恋のソネット
カンカンと小気味よい音を立てて、クラエスは借り部屋の外階段を上っていた。その足運びが普段よりもずっと慎重なのは、ひとりの少女を背負っているからだった。
「クラエスの背中、あったかくて眠くなるわ……」
「そのまま寝て私の背中によだれを垂らそうものなら、承知しませんからね」
うとうととするユリアナは、その言葉に弾かれたように顔を上げ、「そんなことしないわよ」と不満の声を上げた。
どうだか、と首を竦め、あらかじめ扉を開けておいた玄関に足を踏み入れる。用意していた椅子に一度ユリアナを下ろすと、「いま車椅子を取ってくるので」と言ってくるりと背を向け、来た道を戻っていく。
「よく働くわね、クラエスったら」
仮義足をぶらぶらさせながら、ユリアナは肩を竦めた。
――春、クテシフォン。
その日、ユリアナはクテシフォンの病院を退院した。
冬に属領アラクセスの都市イェレヴァンにある病院から転院して、数カ月。彼女にとっては念願かなっての帰宅だった。
晩秋にステパナケルト郊外の遺構第二〇二から緊急搬送されたとき、ユリアナは瀕死の状態で、重度の火傷も負っていた。その当時と比較したらめざましい回復ぶりであり――その裏でファランドール家の関与する、強力な医療ネットワークの恩恵があったことは言うまでもない。一方で切断した右足の断端部は安定しておらず、今は仮義足でリハビリを続けている状態だった。
「――はあ、疲れたわ。今日はもう何もせずに寝ちゃいそう」
クラエスの運んだ車椅子に乗って、ユリアナは借り部屋のリビングにまで移動した。自力で立ち上がって短い距離を歩くと、今度はぽすんと音を立ててソファに身を沈める。
そんな彼女を横目に、クラエスは換気のために家中の窓を開けて回った。
バラドが定期的に清掃の人間を入れる契約でもしているのか、放置されていた期間を思えば、想像以上に小奇麗で手入れが行き届いている。大掃除をするつもりで家を訪れていたものだから、クラエスは拍子抜けしてしまった。
家の窓をひととおり開けてから、クラエスはリビングに戻った。するといつのまにか体勢を崩してソファを寝転がるユリアナが目に入る。
「なんだか懐かしい気さえしてくるわ。学校にいる間は、どんなに離れていてもそう感じなかったのに……」
「……久々に帰ってこれて、安心しましたか」
クラエスの問いかけに、ユリアナはコクリと頷いた。
「そうかもしれないわ。でも、バラドはいないのよね……」
ふとそんなことを呟いた少女を、クラエスは無言で見下ろした。
この借り部屋はそもそもバラドが所有しており、ユリアナとともに生活していた場所だ。(数年分の賃料を一括して払っていたらしく、今も問題なく使用できる。)入院中、ファランドール家のクラブハウスや管理下の物件に移る話も出たらしいが、それはユリアナ自身が断ったという話だった。
――いわく、「この場所」がいいとか。
クラエスの無言の視線をどう思ったのか、ユリアナは大きく伸びをすると、ゆっくりと身を起こした。ガーゼ生地のワンピースのポケットを探ると、何やら封筒のようなものを取り出す。
「はい、これ」
差し出された封筒を前に、クラエスは首を傾げた。
それなりに厚みがある封筒だ。「何ですか、これ」と、やはり見当もつかないといった顔で問いかけるクラエスに、ユリアナはあっけらかんと答えた。
「お金よ、お金。そんなに多くないけど」
「ええと……貴方の身の回り品でも買ってくればいいんですか? 服とか?」
「もう、違うわよ。下っ端根性が染みつきすぎよ。それにあなたに服を買わせたら少女趣味になるって、病院のパジャマを用意してもらった時点でわかりきっているし――って、そういう話をしたいんじゃないのよ。このお金はあなたにあげるの。あ、袖の下とかそういうんじゃないわよ、先に言っておくけど」
「はあ……」
釈然としない顔で、クラエスは答えた。
「入院中、ずっと私のお世話をさせっぱなしだったんだもの。私の父親から生活費とかは貰ってるって聞いてたけど、別に私のお世話をするのがあなたの仕事ってわけでもないでしょう。だからそのお礼よ」
「……それはどうも。ちなみにこれの出所は?」
「よくわからないんだけど、ウルヤナの凍結されていた口座から、たくさんのお金が転がり込んできたのよね」
――正直な話、皇帝直属軍の俸給は低い。属領系が就く職種全般に言えることだが、帝国を支える搾取の構造上、不当に低く設定されているのだ――休職していた以上、今はそれもない。
もともと節約志向のクラエスには貯金があるが、それも雀の涙ほどである。住居はエレノアと共有していたため何とかなったが、ユリアナについてイェレヴァンで生活していたとき、そしてクテシフォンに戻ってからも、彼の生活を支えていたのはトラウゴットのポケットマネーだった。
――クラエスの立ち位置は、一連の事件以降、非常に微妙なところにあった。彼の行動は、本来であれば軍紀違反――もっと言えば『反逆』と捉えられて裁判ものだったが、そこに入り込んできたのがファランドール家だった。
正規軍だけでなく皇帝直属軍にとっても、ファランドール家は武器供給や技術提携といった面で欠かすことのできない「仕事仲間」だ。
かれらはそれ単体での武力は持たないものの、帝国の技術革新を先導しながら経済の一端を担う、非常にやっかいな相手である。お互いにとって持ちつ持たれつとはいえ、できれば良好な関係を保っておきたいのが軍の本音だ。
結果的にクラエスは停職、その後の処分も各方向からの圧力によってうやむやになってしまった――のだが。
クラエスは無言で封筒を見下ろすと、それをユリアナに突き返した。
「お気持ちは嬉しいですが、結構です。生活が苦しいわけでもないですし、必要な分は、ご理解されているとおりあなたのお父上から頂いています」
「何でよ。ちょっと嬉しそうな顔したじゃない」
「まあ別に豊かなわけでもないんで……。とにかく、いりません」
理解できない、とばかりにユリアナが眉をひそめた。
「そう。それならいいけど。……とにかく、今までありがとう、クラエス。いっぱい迷惑をかけたわね」
しかし次の瞬間には毅然と顔を上げると、そう言ったのだった。
まっすぐに自分を見つめる青い瞳を前に、クラエスは一瞬、混乱する――その言葉の意味を測りかねたのだった。
「これ以上、あなたを私のお世話に付き合わせるわけにはいかないもの。お手伝いさんを雇って、何とかするわ。いままであなたの時間を奪ってしまってごめんなさい。これからは自分のために使ってね」
ソファに座ったまま、ユリアナは棒立ちになるクラエスを見上げて、そう続けた。
外から吹き込む風が、ぱたぱたと薄手の紗幕をはためかせ、ユリアナの黒髪をかすかに揺らめかせる。しばらくの間、言葉を失ったままだったクラエスは――その生ぬるい風を背中に受けたところで、はたと我に返った。
「……それは確かに、貴方はわがままだし、イラついたことだって一度や二度じゃなかったですけど……。いや、すみません、怒らないでください。そんなことを言いたいんじゃなくてですね……」
しどろもどろになりながら喋り、クラエスはゆっくりと頭を振った。何を否定しようとしたのか、自分でもわからない。
ただ目の前の少女が、別れを突きつけてきている、ということだけは理解できた。――それもたぶん、クラエスのために。
すこし考えて、それが彼女なりの『誠意』なのだとクラエスは解釈する。
ユリアナは気が強く、頑固で、傍若無人なきらいがあるが、同時に強い孤独も抱えていて、それが彼女の一線を引いたような他人とのかかわり方に表れていた。
――それはこの半年近くを一緒に過ごしてきて、クラエスなりに理解してきたことでもある。
「ユリアナ。私は別に、誰かに強制されて貴方の世話をしていたわけじゃないんですよ。自分がそうしたいから、そうしていただけで」
「でもその好意だか同情だかも際限のないものじゃないでしょう。私、あなたに無理をさせてたんじゃないかって思ってるの」
クラエスは無言で目を細めると、ユリアナの横に腰を下ろした。
膝の上に置かれた白い手を取るが、彼女はそれを握り返そうとしなかった。
正面を向いたまま、「信じたいとは思うのよ」と小さな声でポツリと呟くだけ。
「無償の愛を……」
裏を返せば、その言葉は――今の彼女が、それを信じていないという意思表明に他ならなかった。ユリアナ自身が、それを自覚しているかは別として。
「でも、あなたのことをこれ以上私の事情には巻き込めないわ。もう事件は終わったんだし、あなたも自由の身になる日が近い。もし私の父親が何か言っても、うまく言っておくわ。皇帝直属軍の身代金くらい、あのひとなら痛くも痒くもない額でしょうし。そうでなくとも、私がいつか返せばいい話だもの。……ね?」
青い目がゆっくりと部屋を見渡し、外から漏れる明かりを反射して薄っすらと光る。
その横顔を無言で眺めたクラエスは、ふいに、握ったユリアナの手を引いた。彼女の動きを封じて、いささか乱暴に、その体を床に突き落とす。
「……っ、」
絨毯の上に転がったユリアナは、腰を強かに打ったのか、苦痛に顔を顰めた。彼女が起き上がるよりも先に、その体に覆いかぶさる。
「――何のつもり」
低い声とともに、ユリアナはクラエスを睨んだ。
しかしその挑発的な表情とは裏腹に、少女は無防備に四肢を投げ出した格好のまま、抵抗しようとしなかった。
「私を犯したいなら犯せば? あなた、今までずっと手を出さなかったものね。――セックスは好きじゃないけど、あなたならいいわ」
「――ユリアナ」
――予期せぬ言葉に、胸が痛んだ。
ユリアナの顔の横で手を突いたクラエスは、ふと項垂れると、掠れた声で彼女を呼んだ。
「バカ。――この、大馬鹿」
そして怒りをあらわにして、そう言ったのだった。
「ば、バカとは何よ。バカはあなたじゃない! このバカ! バカバカ、クラエスのバカ!」
「いいえ、貴方のほうがもっともっともっともっとバカです」
間髪入れず返せば、むう、とユリアナが唇を尖らせる。
「貴方は私の気持ちをちっとも理解してない。なぜ私が軍を抜けたかもうお忘れですか。あんなに頭がいいのに、そんなことも覚えてられないなんて、本当にバカです」
「……皇帝直属軍の労働環境? エレノアのパワハラ?」
「それも否めないですが――ああ、もう本気で忘れてますね。私はね、貴方の味方になるって宣言したはずですよ」
ユリアナが青い目を瞠った。
「き、気持ちは変わるものだし……。それに、あなただって、私にいつ愛想を尽かすかわかったもんじゃないわ。自慢じゃないけど、私、すっごく可愛げがないし、傲慢で、ワガママだわ」
「自覚していらっしゃるなら結構。進歩してますよ。――私はね、貴方の味方になりたいと思ったから、貴方のお父上の話に乗ったんです」
最初は、遺構第二〇二の利権絡みの問題で。――一〇年前にウルヤナが凍結させた遺構を、ファランドール家はどうにか円滑に「処理」したかった。ルスラン・カドィロフの研究は、現在の技術では安定運用には程遠いもので――軍に漏えいされるくらいならば、破棄してしまったほうがよいと考えたのだった。
そのためには管理者権限を持つユリアナが現地に行く必要があった。しかしファランドール家は、軍に対抗できる武力を持たない。そこで目を付けられたのがクラエスだ。皇帝直属軍の内部にいて、しがらみも少ない。
くわえて属領人だから、死ぬことによるリスクも小さい。
一時的な子飼いにするには体よい人材だったのだ。
報酬として、皇帝直属軍の身代金が提示された。しかし彼の話に乗るということは、所属する軍を裏切ることであり――クラエスに葛藤がなかったわけではない。
「貴方のことを好きだと思わなければ、さすがの私でもここまで身を呈したりしません。……私には、貴方の抱える孤独が辛かった。貴方は勇気があるからどんなことにもひとりで果敢に立ち向かえるけれど、私にはそれが……」
ユリアナは、きっと自分の置かれた状況を辛く感じても、それにひとりで立ち向かうことを躊躇ったりはしない。どんなに強い向かい風が吹いても、その先に道があるなら、進むことを選ぶ。
――他人を必要としないくらい強くなって、ひとりで生きていこうと思ってた。
いつか、ユリアナはそんなふうに言ったことがある。
中央制御室の扉を前にしたときのことだ。あのとき自分に対してそう言ったように、本質的な部分で、ユリアナは「ひとり」なのだ、とクラエスは理解している。
それが自分と彼女の違うところだとも。
だから、「これ」は自分の独りよがりなのではないか。
時折、クラエスはそんなことを思う。自分がいなくとも、ユリアナは結局、ひとりで生きていけるのだから。
けれども結果として、クラエスは今、トラウゴットの思惑を超えてユリアナの傍にいる。――そこに『報酬』以上の感情があったからこそ、彼女の傍にいることを選ぶことを決めたのだった。
「……私のことが好きなの?」
しばらく無言で目線を彷徨わせていたユリアナが、そんなことを問いかけた。どこか呆気にとられた表情だった。
「……そうですよ。知らなかったとは言わせません」
「直接あなたの口から聞いたのははじめてよ。たぶん」
クラエスは言葉を詰まらせた。――そういえばそんな気もする。
するとユリアナは、それまで張り詰めていた表情を一気に崩した。どうやら、クラエスの告白がいたく気に入ったらしかった。
「さっきのもよく聞こえなかったから、あと百回くらい言ってくれる?」
「調子に乗らないでください」
気恥ずかしさを覚えてぶっきらぼうに答えれば、頬の緩みを隠しきれないユリアナがにやにやと笑う。
「言うくらいいじゃない。ねえ、クラエス――――」
お喋りな少女の唇を、クラエスは自分の唇で塞いだ。
やわらかく湿った唇をついばんで、吐息を分け合う。何度かそれをくり返すと、少女の頬に手を当て、青い目を見つめながら、そっと囁きかけた。
「……さっき、家のなかを見て回ったんです。ひとりで暮らすにはずいぶん広いでしょう? バラドだっていない。貴方がここでひとりで生活することを考えて、辛くなったんです。貴方は強いから寂しいとも感じないかもしれない。でも……」
ユリアナはくすくすと笑いながら、「心配性ね」と微笑み、クラエスの背中に腕を回した。かと思えば、次の瞬間、両足を腰に巻きつけてくる。
「クラエス、ねえクラエス」
耳もとにささやきかけてくる声は、心なしか、普段よりもずっと機嫌がいい。少女の四肢でぎゅっと拘束されたクラエスは、何ですか、と穏やかな声で答えた。
「もしかして、まだ私と一緒にいてくれるってこと?」
冷たい両足を背中に感じる。それがひどく重く――同時に、離してはいけない何かのように思われて、クラエスはゆっくりと頷いた。
するとユリアナは柔らかく笑い、クラエスの頬にキスをした。
「嬉しいわ。私、あなたのことが大好きだもの」
「……それかよかったです」
「毎日じゃなくてもいいから、会いに来てくれる?」
ええ、とうなずく。「これまでと、何も変わりませんよ」と続けた。
「ふたりでいれば、楽しいでしょう。これまでは悲しいことの方が多かったかもしれないから、いっぱい楽しいことをしましょう。ようやく退院したことですしね」
「じゃあ、わたし、下のカフェのシナモンロールが食べたいわ。あと本屋のチェックもして回りたいし……あっ、旅行もしたいわ。それから……」
「はいはい。ひとつひとつやりましょうね、そのうち」
肩を竦めて、クラエスは微笑んだ。そして「いい加減離してください」と身をよじったところでさらに強くしがみつかれて、困った顔をするのだった。




