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ひとしきり身体を揺さぶり、気持ちに任せて笑った。
それでもしつこく上がろうとする息を強引に飲み下して、目尻に滲んだ涙を拭いながら運転席を見た。
あたしの声に目を覚ましたのか、さっきまでの危なっかしい運転は静まっていたけれど、当の本人は落ち着かない様子であたしの方に意識を向けていた。
嫌な顔はせずに、ただあたしがどうして笑い出したのか知りたいと思っているようだった。
「笑ったりしてごめんなさい。あなたが、見かけによらずとても純粋なものだから、可愛くてつい」
「あなたこそ、お若いのにずいぶん大人なんですね」
「そうよ。だってあたしは夜の街に生きる女ですもの。この街に来た時はまだ子供だったけど、色んな経験をしたおかげですっかり大人になったのよ」
シートベルトで動きが制限されているから、言葉と声で自信を膨らませて胸を張ったような態度をとった。
「なるほど、そうでしたか。あなたは私の知らない世界で生きているのですね。確かにあの街は目がくらむ程に眩いところでした。もちろんあの場所だけではなく、ステージに上がるあなたもとても魅力的でした」
褒め言葉なんて、毎日飽きる程に言われている。
それなのに、しみじみとした調子で言われてなんだかやけに恥ずかしくなった。
照れていることを悟られないよう、強気な態度を装う。
「あたしのどんなところを魅力的だと思ってくれたの?」
続きをせがむと、老紳士は少しだけ眉根を寄せてこちらを見た。
「言わなければいけないでしょうか」と視線で問われ、「言わなければだめ」と同じように視線で返す。
小さな咳払いが聞こえ、遠慮がちに話が始まった。
「あなたに出会ってからまだ数時間しか経っていませんが、その間に様々な表情を拝見しました。
ステージ上のあなたは、華やかでちょっぴり嗜虐的な強い女性に見えました。
けれど歌が始まった時、それまでの表情が一転してあどけない少女のようになりました。
ステージが閉演した後、ポーチに姿を見せたあなたは、夜の街に相応しい艶やかな大人の女性になっていました。
男たちのあしらい方を心得ていて、指一本、視線一つで喜ばせられる程の。
そして今しがた、私の車の中で、あなたはまた違う表情を見せてくれました。
気取らないままからからと笑う、年相応のお嬢さんの顔です。
あなたはとても色鮮やかで、見ているだけで目を回してしまいそうです。
その小さな身体の中には、一体いくつの顔と感情が秘められているのでしょう。
印象を自在に操り、くるくると表情を変えるあなたは、とても魅力的だと思いました」
照れた色を残しながらではあるけれど、老紳士は饒舌にそう語った。
それを聞いて、装っていた態度がぶれそうになる程、素直に驚いた。
「すごい、びっくりしたわ。
あなた、人を見る力があるのね。観察力とでもいうのかしら。
そんな風にあたしを見る人は、きっとあなたが初めてよ。
今まであたしに興味を持った男は、自分の理想のフィルターを通してあたしを見たわ。
これが好きなんだろう、あれは嫌いなはずだって、あたしの意見を聞かずに知った顔で接する男が多かったの。
セクシーな女が好きな男はあたしにもそれを要求したし、キュートな女がタイプな男はやけにあたしを可愛がろうとした。
だからあたしはその時求められる女になって、たくさんの夜を過ごしてきたの」
「それは、随分と偏った目で見つめられていたのですね。色眼鏡を通さなくても、あなたはこんなにも色鮮やかなのに」
今まで、その夜の恋人の色に染まることが当たり前だったし、それはそれで楽しかったから何の違和感も抱かずにいた。
ポーラーのネオンのように、毎晩眩しい程の蛍光色を身体に塗りたくって男と付き合った。
それなのにこの人は、あたし自身が色鮮やかで、いくつもの顔を持っていると言った。
あたしの顔や身体を褒めるのではなく、その場によって印象を変えられることが魅力的だと。
緩やかなスピードで走る車が、気付けばアパートに近付いていた。
でも今は、すんなり帰る気分にはなれなかった。
「ねぇジェントルマン。この後、何かご予定がおありかしら」
ハンドルを握る肩が、目に見えて強張った。
あたしの様子を窺う瞳が、ぐっと緊張感を増す。
さっきと同じだ。
あたしが何か大人びたことを言えば、この人はまた必要以上に動揺し、きっと運転が疎かになってしまう。
そうなることのトリガーは、おそらく話が色恋の方向に流れそうになることにあるんだ。
「そんなに身構えないで。あたしは何も、あなたをとって食べようとしているわけじゃないんだから」
軽いジョークだと濁しても、老紳士はさっきよりも口調を引き締めたまま言った。
「予定はありません。あなたをお送りした後、ホテルに戻り眠るだけです」
いつもと同じ夜なら、一夜限りの恋人は自分が滞在しているホテルへあたしを招く。
けれどこの人は、そこにあたしを呼ぶ気はないようだった。
もう少し押してみようかとも思ったけれど、身体を固くしている相手の部屋に押しかけていく程、あたしははしたない女じゃなかった。
「それなら、もう少しだけあなたの時間を頂けないかしら。今夜はなんだか、ホワイトナイトの静かな夜の中を、もう少しドライブしたい気分なの」
一緒にいたいとか露骨なことを言うと断られるかもしれない。
それを見越してかけた控えめな誘いは正解だったようで、老紳士の肩から、すっと力が抜けた。
「あなたにお誘いいただけるのなら、いくらでも車を走らせます」
どうやらこの人は、健全な夜更かしになら付き合ってくれるらしい。
あくまで安全運転の範囲内で少しだけ加速して、車はまどろむホワイトナイトを進む。
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