第一話 婚約破棄
王宮内に設けられた執務室で、今日もモニカは書類仕事と格闘していた。
彼女はここタルタル王国の王太子たるグリュック王子の婚約者であり、国内最大の貴族・トルイ公爵家の息女である。
「お嬢様、王妃様がお見えになりました」
侍女からそう告げられ、モニカは慌てて立ち上がる。
「ああ、そのままそのまま。ごめんなさいね、お邪魔をしてしまって。いえ、そもそもこれは本来あの子がするべき仕事なのだけれど……」
執務室に入って来た王妃・トラキナが、申し訳なさそうに頭を下げる。
「本当にごめんなさい。私があの子を甘やかして育ててしまったばっかりに……」
ええ、まったくもってそのとおりです、と、喉元まで出かかった言葉を、モニカは辛うじて飲み込んだ。
タルタル王国の王太子・グリュックは、良く言えば武勇に秀でた偉丈夫、悪く言えばただの脳筋だった。
次期国王として執るべき政務には全く興味を示さず、狩りと武芸の鍛錬に明け暮れている。
そもそもタルタル王国自体、尚武の気風が強く、強さこそ正義という風潮がある。
「それだけでは国政は立ち行かないと、言い聞かせてはいるのだけれど」
トラキナ妃はそう言うが、本当かどうかは怪しいものだ。
モニカにしてみれば、グリュック王子があんな風に育ってしまった責任の大半は母親である彼女の教育にあると思っているし、自覚があれば許されるというものでもないだろう、という思いもある。
しかし、心底申し訳なさそうな表情を浮かべる未来の義母に対して、正直な心情を吐露するわけにはいかなかった。
トラキナ妃が伴って来た彼女の侍女・ステラにも手伝ってもらい、どうにか仕事の目途を立てて、モニカはほうっと溜め息を吐く。
そして、おもむろに白紙の紙を一枚机に広げ、コンパスと定規で図形を描いた。
手元の本をペラペラめくりながら、自身で考え出した問題に頭をひねる。
「また幾何学の問題?」
トラキナ妃が興味深げに覗き込む。
「はい。ちょっとした気分転換です」
そう言ってモニカは微笑んだ。
手元の本――古の大数学者ミークリッドの著書は彼女の愛読書であり、政務の合間に幾何学の問題を解くのが、彼女の数少ない趣味の一つだった。
「さすがは聡明をもって知られるモニカ嬢ですね」
ステラが感心したように言い、モニカの侍女たちも誇らしげだ。
もっとも、そんな彼女を称賛してくれる人間は、実のところそう多くはなく、奇人変人扱いする者も少なくない。
その筆頭が、彼女の婚約者たるグリュックだった。
彼は婚約者のことを、「頭でっかちで口うるさいばかりのつまらない女」と公言してはばからない。
「グリュックのことは陛下にもご報告しているのだけれど、お叱りになるどころか、『タルタルの男たるもの、惰弱であってはならぬ』などとおっしゃって、逆にお褒めになるありさまで……」
トラキナ妃が愚痴をこぼす。
モニカとしては迂闊に同意するわけにもいかず、お茶を濁すしかなかった。
「陛下もお忙しくていらっしゃいますから……。対ゴールド王国戦の前線からは、いつお戻りになられるのでしょう?」
「今のことろはまだ、目途が立っていないようね。かの国もしぶとく抵抗しているようだから」
「そのようですね。けれど、時間の問題でしょう。“タルタル不敗神話”が破られることはありませんわ」
「そうね。そしてあなたの父君トルイ公も、その一翼を担っておられるのだものね」
王妃の言葉に、モニカは気恥ずかしさと誇らしさのない交ざった表情を浮かべた。
彼女の実家トルイ公爵家は、王国随一の軍事力を有する武門であり、今回の対ゴールド王国戦にも、当主自ら出陣している。
タルタル王国は元々は数ある小王国の一つに過ぎなかったが、先代国王の頃から、近隣の小国を次々に征服し、一大国家となった。
最近は、東のゴールド王国、西のファーリーズ王国といった、かつてのタルタルからは鼠から見た象ほどにも思えた大国すら圧倒している状況だ。
モニカの侍女が、主の言葉に続けて誇らしげに言う。
「そうですわ。我がタルタルは多くの国々を討ち滅ぼし、敗北とは無縁ですから。ケレート王国、ジャダラン王国、ナイマン王国、それにメルゲン王国……」
そこまで口にしたところで、侍女は主の厳しい視線を浴びて口を噤む。
トラキナ妃が鷹揚に微笑みながら取りなした。
「いいのよ。もう昔の話ですもの」
トラキナは元々、タルタルに征服されたメルゲン王国の王族出身だ。
メルゲンが滅ぼされた際に、その美貌が現国王の目にとまり、彼の妻となったのだ。
祖国を滅ぼし一族の者たちを殺した男の妻となりその子を産む、というのはどんな気持ちなのだろうか――。想像しかけて、モニカはすぐに止めた。
タルタル王国拡大の過程で、そのような話は山ほどある。
そういえば、王妃の侍女ステラも、タルタルが切り取った旧ファーリーズ領の出身だと聞いたことがある。
それが今では、王妃様の筆頭侍女として重用されているのだ。
征服前の境遇がどのようなものだったかは知らないが、今の状況には満足しているのではなかろうか。
そしてそれはトラキナ妃も同様で、今や飛ぶ鳥を落とす勢いのタルタルの王妃として国民の尊敬を集める身だ。
彼女自身が先ほど口にしたように、すべては昔の話と割り切っているのだろう。
モニカはそう考えることにした。
ふと気付くと、トラキナがじっとモニカを見つめていた。
そして意を決したように、言った。
「モニカ嬢、あらためてお願いするわ。どうかあの子を支えてやって。あの子を甘やかしてきた私がこんなことをお願いするのは恥知らずかもしれないけれど、どうか時には厳しく言ってやってほしいの」
モニカにしてみれば正直なところ、何で私が、という気持ちはある。
しかし、彼をこれ以上甘やかしていては、国の行く末にもかかわる事態となるだろう。
「承知いたしました、王妃様。微力を尽くすとお約束いたしましょう」
モニカの言葉に、トラキナは満足そうに頷いた。
それからも、状況はほとんど変わらなかった。
グリュックは相変わらず狩りに明け暮れ、モニカはステラに手伝ってもらいながら政務をこなす。
モニカに諫められたグリュックは、最初の頃はまだ煩わしそうにするだけだったが、次第に憎悪を露わにするようになってきた。
そして一月ほど後。
王家主催の舞踏会の席で、騒動は巻き起こった。
本来ならば婚約者であるモニカをエスコートすべきグリュックは、ガーミッシュ男爵家のアグリ嬢と踊った後も、彼女を傍に侍らせたまま、おもむろにモニカに指を突き付け、高らかに宣言した。
「モニカ! 貴様との婚約を破棄する!」




