(16)petit autre i
クラエスが去ったのを確認し、私は扉に取りつけられた認証パネルに手をかざした。するとすかさず、かすかな機械音とともに扉が開いた。
まず目に入ったのは、壁や床を侵食するに飽きたらず、巨大な繭のように膨れあがって室内を圧迫する糸の群れだった。一瞬、そのおぞましい姿にたじろぐ。
しかし拳を握りしめると、足を踏み入れた。
――遺構第二〇二、中央制御室。
視界をさえぎる黒い糸を払いながら進むと、唯一、その侵食の及んでいない場所に出た。これまでの閉塞感のある空間から解放され、吹き抜けとなった天井ははるか高みに据えられ、わずかな明かりが射していた。――想像していたような大型の装置や複雑な構造物はない。
むしろ異様なくらい殺風景な空間。そこに、丸い壇だけが置かれていた。
迷わず、その壇にむかって突き進んだ。
壇上にはまず右足を乗せた――すると、それまで沈黙していた義足が、突然発光をはじめた。透明な金属の表面が、七色の光にきらめき――と同時に、足を載せた壇もまた、同じように一面が虹の輝きを帯びた。
目を開けていられないほどの眩しさに、思わず顔を背ける。
そのとき、周囲に立体映像が立ち上がった。壇の上に立った私を取り囲むように、複数の操作盤が浮かんだのだ。
《―― |Здравствуйте《ごきげんよう》》
と同時に、頭上から声が降りかかった。私が天井に目を向けると、ひとの形を成した立体映像がふわふわと浮いていた。
光の集合体に目を凝らす。三〇代か、あるいは四〇代に差しかかろうという年代の女性の立体映像だ。
色褪せることのない金髪に、はしばみ色の瞳の容姿。――身覚えがあった。
――オレーシャ・セラヴィンスキーだ。
私が見た写真よりも、すこしだけ老けた容貌。
彼女の右足には虹色の《白鳥》が、そして左足には漆黒の《黒鳥》がそれぞれ装着され、宙を自由に泳いでいるようにみえる。
すこし考えて、それから理解する。これは「ありえない未来」だと――オレーシャ・セスラヴィンスキーは骨肉腫で両足を切断後、さらに全身にガンが転移し、二〇代のうちに死去したと記録に残って居た。
おそらくこれは、この遺構の――そして義足の開発者とされる、ルスラン・カドィロフの描いた、オレーシャの未来像なのだ。
「ロシア語はわからないわ」
どこか無機質な瞳を見返し、私が言い放つ。するとオレーシャは宙でくるりと回って、《使用言語をアラビア語に切り替えます》と抑揚のない声で答えた。
《管理者ウルヤナ・ファランドール様、認証いたしました。ソヴィエト連邦国立アカデミー管轄研究所〝レベジーナェ・オーゼラ〟管理システムへようこそ。本日はヒジュラ暦***年、**月**日、断食月です。次の礼拝時刻まで後二時間二一分一〇秒……天気は晴天》
オレーシャは両目を細めてほほ笑んだ。美しい笑みだ。
抑揚のない声や時折のぞく不自然な表情を除けば、「生きている」と錯覚するような姿。ルスラン・カドィロフは何を考えて、この遺構の中枢機能――人工知能に《オレ―シャ》と名付け、その姿を与えたのか。二〇〇年以上昔の人間に、私は問いかける術を持たない。
――ふと、頭の片隅にエレノアが浮かんだ。
この国は祈る神を持たない、と彼女は言った。
それに近いことだろうか、と思う。死んでしまった人、どこかへ消えてしまった人の不在を、私たちはどうすることもできない。時間の経過とともに見過ごすことはできるようになっても、「その人がいない」という厳然たる事実は変わらない。
私はゆっくりと息を吸った。私がここにいる理由は、いくつか存在する。ウルヤナを探すこと。そして、ウルヤナから継承したこの右足を――彼の思惑どおりに、使うこと。
――あの図書館で、私は10年振りにウルヤナと再会をした。
立体映像の彼は、「私」に対して、義足を探せと言った。一〇年前の事故で失われた《リエービチ》を。ウルヤナから義足を託された陳鎮雨によって持ち出され、結果的に私へと移植されたが、その事実を、ウルヤナは知らない。
知らないままに死んだのだ。
本来、《リエービチ》は黒鳥の持ち主であり、遺構の管理者であるウルヤナにしか移植できず――赤の他人への移植を可能としたのが、陳鎮雨の研究だった。
先ほどから絶えず脳に響く未知の「声」、そしてウルヤナとエレノアの話が、私にひとつの確信をもたらしていた。黒鳥には、微生物の上位種である《女王》の核が内臓されている。それを移植された人物が、微生物の頂点へと「なり代わる」のだ。
これが生物兵器であり、微生物の完成形である《ドヴッジャイラ》の制御桿となる。と同時に、移植された段階で二本の義足は持ち主の「生体」同様の存在となる。これを移植する際の拒絶反応を排除したのが、陳鎮雨の研究と技術だったのだ。――おそらくは。
では、白鳥とは何だったのか。遺構の認証システムの役割を果たすというのならば、もっと別の存在でもよかったはずだ。
思うに、ふたつの義足――そしてこの遺構そのものが、両足を失ったオレーシャの遺物であり、彼が弔うための墓だったのではないか。
プリマであった彼女へと捧げられた、美しい足。自由自在に操ることの足。――踊るための足。
結局、彼女はそれを身に付けることなく死んだ。ルスラン・カドィロフと彼女の関係性を私は知らないが、魔術的と言われるほどの足を捧げるための熱意を燃やすほど、特別な思い入れがあったのだ。
だからこそ、彼は自分の無念を晴らすため、この場所に彼女をよみがえらせた。そしてこの足を履かせた。――人工知能として。
「攻撃衛星を破壊するにはどうしたらいいの? マニュアルがあったら出して」
部屋そのものが小刻みに振動するのを感じながら、私はオレーシャの立体映像に問いかけた。
すると彼女は白い瞼を伏せ、《質問事項を検索します》とつぶやいた。
《――破壊は不可能ですが、攻撃衛星を墓場軌道に乗せ、未来永劫にアクセス不可とすることであれば可能です。同時に、私を破壊してください。なぜならば、私が衛星の操縦桿の役割を果たしているからです。なお、これらの行為を完遂するためには、所定のコードを入力する必要があります》
「――所定のコード、ね」
入力するわ、と私は迷わず答えた。
オレーシャは瞬きひとつして、《それでは》とうなずいた。彼女が腕をかざすと、立体映像のキーボードが正面に現れた。
それを目にしたとき、ひどく緊張して、顔がこわばるのがわかった。
バラドから手渡されたマイクロチップに内蔵されていたコードは、何千桁にも及ぶ数字の羅列だ。一文字も間違えることはできない。
クラエスに指摘されるまでもなく、私は自分が臆病で、弱気な一面を持った人間であることを知っている。キーボードへと添えた指先もみっともなく震えている。
――けれども。
一〇年前、ウルヤナは《試行》がこれからも続いていくと言った。そのために、彼の「すべて」が私に継承された。世界中の遺構やファランドール家の関連施設、帝国の情報管理システムに刻まれた彼の権限は、私の権限へと書き換えられた。私は知らず知らずのうちに彼の権限を得て、トラウゴット・ファランドールはその事実を知っていたからこそ、私に目をかけた。
それだけではない。
たえず頭のなかに響く「声」が、私に語りかける。ウルヤナ・ファランドールという今はもういない人の記憶と知識が、肉体という枠を越え、微生物の意識のなかに融け出し――私のなかへと流入していた。まるで、彼のすべてを私という一個人に継承せんと言わんとばかりに。
――最初のキーを押す。それからは流れるように。
きっとこの遺構を出るとき、私を取り巻く世界は一変している。
ウルヤナからすべてを与えられ、そして彼の意図しないところで片足を失い、私は《リエービチ》を継承した。きっと最初から、運命はさだまっていたのだ。
――ファランドール。ウルヤナの代わりに、その名を継承する。
その業と原罪によって、私は生かされてきたのだから。
これは、そのための一歩なのだ。
《コードを確認いたしました。攻撃衛星はこれより墓場軌道へと移行をいたします。そして私は少々の眠りにつくことになるようです。長年のご利用、ありがとうございました。
さようなら、ウルヤナ・ファランドール様。
――そしてルスラン》
最後は、機械音とは思えないほどやわらかな声音で、オレーシャは言った。
周囲を覆う光が消滅し、オレーシャのすがたも見えなくなると、沈黙が訪れた。
私は一度、長い息を吐いた。脱力したところで、周囲の地震が収まるどころか、より一層激しさを増していることに気が付いた。
攻撃衛星を停止させるだけでは、問題は片付かないようだ。
私は「声」が聞こえる方向へと目を向けた。
黒い糸の侵食は留まるところを知らない。その糸が複雑に絡まり合い、ひとつの球体になっている場所があった。「声」に導かれるまま、その球体へと腕を伸ばし――糸に触れた瞬間、バランスを崩した。
糸の中へと倒れ込んだ私は、そのまま「落下した」。
糸の底はひとつの穴であり、地下シェルターへの入り口が侵食されたものであると気が付いたのは、真っ逆さまに落ちたあとのことだった。たゆむ糸に受け止められた私は、慌てて視界を遮る糸を腕で薙ぎ払った。
周囲を見回し、そして目を瞠った。
「…………っ」
私の真横に、骸骨が落ちていた。
おそらくは成人男性の――それも、新しいものではない。
思わず目を逸らし、早鐘を打つ胸を押さえる。息を整えてから、ゆっくりと、再度それに目を向けた。
両足の骨が欠損していた。
たぶん、ウルヤナではない。彼が切断したのは左足だけのはずだ。
それでは、誰なのか?
ゆらゆらと揺れる黒い糸は周辺を覆い尽くし、ひとつのトンネルとなっていた。おそるおそる、その空洞を進んでいった先に、その答えがあった。
「――ウルヤナ」
目を見開く。
シェルターの奥地には、巨大な装置。そしてそこから伸びた複数の管に繋がれ、酸素マスクを身につけたウルヤナの姿があった。一目見て彼であると理解しつつも、それ以上、直視することはできなかった。あまりに見るに耐えない状態だったのだ。
ピッ、ピッ、と小さな電子音が響く。装置の周囲に浮かんだ立体映像は彼のバイタルサインを記録しつづけている。
――「生きている」。
予想外のことだった。
彼は一〇年間に渡って、この場所で生きていたのだ。
遺構の管理者として。
おそらく彼の背後にあるものは、生命維持装置であり――骸骨の人物の代わりに、ウルヤナはあそこに繋がれた。たぶん、意識はない。
図書館の映像は、彼が「死ぬまで」の記録だったはずだ。その「死」とは精神の「死」だったのではないか。推測するに、現在の彼は脳死に近い状態で――その無同然の精神が、この遺構に棲みついた微生物の無意識下に取り込まれてしまった。だから黒鳥は操縦桿としての役割を失ってしまい、彼の記憶と知識だけが、片割れの《リエービチ》を身につける私へと流れ込んでいる。
「……ウルヤナ」
きつく目を閉じる。両手の拳を握りしめ、奥歯を噛みしめる。
私は顔を上げ、彼の姿を視界に入れた。意を決し、歩み寄る。
そのときだった。
それまで断続的に続いていた地震が、突如、突き上げるような深い揺れに変わった。視界が上下左右に揺さぶられ、立っていることもままならない。
揺れは収まる気配がなく、私は床にすがりつきながら、それを耐え忍ぼうとした。何かがくずれ落ちる音に気が付いたのは、次の瞬間だった。
逃げる暇もなく、落下してくる装置を呆然と見上げる。
「声」が忽然と消える。私は自分に覆いかぶさろうとする影をみつめ。そして。
――反響音。
◆
「――ナ、ユリアナ……」
懐かしい声に、薄らと目を開けた。
倒れ込んだ私の前に、誰かが屈み込んでいた。
「……バラド……?」
名を呼べば、彼がホッと息をつく。大きな手のひらで私の頭を撫で、「大丈夫だから」と小さな声で続けた。
「何も心配することはない……だから……」
ひどく切迫した声だった。彼らしくなく、震えている。
いったい、何が大丈夫だというのだろう。私は白く霞む視界のなかで、ゆっくりと頭を振った。
「……だめよ」
痛みは感じなかった。というより、感覚がなかった。
「――私の左足、潰れたみたい」




