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出方を伺うあたしを知ってか知らずか、老紳士は余計な口をきかずに丁寧な運転を続けた。
細道を抜けて大通りに合流すると、道幅が広くなったことに安堵したような吐息が聞こえ、次いであたしが想像もしていなかった言葉が飛び出してきた。
「あなたのお住まいはどちらでしょうか。道を教えていただけると助かります」
どこかで一休みしていくことには慣れていても、家に行きたいと言われたのは初めてだった。
それまでゆらゆらと漂っていた警戒心が一気に高まる。
やっぱり穏やかな様子はかりそめで、本音はそういうことなのね。
もちろん、そうだとしても軽蔑したりはしない。
この人との夜がどんなものになるのか楽しみで、興味が募るばかりだ。
「積極的なのね、ジェントルマン。あたしの部屋に上がり込んで、一体何をしようというわけ?」
自分で自分の肩を抱き、冗談めかして身を守るそぶりをみせる。
そういう率直な男も好きだけれど、一人の住まいを安々と明かす程、夜の女はかんたんじゃないのよ。
あいにくあたしの部屋には入れてあげられないけれど、どこか違う場所でお互いのことをもっとよく知り合いましょう、と。
あたしのわざとらしい非難に、この清潔な人はどんな表情を見せるのか。
沸き上がる興味を胸に隣を盗み見ようとしたけれど、それよりも早く身体が左右に揺れた。
それまで滑らかだったハンドルさばきが突然乱れたのだ。
続いて早口に、焦りをまとった言葉が続く。
「そ、そういう理由で伺ったわけでは。無礼なことを言ってしまい、申し訳ありませんでした。もちろん、部屋の中まで立ち入ろうとは思っていません。建物の前でも、都合のいい通りでも、あなたの希望するところで構いません」
建物の前? 都合のいい通り?
まさかこの人は、そんなところであたしと抱き合おうというのだろうか。
さすがのあたしも、真冬の屋外で周囲に気を遣いながら、というのは未体験だった。
けれど、そんなあたしの疑問は次の言葉で打ち砕かれた。
「ですが、この荷物の量です。これを女性一人で運ぶのは大変でしょうから、できれば部屋の近くまでお持ちすることを許していただきたい、と思います」
老紳士がちらりと送った視線を追って後部座席を見て、山積みの荷物のことを思い出した。
次いで、この人があたしを車に乗せてくれている理由も。
荷物持ちを申し出たのは、ただの口実ではないのだろうか。
「本当に、あなたは荷物を運んでくれるの?」
「もちろんです。そのためにこうしているのですから」
「驚いた。荷物を持つなんてのは建前で、今夜のお相手に誘ってくれたんだと思ってたわ」
「今夜の?」
「ええ。一夜限りの関係を結ぶ相手、という意味」
赤信号に近付き減速していた車が、キッと音を立てて止まった。
今度は身体ががくんと前後に揺れる。
後ろでは荷物の山が崩れる音がした。
「まさか、そんな失礼なことは」
上ずった声でそう言い、老紳士は頭の中でまとまらなかった言葉の端を引っ張るように、おかしなうなり声を小さくあげた。
口元を手で覆っているからその真意ははっきりとは見えないけれど、どうやらひどく困惑しているようだった。
信号が青になっても老紳士はまだうなり続けていて、後続車のクラクションで慌てて車を発進させた。
それでもまだ動揺は続いているようで、さっきまでの丁寧な運転が嘘のように、歩道に近付いたりセンターラインに寄ったりして、危険なことには多少の免疫がついているあたしをもはらはらさせた。
「しっかりしてよ」、そう声をかけようと運転席を睨みかけ、すぐに拍子抜けしてしまった。
人間として成熟した外見はそのままなのに、困惑を隠しきれない様子の老紳士が、まるで十代の少年のように頬を染めて見えたからだ。
まさかそんな顔をされるとは思わなかった。
だってあなたは、それが目的であたしに声をかけたんでしょう?
腹の奥の方から、ふわっと笑いの気配が込み上げた。
それは、年齢に釣り合わない態度を小馬鹿にしたり、みっともないと非難する類のものじゃなく、子猫がいっぱしの成猫のように小さな身体を丸めて眠ろうとしている様子や、湿った土からやわらかな新芽が顔を出しているのを見つけた時のように、心の奥がくすぐったくなることで生まれる優しい笑いだった。
それが一つ口からもれてしまうと、もうだめだった。
笑いの風が身体中に行き渡り、止めることができなくなってしまった。
始めは、喉の奥が揺れる程度のくつくつという響きだったのが、息をする度に勢いを増し、しまいには声を上げて笑っていた。
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