6日目
「兄さん」
リビングのソファに腰かけて、テレビもつけずボケっとしていた僕の背後からかけられた声に、僕はついビクッと体を震わせた。
2日ぶりのマイシスターの声は鈴の音色のようで、早朝の僕の耳と頭を癒してくれる一方で、僕に声をかけてくるということは琴乃の中で整理が付いたということなのだろう。
先日の話の行く末が決まったことも意味しているのだ。
緊張せずにはいられない。が。
「おはよう、琴乃」
「おはようございます、兄さん」
僕は琴乃がどんな結論を出そうと、いつも通りに琴乃と向き合うだけだ。
琴乃はゆっくりとした歩調で、僕の座るソファまで近づき、僕の隣に座った。
ちょこんと座る琴乃のつむじが見えて、可愛らしい。
やはりまだ目を合わせるのは難しいのか、琴乃は正面を向いたまま、隣に座る僕に話しかける。
「まずは、謝らせてください。心配をかけて、迷惑をかけてごめんなさい」
「いいよ、大丈夫。心配も迷惑も、かけないに越したことはないけれど、かけられること自体僕は嫌でもなんともないからな」
「ありがとうございます」
僕と琴乃の慣れ親しんだいつもの距離感、だろうか。
多少近く感じてしまうが、恐らくここ2日間で琴乃と衝突していたから、そのギャップでそう感じているだけだろう。
「昨日、1日かけて色々考えました。昔のことも結構思い出したりしました」
「それで、琴乃が納得出来る答えは見つけれたのか?」
「はい。正しいかどうかは分かりませんが、私なりの答えは見つけました」
琴乃が僕の方を向く。
いつも通りのジト目。大きい真っ黒な瞳と目が合う。
相変わらず感情の読めない無表情さだけれど、目が合えば琴乃の感情がある程度分かる。
2日前、翔真くんの家で見た琴乃の瞳はそこにはない。
もう二度と、あんな目はさせたくないな、本当に。
「私は兄さんが好きです」
夏休みの花火大会の情景が脳裏に過ぎる。
可憐な浴衣姿の琴乃が花火の光によって、色とりどりに照らされていたあの夏の一夜が。
琴乃の透き通った声が花火の音でかき消されながら、それでも微かに僕に届いた言葉が。
僕への告白の言葉が今でも一言一句思い出せてしまう。
「夏休みからこの気持ちを何度も何度も忘れようとしました。でも、結局この気持ちは変わることはありませんでしたし、むしろ意識してしまって苦しくなる毎日でした……。きっとこの気持ちを切り離すには、私は他の人の力に頼らないといけないと思っています」
「他の人……」
「はい。具体的には翔真くんですね」
僕への気持ちを翔真くんを好きになることでなくそうということだろう。
恋の傷は新しい恋でふさぐのが良いって聞いたことがあるし、きっとそうなのだろう。僕はあんまり経験がないけれど。
でもやっぱり少し嫉妬心が出てくるあたり、本当に僕は救えないが。
「ただ、私は翔真くんに対して恋心は抱いていません。正直、これぽっちも。興味はありますが、それは一個人として、人間としての興味に過ぎません」
「……え!? じゃあなんで付き合ってるの!?」
「…………好きという理由だけが付き合う理由にはならないんですよ、兄さん」
「な、なんだと……」
「……これだから童貞は……」
「おい! やめろ!」
好き同士だから付き合うんじゃないのか……。
だって付き合うってことは手を繋いだりハグしたりキスしたりするもんだろう!?
それを好きでもないやつとおいそれと出来るものなんか!?
「短絡的すぎますよ兄さん。そんなのじゃ私以外と付き合ったらすぐに気持ち悪がられて振られますよ」
「やめろよ!」
僕の心を抉るな!
「全く恋愛感情はありませんが、翔真くんは私になんでもすると言ってくれました。なら、私の兄さんに対する想いを心変わりさせてもらおうかと思いまして。そういうことで今後もこの関係は続けようと思っています。そういう意味で翔真くんの力を借りようと思います」
「……そっか」
「安心してください。貞操はきっちりと守ります」
「当然だ!!」
中学一年生で初体験だなんてお兄ちゃんは絶対に許さないからな!!!
「……ただ、勘違いしないでほしいことがあります」
「勘違い?」
「はい。私自身は兄さんへの恋心を諦めたわけではないということです」
「……は?」
どういう意味だ。え、諦めるために翔真くんと付き合うんじゃなかったのか?
「だから勘違いしないでほしいんです。私の兄さんに対する恋心を諦めさせてもらう為に翔真くんと付き合いますが、私自身は兄さんを諦めるつもりはないんです。これぽっちも。どういう意味か分かりますか。兄さん。」
「す、すまん。お兄ちゃん何言ってるか分からないんだが……」
「あくまで翔真くんが私を諦めさせるのであって、私が私に対して諦めるように諭すことはないということです。むしろ私は兄さんのことを本気で落とすつもりでこれからはいきます」
「……はい!?」
突然の宣戦布告。
妹に本気で惚れられて落とすとまで宣言されるなんて兄冥利に尽きることであるが、それだと琴乃が辛いだけなんじゃないのか。
だって僕は琴乃の事を妹としか見れないわけであって、そしてその僕の答えに対して琴乃は苦しんで昨日までのような状態になったんじゃないのか。
だが、今僕を射抜く琴乃の力強い瞳には、昨日までの揺らぎはない。
「だって兄さんは私がどう思うと、どう動こうと、私の兄さんなんですよね」
「……もちろんだ」
「それが例え、実の兄に本気惚れてしまい、剰え彼女になるために尽力してしまうような妹であっても、兄さんはこれまでと変わらず私を愛してくれるんですよね」
当然だ。当り前じゃないか。
「僕はどんな琴乃でも愛してるよ」
「はい。そう信じているから……いえ、信じることが出来るようになったので。だから兄さんを、これからも好きでいようと思ったんです」
……そういうことか。
一昨日だって琴乃は言っていた。私が恋心を抱き続ける限り、僕を兄と思うことは出来ないと。
つまるところ、僕にもそう思われてしまうことが怖かったのだろう。
琴乃が一番怖かったのは、僕に振られ続けることでも、僕と恋人関係になれないことでもなかった。
僕に『妹』ではないと思われてしまうことだったんだな。
なんというか、歪な考え方だなと思う。
だって矛盾しているじゃないか。僕が琴乃の事を妹と思い続ける限り、琴乃が僕と恋人になることはないじゃないか。
……いや、違うのか。
どんな琴乃であっても、僕が琴乃の兄であると言い切ったのは僕自身だ。
つまり、もし、僕が琴乃に本気で落とされて、琴乃と両想いになるようなことがあったとしても僕は兄としても琴乃を愛することを求められるわけだ。
なんだそれ。
わがままな奴だな。
「無茶苦茶だな。琴乃」
「はい。自覚しています」
「随分とわがままが上手くなりやがって」
「だって、兄さんは私のわがままならなんだって聞いてくれるでしょう」
「妹の特権だからな」
ははは、と気の抜けた笑い声が漏れた。
なんというか、予想の斜め上の回答が来たな。
でもいいか。
琴乃がそれで笑えるならば、幸せになれるなら。それでいいか。
「兄さん」
「ん?」
琴乃は僕に呼びかけると、片手を僕に差し出してきた。
「なんだ?」
「握手です。仲直りの」
「なんだそれ、柄じゃないだろ」
「いいですから、ほら」
照れくさいな……。
つい、目を琴乃から逸らしつつ、琴乃の手を握った。
柔らかく、妙に熱い琴乃の掌の感覚に若干戸惑った僕を――、
琴乃は自分の方へ引っ張った。
――ちゅ。
「!?!?!?」
「なんて顔ですか兄さん」
頬に当たった柔らかい感触。
琴乃の小さな桃色の唇が僕の頬に触れて離れるまでのほんの一瞬。
たった一瞬であったけれど、それでも頬から一気に顔全体に熱が伝播した。
妹からの頬へのキスなんて、別に仲の良い兄妹ならば無い話ではない。だけれど、僕にはどうもそれを簡単に受け止められなくて、動揺で心臓が飛び出しそうな程に鼓動して、開いた口が塞がらない。
視線が琴乃の顔に釘付けになる。目が離せない。リビングの明かりに反射して天使の輪を形成するボブの黒髪と対になるような透き通るほどの白い肌。
そして、その表情から。
こっちのセリフだよ、琴乃。なんて顔してるんだよ。
琴乃の表情はこれでもかという程にだらしない腑抜けた笑顔だった。
☆ ★ ☆
クリスマスを超え、大晦日を翌日に控えた12月30日。
大晦日に両親がやっと仕事から帰宅するという連絡を受け、今年も新年を家族全員で迎えることが出来ることに琴乃と共に胸を撫で下ろした昼前の時間帯。
僕たちの自宅のチャイムが鳴った。
ちょうど正月に向けて、買い出しに出かけようと琴乃と玄関にいた僕たちは、突然の客の来訪に困惑しつつ玄関の扉を開けた。
「お、久しぶりやな少年」
そこにいたのは、ヴァイスだった。
「なんで僕の家に来てるんだよ!」
「なんでって、友達を遊びに誘おうと家に来ることは別におかしいことやあらへんやろ」
「いや、スマホに連絡よこせよ!」
「なははは、少年のびっくりした顔を見たくてってのもあったからな。お、妹ちゃんも久しぶり」
「あ、はい。その節はお世話になりました」
「元気になったみたいで良かったわ。心配しとったんやで」
「ご心配をおかけしました……。あの、すいません。一つお伺いしてもいいですか」
「なんや妹ちゃん」
「兄さんとはどういったご関係で?」
「少年とは二人きりでほぼ一日過ごしたほどの濃密な関係や」
「嘘ではないけど、誤解を招きかねない言い方をやめろ!」
「誤解ってなんやねん。どんな誤解や? うちは別に困らんけどな」
「揶揄うな!」
「嘘ではない……? 兄さん、どういうことですか?」
「え、いや琴乃と喧嘩したクリスマスの日にちょっと相談に乗ってもらって……って、え、琴乃怒ってる?」
「なんやなんや妹ちゃん。大好きなお兄ちゃんに親しい友達がおって、嫉妬してもうたんか?」
「いえ、そんなことはありませんが……とりあえずお引き取りください。これから兄さんと買い物に行くんです。遊ぶのは来年にしてください」
「お、買い物行くん? ほなうちの車乗っていきーや! 荷物も楽に運べるしええやろ!」
「結構です。歩いていくので。慣れてますので」
「ええやんええやん。うち、妹ちゃんとは仲良くしたいんよ。これからも会う機会も増えるやろし、な? 義妹ちゃん?」
「……! お、ひ、き、と、り、ください」
「ほな、肝心なお兄ちゃんに決めてもらおや。な? どうや少年」
「兄さん、どうなんですか……!」
「え、僕?」
「なに無関係みたいな顔しとんのや。今まさに少年の取り合いをしとるんやでここ」
「取り合ってません。勝手に私の行動を決めつけないでください」
「え、ほな、うちが一方的に少年のことを取ってってええんや?」
「そうは言ってません。ただ私と先約があると言っているだけです。家族の時間を邪魔しないでください」
「そんな水臭いこと言わんでや。仲よーしてや妹ちゃん」
「お断りします。顔を近づけないでください」
「凄いなヴァイス……琴乃がこんな顕著に嫌がるの久しぶりに見たわ」
「お、そうなん? ほな仲良くなれそうやな妹ちゃん!」
「どう解釈したらそういう結論に至るんですか……!」
エピローグというか、今回の事の顛末。
今年の冬休みもそろそろ折り返し。
僕と琴乃は兄妹だ。
僕と琴乃の冬休み fin.