49:隠された事実と決意
十夜は、入ってくると床の上にどっかりと胡座をかいた。腕を組んで睨んでいたが、あまり怖さは伝わってこなかった。
「何かあった?」
『……ほんっとに呑気だよな、結子は。どーせ明日も兄者と出かけるからって浮かれてんだろ』
「そういう、わけ、じゃ……」
この部屋の惨状では否定もしきれない。それでも、やるべきことには一生懸命向き合っているのだと主張しておかなければ。
「明日、海まで行くことになったから、動きやすい格好を考えてただけだし」
『海。はー、海ですか』
結子の言い訳を聞くなり、十夜は顔を歪めた。
『どこまで浮かれてんだよ』
「糸を結びに行くんです」
『だったら、そいつらをこっちに来るように仕向けりゃ良いだろ』
「それは──そう、だけど……」
『そうしない理由、考えてみたか?』
考えもしなかった。今の今まで、久しぶりの海に浮かれていたのだ。この部屋を見ればそれが分かるだろうに、それを敢えて訊ねたのは十夜なりの皮肉だろう。
「……海が、見たかった?」
『誰が』
「近衛さんが……」
『海が見たけりゃ、結子が学校行ってる間に見に行って帰ってくるわ。ばーか。俺たちと人間を一緒にすんな。俺たちは結木様に仕える神使で、人間よりも大事な役目を背負ってんだぞ』
そのあんまりな物言いに、さすがの十夜だろうと聞き流せない。
「ちょっと、それはひどいんじゃない? 結木様は立派な神様だけど。私たちに価値がないみたいに言わないで」
『価値ないだろ。それとも、なんだ? 結子にも兄者と同じような務めができるのか?』
「……近衛さんを拘束してるのは分かってるわよ。それももうすぐ終わるから」
それが終われば、もう近衛の姿も見えなくなる。だから、近衛は神使としての務めに専念できるのだ。
それで万事解決、だから嫌味を言わなくてもいいだろうに。今日の十夜はそれで納得してはくれなかった。
『……やっぱり、兄者から何も聞いてねえんだな』
「何も?」
『だから嫌いなんだよ! 余裕たっぷりでさ、ふざけんなっつうの!』
「何かあるの?」
けれど、十夜は答えずにじっと結子を睨みつける。
「……私のせい?」
心当たりはなかったが、気付かない間に近衛に負担を敷いていたのかもしれない。それを裏付けるように、結子にじっと向けられる目は、お前のせいだ、と言っていた。
十夜が何も言わないまま、かといって結子も催促できないまま。長いような短いような時間が過ぎた後で、十夜がぽつりと言葉を吐き出した。
『兄者、糸結び終えたら神使じゃなくなるんだってさ』
十夜が言った意味が、よく分からなかった。
神使では──なくなる。結子のせいで。
「私が、遅いから? もっと早く糸を結び終えないといけなかったの?」
『そうじゃねえよ』
「だったら──……」
どうして、神使ではなくなるのか。そして、神使でなくなったらどうなるのか。
「……神使でなくなったら、どうなるの?」
けれど、十夜は答えない。不機嫌そうにむっつりと押し黙っている。結子に不満だけをぶつけて、後はもう知らんぷり。
「どこか、別の……神社の、神使になるの?」
『そうだったら良かったのにな』
「だったら教えてよ。そんな一方的に言われたって、私──」
『結子が!』
結子を黙らせるには、それで充分だった。壁に掛けた時計の秒針の音だけが響く。
少しして、十夜が口を開いた。
『……結子が、あの病気の人間を助けて欲しいって言うから』
「村上さん?」
肯定も否定もなく、ただちらりと恨めしげな目が結子に向けられた。
『兄者、よその神様に頼みに行ったんだからな。自分の命と引き換えに、あの人間の寿命を延ばしてくれって頼んだんだからな!』
「そんなこと……できるの……?」
まさか。けれど、冗談ではない証拠に十夜は少しも笑っていない。
『簡単にできないから、デカい代償を求められるんだよ!』
それは十夜が抱えていた不満だったのだろう。村上光也が訪ねて来た朝、近衛に耳を塞がれた結子に浴びせたのも、似たような内容だったのかもしれない。
『兄者、放っておけなかったんだ。……お前が泣いてたから』
「──……」
『神使でいられるのは、糸結びが終わるまで。終わってしまって、その糸が解けたら兄者はもう──』
その先を十夜に促すのは酷だろう。結子もまた、具体的にどうこうなると知りたい訳ではないのだ。
『……だからもう、兄者は好きにしていいって結木様に言われてんだ。結子にも優しいだろ。俺たちにもすっげえ優しいよ』
「うん……」
以前、近衛が言っていたことを思い出す。十夜は務めが増えて忙しくなった、だから機嫌が悪いのだ、と。機嫌が悪い理由こそ間違っているけれど、務めが増えたのは事実なのだろう。近衛の担っていたものが他の神使たちに任されるのだから。
『兄者には言うなよ。今更、なかったことになんてできないんだ。そんなこと望んでない、なんて言われたら──』
「大丈夫、そんなこと言わないから」
たとえ思っていたとしても、口にしてはいけないことくらい結子だって分かる。
『結子が何も知らないで浮かれてるのに腹が立ったんだ。……完全に八つ当たりだ』
「ううん……気にしないで」
そう言って、首を振る。
「教えてくれて、ありがとう」
去り際、窓の縁に足をかけた十夜が振り返る。
『あのさ』
「なに?」
言うべきか言わぬべきか、悩んでいるようだったが、結局十夜は口をつぐんでしまった。
『──……何でもない』
それを別れの言葉にして、黒衣の姿は夜の闇に消えてしまった。
浅い眠りだった。うとうとしては、目が覚めるという繰り返し。眠気はあるけれど、眠れないまま朝を迎え、昨夜引っ張り出した洋服の山の中から適当に選んで着替える。久しぶりの海だと浮かれる気持ちは消えてしまっていた。
家を出て近衛と合流し、駅まで向かう。ちらりと近衛の様子を伺ってみたが、変わった様子はなかった。
電車内は空いていた。
『海は久しぶりだろう』
近衛の声が右から左へ抜けていく。返事をしたような気もするし、しなかったような気もする。したとしても、はあ、とか、ええ、といった力の入らないものだっただろうけれど。近頃の、張り切っていた結子からは想像もできないような返事だ。
『神崎?』
だから、心配するなと言うのは無理な話だろう。近衛は気遣って、結子の顔を覗き込む。
近衛は、いつも優しい。
「近衛さんは──」
どうして、他の神様の所にまで行って難しい願いを聞いてもらったのだろう。自分の命を差し出してまでして。
『どうした?』
神使が嫌になった? 村上夫妻が可哀想になった?それとも──……。
「いえ、何でもありません」
どんな答えが返ってきたとしても結子は納得しないだろうから、訊ねるのはやめた。
最寄りの駅で電車を降り、海までの道を歩く。どことなく、吹く風が潮を含んでいるようだった。
ぼんやりと海を眺めている男が、今日糸を結ぶ一人だ。風になびく糸の切れ端を掴む。この糸を結べば、近衛が消える日が近付いてしまう。
いっそ──。
『神崎。何をぼんやりしている』
厳しい声が意識を引き戻した。それは結子にしか聞こえない声。謝るよりも先に、糸を引っ張って歩き出した。
「……すみません」
『今日はこの糸を結ぶだけだ。終わったら休もう』
もう一方の糸は、海の家で働く女。健康的な雰囲気の彼女の指の糸にも先の切れた糸。そっと近付き糸の端を掴むのは、もう慣れたものだ。後はもう、結子がどうこうすることではない。
これでまた、近衛が消える日が近付いてしまった。
『何か飲み物でも買ってくるか』
「ああ──そうですね」
のどが渇いたような気もするし、渇いていないような気もする。自動販売機でペットボトルの緑茶を買い、隣に置かれたベンチに腰掛けた。
「今日は、どうして海にしたんですか?」
冷たい緑茶を飲みながら、何気なく訊ねてみる。昨夜、十夜に投げられた質問の答えは結局分からないままだったからだ。
『海が見たかったんだ』
そして、意外にも返ってきたのは結子が答えたものと同じだった。十夜から、ばか、と一蹴されてしまった内容。
「でも、近衛さんは神使ですから。海が見たかったら、わざわざ電車に揺られなくても、空を飛んで、ぴゅーっと……」
『それでは、神崎とは行けぬだろう』
それは確かにその通りで、とりあえず頷く。だが、それと、海に来たことは関係あるのかないのか、よく分からない。
「でも……」
『神崎は、長いこと海を見ていなかったろう』
「それは──……まあ、はい……」
糸を結び始める前は、神社の手伝いばかりだった。友達が居なかった、ということもあるけれど。そして結び始めてからは、周りを見る余裕もなく人の手元ばかりを見ていた。それも、街の中で。
だからといって、わざわざ海に来なくてもいいだろうに、と思っていたから、結子は頷くではなく傾げるでもなく、首を曖昧に傾けた。
「今日は、満足しました?」
結子が納得できなくても、近衛が満足していればいい。近衛は結子の隣に腰を下ろすと、遠くに輝く海を見た。
『そこまでは──……』
「……泳がないんじゃ、満足できないかもしれないですもんね」
そういうこともあるか、程度の感想だったのだけれど。近衛は結子に視線を移し、ああ、と納得したように膝を打った。
『海を見たかったんじゃないな。海を見て喜ぶ神崎を見たかったんだ』
思わず、口の中の緑茶を吹き出しそうになる。何を言い出すのか、近衛は。
『どうした、大丈夫か』
分かっていて言ったのだろうか、この神使は。咳き込みながら、手探りで鞄から取り出したハンカチで口元を拭う。
近衛は、ずるい。
結子の気持ちを分かっているだろうに、気付かないふりをする。それなのに、時々こうして思わせぶりな態度を取る。そうして、最後は何も言わないまま姿を消そうとしているのだ。
いっそ、ここで気持ちを打ち明けようかとさえ思う。そうすれば、近衛はどんな顔をするだろうか。困った顔をして、残された期間、ずっと気まずくなるに違いない。
そんなこと──馬鹿馬鹿しい。
『疲れているのだろう。もう、帰ろうか』
結子を案じている近衛を前にすると、そんな気持ちも吹き飛ぶ。幼い子どものような、相手が困るのが分かっている意地悪など、何の特になるか。
「……せっかく海まで来ましたし、もう少しここに居ましょう」
『そうか』
特に海を見て何をしたいという訳でもなかったけれど、神社から離れて近衛とゆっくりしていたかった。
「昨日、中々寝付けなかったんです。だからぼんやりしてしまいました」
足をぶらぶらと揺らしながら、ぼんやりしていたことの言い訳をする。
「今日の海が楽しみで」
近衛が何も明かさないことを選んだのなら、結子も黙っていることを選ぼう。何も知らないふりをして、気持ちも伝えないまま、黙って最後まで笑顔でいよう。
『それは、良かった』
近衛が言わなかったのは、結子が負い目を感じるからではないか。自分のせいだと泣いて、そんなこと止めてくれと言われるのが嫌だったからではないだろうか。
それは結子の憶測でしかないけれど、近衛もまた憶測で行動したのだから、このくらいは許して欲しい。
せめて最後くらい、気持ちよく別れたいから言わなかったのだとしたら。
これから、結子はどうするべきか──いや、どうしたいか。
最後まで近衛の足を引っ張りたくはない。
嫌な思いはさせたくない。
結子と過ごした時間が楽しかったと思ってもらいたい。
最後だからと優しく接してくれるのなら、結子も同じように優しく接したい。そして、涙は見られたくない。今すぐに立派な神職になるのは無理でも、結子に任せれば結木神社の将来は安泰だと思ってもらえるように。
だから決して泣かない。
約束の花火大会の日まで、笑っていようと誓った。




