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ゆったりとした足取りを真似て、いつもより歩幅を狭めて歩く。
斜め後ろから老紳士を盗み見るうちに、なかなかスタイルがいいことに気が付いた。
太っているわけでも痩せすぎているわけでもない身体は、バランスがよく健康的だ。
長い手足は、荷物を持っているせいで慎重な動作をしているけれど、安定した足運びが力強さを感じさせる。
こつこつと鳴る革靴は、雑誌に載っているような流行の型ではないものの、古くからあるフォーマルな形でセンスがよく、手入れも行き届いている。
発光して見える白いスーツは、目立ったしわの一つもなくぴったりと身体を包み、暗がりの中でもそれが上等な品であることを感じさせた。
たくさんの荷物を苦にせず運ぶ姿勢は上品で、そうしたことに慣れているように思える。
上等な身なりに立ち居振るまい。
それなりにお金を持っている類の人間だ。
老紳士の車は、マクレーからそう離れていない、角の空き店舗の近くに停められていた。
街灯の光が遠く人目につかない場所で、幸いいたずらをされた形跡はなかった。
磨き上げられた黒い車体は、鏡のようにあたしの姿を映している。
ちらりと覗き込んだ車内は見た目よりずっと広く、後部座席に荷物をすべて乗せてもまだ余裕があった。
老紳士があたしをエスコートして助手席のドアを開けた時、車内からふわりと甘い香りが漂ってきた。
夜気に流されてすぐに消えるそれは、香水や芳香剤のにおいじゃない。
嗅いだ瞬間、すぐにその正体がわかった。
それは、舌先にクリームの甘さまで思い出させる程に濃厚な、バニラエッセンスの香りだ。
ドアを開いて待つ老紳士を、車に乗り込む前にもう一度見つめる。
あたしに声をかけてからずっと、その表情には笑みが乗ったままだ。そ
れがどういう意味を持つものなのか、これからじっくり聞かせてもらうとしよう。
身体を沈めた助手席のシートは肌触りのいいレザー張りで、初めて座るあたしをも優しく包み込んだ。
足元は広く、フロントガラスも夜空を見上げられる程に大きい。
運転席に乗り込んだ老紳士は、揃えた膝の上に両手を置いて行儀よく座るあたしに微笑みかけ、水の上を滑り出すような滑らかさで車を発進させた。
さて、この人はこれからどこに向かうんだろう。
どれだけ会話が弾んでも、窓の外はちゃんと見ておかなくちゃならない。
万が一の時にすぐ飛び出せるよう、さりげなく指を這わせロックとドアハンドルの位置を確認する。
あたしの警戒をよそに、老紳士はなかなか口を開かず、運転に専念しているような素振りでふわりふわりとハンドルを切る。
そのハンドルさばきを見るふりをして、ちらりと指の付け根を確認する。
左の薬指に、指輪はない。
無言の空間にあっという間にしびれを切らし、あたしの方から口を開いた。
「改めて、荷物運びのお手伝いをしてくださってありがとう。あたしはキャッシュマクレーの看板娘、クルトよ。もっとも、マージがいない時だけ通りに向けてもらえる、裏側の看板だけどね」
同乗者が運転しているからといって、礼儀は欠かさない。
親しみを持ってもらえるように、わざとらしく不満げな声でおどけてみせる。
老紳士は、あくまで視線は前方に向けたまま、小さく首を横に振った。
「裏看板だなんて、そんなことを。あなたのような美しい人を隣に乗せていることを意識して、ついハンドルを握る手が強張ってしまいます」
「ありがとう。あたしの思い違いでなければ、お会いするのは初めてのような気がするんだけどどうかしら」
「ええ、仰るとおりです。この街に来たのは今日が二日目、あなたの劇場は今夜が初めてです」
「やっぱり。あなたのような優しい方がいたら、あたし覚えていたはずだもの」
両手の平を合わせて声を弾ませると、老紳士はくすぐったそうに身じろぎした。
「ポーラーへはご旅行でいらしたの?」
「ええ。少し長めの休みが取れたので、目的地を決めず旅に出たのです。気の向くままに車を走らせて、行き着いた先がこの街でした」
「当てもない旅なんて楽しそう。でも、辿り着いたのがこの街でラッキーだったと思うわ。ここの夜はとても賑やかでしょう? 刺激的で面白くて、昼間に戻りたくなくなるくらいに。ようこそポーラーナイトへ。僭越ながら、街を代表して歓迎するわ」
座ったままスカートをつまみお辞儀の真似をすると、老紳士はちらりと視線をよこした後、前方に向き直って小さく会釈をした。
ポーラー唯一の出入り口である検問所が見えてきた。
老紳士は提示されるままに退出金の支払いをした。
門番はすました顔をしていたものの、車が門を通り抜ける瞬間、あたしと老紳士を見比べて一瞬下卑た笑みを浮かべた。
再び走り出した車は、標識に従って一方通行の細道を慎重に走る。
「ここにいる間はホテル暮らしになるのかしら。どちらに滞在されているの?」
「時計公園の近くのホテルです。中心に、古びた時計塔がある。街のシンボルの一つだとホテルマンに聞いたのですがご存知でしょうか」
老紳士が言っているのは、ホワイトナイトの中心地にあるレンガ造りの古い塔のことだ。
細長く、空に向けられた万年筆のペン先のように尖ったそれは、ビル五階分程度の高さがある。
色褪せたレンガにはひびが入り、ずいぶん古ぼけて見えるけれど、今でもきちんと自分の仕事をして、一時間おきに重たげな鐘の音を響かせている。
昔はホワイトナイトの名物だったらしいけれど、今では周囲に背の高い建物が乱立し、その影にすっぽりと隠れてしまっている。
それでも晴れた日には日差しの注ぐ時間帯があり、時計塔を取り囲むように円形に並べられたベンチは、ひなたぼっこをする平和な人間たちで埋まり満席になることがあった。
その周辺のホテルというと、どれもそれなりに値の張るところだ。
そのうちの一つには、昨晩の恋人と行ったばかりだった。
「ええ、もちろん知ってるわ。あの辺りは街中に近いから、観光するのに最適ね」
他愛のない話を楽しんでいるように装いながら、次に繋がる話題を想像する。
腹がすかないか、とか、喉が渇いたな、と言って夜遊びに誘い出すのが常套句だ。
時には真っ直ぐホテルへ連れて行かれる夜もあるけれど、この穏やかな老紳士に限ってそれはないだろう。
慣れない街で迷ったふりをして、連れ込まれる可能性はあるけれど。
さぁ、あなたはどんな手段であたしを誘うの?
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