48:変化した気持ち
放課後、糸を結ぶのは日課だ。張り切っていつもより多く結び、ひと仕事を終えての帰路というのは気持ちがふわふわとするものだった。
「そうだ、近衛さん」
辺りに誰も居ないのを確認して、近衛に話しかける。
今朝のことを話していなかった。もしかすると、既に結木様から聞かされているかもしれないが、結子からも話しておきたかったのだ。
『どうした』
「今朝、村上さんがお見えになったんです。旦那さんが」
『ほう』
「それで、先日検査をしたら、奥様のご病気が少し良くなっているみたいで」
近衛は黙って微笑みながら聞いていてくれる。
「とても、ほっとしました。結木様にはご迷惑をおかけしたんだと思います。……でも」
良かった、と思う。
身勝手なことだが、少しでも知っている人が苦しむ姿は見たくない。村上夫妻は結子が関わったこともある。
『嬉しそうだな』
「それはもう! 結木様には、いくらお礼を言っても言い足りません。もちろん、近衛さんにも、他の神使の方々にも」
癌という病がそう簡単に治るものではないとは、いくら結子でも分かっていた。村上夫妻も治療の努力はしたのだろうが、それだけではないと思っている。結木様と、近衛と──他の神使たちの手助けがあったのではないか。
どんなことをした、とは教えてもらっていないけれど。
『それは良かった』
そう言った近衛の微笑みは、ひどく美しかった。
暗くなっても、昼間の熱気は消えない。生ぬるい風が首筋を撫でる、夏特有の夜の空気。暑いけれど、夏を実感できるのは嫌いではなかった。
「あのご夫婦を見ていると、誰かと一緒も良いのかも、と思います」
『跡継ぎはしかるべき筋に相談するつもりの神崎がどうした』
「それは──……それは……これとは、ちょっと別の話です」
頬を膨らませて抗議をすると、近衛はからからと笑った。
『まあ、そうだろうな』
抗議をしてはみたが、結子自身、近衛の言う通りだと思ってもいたのだ。
縁切り神社と言われていた頃は、異性どころか友達とも関わることが面倒だった。どうせ人生は一人で歩むのだから、と助けの手も求めず、自ら助けることもしなかった。
「人生を一緒に進む戦友というか……。お互いを支え合える人と出会えるって、いいなあって」
村上夫妻と出会わなければ、そう思えることはなかった。いや──村上夫妻だけでなく、糸結びをしなければ、結子はまだ今も糸を切り続けていたのだろう。人間同士の関係なんて一時的なもの、惚れた腫れたなど、病気と変わらない、とネガティブな思いに囚われたままで。
だから、出雲の神々の沙汰は今思えばありがたいものだ。神社が潰されないだけでなく、結子自身が変われたのだから。
不意に、近衛に問いを投げられた。
『神崎は、どんな人がいい。どんな人ならば、一緒に戦っていけそうだ』
思いもしなかったことで、動きが、思考が止まってしまう。急に立ち止まり、近衛をじっと見上げてしまう。
『……どうした』
「いえ……」
近衛に、そんなことを訊かれるとは思わなかったのだ。近衛が興味を持っているのは、結子ではなく神崎の血筋なのだろうし。
それとも──ここから結婚に興味をもたせて、という算段だろうか。
そこまで考えて、馬鹿馬鹿しくなって止めた。近衛の思惑がどうだろうと、結子が村上夫妻を見て「いいな」と思ったのは変わらない事実なのだ。
言葉の裏を考えて、捻くれた考えを出すのは──もったいない。
「どういう人がいいか、なんて考えたことがなかったので」
『そうだったか』
「でも……そうですね、神社を好きな人がいいです。あとは、叱ったり、叱られたりができる人」
『叱られたいのか』
近衛には珍しく、揶揄する調子で返される。
「そうじゃないです。そうじゃなくって、間違ってることをしたら、それは違うよって言ってくれる人。そういうのを、なあなあにして上辺だけで付き合うんじゃなくて……あ、でも、その人の意見を押し付けられるのは嫌ですけど……」
具体的には考えたことのなかった理想だったが、いざ思いついたままでも口にしてみると、あれこれと要望が出てくる。意外にも欲深いのかもしれない、と結子は自分の知らない一面を見た気がした。
「その前に、私が私の価値観というか、意見というか……考えをしっかりしたいな、と思います」
要望ばかり口にして、高望みになってしまっては嫌だ。結子の中に要望があるのならば、相手にだって要望があるのだし。
『神崎は、しっかりしている』
「そんな、まだまだです」
『間違っていることを認めて、やり直そうと努力するだろう』
「でも、それは当たり前のことでしょう?」
『歳を取ると、当たり前ができなくなる。それを忘れなければ大丈夫だ。いずれ、神崎の赤い糸も誰かと繋がる』
それが、近衛ならばどれだけいいだろう。
思っていても、それは口にしてはいけないことだ。喉元まで出かかった言葉を飲み込み、笑顔を作って頷いた。
「ありがとうございます。今言われたこと、忘れないように頑張りますね」
成長したからと言って奢ることのないように。
「とは言っても、機嫌が悪い時なんかは意地を張ったりするんですが……」
気分で周りの意見を聞き入れたり、聞き入れなかったり。そういうことは多々ある。まだ高校生だから、と逃げるのではなく、もう高校生なのだ、と気をつけたい。
その方が、近衛に好ましく見られるだろうから。
せめて、嫌われないようにしたい。動機は現金なことでも、それで人としての成長になるのなら──恋心というものは役に立つ感情だ。
一学期の残りは、あっという間に過ぎていった。通知表の結果は、若干の上昇が見られた。試験の結果が良かったからだろう。
終業式とHRだけだったから、まだ日の高い時間に終わった学校。昇降口で靴を履き替えていると、友里たちとすれ違う。
「あ、結子。またね」
「うん。また」
ちらりと見えた美幸の指には、赤い糸。その糸の先は切れておらず、誰かと繋がっている。羽藤と、まだ続いているのかもしれない。
香菜と、せっかくだからと少し寄り道をしながら帰る。コンビニで買ったアイスを公園の日陰で食べて、とりとめなく離す程度だったけれど。
「休みになっても、時々遊ぼ」
別れづらくしているのが伝わったのか、香菜からそう切り出してくれた。夏休みに誰かと遊ぶなどこれまでになくて、結子は一も二もなく頷く。
「遊ぶ、絶対遊ぶ」
「浴衣の着付けもあるし。そう寂しがることなんてないよ」
またね、と言って別れて、夏休みが始まった。
母も退職する算段が付いたらしく、家も賑やかになった。結子が自分で朝食を作らなくても良くなって、少しだらしなくなったと思うけれど。
そして──糸結びも。終わろうとしていた。
夜になっても暑い空気に耐えきれず、早々にエアコンを入れた。文明の利器は素晴らしいものだ、と関心しきりの近衛は面白い。夏休みに入っての夜は、冷たい麦茶を飲みながらこうして何となく一緒に過ごす時間が日課となっていた。
『よく頑張ったじゃないか』
薄くなった紙束を捲りながら、近衛が褒める。
「まあ……自業自得ですし」
夏休みはノルマを増やし、遠出するついでにと糸をたくさん結んだ。初めて見る街もあり、糸を結びに来ているのか、それとも街の散策をしているのか分からないことが多々あったけれど。
取り立てて大きな事件もなく、全てが順調だった。順調に束の厚みは減り、残りは──あと何枚だろうか。
何枚にせよ、近衛と過ごせる時間は少ない。
『それでも、投げ出さずによくやっただろう』
「……ありがとうございます」
こうも手放しに褒められるのは、恥ずかしくて照れくさくて、嬉しかった。
『これなら、一人前の神職になれるだろう』
一人前の神職。いつかはそうなりたいと思っている。その時にはこうして近衛から直接褒めてもらえることはないけれど。
「あの、そうなった時も、近衛さんは見守ってくれている……ん、ですよね」
せめて、見守ってくれているのならば、頑張れると思うのだ。いずれ、近衛とは別に誰かを好きになることがあっても。
「いや、近衛さんが見てくれるから頑張るとかじゃなくて、えっと……そう、心強いので、だから」
それもまた、いつまで頼るのかと言われそうだ。頼るのではないと言えば、ならばなぜ見守らなければならないのかという話になりそうだ。
結局は、あれこれ理由をつけて誤魔化してはみても、今の結子は近衛が好きだから、できるなら傍に居て欲しい。それだけだ。
それを、近衛は分かっているのか、いないのか。
『そうだな』
結子の言葉を追求することなく、むしろ穏やかに微笑んで頷いた。近頃、近衛はこんな表情をよくするようになった。整った顔立ちだから美しいけれど、どこか寂しさも感じる微笑みを。
『姿は見えなくなろうと、わたしはいつも神崎を見守っている』
だから、大丈夫だと──近衛はそう言った。それがまるで、別れ際の挨拶のように聞こえて、思わず狩衣の袖を握る。
『神崎?』
慌てて手を離すと、傍に皺が寄っていた。引っ張って伸ばしながら、場を取り繕うように適当なことを口にする。
「あ、いえ……なんでも。明日の糸結びはどこに行くのかなーって」
『ふむ──明日か』
そう言うと、ぱらぱらと手元の紙を捲る。
遠出にしても、電車で二十分くらいの場所だろうと思っていた──の、だが。
『明日は、海に行こうか』
夏といえば、海。海といえば、夏。
そして、これまでの結子の生活には縁遠かった場所だ。
『多少は夏らしい場所にも行きたいだろう。ちょうど、海の近くに住んでいる者が居るから──……神崎?』
行きたい気持ちはあっても、一人で行く場所ではないし、かといって誘ってもらえる友達も居なかったのだ。
そんな場所に、近衛と行けるのか。
「あっ、はいっ、聞いてます、大丈夫です、海、行きます!」
遊びに行くのではなく、あくまで結子の役目、糸結びに行くのだけれど。
正座をし、居住まいを正して頷いた。浮かれてしまいそうになる気持ちを必死に押し込めて。
出発時間を決めて、近衛が去ったのはそのすぐ後だった。
そして、一人になってから明日の朝に慌てないようにとクローゼットの中をひっくり返しての明日の服装を決める仕事が始まる。
スカートが良いか、ショートパンツか。あれこれベッドの上で組み合わせて、鏡の前で自分に当ててみる。中々これと決まらずに疲れ果てた頃。
窓が叩かれた。
近衛が忘れ物でもしたのだろうか。カーテンを開けそうになって、この部屋の惨状ではそれはまずいと気付く。
「あっ、ちょっと散らかっているので──」
待って欲しい、と言う声を遮ったのは、窓の外の訪問者。
『俺だよ。別に結子が何してようと気にしねえから。入るぞ』
そして、神使の力なのだろう──窓の鍵を開けると結子の許可もなく上がり込んできた。
あまり機嫌が良いとは言えない、十夜だった。




