紙袋も並んでいた。
「いえ…………、」
歯切れの悪い声に、嘘をつけないわね、と心の中で思う。
「怖い思いもしたけど、私は大丈夫よ。あなたが助けてくれたもの。――でも、バラドのことは、やっぱり簡単には解決できないわね」
脳裡に、バラドの悲痛な声が響き渡る。そして、力を無くしてもたれかかってきた体の重みが、ひまわり畑のなかを遠ざかってゆく後ろ姿が――めまぐるしく駆けまわる。ユリアナの心臓は強く締め付けられ、痛みさえ覚えるのだった。
「あの人を前にするたび、私はなんて無力なんだろうって思うのよ。身近な人さえ救うことができない現実に打ちのめされるから。――でも、それでも何度だって、私はあの人の手を握って、声をかけるわ。いつかあの人の抱えた、痛みや虚しさが癒えることを、誰よりも私が願っているから……」
みっともなく震える声で、ユリアナはそう囁いた。
バラドはきっと、何度だって、ユリアナの前に立ちはだかるだろう。そのたびに色んな後悔を、理解し合うことのできない痛みに傷つくのかもしれない。
それでも諦めたくない、と思う。
――いつか、彼の頑なな心を解せることを願ってやまないのだから。
無言で肩を震わせていると、膝の上に置いた手に、クラエスの手のひらがそっと重ねられた。温かく、乾いて皮の厚い、武器を握ることに慣れた掌だ。
ユリアナは小さく息を吐いて、隣の肩にもたれかかった。
日射しの隙間からこぼれる残照が、ユリアナの眼前を移ろう。それも瞬く間に消え、少女の視界は夕闇に閉ざされた。もはや自分の表情を照らすものは何もなくなったというのに、深く項垂れたまま、顔を上げることができない。
「ねえ、眠っていい?」――俯きながらそう問いかければ、いいですよ、とクラエスがうなずいた。
「着いたら起こしてあげますから。安心して寝てください」
「うん……」
クラエスにもたれかかったまま、ユリアナは目を閉じた。
せめてひとときは、優しい夢に浸れることを願って。




