ビタン王国1の臆病者 後編
カリーヌは中等教育機関へ編入した当初から、後見人であるディラン公爵宛に手紙をくれていた。最初は挨拶とお礼状から、それ以降は素性や子供時代のことを書き記しつつ季節や気候の話を書いてくれる。そのためアストリッドも公務のひとつとして返事を書いていた。竜王国と帝国の気候の違いを注意として書き、冬の季節に衣類を贈ることもしている。
そのやり取りの合間に妊娠中の伯母が本家で伏せっていることを書いた。伯母は神聖力を持つ人なので、妊娠中などは人の多い街中ではなく郊外にある本家へ移り住む。それでも時に寝込むことが多いのは、この土地の寒さのせいかもしれない。
それは同情を求めるのではなく、他の土地の人間にはそれだけこの街の冬は厳しいと教えるためのものだった。それに神聖力を持つ者の生きることの難しさも。
そこで返ってきたのは見事な刺しゅうのされたひざ掛けだった。ひざ掛けそのものは市販品だろうが、青い糸で刺しゅうされた鳥や木々は見事なものだ。本家で針子もできる使用人ですら専門職を名乗れる技術だと絶賛していた。
そしてそれが王都の針子が刺しゅうしたものでないことは、伯母が一目で見抜いている。そもそも帝国の人間は青い糸で鳥など刺しゅうしない。青い鳥など実在しないし、基本的には可愛らしい白い糸で描く。
けれど伯母いわく青い糸で刺しゅうする鳥は、青い竜を模した図形であるらしい。竜王国の人間が無事を祈り青い布を贈るように、恋人へ青い宝石の装飾品を贈るように、求婚に竜の心臓と呼ばれる紅玉を渡すように。刺しゅうで竜を描いては不敬になるからと青い鳥を描いて、竜王の加護をと祈ってくれているらしい。
そしてそんなことは竜王国の者でなければできず、これだけの刺しゅうの腕も相当に教養がある証だと。
雪の降る季節に、ベッドから出られない伯母はそう語りながら嬉しそうにひざ掛けの刺しゅう部分を撫でていた。ここまでの刺しゅうは竜王国の令嬢でもそうそうできないものだと。
そんな伯母の様子を見ながら、少しだけ羨ましく思う部分もあった。
アストリッドは毒消し用のカヌレを差し入れながら、それが意味のないことであることもわかっていた。毒に関しては大神殿で大神官である聖騎士団長が消してくれている。だからもう毒消しの意味はない。それでもカリーヌが美味しいと微笑むから、飽きないよう菓子の種類を変えながら差し入れ続けた。
むしろ菓子ひとつで大喜びする人間を、アストリッドは従弟のミシェル以外に知らない。
「リッド様はいつも姉に差し入れをしてくださいますよね。本当のところアレは餌付けか何かですか」
カリーヌの妹であるセリアは姉思いな優しい子だが、姉よりも現実的でしっかりしている。そんな子からの問いかけにアストリッドは否定で返した。カリーヌがお茶を淹れるため席を離れたこの短時間しかセリアの本音は見えないからしっかりと答える。
「オレはカヌちゃんに幸せを見つけてもらいたいと思ってる。例えばこういう美味しいものを食べて、それを美味しいと思うのも幸せの形のひとつではあるよね?」
「そうですね。そして竜王国時代の姉は、コルセットが締められないからという理由で甘いものを禁じられていました。わたしは元々そんなに甘いものは好きじゃないのでよかったですけど、姉はきっと複雑だったと思います。弟だけは好きなものを好きなだけ食べられたので」
「でもあの子はそういう本音を閉じ込める子だよね」
「閉じ込めるというか、それを美徳として育ってると思います。でも美味しいものを与えるならリッドさんじゃなくてもいいのでは? わたしや他の女性騎士たちが街に連れ出したりとか」
「でも、オレが持ってきたお菓子はみんなテイリュンスの菓子だから王都にないよ」
「は?」
急速に不審者を見るような目で見てくるセリアにアストリッドは笑ってしまった。そんな手間をかけることを下心かなにかと認識してしまったのだろう。
「オレは傭兵時代にテイリュンスに住んでたりしたから、こういう珍しいお菓子を知ってる。で、カヌちゃんって知識の幅が広いからそこらへんのお菓子だとだいたいの味まで予測できそうじゃない? だからこっちも挑戦するノリで知らないだろうお菓子を準備するわけよ」
「なるほど。美味しいものを与えるだけでなく、知識と知識をぶつけあってるんですね」
「知らないことを知るのも好きそうだからね」
「確かにそうです。姉はそういう人です。そしてそこまでのことを下心なしでやるリッドさんは変態ですか」
「うーん……変態かどうかと聞かれると否定しかできないけど」
下心とはどんなものなのか。そんなことを考えながら否定しているとカリーヌが戻ってきた。そのためアストリッドはいつものようにカリーヌがお茶を淹れるのを眺める。
侯爵家の令嬢であるカリーヌは指先に至るまで洗練された所作をしていた。きっとそこまで所作に気遣う女性は帝国でも少ないだろう。
そしてそんな指先がポットを傾けて嬉しそうにお茶を注ぎ入れる。
彼女は王立学園に当時の婚約者から頼まれて毎日このようにお茶を淹れていたらしい。だが少なくともアストリッドはその婚約者の気持ちがわかる。その婚約者が実際にどう思っていたかは知らないが、可能なら毎日でもこれを見ていたいと思えるからだ。
ただ本人はお茶を淹れることを奉仕だと思っているので、理由もなくやらせたいとも思わないが。
「カヌちゃんって刺しゅう得意?」
淹れてもらったお茶を一口飲んで、茶葉の種類を変えたのかと思いながら問いかける。するとカリーヌはいつもと変わらない笑顔でそれなりにと答えた。伯母におくったの刺しゅうが「それなり」だとするなら竜王国は針子の名産地になってしまうが。
だがそんなカリーヌは、白百合のモニカについて説明し始めたところで挙動不審になった。匙をカップの中でぐるぐるさせすぎて紅茶をこぼすさまが可愛くて仕方ない。この子はたまに壊れる時があるのだが、そのポイントも予想できなくて楽しかった。
もしかしたら彼女はどこかで白百合のモニカの事を知って好意か何か抱いているのだろうか。だがもし白百合のモニカに好意を抱いていて、この案を喜んで引き受けてくれそうなら余分なハンカチも頼めるだろか。
そんなアストリッドの目論見はセリアの低い声で阻まれた。ハンカチに刺しゅうしてもらう程度のことが、竜王国では人生の選択を押し付ける行為になってしまうなんて聞いたことがない。
これではもうただ欲しいからなど言えないので、虫除けと噓をついて頼むしかない。フィエルラ・フレイヤードには申し訳ないが、頼んだけど断った淑女になってもらおう。
そうして理由をこじつけて依頼した後、アストリッドは王城四階にある近衛騎士団執務室に駆け込んだ。
「なんで伯父貴止めてくれないの!! 刺しゅう入りのハンカチ求めるのが求婚一歩手前とか知らないんですけど!」
執務室の扉をきちんと閉めてから声を上げたアストリッドに周囲から笑いがこぼれる。近衛騎士団には公爵家の関係者が多いためアストリッドが何を言おうがディラン公の威厳が損なわれることはない。近衛騎士団内では元々そんな威厳がないからだ。
そして窓際の執務机にいる近衛騎士団長に至っては、真顔でため息を吐き出している。
「止めてほしいのなら相談しろ」
「刺しゅう入りハンカチは求婚一歩手前なんだって。知ってた?」
「知っている。だがかなり古い慣習だったはずだ。今の竜王国の令嬢は刺しゅうをしないらしい」
「あー……だから、外交の注意事項に載ってないのか」
「それより、夏からアニエスを竜王国へ行かせることが決まった。第一部団の世話もいいが、アニエスの剣術のほうも見てやってくれ」
帝国最高の騎士と呼ばれる伯父は本当に何でも知っている。しかしそんな生真面目な伯父の横合いで、真面目とはかけ離れた従妹が嬉しそうに手を挙げていた。今年の春に騎士昇格したアニエスは、そのまま上級騎士試験も受けて赤いマントを授与されている。そんな努力と才能の塊だが、今のところまだアストリッドはアニエスに負けたことがなかった。
「オレに一回も勝たないまま竜王国に行くなんて心配しかないなぁ」
「でも、アイルラードさんには三回やって一回勝ってるんだよ。もしかしたらリッドが強すぎる可能性はあるよね」
「ないない。オレは近衛騎士団で最底辺のザコで、おまえはそんなオレに一回も勝てないザコです。あとアイルラードさんはもう40代半ばのオジサンなので、アニエスは手加減してあげてください」
「はーい」
アイルラード・ストルックは近衛騎士団の副団長で、ビタン王国時代からの生き残りである。100人超えていた近衛騎士隊も最後には10人程度しかいなかったというのに、怪我で途中離脱したとは言え生きて騎士復帰できる人材は貴重だった。
だから大事に使い倒したいとアストリッドも思っているが、その本人から年寄り扱いするなと叱られるのでまだ頼りたい。
なにより近衛騎士に必要なのは、剣の強さではなく国際的な場での経験であり帝国の顔として通用する儀礼知識なのだ。その点でアイルラードはどんな国にも対応できる上に、大陸内のどんな辺境の地理も把握している。それだけの知識がありながら、それを鼻にかけることなく14歳の修練に付き合ってやるのだから人格者でしかない。
それからのアストリッドは徹底してアニエスを鍛えていた。数か月前に竜王国で戦闘実習なる行事があり、そこでセレンティーヌが大怪我をしたらしい。詳細はアストリッドに届いていないが、10日ほど寝込んだと聞く。
だがそれはかつてメアリが言っていたような闇竜が出現してのことではないようだ。ただそのため現在は騎士団長の長男であるディートハルトが竜王国に短期留学名目で行き、夏の学年末を機にアニエスと交代する。
それだけで事が済めばいいが、もしメアリの語っていたバッドエンドとやらが現実味を帯びた場合にどうするか。その判断は宰相がしてくれるだろうが、アストリッド自身も覚悟は決めようと思っている。無能な役立たずの自分でも、所持している魔力剣は世界最高峰なのだ。緑の魔力剣ウィルタであれば何らかの助けにはなってくれるだろう。
従弟のミシェルは戦神ロールグレンの転生として生まれ、幼い頃から前世を夢に見る。しかしその夢が前世の己の死ぬ瞬間であるため、ミシェルは悪夢に泣くことを繰り返すことになってしまった。けれどそんな彼は戦神そのものに守られている。
なにせミシェルが危機になると必ず戦神の化身として前世の魂であるノワール・ブレストンが現れるからだ。
翌年の戦闘実習に現れた闇竜を倒したのはまさにこの戦神だった。アストリッドの記憶に今もある紅蓮の炎をまとった戦神が問題を片付けてくれたのだろう。しかしその現場をアストリッドは自分の目で見られなかったので、帰国後のミシェルにお菓子を貢いで戦神を出してと頼んだが、さすがに恩師の魂はミシェルと違うのでお菓子では釣れなかった。
ただ闇竜が現れ、それにセシーと名乗る少女が関わっているらしいことはわかった。その時点で宰相はメアリ・バルフィストに拝謁の要請を出して王城四階の特別会議室へ呼び出すことになる。
陛下と十将軍、そして宰相が集う会議室に入ったメアリは一言「今日死ぬのか」とつぶやいた。きっと幸福すぎて死ぬという意味なのだろうが、アストリッドは深く考えない。
そこでメアリが前世の記憶を持つことと、闇竜出現を10年以上前に言い当てていたことを宰相の口から説明された。そしてバッドエンドに対応するため今から準備をしなければならないことも。
グレイロード帝国は人類守護を国是とし、どんな魔物、魔獣、魔神種が現れても戦い倒してきている。そのため相手が何であろうがやることは変わらない。アストリッドも今まで通り目の前の敵を倒せばそれで終わると思っていた。
戦場に感情を持ち込むことはないし、その暇はない。敵を駆除して誰かを守ることが仕事だから。それでも10年前のカマラ王国による難民虐殺事件に関する仕事は悪い意味で感情が動かされた。むしろあれで感情が動かなかった騎士はいない。
無辜の民が虐殺される現場を止められなかったのだから。
だが今回の敵はそういったものとは違う形で人間側の感情を動かそうとしていた。アルコーンと呼ばれる魔神種たちはそれぞれの方法で人の心を支配、あるいは攻撃してくる。
けれどそういった類のものはアストリッドには効果がなかった。子供時代という抵抗できない頃の攻撃と違い、今は抵抗することも相手を倒すこともできる。むしろ怒りだの不信感だのといったものは、アストリッドの中に常備されたものでしかない。
だがカリーヌを殴って引きずっていたアスタファイオスの化身は切り刻んでも足りなかった。これは『怒り』でも『闘争心』でもない。明確な殺意だ。
きっともうずっと自分は彼女のことを独占したいと思っていた。誰の手にも触れさせたくないから、第一部団という鳥かごにしまい込んでいた愚か者なのだ。その点はヤルダバオトとまったく変わらない。
他人に奪われるのが怖いから、面接した人間という立場を使い、後見人という権力を使い、彼女を縛り付けようとしている。
「いや、縛っちゃだめだ。うん。ウィルタさんそこは止めてほしい」
誰もいない砂浜で自問自答するアストリッドの隣でウィルタが小さく笑う。先ほどらずっと彼女には周辺地域の索敵を頼んでいた。そしてアストリッドもウィルタに意識を集中させるために人のいない砂浜に来ている。
魔力剣がいくら万能でも、所有者が意識を散漫にさせてしまうと精神感応を通じて邪魔になってしまうからだ。
「でもさ、仕方なくない? むしろカヌちゃんがダメじゃない? 可愛すぎるから」
「後方支援でリッドのことを褒めちぎっていたものね」
「オレはそれ見てませんけど。むしろ逃げましたけど。ウィルタさんは後方支援にいたよね。神様をなんちゃら…で」
「白の魔力剣で神降ろしをするために、複数の魔法武具で演算をしていたわね」
「そのついでにオレの話を聞いたわけですよね。なんて言ってた?」
「それを聞くのはいいけれど、今夜は一つ屋根の下に彼女がいるのよ。大丈夫かしら」
「いや、そこは大丈夫。むしろ大丈夫じゃないとダメ絶対」
でも間違えてお風呂あがりな彼女と遭遇したらどうしよう。死ぬんじゃないか。そう考えるアストリッドの隣でウィルタが肩を震わせて笑う。だから精神感応能力は良くないのだ。本当に何もかも駄々洩れになってしまうから。
「そうね。あまり駄々洩れてしまってもいけないから、私は行くわね」
「オレにひとりで悶々と考えろということですね」
月明りしかない砂浜にアストリッドを残して、ウィルタが消えてしまう。ただ索敵を頼んでいるのに話し相手までさせてしまっているアストリッドが悪いので、これは仕方ない話ではある。
そしてひとりになることを寂しいと思ってしまうのも、魔力剣の所有者として仕方ない話だった。ウィルタとは14歳の時からずっと一緒にいるので、もう隣にいることが当たり前になっている。そしてあんな美女がそばにいたら恋なんてできるわけがないともよく言われていた。だがそれ以前にアストリッドは女性そのものを苦手としていたので、その言葉も意味をなさなかった。
ウィルタはウィルタであって女性ではない。だからそばにいても苦痛もなにもないが、女性がそばにいても精神的に疲れるだけだ。ただ異国の人間であるカリーヌはその例外に位置していただけだった。
彼女は宮廷の女性と違ってこちらを公爵として見ない。しかしそれは当然な話だ。彼女はアストリッドの肩書を知らない。
けれどディラン公爵に宛てて書かれた手紙には、一度たりとも会いたいなどという文言は出てこなかった。むしろカリーヌはディラン公爵を老人か何かと勘違いしているのではないかと思えるほど健康を気遣っている。
だがそれはカリーヌとの会話でおおよその理解ができる。帝国王都は、彼女が知識として知っているよりずっと寒いらしいから。首巻き手袋をあげただけで飛び上がるほど喜ぶのだから、よほど寒かったのだろう。ただ使ったら汚れてしまうと謎のつぶやきをこぼす彼女の考えはわからない。
だがそんな素っ頓狂な彼女こそが、彼女の真骨頂だと思っている。
「リッド様!」
誰もいないはずの場所でありえない声に呼ばれたリッドは悲鳴ごと呼吸を飲み込んだ。爆発しそうな心臓を軽く殴りつけて落ち着かせて振り向き、カリーヌと話をする。ただここに来たのが風が吹いたからだというので、もう犯人はわかっていた。
だがウィルタがここで会話することを勧めるのなら、ここで感情のまま暴露するのは正解なのだろう。そんなアストリッドの目の前で、カリーヌが飛び上がったり小走りしたり忙しそうだが、それはいつものことだった。彼女は出会った頃からちょっとおかしな行動をする子だったから。
ハンカチの枚数だけ紅玉を用意することも、彼女の気持ちに沿った結論を出すこともする。ただ彼女には大変な勉強をさせてしまうが、これは耐えてほしいと思う。もしアストリッドとの未来を選択しなくても、それなりの家に嫁ぐ時に使える知識だから。
そう考えるアストリッドの目の前で、カリーヌは嬉しそうに微笑んでいる。だからアストリッドも少しだけ心配になってしまった。
カリーヌは選択肢を与えられないまま、保護してくれた恩か何かでこちらを選んでいないかと。
だがきっとその辺りはアストリッドが不在の間に伯母がうまくやってくれるだろう。そういう意味ではアストリッドが竜王国での任務を請け負ったのは良いことだったのかもしれない。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
海の香りが漂う石造りの牢獄で、両手を縛られた男が面会室に連行される。かつて黄金にきらめいていた髪もくすみ無造作にのぞされ、前髪で目元も隠れてしまっていた。
男はかつて侯爵として繁栄の限りを尽くしていたが、罪を暴かれ処刑されるその日まで牢獄に収容されている。そんな男が床に座らされると、灰色のワンピースを着た中年女性が駆け寄った。
その女性を見た男は驚愕する。相手は明るい色のドレスや宝石を好んでいた艶やかで美しい妻だったからだ。だが長かった金色の髪を首元で切られた彼女は薄汚れたワンピースを着ている。
「なぜ……」
「わかりません。わたくしは何の罪もおかしていないと言ったのに、あの輩が騎士団をそそのかして」
そう告げた妻が指さした先にいたのは竜王国貴族では珍しい黒い髪と漆黒の瞳。それは男が断罪されたあの日にいた帝国騎士とまったく同じ色彩で、男は積年の恨みとばかりに立ち上がろうとした。だが両脇に控える竜王国騎士に肩を押さえつけられ立ち上がれない。
「貴様……! 我妻にこのような仕打ちをしてただで済むと思うなよ!」
「侯爵ごときが勇ましいことだ。ああ、そうか。竜王国では侯爵が貴族階級の最上位だったか」
だから勘違いするんだなとつぶやいた輩は嘲笑をこぼす。
「初めまして、元アンベール侯爵。オレの名前はアストリッド・ディラン。グレイロード帝国六大公のひとつ、ディラン公爵家の当主だと言えば君みたいな頭の悪いグズでもわかるかな」
「公……なぜ帝国のそんな大貴族が」
「アンベール侯爵家から娘ふたりを除籍させたいんだけど、手続きをするには君の署名が必要らしいんだよ。もちろんお礼はきちんと用意してあるよ」
黒髪黒瞳の公爵はそう告げると手に持っていた高級そうなカバンを床に置いた。それを金貨だと理解した男は笑みをこぼす。ここを出たら屋敷に戻るつもりだが、その前の身支度をするにも金が必要だったのだ。なにせこの牢獄の人間はどれだけ命じてもアンベール侯爵家へ使いをやってくれない。そのため生活用品も使用人もなにも手に入れられなかった。
「ははっ、王立学園から消えたからどこで何をしているのかと思ったが、帝国で愛人などしているのか! だがよくやった! 見た目しか取り柄のない無能どもだがこんなところで父親の役に立つとは!」
「早く署名してくれるかな」
公爵に急かされた男は、騎士たちが差し出したペンを手にして二枚の書類に名前を書いた。その後に公爵は書類を騎士から受け取り、文面を確認して笑みをこぼす。
「ありがとう、元アンベール侯爵。それと夫人も、この荷物の中にはフキタンポポがたくさんあるから毎日きちんと飲んでほしいかな」
「……は?」
金貨ではなくフキタンポポだと言われた気がした男は唖然とする。そんな男の隣で妻はなぜか顔を青ざめていた。
「そ……待ってください。わたくしの罪とは……」
「さあ? 夫人は何の罪も犯してないんでしょ? だとしたら何の問題はないよね。一応収賄などの罪があるから、元侯爵と一緒に牢へ入ることになるけど、健康に良いフキタンポポのお茶でも飲んで外に出られる日を待てばいいと思うよ」
「そんな! 死んでしまいます!」
「それは竜王国騎士団の待遇が悪いからってこと? そうだとしたら食事面など気に掛けるようオレから進言しておくよ。一応、あなたがたは、オレの愛する人の血縁ではあるからね。心配なようならフキタンポポを食事にも入れるよう言うこともできるから」
「…やめ……やめて……」
青白い顔で震えながらつぶやく妻が何をしたのか男は知らない。ただ公爵はにこやかな表情を崩すことなくおかしいなとつぶやいていた。
「健康に良い薬草だからと娘に与えていたのは夫人だろうに。まあなんにしてもこれだけの量を入手するのは大変だったんだから、きちんと飲んでもらいたいものだけどね」
床に置いていたカバンを騎士に渡した輩は書類を手に面会室を出ていく。鉄の扉が閉まる錆びた音とともに妻の鳴き声が響くが、男はフキタンポポの何が問題なのかすら理解できなかった。




