252 ヴィクトリア様とクリス嬢
4月の中頃。
ビル一階にある自販機コーナーでクリスティナと偶然出くわした。
「お先にどうぞ」
手を自販機へ向けて、先に購入する権利を譲られる。
「いえ、お先にどうぞ」
俺も負けじと譲り返す。
「いえいえ、須田さんが先ですよ」
「前もそういわれたので、今回はクリスさんが先です」
「そうでしたっけ?」
「はい」
笑うと少女のようなえくぼができる。
本当にいい性格をしているし、美人だし、強いし、優しいし、人当たりがいいし、他人想いだし、クリスティナは魅力的なパーソナリティの持ち主だと思う。
「ではお言葉に甘えまして」
ちょっと心配なのはメノウとの恋路。
二人には立場というものがある以上、恋に走ったメノウのお母さん(本当の香月さん)のように、生家から追い出されるなんて結果を招かなければいいのだが……。
「あっ!」
クリスティナの財布から免許証が落ちたので、俺はすぐに拾ってあげた。
「おや? クリスさんって俺より一歳だけ年上だったのですね」
「そうですよ〜」
俺が今年24歳で、クリスティナは今年25歳。
まあ、姫井の妹だから、そんなものか。
ペットボトルのジャスミン茶を購入したクリスティナは、楽しいことを思い出したのか、ふっふ、と小さく笑った。
「何か良いことでもあったのですか?」
「それがですね……」
今朝、メノウを大学まで送っていった時のこと。
『クリスと一緒に暮らしているせいか、同年代の男女がみんな幼稚に思えるのだ』
『私と出会ったとき、クリスは18歳だったが、やつらの二倍か三倍は聡明だったのだ』
過去のクリスティナを引き合いに出して、周りの人間をこき下ろしたのである。
これをクリスティナはベタ褒めされたと理解。
嬉しさのあまり朝から絶好調なのである。
「メノウさんにとって、私以外の男女は眼中にないということです!」
「まあ……そういう解釈もできますね……」
俺は取り出し口から缶コーヒーを拾う。
メノウの母親が何を考えているのか、正直、凡人の頭では想像できない。
でも、メノウとクリスティナが主従の一線を超えちゃっていることは、雲雀さんあたりから報告が飛んでいるはずだから、放置している状況から察するに、特に問題なし、と考えている線が濃厚。
だとすると気になるのは姫井家サイド。
姫井パパと姫井ママの反応だろう。
メノウの教育係として愛娘を東京にやったわけであり、そろそろあの子も結婚適齢期じゃないかしら? 担当をローテーションさせた方がいいのじゃないかしら? といってクリスティナを関西へ引き上げさせる可能性はありそう。
メノウは最低でもあと四年関東にいる。
その間、クリスティナがずっと従者でいられるなど、一体誰が保証できるというのか。
「クリスさんのご両親って、どのような方なのですか?」
「どうしたのですか、急に?」
「ほら、お兄さんと神宮寺さんの交際があるじゃないですか……」
そうだ。
姫井と神宮寺は付き合っている。
でも、姫井のご両親に交際を認めてもらった、なんて話は一度も聞かない。
「ああ……私の父親はともかく……母親はとても厳格な人なので……まだお兄様もパートナーのことを紹介する決断ができないようです」
クリスティナは形のいい眉を八の字に曲げる。
なるほど……。
やっぱり厳格な人なんだ……。
姫井が法律とか数字に強いから何となくそんな予感はあった。
「でも姫井家のご当主は、お父さんなのですよね?」
「いちおう父が当主です。でも、父は動物行動学……ええと……昆虫生態学といった方が正確なのですが……そっちの研究者なので、一年の半分くらいを離島とかで過ごしています。まあ、母も兄も私も昆虫嫌いでして、学者としての父は理解してあげることができず、父も瀬古コンツェルンの組織には馴染めず、一切のことは母が取り仕切っております」
どうやらキーマンは姫井ママらしい。
たしか姫井が誘拐された日。
瀬古ママが電話で『あの女がへそを曲げると面倒』『姫井家の支持を失うわけにはいかない』と発言しており、瀬古コンツェルンの中でも、姫井家は隠然たる力を持っていることがうかがえる。
「それでね、須田さん、ちょっと聞いてくださいよ!」
「どうしたのですか? そんなに盛り上がっちゃって……」
「前回の休日、メノウさんと街中へ遊びにいったのですが、お互いの私服を交換してみたのですよ! 私服をシェアするって、漫画の中の話みたいで、私の憧れだったんです!」
「姉妹みたいな仲の良さですね……」
「でしょ〜!」
いつもはクールに澄ましている印象だけれども、今日のクリスティナは口数が多くて、メノウとの同居生活を楽しんでいるのが伝わってきて、恋する普通の女の子みたいだった。
……。
…………。
「なんか女王様みたいな人が来ました……」
雪森が震える声でいう。
午後のオフィス。
飲みきった缶コーヒーを捨てるべく、俺が席を立ったときだった。
「トイレから帰るときに声をかけられまして……」
中に入れてもいいのでしょうか?
雪森が困りきった顔でオロオロしている。
「不審者だったら追い返すべきね」
シイナが正論を吐いた。
「それがですね……」
「何よ?」
「髪と目がですね……姫井さんにそっくりでして……」
「まさかあの女! この私に内緒で関東に!」
シイナが舌をチッチッチと鳴らしながらドアを開けると、まずは滑らかな白い手が、続いて高級そうなオレンジ色のパーティードレスが視界に飛び込んできた。
「ここがゆりちゃんの会社なのね。おや? 早乙女家のご当主が直々にお出迎えとは……」
「ヴィクトリアさん……あなたって人は……」
くすんだ金髪をセレブのように結っている貴婦人。
ヴィクトリア・ローゼンベルク・ヒメイは、宝石のようなブルーサファイアの瞳を滑らせて、我が子の顔がないか探している。
五十過ぎくらいの年齢だと思う。
きれいな歳の重ね方をしているが、お母様のような、化け物じみた若さではない。
あと雪森が『女王様みたいな人』といったのも納得だ。
近寄りがたいオーラが全身から出ている。
それと同じくらい、母性とか、慈愛とか、調和とか、近寄りたくなる魅力も放たれている。
これが姫井ママ。
ゆり&クリスティナを育てて、あの瀬古ママでさえ軽視できない女性である。
ヴィクトリアが何かを言いかけたとき、がちゃり、と会議室のドアが開いた。
先頭で出てきた姫井が、はぅ! と驚いている。
「お母上、どうしてここに⁉︎」
「あら、ゆりちゃん。昔のクリスティナより女の子っぽくて、本当に可愛いわね」
「あぅあぅ……」
久しぶりに再会した母子は、たっぷり抱擁を交わしたあと、お互いの頬っぺたにキスをした。
「あの……お母上には何回か話しましたが……もしかして神宮寺さんに会いに来られたのでしょうか?」
「あら、いらっしゃるの?」
姫井の後ろにいた神宮寺が、爆発しそうなくらい顔を赤くして、ぺこり、と頭を下げた。
「お母様、ゆりさんとお付き合いしております。神宮寺あすかと申します。ご挨拶が遅くなり、申し訳ありません」
さすが神宮寺。
いきなり登場した恋人の母を前にしても、ハキハキと丁寧に対応している。
「あの! 神宮寺さんにはですね! 僕の子どもを生んでもらいます! 予定では10人! 最低でも7人くらいと考えています! 元気な孫の顔をお届けしますので、今しばらく時間の猶予をくださいませ!」
むしろ姫井の方が激しくテンパっている。
「あらあら……10人も……それは長生きする楽しみが増えそうね。神宮寺さんの優秀さはうかがっているわ。プログラミングの世界大会で優勝した経験をお持ちなのね。しっかり者で、頭も良くて、いのり社長の信頼も厚いから、ゆりちゃんで釣り合うのか心配していたくらいよ」
ヴィクトリアは口元に手を添えて笑っており、二人の交際をOKしたと受け取って良さそうだ。
極限の緊張から解放された神宮寺が胸をなで下ろした。
「クリスティナが8階にいるはずです。呼んできましょうか?」
「その必要はないわ。クリスティナには秘密にしておいてほしいの」
「ですが……」
「むしろ私の用向きはそっちよ。ねえ、ゆりちゃん。知っていたら教えてほしいのだけれども、現在、クリスティナに意中の人はいるのかしら?」
恐れていた事態だ……。
どうする、姫井ゆり?
「あの〜、なぜ唐突にそんな話を?」
「あの子、今年で25歳になるでしょう。ゆりちゃんはパパの方針で自由に育てる。クリスティナはママの方針でちゃんと育てる。だから将来のことを真剣に考えないといけないのだけれども……」
ヴィクトリアが電話で結婚について訊ねても、ごにょごにょごにょ、とクリスティナは隠すそうだ。
これは怪しい、と母親のカンで気づいたらしい。
「ねえ、意中の相手がいるのでしょう?」
「それは……」
「どんな男性なのかしら? ゆりちゃんとクリスティナは仲良しだから、何か知っているわよね」
「あぅあぅあぅあぅ……」
男じゃないです。
相手はメノウです。
それを気軽に口にできたら、姫井はどんなに楽なことだろう。
「ん? 言えないってこと?」
「そういうわけでは……」
「ふっふ。面白いわね。ゆりちゃんがママに隠し事をするなんて」
「いや……僕も詳しくは知らないというわけでして……」
「隠してもムダよ。その相手って、女の子でしょう」
「はぅ⁉︎」
「何となくそんな気がしていたわ。腕っぷしが強くて、スポーツ万能だったから、昔から女の子に大人気だったのよ。アメリカの学校でも、同性からチヤホヤされて、毎年たくさんのラブレターをもらっていたわ」
すべてお見通しだった。
突然やってきた理由も、姫井の反応を見ることで、推理を裏付けるのが目的なら、すべて筋が通っている。
「だったら、私にも考えがある。あの香月さんって女、前からキナ臭いと思っていたのよ。私のクリスティナを奪おうというのであれば、それ相応の対価を払っていただくまで。ふっふっふ……日本にも骨のある女がいるなんて……心が踊っちゃうわ……」
その瞳は羅刹のように冷たくて、あのシイナでさえ、豹ににらまれた猫のごとく、ひぇ! と肩を竦ませている。
「早乙女シイナさん、来月の一族会議でお会いしましょう」
王族のような気品を振りまくと、ヴィクトリアはドレスの裾を揺らしながら去っていった。




