荒天
「これは応急処置だから、後でちゃんと軍医に診てもらってね」
少女の声とともに、右肩の包帯が緩む。エレノアは床の上に座り込んだまま、声の主である娘を見上げた。
失血のために視界は霞がかっており、翡翠色だけがチカチカと瞬く。懐かしい色だ――そう思いかけて我に返り、わかった、と遅れて了承を返す。
エレノアは桑雨と名乗る少女に導かれるまま、崩落寸前の遺構から脱出したところだった。非常用通路を経由して地下水路を降りると、一帯を支配していた汚水は捌け、わずかな名残がそれを忍ばせるだけとなっていた。少女の腕を借りてなんとかそこまで辿りつくことはできたが、差し迫った危険から一旦は遠ざかったこともあり――それでも崩落の影響がここに及ぶのもそう遠くない未来だったが――気力が尽きてしまったのだった。
それを見兼ねた桑雨が、「仕方ないな」と言って彼女の手当てを買って出たのである。
「――お前、今、何をしているんだ?」
「君の手当てだけど」
「そうじゃなくて……」
エレノアの血を吸った包帯をすべて外し、サイドポーチから新品のものを取り出す。傷口の汚れを拭うと肩口にあてがい、圧迫しながら巻き始めた。その手馴れた姿を不審に思って疑問を発した彼女に、桑雨はあっけらかんとした態度で答える。
「学生だよ――アズハル高等学院のね」
そうか、とエレノアは青い目を眇める。色を失った唇をとがらせると、「兄に似て頭がいいんだな」と掠れた声で囁いた。
無意識下でこぼれ落ちた言葉だったが、エレノアの心は不思議と凪いでいた。感情が揺らぐ余裕すらないほど満身創痍だったのだ。
頭を垂れ、片膝に額を乗せる。傷に障らない程度に深く呼吸をする。
――10年前、『彼』の妹は六歳か七歳そこらだった。
強制的に婚姻関係を結ばされただけで、居住を共にすることもなければ、互いの家族と面会することもなかった。唯一の肉親であるという妹は、ただ話に聞くのみの、近いようで遠い存在だった。
当時、ファランドール家からの報酬と見舞金を前に、その存在を思いだしたのは――彼が妹の話をするとき、殊更優しい顔をしていたからかもしれない、とエレノアは思う。自分の過去との手切れ金だ、と。
「……学費はどうしているんだ」
「奨学金をもらってる。僕、正規軍の特待生なんだよね」
「そうか。――金なら、自分のために使え。私は弟と違って他で生きていけるほど器用じゃない。軍を足抜けするつもりも毛頭ない」
自分を購うと宣告した娘を諫めるつもりで、エレノアは言った。
強い力で包帯を締め上げられたのみで、返事はない。ちらりと桑雨の顔を盗み見ると、目が合い、ニヤリと笑いかけられた。しかし言葉はなく、彼女は黙ってエレノアの手当てを続けた。
包帯を結び終えると、「よく治るおまじないだよ」と呟いて、傷口の上にキスをしてくる。
「……っ、ちょっ、ちょっと、顔掴まないでよ!」
「ふざけたことをするからだ」
「にいさんがよくしてくれたんだけどなあ……」
「それはお前が妹で、当時はまだ幼い子どもだったからだ」
無事な左手で少女の顔面を掴むと、むりやり引き剥がして突き飛ばす。――この手で掴みきれてしまえそうな、小さな頭蓋骨だとエレノアは思った。あるいは10年前はもっと小さな頭をしていたのだろう。指先の拾ったサラリとした髪の感触に、ふと胸の奥が灼け焦げるような痛みをおぼえて、その手を離した。
桑雨は指の痕がついた頬を押さえて、「痛かったんだけど」と鼻白んだ。エレノアは答えず、そっぽを向いて立ち上がり、血に濡れた襯衣の上から上衣を羽織った。
「手当てをしてくれたことには礼を言う。だが――」
「君さ、にいさんの遺言書、受け取ってないでしょ」
発言を遮られたことに苛立ち、エレノアは桑雨を睨みつけた。
地下水路を包む薄闇のなか、少女はやはり笑みを浮かべてその場にたたずんでいた。兄とは異なる、底の知れないような笑い方。その一挙一動に、10年前の男の姿を探してしまう。エレノアは自嘲するように口角を上げた。
「遺言状なら――」
「形式的な……にいさんが、アラクセスに派遣される前にファランドール家に提出したやつじゃない。自分の家に置いていったやつだ。君、遺品整理さえ来なかったんだろう? おかげでほとんど棄てられちゃって、僕の手にはそれくらいしか残らなかったんだから」
「……そうか」
興味がない、と頭を振る。すると桑雨は肩を竦め、溜息をついた。
「何通かあって、君宛のものもあった。君が取りに来ないから、僕、穴が開くほどそれを読んだんだよね。遺言書というか――もはやラブレターっていうのかな? 読んでてこっぱずかしくなるようなやつでさ――」
ぺらぺらと喋り始めた桑雨の言葉に、エレノアは弾かれたように顔を上げ、その胸倉を掴んだ。鼻先を突き合わせれば、翡翠色の目に自分の顔が映り込む。――怒りの形相だった。
「嘘をつくな。あいつがそんなもの……」
「だったら確かめに来ればいい。遺書があるのは本当だもの」
じっと見つめられて、エレノアは唇を引き結んだ。少女の胸倉から手を離して、一度目を瞑ると――無言になって、背を向ける。
黙って外套の紐を結んで歩き始めれば、「ねえ」と声がかかった。無視して地下水路を進めば、「会いに来るでしょう?」と叫ぶ声が聞こえた。
――応えない。
エレノアは拳を握ったまま、道を歩いた。そして少女の姿が見えなくなったところで、立ち止まった。右肩の傷がズキズキと痛むのを感じながら、頭を垂れ、唇を噛みしめた。
頭の中が靄がかったようにはっきりとしない。しかしその瞬間、彼女はこの一〇年前のあの日――『彼』に向けた銃、そのグリップを握りしめた感触を思い起こしたのだった。
あるいは皇帝の宮殿に出入りする際、晒し者にされた、塩漬けの頭の横を通りがかる瞬間の――腐った肉の生々しい死臭、飛び回る太った蠅の羽音さえも。
「…………、」
何事かを言おうとしたが、喉がひりつき、声が出なかった。
――あの日、あの瞬間、あの男は自分を恨んだのだろう、とエレノアは思っている。未来を掴む代わりに、ありえたかもしれない別の未来を捨てた。
その先に続いていたかもしれないものに思いを馳せることを、この一〇年、拒み続けていた。とうに捨てたものなのだと自分に言い聞かせて。
――それなのに、なぜあの少女は。
エレノアは汗に濡れた前髪をかき上げた。胸のなかにふつふつとこみ上げるものをごまかすように、再度重い足を上げ、暗い道を歩き始めたのだった。
◆ ◆ ◆
アラクセスの遺構第二〇二が完全沈黙してから早一カ月――事後処理に追われていたエレノアに言い渡されたのは、数名の部下とともに、通称『グラナダ戦線』――侵略戦争を繰り広げる帝国とカスティリヤ王国の最前線にして激戦区への出征要請だった。
勅令を伝達する宦官から書状の入った箱を受け取る前から、漠然とその予感はあって、さほどの衝撃は受けなかった。皇帝直属軍の中で頭角を現す自分を疎んじる上層部が、アラクセスの一件を理由に、難易度の高い特殊任務で死地へと自分を追いやることは予見できたことだったのだ。
(――歳月を重ねてようやく築き上げたものも、崩れるのはたやすい)
もともと自分は《女王》の容姿と血を持つだけの人間で、上に立つことは本来望まれた『役割』ではなかった。生まれたときから。
皇帝直属軍で地位を得るなど、当初は誰も予想はしないし、求めてもいなかったはずだ。
――父親さえも。
準備期間と称して、エレノアに渡された休暇は三日間だった。大半は通常業務の引き継ぎで消え、ようやく首都の自宅に戻ったのは三日目の夜のことだった。これから荷造りをすることを考えれば、今夜は寝る暇もなかった。
クテシフォンの外れに近い街区の属領人街に、エレノアの家はある。軍の借り上げた小さな一軒家で、ここ数年は弟と居住を共にしていた。(狙撃手で戦場での暗殺任務の多い弟は遠征が多く、ほとんど家にいる期間がないからこそのルームシェアだった)――その弟は今も休職を継続していて、今はどうやら属領アラクセスのイェレバンにいるらしい。何をしているかは推して測るべし、である。弟に多額の『身代金』が支払われたとの通達が入ったのはつい先日のことだ。エレノアはまだ正式な書類を受け取っていないが、身請け先はファランドール家であるという。属領グッドホープの件でファランドール家からの猛抗議を受け、武器供給を減らされていることを考えると、この《商談》はおそらく最終的には成立せざるを得ないだろう。
自分が口を挟む余地はない――そんなことを考えながら重い体を引きずっていたエレノアがは、ふと見慣れた自宅の扉を視界に入れた。
――そこに見慣れない人影があった。
「――こんばんは」
エレノアが視線を向けると、少女はゆっくりと顔を上げた。
目深にかぶった砂除けのフードを外して、翡翠色の目を細める。――桑雨だ。
「……何の用だ。なぜ私の家を知っている?」
どこか尊大な態度で扉に寄りかかる少女を睨みつけ、エレノアは低い声で問いかけた。すると彼女は唇を突き出して、「君が遠いところに行ってしまうようだから、挨拶をしようと思って」と、悪びれもなく答えた。
――どこまで内情を知られているのか?
エレノアはうすら寒い気持ちになった。しかし無言で少女まで歩み寄ると、その肩を掴み、背後の扉へと押し付けた。
華奢な肩だ。見た目に反して鍛えられてはいるが、自分と比較しても、骨が圧倒的に細く脆弱だ。肩を強い力で握りながら、耳元に口を寄せ、「私に関わるな」――そう短く吐き捨てる。
「何を考えているか知らんが、お前と私は赤の他人だ。これまで何の関わりもないし、今後も関わりたいとは思わない。遺書を受け取るつもりもな。だからさっさとどこかに行くがいい、――桑雨」
痛みをこらえるように、少女がうつむく。
黒い前髪が垂れ、目元を覆い隠した。しかし頷こうとはしない。その様子に激しい苛立ちを覚え、エレノアは声を波打たせた。
「――私に何を喋らせようというんだ? これ以上、私に何を要求するつもりなんだ? お前は……」
死んでしまった男の妹という存在は、エレノアのなかにある確かな『空白』を刺激してやまなかった。勢いに任せて掴んだ少女の肩を押しやると、横の茂みに突き飛ばす。抵抗もなくその薄い体が倒れ込んだのを横目に見てから、エレノアは家の扉を開けた。そして玄関口へ上がりこもうとしたところで、ふと、気配を感じた。
振り返ろうとした瞬間、首に衝撃を感じる。
「……っ」
膝からくずれ落ちかけた矢先――振り返ったエレノアの視界に映ったのは、スタンガンを携えた桑雨の姿だった。
掴まれた右肩を手で押さえながら、彼女は薄っすらと――ほとんどわからない程度に笑った。そして玄関先で倒れたエレノアにのしかかると、両手で胸倉を掴んだ。
「――僕は君と関わりたいよ」
ウランガラスのような透明な緑の目を細める。桑雨の声は夜闇の静寂に溶け落ちてしまいそうなほど、しずかなものだった。
「だから僕が君を買うんだ。――タダで、とは言わない。僕にだってほしいものはあるから」
痺れて声を失ったエレノアの頭を強引に揺さぶる。しかし乱暴な行為に反して、桑雨の声は弱弱しいままだった。
俯く少女の顔が垣間見えたとき、その表情は、それまでエレノアが見てきたような飄々としたものではなくなっていた。より内面のものをむき出しにした――懇願をするおんなのまなざしへと変わっていたのだった。
「……卵子だ」
ぽつり、と呟きが落ちる。
「陳鎮雨の遺伝子はファランドール家が凍結保存している。君の卵子と、にいさんの精子で子どもを作る。――《女王》の娘である君は遺伝子保護法の傘下にあるから、いつかはその血を継ぐ子どもをつくらなくちゃいけないはずだ。
でも君は軍務を優先して、自分自身が産むという選択はしないはず。だから僕が代わりに産むんだ」
「――っ、なにを……」
突拍子のない発言に、エレノアは思わず面を食らってしまった。困惑する彼女をよそに、「ずっと考えていたんだ」と娘は切羽詰まった声で続ける。
そしてゴシゴシと外套の袖で目元を拭った。
「失われた日々がほしい」
桑雨はエレノアの襟首を掴む手を離した。その上に跨ったまま、頭を垂れて、ほとんど聞こえないくらいの声量で囁いた。
失われた日々が。
桑雨はもう一度だけ呟いた。
「にいさんが生きていたなら、ありえたかもしれない日々がほしい。でもそれは無理だ。だから僕は……」
そこで言葉を切り、少女は顔を上げた。そして何も言わず、フラリと立ち上がると、エレノアに背を向けてしまった。
そのまま立ち去ってしまった少女を、エレノアは呆然と見送った。一言も発することができず――その背を見つめることしかできなかった。
闇に包まれた街並みのむこうの空で、稲妻が走った。スタンガンの衝撃が抜けきっていないのか、ビリビリとした微かな静電気を首筋に感じる。エレノアは目を伏せた。そして痛みを堪えるように、唇を引き結んだのだった。




