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コミカライズ決定【3位】ヴェリタスの最終定理6 悪魔の慈愛  作者: 王璃月
●第22章:悪魔的な解答

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証明9:皆のための自殺!

ウエストワールドの倫理局本部の最上階、代表室。そこは数日前まで、天才にして幼児のような純粋さを持ち合わせる男、ヴォイド・ナギ・ヌルフィールドが、まるでブロック玩具で遊ぶように国家の運命を弄んでいた場所である。


だが。


その日、マホガニーの巨大なデスクの上には、一片の紙切れだけが置かれていた。

そこには、子供が書いたような丸っこい字でこう記されていた。


「あとは歴史が、ひとりでに証明してくれるよ。さようなら」


ヴォイドは、完全に姿を消した。


理由は定かではない。

だが、前日に隣国から訪れたという「歴史の語り部」と対話したことがきっかけであることは明白だった。ヴォイドという男は、常に何か新しい、完璧な刺激を求めている。彼にとって、倫理局という箱庭の中で「歯車」たちを完璧に動かすというゲームは、すでに攻略済みの退屈な作業になり果ててしまったのだ。「歴史の語り部」との会話で、彼は「歴史というものは、勝手に転がり、勝手に完結するものだ」という、ある種の……メタ的な視点に気づかされたのだろう。自らが盤面に立って駒を動かすよりも、盤面から降りて事の顛末を眺める方が、圧倒的に知的で「完璧な余暇」であると。


かくして、彼はあっさりと、本当にあっさりと、倫理局代表という最高権力の座から降り、世界から蒸発した。


ヴォイドの蒸発は、倫理局内に静かな、しかし破壊的なパニックを引き起こした。だが、最も深い絶望と、それに続く滑稽なまでの空回りに陥ったのは、もちろん、他でもない、マキナ・バイタルであった。


マキナの人生の目的は、ヴォイドを獲得し、完璧な幸福を手に入れることだけであった。


そのために、自らの血を分けた娘であるルキアを始末しようと企み、かつての夫であるアレックを鉄砲玉として利用しようと画策した。全ては、ヴォイドという「絶対的な報酬」を得るための手段であったはずだ。


ところが、その「報酬そのもの」が、ある日突然、煙のように消え失せてしまったのである。


普通の人間の精神であれば、ここで目的を失い、崩れ落ちて泣き狂うか、あるいは、自身の愚かさに気づき、虚無に苛まれて泣き狂うかのどちらかだろう。


だが。


マキナの狂気は、すでに後戻りのできない領域にまで達していた。


目的が消滅したにもかかわらず、彼女の中に渦巻いていた「誰かを攻撃し、陥れ、自分が優位に立つ」という、暴力の「手段」だけが、行き場を失って暴走を始めたのだ。


ルキアを始末する理由も、アレックを操る理由も、本来はヴォイドのためだった。


それが無くなった今、マキナの怒りと他責の矛先は、最も簡単で、最も手近で、最も無抵抗な存在へと向かった。


それは、昨日まで「ヴォイドへの憎しみ」という勘違いで結託し、唐突に大親友となったはずの少女、フィレモであった。

マキナのフィレモに対する態度は、一日で百八十度反転した。


「あなたがいけないのよ。あなたが倫理局に来たから、あの人は嫌気がさして出て行ったのよ。あなたが疫病神だからよ。あなたが、あなたがあなたがあなたがあなたがあなたがあなたがあなたがあなたがあなたがあなたがあなたがあなたがあああああああああああああッ!謝りなさい!謝りなさい!謝りなさい!謝りなさい!謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ!私は悪くない!私は悪くない私は悪くない私は悪くない私は悪くない私は悪くない!死ね!死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!わあああああああッ!」


マキナは、特別倫理審査課の薄暗いオフィスで、フィレモのデスクに大量の無意味な書類を叩きつけながら、蛇のように冷酷な声で囁き続けた。


フィレモは、困惑した。


なぜ。


なぜ、昨日まで涙を流して手を取り合った相手が、突如として、自分を憎悪の対象として攻撃してくるのか。だが、マキナにとって、理由などどうでもよかった。彼女の空洞化した心を満たすためには、誰かを責め立て、自分は悪くない、全ては他人のせいだという「手段」を、いつまでも行使し続けるしかなかったのだ。


フィレモは、ただ、命を惜しんで倫理局へ来た。

ルキアとマキナという二体の悪魔による、理不尽な破壊の嵐から逃れるため。大好きな探偵事務所を捨ててまで、生存本能に従ってこの灰色の組織に助けを求めた。


だが、そこは安住の地ではなかった。


フィレモは、鳥獣人であった。

背中には、かつて美しくしなやかな翼が生えていた。しかし、彼女の過去は、このウエストワールドの狂った倫理によって無残に引き裂かれていた。彼女の父親であるロジク。かつて倫理局の代表を務めたその男は、自らの権力と狂信的な倫理観の証明として、実の娘であるフィレモの羽を、生きながらにして切り裂いたのだ。「空を飛ぶ自由など、この規律ある社会には不要である」という、狂気に満ちた理由で。

フィレモはその地獄を生き延びた。切り裂かれた羽は長い時間をかけて完治し、再び空を飛ぶ力を取り戻していた。飛ぶことが好きだった彼女は、いつか再び、この灰色の空を自由に舞う日を夢見ていた。


そして、皮肉なことに、彼女を優しく迎え入れ、倫理局に居場所を与えてくれたのは、父ロジクの跡を継いだ新たな代表、ヴォイドであった。ヴォイドには悪意がなかった。ただ、「君もここで働くと効率がいいよね」という無邪気な理由で彼女を配置しただけだ。だが、フィレモにとっては、それが一筋の光に見えたのだ。


その光が、突如として消えた。


残されたのは、目的を失い、ただフィレモをサンドバッグとして叩き続けることで自己を保とうとする狂女(くるいおんな)、マキナ。


そして、相変わらず「俺が──なんとかしてやるッ──!」と口先だけで空回りし、何の具体的な助けにもならないアレックの遠吠え。


さらには、この国の市民たち。

街が半壊しようが、隣の人間が発狂しようが、一切の感情を殺し、ただ決められたルールに従って歩き続ける歯車たち。


フィレモは、特別倫理審査課の窓から、分厚い鉛色の雲に覆われたウエストワールドの空を見上げた。


「……もう、疲れた。」


それは、静かで、冷え切った絶望であった。

倫理が狂った社会で、命を長らえて何になるというのか。

生きるために逃げ込んだ場所が、一番の地獄だった。


自分を愛してくれると信じた父のような存在のアレックは、ただの自己陶酔の塊だった。


自分を助けてくれると信じた天才のヴォイドは、ただの身勝手な子供だった。


親友になれたと勘違いした女マキナは、中身のない空っぽの化け物だった。


この社会には、救いがない。


この社会には、正義がない。


ただ、狂った倫理という名のもとに、人間が人間を食いつぶしていく、無限の地獄があるだけだ。


完治したはずの背中の羽が、ズキズキと痛んだ。


空を、飛びたい。


でも、この空は、もう……私が飛ぶべき空ではない。


ウエストワールドの中心にそびえ立つ、倫理局本部の巨大な白亜の塔。

その最上階、かつてヴォイドが君臨し、そしてあっさりと捨て去った代表室のバルコニーに、フィレモは立っていた。

眼下には、キャピタルシティの無機質な街並みが広がっている。まるで蟻の行列のように、同じ速度で、同じ方向へと歩き続ける市民たちの姿が、ひどく滑稽に見えた。


フィレモは、翼をいっぱいに広げた。


それは、かつて父ロジクによって引き裂かれ、そして奇跡的に完治した、美しい鳥獣人の翼だった。


風が、彼女の髪を揺らす。


飛ぼうと思えば、どこへでも飛んでいける。


隣国へ逃げることもできた。


だが、彼女の心はすでに、飛翔する気力を完全に失っていた。


狂った倫理の社会で生き延びるために、自分を殺し、感情を押し殺し、安全な場所へと逃げ込もうとした。しかし、その結果がこれだ。


もう、逃げるのはやめよう。


倫理局の、この腐りきった中枢から、ただ、重力に従って落ちていこう。

それが、この狂った世界に対する、私にできる唯一で、最大の皮肉な抗議だ。


フィレモは、薄く微笑んだ。


そして、美しい翼を広げたまま。


羽ばたくことを一切せずに。


ただ、一歩前へ踏み出した。


鳥獣人の少女が、空を飛ばず、自ら、落下を選ぶ。


これほどまでに悲しく、そして美しい矛盾が他にあるだろうか。


風を切る音が彼女の耳を打つ。

下へ、下へ。

灰色のコンクリートが、恐ろしい速度で迫ってくる。

フィレモの意識は、底なしの虚無へと吸い込まれ、やがて、強烈な衝撃と共に、世界は完全に暗転した。


キャピタルシティの中央広場、倫理局本部の真下に、フィレモの体は叩きつけられた。


鈍い音。


そして、冷たい石畳に広がる鮮烈な赤。


その光景は、あまりにも異常であった。

空を飛ぶことができるはずの鳥獣人が、翼を広げたまま、地面に激突して……死んでいるのだ。

常に一定の速度で歩き続け、他人の死など見向きもしないはずのウエストワールドの市民たち。


だが。


彼らの足が、一人、また一人と止まった。

狂った倫理で後退と自滅を繰り返していた彼らの脳裏に、強烈な電撃が走った。

倫理局の元代表ロジクに羽を切り裂かれ、それでも生き延びた少女。その少女が、新代表ヴォイドの倫理局から、完治した羽を持ちながら、自ら飛ぶことを放棄して投身自殺をした。


その事実が意味するものは、何か。


「この社会は、飛ぶことができる者すらも、飛ぶことを諦めさせるほどに、狂っているのではないか」


「この社会は、生きることができる者すらも、生きることを諦めさせるほどに、狂っているのではないか」


完璧に統制されていたはずの市民の心に、小さな、しかし決定的な亀裂が入った。

一人が声を上げた。


「おかしい……こんなのおかしいだろ!」


それに呼応するように、次々と声が上がる。


「俺たちは、何のために生きているんだ!」


「倫理局は、俺たちに、一体何を強いているんだ!」


「俺たちは、倫理のために生きているんじゃない!生きるために、生きているんだ!」


感情を殺し、ただの歯車として生きることを受け入れていた彼らの中に、人間としての怒りと悲しみが、マグマのように噴出したのだ。


フィレモの死。


ただ一人の少女の絶望に満ちた投身自殺が、分厚い氷で覆われていたウエストワールドの社会を根底から打ち砕いた。


暴動が始まった。


市民たちは倫理局を取り囲み、狂った法律や規制を焼き捨て、自らの手で社会のシステムを破壊し始めた。かつてマキナとルキアが物理的に街を破壊したのとは違う。これは、市民たちの意志による、社会構造そのものの変革であった。

マキナの空回りする悪意が引き金となり、フィレモが命を絶った。その悲劇が、皮肉にもこの国を永い眠りから目覚めさせたのである。


ボーン探偵事務所の古びたソファで、ルキア・ブラックは静かに紅茶を飲んでいた。

窓の外からは、街のあちこちから上がる黒煙と、暴動の喧騒が聞こえてくる。


「……まったく、下らない」


ルキアの冷たい瞳には、一切の同情も、悲しみもなかった。

フィレモが死んだ。その事実は、ルキアにとってはある種の必然であった。自分とマキナという圧倒的な暴力の渦から逃れるために、安全な箱庭に逃げ込んだつもりが、そこはもっと恐ろしい精神的な地獄だった。


ルキアは、フィレモの弱さを嘲笑いはしない。だが、彼女の死を悼む気にもなれなかった。


一方で、アレック・ボーンは頭を抱えて事務所の隅でうずくまっていた。


「なんでだ……どうしてこんなことに……俺が助けてやるって言ったのに……俺の力がもっと強ければ……!」


彼はまだ、自分がフィレモを救えるヒーローであったと勘違いしている。自分の空虚な言葉が、フィレモを余計に追い詰めたことに気づきもせず、ただ自分が悲劇の傍観者になってしまったことに酔いしれている。

ルキアは、そんな父親の背中を、心底からの侮蔑を込めて見下ろした。


「皆、本当に馬鹿ね。そして、この街の連中も」


ルキアは紅茶のカップを置いた。

狂った倫理に縛られていたくせに、一人の少女「ごとき」が死んだ「だけで」正義の味方気取りで暴動を起こす市民たち。彼らの底の浅さにも、ルキアは吐き気を催していた。

全てが、茶番劇だ。


そして、最も恐ろしいのは。


この全ての結末を、初めから導き出していた男の存在である。


ヴォイド・ナギ・ヌルフィールド。


彼は今、どこかの山奥で、あるいは海の底で、新しい「遊び」に興じていることだろう。

彼には悪意は一切ない。

だが、彼は知っていたのだ。


自分が倫理局から手を引けば、マキナが暴走することを。


マキナが暴走すれば、矛先がフィレモに向かうことを。


フィレモが追い詰められれば、彼女の性質上、自殺を選ぶことを。


そして、鳥獣人である彼女が倫理局から投身自殺をすれば、それが引き金となって、この狂ったウエストワールドの市民たちを目覚めさせる起爆剤になることを。


全ては、ドミノ倒しであった。

ヴォイドが自らの手で倫理局を改革するよりも、一人の少女の死という劇薬を用いた方が、社会は圧倒的に早く、そして劇的に「修正」される。

それは、究極の天才としての冷徹な判断であり、悪と狂気に対する完璧な処方箋であった。

ヴォイドは宣言通りに、そして、皮肉にも「歴史は勝手に証明してくれる」と予言した者の言葉通りに。

自らの手を汚すことなく、マキナの狂気とフィレモの絶望を完璧に利用し、ウエストワールドという狂ったシステムを根底から変革させたのだ。


誰も彼を裁くことはできない。


なぜなら、彼自身は何もしていないのだから。


ただ、彼は、完璧なタイミングで、その場から「いなくなった」だけである。

罪のない少女の血で贖われた、新しい、平和な世界。

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