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ホワイトマン  作者: 水見 あさや
1.日常
13/67

1-12


 コートの前をぴったり合わせて逃げ込んだ車の中は、南国のように暖かかった。



「美しいお嬢さんの為に、暑いくらいにしておいたよ」



 気の利く運転手へ愛想を振りまき、やわらかい背もたれに身体を預けて後ろに流れて行く街をぼんやりと眺める。

人気のない街はまだ夜の気配が濃い。

身体のあちこちは興奮したままだけれど、そっと目を伏せるとすぐに眠気が手綱を握りにやってくる。



 恋人が毎晩変わっても、あたしの心は何も変わらない。

燃えさかる恋心を作り上げても、夜が明ければすっかり冷めてしまう。

一晩限りの恋人ごっこは楽しい。

わずらわしいものを無視して、甘いシーンだけに浸っていられるから。

明け方の別れも、存分に甘い蜜を吸った後だから寂しくはなかった。



 毎晩同じシナリオの夜を、どれだけ繰り返したことだろう。

つい昨日始めたばかりのような気もするし、何十年も続けているようにも思える。

きらびやかな世界に身を置くようになってから、あたしはひどく忘れっぽくなった。

でもそれに不安は抱いていない。

朝が来る度に記憶をリセットできると思えば、どんなことをしても罪悪感は覚えなかった。



 フロントマンにもらったチョコレートを、一つ口に放る。

舌の上で転がす度に形が変わり、濃厚な甘さが口の中いっぱいに広がっていく。



 夜は徐々に和らぎ、ネイビーがうっすらと尾を引くくらいになってきた。

夜の始まりの夕方なのか、夜の終わりの明け方なのかわからない色味だ。

一日の中で、あたしは夜が明ける直前の静寂が苦手だった。

静まり返る街の中にいると、考えなくてもいいことがじわじわと迫ってくる。

眉根を寄せて振り払っても、それはなかなか離れてくれない。

乾いた砂が海水を吸収するように、雨粒が枯れ草に染みていくように、置き去りにしてきたものたちがあたしの心を湿らせていく。



 世話をしていた鉢植えは、あたしがいなくなってからどうなっただろう。

隠れて餌をやっていた野良猫はちゃんと大きくなれただろうか。

そういうさして重要ではないことから、徐々に重苦しいことがせり上がってくる。



 父さんは今も、巨木みたいに無口で鋭い目をしているのだろうか。

母さんは相変わらず、父さん以外の男に抱かれているのだろうか。

そして、大好きだったあの人は、あたしを思い出すことがあるのだろうか。



 様々なことが絡み合い、不安がずっしりとのしかかる。

胸の中で膨らむ消化不良の思いが息を細くさせ、気持ちよくまどろむ邪魔をする。



 あたしはいつまで終わったことに捕らわれているつもりだろう。

あの町とは比べ物にならない程、賑やかで楽しい場所にいるのに、心が晴れることはない。

こんな気持ちのまま部屋に帰ったら、きっと悪夢をみてしまう。



 そうだ、今夜のプレゼントの中にお気に入りの紅茶店の袋があった。

帰ったらすぐにお茶を淹れて身体を温めよう。

そして熱いシャワーを浴びながら、思いつくままにでたらめな歌をうたおう。

それから触り心地のいいネグリジェにお気に入りのコロンを振りかけて、ふかふかのベッドに潜り込もう。

お気に入りのベッドルームは、誰よりもあたしを甘やかしてくれる。

皺だらけのドレスや端が欠けたネイルのお手入れは、みんな明日すればいい。



 到着を告げる運転手に運賃より余計にお金を渡して、愛しい部屋を目指してアパートの階段を駆け上がった。



 あたしの部屋の窓には、遮光性に優れたカーテンが二枚下がっている。

おかげで時間を気にせずぐっすりと眠ることができる。

肌にやさしい感触のネグリジェや毛布も上等な代物で、一眠りするうちに疲れをすっかり取り去ってくれる。



 カーテンを指でつまんで外を見ると、空はすっかり朝の色をしていた。

朝日に照らされ黒いシルエットとなった鳥が、群れを成して飛んでいく。



 今夜の彼は、あたしとの夜に満足してくれただろうか。

二度と声はかけないけれど、楽しい思い出になっていたらいいと思う。



 全ての役目を終えた朝、あたしは毛皮のコートを脱ぐように疲労から抜け出す準備をする。

身体のそこかしこに散った疲れをいたわり、痛みや違和感が残る場所はさすってやる。

明日もまた夜はやってきて、新しい恋人と過ごすことになるんだ。

優しくしてやらなければ頑張れなくなる。



 あたしの日常は華やかに繰り返される。

この環境に身を置くことを決めたのは他でもない自分自身だ。

あたしは、この目まぐるしい日々を愛している。



 願わくは同じ日々がいつまでも続きますように。

新しい太陽に少しだけ祈って、ベッドに倒れ込んだ。



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