(14)決断
脇道から飛び出してきた巨漢の男に体当たりをして、さらにその背後に控えていた複数人の警備兵にむかって引鉄を弾く。正確に脚を撃ち抜かれた男たちが、次々と石床に倒れ伏していった。
「――っ、まったく次から次へとワラワラと……これで撃ち尽くしましたよ! 貴方の義足にストックはもう無いんですか、ユリアナ!?」
振り返って声を張り上げたクラエスに対し、ユリアナは「便利屋じゃないんだから」と肩を竦めた。
「節約しなさいよ。前に塔かどこかで、弾は高くつくって講釈垂れてきたじゃない」
「ぶうたれないでください。弾は十分節約しましたし、そもそもあれは狙撃銃の話です」
ライフルの負い紐を肩に引っかけ、踏みつけていた警備兵の腰から剥き身のナイフを抜く。何度か握り心地を確かめると、クラエスは無言で前を向いた。
非常灯の光る薄暗い通路は、両脇に細い導水路が流れ、絶え間なく水の音が響いている。――その先に待ち構えているのは、赤錆びたひとつの扉だ。
人気はなく、扉の表面で電子錠だけが青い光を放っていた。
その光を睨み据え、クラエスが小さな声で囁く。
「何はともあれ、あそこが目的地のようですが」
「……鍵が厄介ね。先にシステム系統の制御室を見つけるべきかもしれないわ」
クラエスの肩越しに通路の行き当たりを見つめ、ユリアナが思案を巡らせようとしたときだった。
電子錠が不規則な点滅をくり返す。それから間もなく、外側に向かって扉が開いた――目を瞠るふたりの前に姿を現したのは、ひとりの年老いた男だった。
仕立てのよい三つ揃えのスーツに身を包み、象牙の持ち手のついた杖を突いた、矍鑠とした雰囲気の老人だ。
痩せ細った肉体、鷲鼻に落ち窪んだ眼孔に嵌るくすんだグリーンの眸――年齢をうかがせる皺とたるんだ皮膚が柔和な雰囲気こそ与えているが、その眼差しだけは、雪山の餓えた狼のように鋭い。
「アンドルツァ・ウングレアーヌ……」
ユリアナは呟いた。宝物庫で出会った老人、古城の主だ。
――周囲を見回せども、彼以外の人の姿はない。
名を呼ばれ、アンドルツァは顔を上げた。そして最初に出会ったときと同じように、人好きのする笑みを浮かべてみせたのだった。
「――こんにちは、ファランドールのお嬢さん。また会うことができて嬉しいよ」
カツン、と靴音を鳴らして、アンドルツァが一歩前に出る。
動じずナイフを構えたクラエスを、ユリアナは無言で制した。
流水音に混じって、換気扇の回る微かな音が聞こえた。通路の中央を、どこか生臭いような風が流れてゆく。
「……貴方が人身売買の仕掛人ね、アンドルツァさん」
クラエスの前に出て、ユリアナはアンドルツァと対峙する。
少女の言葉を受けて、「いかにも」と、老人は屈託のない表情で答えた。
「ウングレアーヌ家は黒海の貿易商だ。属領を含む東欧周辺、あるいは白系ロシア圏から帝国の入り口となっていてね、帝国が好む異国的な《商品》を入手しやすいんだ。――ワラキアは貧しい土地だ。このあたりでは、生活のために子を売るもの、それを買うものの間で取引がされるのが日常茶飯事なんだよ」
「それがウングレアーヌ家の裏稼業とでも? 長子であったあなたが家を継がなかったのも、そのあたりが理由なのかしら」
ユリアナの問いに、アンドルツァは目を細めた。「いや」――そう言って、ゆっくりと頭を振る。
「私は放蕩息子でね、優秀な弟とは違って父親に好かれなかったんだ。私がこの稼業に手を出したのも、理由は別にある。私はワラキアで生まれ育ったが、今言ったとおり、この土地はひどく貧しくてね。白系ロシア圏の支援を受けた長期に及ぶ独裁政権下で経済は停滞し、資源も、めだった産業もなかった。
冬場になれば、路頭に迷った浮浪者が道端でたくさん死んでいく。国民の多くが貧困に喘ぐような場所なんだ。自慢できることじゃないがね」
杖の持ち手を握りしめ、アンドルツァは苦渋を耐えるように唇をゆがめた。そして、「不憫だったんだ」、とほとんど聞こえないような声量で呟いた。
「追い詰められた環境下で、弱いものを守る人間はいない。赤子は間引かれ、どうにか生き残ったところでその末路は悲惨だ。親や周囲に虐げられながら育つから価値観は歪むし、教育を受けられないから限られた職にしか就けない。狭いコミュニティのなかで、あるいは孤立して暮らし、死んでいく。大抵の場合、そうした彼らが生み出すのは貧困や歪んだ価値観といった、不幸の連鎖でしかない。
――我々の想像を絶する世界だよ」
俯きがちに囁き、ユリアナの義足を一瞥する。
非常灯の明かりを反射する色違いの金属の足から、こわばるユリアナの顔へと視線を移し、「君は幸運だね」と微笑んだ。
「自分に課せられたハードルを越える力がある。それだけで僥倖なのに、加えて聡明で、物怖じをしない性格だ。――けれども常に追い詰められた環境下の人間というものは、そうじゃない。今以外の生き方を想像できないし、もっと言えば、そこから脱出するという発想そのものがないんだ。自分に課されたあらゆる枷のために、世代を重ねて再生産されていくある種の愚かしさのために。
たとえ善良な人間が手を差し出そうとも、その本質を理解できない。困難のなかで生まれ育つというのはそういうことなんだよ」
アンドルツァの言葉に、ユリアナは言葉を失った。
目の前が霞んだ。頭のなかを、ある想像が駆け抜ける。
自分がウルヤナに拾われなかったら? あるいは、アラクセスではなくワラキアに生まれていたなら。どれも『もしも』の話でしかないから、想像はできても、実感は湧かない。
「――もし目の前に餓えた子どもがいたならば、君はどうする。ユリアナ・ファランドール」
「……食料を差し出すわ」
「善良な人間であれば、そうするだろう。けれどもそれでは何も変わらない。一時的に腹が満たされるだけだ。彼の困難な生活は、これからも続いていくだろうね」
ユリアナは目を眇める。「何が言いたいの?」そう問いかければ、アンドルツァは深くうなずいた。
「生まれながらに不幸な末路しか用意されていない人間がごまんといる。けれども、《商品》として売ることができれば、帝国人の裕福な家に買われ、きれいな服を着せてもらい、運がよければ教育も受けられるかもしれない。
私は自分の生涯を通して、たとえ属領人であろうとも、他者に選択肢を与えたかったんだ。巡り巡って、それが未来に対する投資になると信じてね」
「……詭弁だわ。あなたがやっていることは、人権侵害よ」
「しかしそうでなければ、性産業やもっと別の悪辣な環境下に収斂していくだけの人間だろう? ――孤児院に入れたところで、彼らを拾う奇特な人間はどれほどいる? 容姿が優れていなければ、頭脳が明晰でなければ……その本質は人身売買と変わらないだろう? 帝国人が養子として望むのは、自分たちにふさわしい、幼く利発そうな子供だけなのだから」
ファランドール家は頭脳明晰な人材を集め、皇帝直属軍は軍人に適性のある子を集める。――そうでない人間は、いったいどこへ行くのだろう。アンドルツァの言葉を受けて、ユリアナの胸ににそんな疑念が過ぎる。
拳を握りしめて、ゆっくりと息を吸う。
「……確かに、私は幸運かもしれない。そのことを自覚しているわ。でも、あなたが今言ったことが、すべてではないことも分かる。……大量の人骨を見かけたわ。人身売買以外に、あなたは何を?」
アンドルツァは肩を竦めた。溜息をつく。
「……いやはや、気付かれてしまったか。《商品》にするにも不適格な子は多くてね――そういう場合は、別の需要がある。ショーだよ。観客の前で殺すんだ」
文化について熱弁を奮い、あるいは先ほど人身売買と語ったのとまったく同じ調子で、アンドルツァは語った。
「どうしようもないんだ。私には救えない、選択肢を与えられないほどの人間だって、すくなからず存在する。――そういう人間が生きたところで、不幸が延々と続いて行くだけ」
さらに一歩踏み込んで、アンドルツァが頭を振る。
呆然とするユリアナをよそに、老人は視線を少女の背後へと向け――「君の顔に見覚えがあった気がして、考えていたんだ」と言い放つ。
「思い出したよ。父親に瓜二つじゃないか。君はユリウス・ハクスリーの――そして、ジェイダ・ヘオヴォンの息子だろう。彼女は属領人だったが、非常に優秀な研究者だった。学会で何度も見かけたから、知っているよ。彼女はクイーンズランドの歴史を愛していた。それゆえに、女王の代理母に選ばれたとき、それを受け入れざるを得なかったんじゃないか。たとえその結果、アカデミアを去ることになろうとも。
――つらく困難な、苦渋の決断だったろう。しかし女王の価値を正しく理解している人間が、それを継承することを選んだんだ。称賛に値する決断だよ」
淡青色の目を細め、クラエスがナイフのグリップを握る力を籠める。しかし返答はなかった。
――水を打ったような静寂が広がる。
ユリアナはまっすぐにアンドルツァを睨みすえると、「迎合できないわ」と呟いた。
「あなたの言っていることが、理解できないわけじゃない。けれども共感はできない。人身売買が最良の選択肢だとは思わない。私の知らないような、どうしようもない環境のなかで暮らす人がいようとも、私たちはその心中まで想像できるわけじゃないから」
「君は強い人間だろう。けれども強さとは、弱き者に対するやさしさにはなりえない。強者であるとはそういうことだ。強さの苛烈なまでの光は、共感を寄せ付けない。無意識の部分で、他者の弱さを許容できないんだ。そのことに気付かないから、そんなことが言える――強さとは、悲しいものだよ」
老人の言葉に、ユリアナは唇を引き結んだ。
ぎゅっと拳を握りしめる。
生きている限り、自己と他者の間には、けっして埋められない溝がある。思想や価値観は、自分が生まれ育った環境でしか醸成されず、容易には変えることができないからだ。
ユリアナは自分の強さに縋って生きてきた。
ファランドール家の娘として、優秀な成績を収め、立派な技術工になる。それ以外の未来を、考えたことがなかった。それ以外の道で、自分の無力さを覆す道を知らなかったから。
――無力は嫌だ。
――どんなに辛い道でも、自分の力で歩きたい。
けれどもそう思わない人の心が、ユリアナには分からない。
理解することが、できない。もしかしたら、永遠に。
そのことを考えると、ふと、恐怖が足もとから這い上がってきた。
(私は……)
今まで出会ってきた、色んな人の顔が頭に思い浮かんだ。それを幸運と呼ぶべきなのか――大抵の人間は、自分の人生について矜持や道標を持っていた。
(私は、バラドを……)
「――ユリアナ」
背後から声が響いた。
腕を掴まれ、いつの間にか真横に立っていたクラエスに体を引き寄せられる。
半身に感じた自分のものではない温もりに、心の強ばりが解けたような気がして、目頭が熱くなった。
「私の母は、代理母であることを強制され、学問の世界を去った。そのなかには葛藤も、ある種の諦めもあったかもしれません。帝国のために、政治的な道具として女王の子を産むのだから、容易な決断じゃなかったのは事実でしょう。
――けれども決して、自分の人生や、未来を悲観したわけじゃないことは断言できる。それに、あなたに称賛されるために、エレノアが生まれたわけでもない」
ナイフを構えながら、クラエスは淡々とした口調で続けた。
「私たちは不幸になるために生きているわけじゃない。等しく、どんな人間でも。それと同時に、不幸であることを選ぶ権利がある。その権利は誰に侵害されるものでもない――貴方が決めることでもない」
クラエスの言葉に、アンドルツァは小さく溜息をついた。「分かり合えないようだね」、そう囁く。
「君の名は? 聡明で勇敢なヘオヴィン女史の息子」
「……クラエス・ハクスリー」
「クラエス……。珍しい名だが、ニコラスの変化形だね。《人の勝利》を意味する古い名前だ――ヘオヴィン女史がつけたのだろう。そうか……」
老人がゆっくりと頤を上げ、宙に向かって掲げた指を弾いた。
しかし乾いた音は、静寂のなかで虚ろに響いただけだった。
アンドルツァが怪訝そうに眉根を寄せたところで、彼の背後から銃声音が響いた。
「……っ、」
ユリアナの目の前で、アンドルツァの体が傾ぐ。
男がとっさに手で押さえた左胸が、見る間に血で濡れてゆく。呻き声を漏らして床に膝をつき、枯れ木のような体が痙攣する。
そのとき、規則的な靴音が響く。アンドルツァの背後から、片手に自動小銃を携えたひとりの男が現れた。
「――バラド」
名を呼べば、喉の奥がずしんと重くなる。彼は老人の横で立ち止まり、絶命する様をじっと眺めると――それから、ゆっくりとユリアナに顔を向けた。
「ユリアナ」
黒い目を細めて、彼は微笑んだ。




