白と雪の世界 下
≪マリ、泣イテル?≫
しばらくして枯れ葉のような声が聞こえてきた。
路地に入ったことで出てこられたのだろう、ギィが地面から体を半分出して首を傾げている。その可愛らしい姿を見て、マリオンはふっと気が抜けた。
「ええ、でももう大丈夫よ」
笑顔で答えたマリオンだが、ギィにはそうは見えなかったのかもしれない。突然ギィの枝のような細い右腕だけが伸びてきて、マリオンの頭を幼子のように撫でた。驚くと同時におかしくなる。
「ふふっ。ありがとう」
体を離したカルヴィンがまた頬の涙を拭ってくれた。マリオンの顔を覗き込んで泣き止んでいることを確認すると、ほっとしたような表情をする。くすぐったい気持ちになってマリオンはまた笑った。
「あ、そうだカルヴィンとギィって結局どんな風に出会ったの? 教えてよ」
今まで遠慮して口にできなかったカルヴィンのことをもっと知りたいという思いは、もう押さえる必要はないかもしれない。そう思えて、マリオンは気軽な調子で尋ねた。
「どうってただ雪かきをしていた時に、真っ黒い塊が転がっているなと思って突いてみたらギィだったんだよ」
「え、普通に道にいたの? 昼に?」
もっと劇的な出会いがあったのではないかと思っていたマリオンは驚いた。
「ああ、かなり雲が厚くて薄暗い日だったはずだが昼間だったな。だから初めはまさか悪魔だとは思わなかったよ。犬か猫だと思った。でも言葉を喋るし、自分で悪魔だって言うからまあそうなのかって納得した」
「……そこで驚くでも怖がるでもなくて納得しちゃうなんて、カルヴィンって子供の頃からそういう性格なんだね」
「一応、驚きはしたが。それにギィだぞ。怖くはない」
「それはそうね」
マリオンはつぶらな瞳で見上げてくるギィに目を向けて頷く。
≪カル、変ナ子供ダッタ≫
「……お前が言うな」
憮然と返すカルヴィンに、マリオンはくすくすと笑う。人間と悪魔だというのに、この二人は似た者同士なのかもしれない。
「悪魔だっていうのに、自分のことをほとんど覚えていなかったんだぞ。起き上がって不思議そうに辺りをきょろきょろ見回して、自分がなぜここにいるのかも、自分の名前すらもわからないみたいだった」
「えっ、じゃあ、ギィっていう名前は?」
「俺が付けた」
「名付け親なの? ギィっていう名前、すごく似合っているわよね」
カルヴィンは大袈裟だと言いたそうな困った顔でマリオンを見た。
「なんとなく付けただけだ」
「いい名前よ。あっ、それじゃあギィは生まれたばかりだったということ?」
以前そのようなことを聞いた気がして尋ねる。するとギィが首を振った。
≪覚エテイルコトアル、大事ナモノ、盗ラレタ≫
「あっ、それって尻尾のこと? カルヴィンと会う前に盗られたの?」
ギィは少し間を開けてから頷いた。
「それでどうして一緒にいることになったの?」
「こいつが危なっかしいからだ。お腹空いたと言って蹲るから、家からパンを持ってきて渡したんだが食べなかった。悪魔は人間の魂を喰うってことを思い出したんだが、さすがに俺の魂をやるわけにはいかないから、何が食べられるのか色々試してみたんだ。そしたら草や花や木の実なら食べた」
≪花、オイシイ≫
他のものは特に必要ないと主張するかのように、ギィが言う。
「それでお礼になにか願いを叶えてやるって言うんだが、悪魔に願いを叶えてもらっても代償に魂を請求されるかもしれないだろ。だから断ったんだが、人間の魂はいらないと言うんだよ。悪魔なのにな。ものを知らないし、こいつはむしろ人間に騙されていいように使われるんじゃないかって心配になった。どうせ家はジョスランがいなくなったばかりで居心地が悪すぎたし、こいつが大事なものを取り戻すまで手伝ってやるのもいいなと思ったんだよ」
「ほっとけなかったんだ」
笑いながらマリオンは言ったが、その気持ちはよくわかる。ギィのような可愛い姿をしたものが記憶喪失で世間知らずな状態で探し物をするというのなら、手伝ってあげなければと思うだろう。
「そういうタイミングだったんだよ。まあ、その後にすぐに母親に見つかって家を追い出されたんだが」
「だから二人は仲がいいのね」
「……なぜそうなる?」
意味がわからないとカルヴィンは眉根を寄せたが、当たり前のことを言っただけのつもりのマリオンとしてはなぜと聞かれるても困ってしまう。
「まあ、それでエミールが色々研究してくれたおかげもあって、灯し人になって今みたいにギィの悪魔の尻尾を探しているんだよ」
「へぇ、カルヴィンが悪魔のことをよく知っているのは、子供の頃からギィと一緒にいるっていうのと、お義父さんのおかげなのね」
「そうだな」
カルヴィンは嬉しそうに微笑んでいるマリオンを見た。さっきまで泣いていたのに、何がそんなに嬉しいのかはわからないが、泣くよりは笑うほうがいいに決まっている。
「そろそろ帰るぞ」
「あっ仕事の時間なのね。付き合ってくれてありがとう。いってらっしゃい」
「送る時間くらいある」
「えっいいわよ、まだ夕方前だもの。平気だわ」
マリオンは困惑した。カルヴィンに不満そうな呆れたような顔で見られたからだ。送ってもらうような時間ではないからそう言っただけなのに。
「……いいから、送る」
有無を言わさぬ口調に、マリオンは戸惑いながらお礼を言った。
アパルトマンの入り口で名残惜しそうな顔をしながらも笑って手を振ってくるマリオンに、カルヴィンは軽く手を上げることで応えた。彼女が自分からは背を向けないことは知っている。だからいつもカルヴィンから先に視線を離すのだが、今日はそうしなくてはいけないことに抵抗感があった。時間さえあれば、彼女がアパルトマンの階段を上るまで見守っていたい。もう泣いていないのはわかっているのに、彼女が一番信頼している祖母がいる部屋に入るまでは落ち着けない。
彼女は本当に表情がころころと変わる娘だと思う。よく笑って、よく泣いて、よく喋る。それにあまりにも真っ直ぐに好意を伝えてくる。
カルヴィンは今まで、あんなにもはっきりと好きだと言われて動揺しておきながら、その言葉にどこか実感を持てなかったのだと思う。それがなぜか今日は、その言葉が直接胸の内に投げ込まれて、留まって離れようとしないような、そんな感覚に陥っていた。
覚えのない感覚に、どうすればいいのかわからなくなったカルヴィンはマリオンから背を向けて歩き出した。自分自身が変わってきていることに、ようやく気がついていた。
あの雪の景色を思い出した後の、いつもの孤独感すら遠い場所にある。
カルヴィンはあの白い世界をいつだって鮮明に脳裏に蘇らせることができていた。十一年前の寒くて体を震えさせることしかできず、ギィ以外には誰もいない、死がすぐそこにあった世界を。あれは常に自分のすぐ近くに存在するものなのだと思っていた。
あの時にはもう、自分がジョスランに対して何をしたのか理解していたから、生きることへの執着など持っていなかった。家に糞のような両親と自分しかいなくなって、何もかもどうでもよくなっていた時にギィに出会ったから、そして大切なものがなくなってしまった自分に大切なものを取り戻すのだなどと言うから、手伝わなくてはいけないと思ったのだ。あの頃のカルヴィンにとって、生きている意味はそれだけだった。
家から追い出された後に、働いて生きていけばいいという判断をしたのは、自分こそが世間知らずだったわけだが。
紹介者のいない者を雇うというのは大人でもあまりないことなのだから、まして小さな子供を雇ってくれる大人なんてほぼいない。かろうじて子供の仕事だと思われている雪かきくらいしかカルヴィンにはできることがなかった。しかしあんな仕事では空腹や寒さを凌げない。カルヴィンは早々に数日前のギィのように雪の中で蹲っていた。
ただカルヴィンとギィが決定的に違うのは、寒さを感じずに簡単には死なないギィと違って、カルヴィンは簡単に凍死してしまう人間の子供だということだ。
死ぬことは怖くも悔しくもなかった。自分が消えることは誰にとってもどうでもいいことで、カルヴィン自身にとってもどうでもいいことのように思えた。ただギィに手伝うと言ったくせに何もしてやれなかったことが申し訳なかった。
目に映るのは灰色の空から降り積もる真っ白な雪ばかりだ。やがて雪はカルヴィンをも白く包もうとして、騒がしいはずのパリの街から音すら消えた気がした。静かで冷たくてとても寂しいはずなのに、何年も前から抱えていた不安に似た感情が消えて、心地いい孤独感があった。雪と一つになった気がしていたからかもしれない。
真っ白な視界の一部が黒くなった。ぼんやりとその細長い黒が近づいてくるのを見た。
≪カル≫
ギィが心配そうな声で呼んだ。
ごめんな。そう言ったつもりだったが、音にならなかったかもしれない。
無責任なこと言ってごめん。でも本当にギィの大切なものは戻ってきてほしいと思う。カルヴィンの大切なものはカルヴィン自身が壊してしまったから。
≪カル≫
ギィは何度かカルヴィンを呼んでいた。しかしカルヴィンの意識が朦朧としている間に、いつの間にかいなくなっていた。
自分が死んだからどこかへ行ってしまったのだろうか。そんなあり得ないことを考えていた。
結果的にカルヴィンは生きていた。多分ギィのおかげだろう。
だから連れて行かれたエミールのアパルトマンで看病を受けながら、カルヴィンはますますギィの手助けをしなくてはいけないと考えるようになった。そのために簡単に生きることを諦めるのはやめた。
だが、それでもカルヴィンはこの時の白に覆われた世界のことをよく思い出していた。感覚すらも蘇るから、自分が行こうと思えばすぐにでもこの白い世界に行けるのだという気がしていた。この静謐で寂しい、死が近くにある白いばかりの雪の世界は、自分のすぐ近くに存在する世界なのだと。
それが遠ざかっていると感じ始めたのは、いつ頃からだっただろうか。
最近は思い出すことが確実に減ってきていた。静かだったカルヴィンの日常が、少し騒がしくなっていたからだろうか。あの世界とはあまりにも不釣り合いな少女が、側にいることが多くなったからかもしれない。
マリオンはこちらの反応が薄くてもあまり気にせずにお喋りをしている娘だ。それでいてカルヴィンの言うことはしっかり聞いていて、よく嬉しそうに笑っている。カルヴィンが存在していても真っ白だったあの世界にマリオンが存在すれば、色のある世界に変わるのだろう。
少し前まではまだ警戒していた。彼女はアルノーのことがあった以前から、悪魔との関わりがあったかもしれない人間だ。何も知らないふりをしてカルヴィンたちに近づいてきた可能性を頭の隅に入れていた。
今はもう、彼女が本当に何も知らないのだと思っている。もし万が一そうじゃないのだとしても、それはどうでもいいことだった。この先何があっても、カルヴィンはマリオンを守るのだと決めている。悪魔からだけではない。あらゆることからなんて傲慢なことは言わないが、せめてマリオンが泣くことがないようにしたい。
いや違う。泣かないでほしいのではなくて、自分がいないところで泣くことが許せないのだ。そんな時は側にいたいし、泣き止んだ後のあの笑った顔を自分以外には見せないでほしい。それだけじゃない。日が沈んだばかりの薄暗い夕方、カルヴィンがガス灯に火を灯した後に僅かに視線を逸らした先の、窓枠にもたれかかって見つめてくる幸せそうな微笑みも自分だけが知っていたい。
この感情がどんな種類のものなのかなんとなくわかってきている。でもそれをどうやって彼女に伝えたらいいのかはまるでわからない。
カルヴィンは沈もうとしている夕日が射す光を受けて、眩しさに目を細めた。