アンベール侯爵家の神童 前編
グレイロード帝国は南ガイアイリス大陸全土を支配する騎士国家である。多くの国を属国としている世界最大の帝国だが、その頂点にいるのは皇帝ではなく王を名乗っていた。なぜなら王自身が属国の王たちとの間に身分差を生むことを良しとしなかったためだ。
そもそもグレイロード帝国が建ったのは、前身であるビタン王国の王が魔族に殺されなりすまされたことにある。だがその魔族を倒したところで、ビタン王国には王がいない。その時に最大の問題となったのは、玉座が空席である事実を国外に知られれば侵略されるという状況だった。
そのため当時14歳で捕虜の身だったグレイロードの王子を担ぐことを決める。そうして半年をかけて帝国騎士団の要となる十将軍の中の九人を選任し、15歳の建国王を玉座に据えての建国となった。
クリール歴273年の春の出来事である。
その四年前のクリール歴269年に生まれたカリーヌ・アンベールは、幼少期から海の向こうで起きていることに興味があった。むしろ彼女の知性は国内だけでなく国際情勢にも及び、時として周囲の大人を相手に外交分野の話に花を咲かせることもできた。
だが竜王国において令嬢は結婚して優秀な子を持つことは望まれても、外で働くことは望まれない。女性で働いているのは平民か、子を産む能力がないか経済的に苦しい下位貴族の女性くらいのものだった。特に下位貴族の女性は、優秀なら家庭教師として上位貴族の屋敷に雇われることもある。
けれど少なくとも侯爵家に生まれた令嬢が官僚などになる道は存在しなかった。
かつて竜王国にいたアリシア・ブレストンは、異国の少女で戦神の力を宿し、さらに竜を使役する力があったから騎士になれたのだ。だがそんな人間はアリシア・ブレストン以外に存在しない。
そしてアンベール家の長女として生まれたカリーヌがどれほどの才能を持とうと、戦神の力も有しておらず竜の使役もできない。そのため周囲は良き妻、良き母になることを望んでいた。
けれどそんな周囲の大人の望むまま令嬢として才能を伸ばすことを辞めるカリーヌではなかった。むしろ慎ましくおとなしい性格の彼女の学びたい意欲が潰されなかったのは、彼女の叔父のおかげだと言える。
カリーヌが9歳の時に失踪した叔父だが、それまでに多くのものをカリーヌに与えてくれていた。むしろ彼女が広く世界に興味を持てたのは叔父のおかげと言ってもいいほどだ。
現にカリーヌは、叔父が失踪したと知った日も、父親が男爵家との縁談を持ち込んだ日も、風の魔法を使ってひとり空の上にいた。高低差のある竜王国王都のはるか上空にあがり、北の方角に望む広い海を眺める。それだけでカリーヌの心は晴れて、穏やかな令嬢を保つことができた。
けれどそんなカリーヌでも、妹のセリアを問題ある子爵家へ嫁がせると知った時に自分の道を決めていた。既にその頃には王立学園にいて親に何を言うこともできなかったが、自分の取るべき道は叔父が示してくれている。
王立学園は全寮制で親を含めた大人の介入はありえない。けれど家柄による権威というものは存在した。侯爵家序列二位であるデュフール侯爵家の嫡男であるユルリーシュが高等部三年生として生徒会長を務め、学園内の規律を今の時代に合わせるように定めている。そして生徒会長が定めた規律を生徒たちは文句を言うこともなく従う。それはすべて侯爵家の権威があってこそだ。
だがカリーヌの婚約者である男爵家の子息は、それが理解できない人だった。むしろ自分は侯爵家の令嬢を迎えるのだと周囲に言い触らし、時に人の目がある場でカリーヌにお茶を入れさせることもした。そうして未来の妻を躾ける強い男を周囲にアピールしていたのだろうが、それは不評しか生まなかった。
なぜならカリーヌ自身が多くの同情を得ていたからだ。むしろそれらを理由に、アンベール侯爵は娘を虐待しているという疑惑が出た。ただその疑惑を誰が親に告げようと、それを表に出せる大人など存在しない。
竜王国において侯爵家という権威は絶対で、どんな貴族も逆らえないためだ。だからカリーヌの父が騎士団長と手を組み不法行為に手を汚していようと、誰も断罪できない。そしてカリーヌ自身も、そんな父を断罪する気はなかった。
もしアンベール侯爵である父を断罪し冷たい牢獄へ落とせる者がいるとするなら、それはこの世でひとりしかいない。そしてカリーヌにはその人ほどの才能も能力も持ち合わせていなかった。
たとえ相手が悪だとわかっていても、人を責めることが怖い。カリーヌは学ぶことや読書をすることの好きな、慎ましく弱い人間だった。
そしてそんな自分が何よりも嫌いだった。だから傍若無人な婚約者がいることも受け入れられたのだ。こんな自分が幸せになれるわけがないから。
父が異国から薬物を持ち込み、それを売りさばくせいで平民たちが苦しみ死んでいることを知っている。それでも人を責めることが怖いから、父の悪行を黙認してしまっている。その時点で自分もまた悪人でしかない。
だから自分は不幸にならなければならない。
しかし可愛い妹までその不幸に巻き込むわけにはいかないから、妹のために道を切り開かなければならない。
王立学園卒業式当日、レセプションに参加せず船に乗り込んだカリーヌは海の向こうに渡った。夏に新学期が始まる竜王国と違い、帝国は春に始まる。そうと分かっていてなおカリーヌは王立学園の首席卒業という肩書を持って帝国騎士団の門戸を叩いた。
受付で数日粘り面接にこぎつけたカリーヌは己の能力と、妹をここに預けたい旨を伝える。そしてそんなカリーヌの面接を担当したのが、リッドと名乗る騎士だった。
「妹をこっちに亡命させて明るい未来をっていうお嬢さんのお気持ちはわかるよ。だけどそれって、その妹のお気持ちは放置してない?」
「……それは、確かに。妹へ帝国に逃げたいかどうか確認はしておりません。しかし下手に話してしまえば、この作戦が漏れる可能性も」
「じゃなくてさ。ここまでしてくれる優しい姉が、自分の幸せを放棄しちゃってる状態でしょ? その優秀な妹さんがそこを無視して自分だけ幸せになろうなんてできないよね。なんでお嬢さんは自分と妹が一緒に幸せになる道を考えないの?」
「帝国にご迷惑をおかけする身で、そんな高望みはできません」
「うーん、この国にとっての迷惑って、魔物の大量発生とか、想定外の場所に魔獣が出るレベルの話なんだよね。可愛いお嬢さんが護衛なしで王都の安宿にいたり、毎日城門に押しかけて通りすがりのオッサンたちと会話してる怖さはどってことないよ。怖いだけで」
ここは人が多いから治安も良くないんだよ。そう言い放った面接官はそれまで動かしていたペンを置くと書類をまとめる。
「お嬢さんは竜王国の侯爵家出身なんだよね」
「はい、アンベール家の生まれです。しかし信頼できる伯爵家の方へ家名をお借りする許可は得ましたので、わたくしはカリーヌ・イル・リズロットとなります」
「じゃあひとまず中等教育機関に入ることになるけど、宿に荷物あるよね? 今から取りに行く?」
「荷物は、面接前にお預けした貴重品以外にございません」
「え、衣類は?」
「ええええと、卒業式は制服で参加いたしますので貴重品しか持ち出さなかったのです。最初にこちらの城門で問い合わせた際に、親切な武器商人の方とお会いして、宿を紹介いただき、制服と今着ている衣類とを交換していただいたのですが」
「なるほど。優しい武器商人さんと会えてよかったね。じゃあこのまま寮に向かおうか」
そう告げた面接官に案内されて、広大とも言える帝国王城の敷地内を歩く。面接を受けていた建物は敷地のごく手前側にある詰所のような場所で、そこからさらに石畳の道を進むと巨大な石造りの城が近くなってきた。だが面接官のいう中等教育機関は、王城の手前側に建てられている。
中等教育機関は二年制で、二年目の最後に騎士昇格試験を受けることになるらしい。この教育機関は試験を抜ければ誰でも入学が認められるが、騎士昇格の平均年齢は16歳だと言われている。そして帝国では女性騎士が一定数いるため、中等教育機関にも女子寮があった。
日当たりのいい建物の玄関に入った面接官は、施設の管理人らしい中年女性に事情説明と依頼をする。そこでリッドは立ち去り、後の世話は中年女性が行ってくれることとなった。聞けば帝国騎士であっても男性が女子寮に入れるのは昼の間に玄関までという決まりがあるのだとか。
それから二日後、カリーヌは正式に中等教育機関の生徒となった。途中編入なので一年半で卒業となるが、帝国騎士団へ入ることができるならどんな努力も惜しまない。
けれどそんなカリーヌの想定の外で、カリーヌ自身に帝国内で後見人というものがつけられた。これは帝国独自の制度で、孤児で騎士や文官を目指す場合など書類手続きができる成人がいない場合に保護者代わりとなるものだった。これはかつて多くの国が戦火に焼かれた大陸ならではの文化だろう。
けれど国から逃げた無価値な小娘の後見人として帝国六大公が出てくるのは大袈裟にも思える。
カリーヌはもう侯爵家の娘ではないし、元々それに類した価値などない。そしてこれからもそのような価値を発揮することはできない。けれどこの後見人が、来年ここへ来る妹の後見人にもなってくれるなら幸いだと思えた。
自分はともかくとして、妹は公爵家という後ろ盾に守られ幸せになってほしいから。
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「カヌちゃんのお茶って、変なもの入ってない?」
中等教育機関を卒業し、無事に第一部団に所属すると、かつて面接官だったリッドと会うようになった。正しくは近衛騎士団に所属するリッドが第一部団へ書類を届けに来てくれるのだ。そしてそんな時はカリーヌが率先してお茶をいれることにしていた。もちろん第一部団で自分が最も下位なのだからこの程度の雑用は当然のことだと思っている。
けれどそんな折に向けられた問いかけに、カリーヌは固まった。
「屋敷で学んだままの淹れ方をしておりますが……」
「ちょっとそれ味見しててよ。オレが淹れてくるから」
「え?」
男性がお茶を淹れるなど竜王国ではありえないことだ。むしろそんな技術を持っていると人に知られれば笑われる。だというのにリッドは平然と立ち上がり給湯室へ向かっていく。そのためリッドが去ったのを見届けて、カリーヌは先ほどまでリッドが飲んでいたカップを手にした。
もちろんそれが疑似的な口づけになることはわかっている。だから竜王国の令嬢はけっして異性の食器に触れたりしない。誤ってもそれを使ったりしてはいけないからだ。
けれどここは帝国だから、自分の行為は許される。きっと。たぶん。おそらく。
そう自分に言い聞かせ、うるさいほど騒ぐ自分の胸の音を無視してカップに口をつけた。けれどそのお茶はカリーヌの知るいつもと変わらないお茶だった。
やがて戻ってきたリッドが「お菓子見つけたから、こっち食べながらオレのお茶を飲んで」と言ってくれたのでカリーヌもカップを置く。第一部団の執務室は広く、部団の中にある精鋭部隊による書類の処理はまだ時間がかかるのだろう。カリーヌは王城三階にある日当たりのいい豪華な長椅子に座ると、正面にいるリッドからお菓子の説明をしてもらった。
「これはマリアアザミの種を入れたクッキーなんだけど、帝国騎士団ではわりとこういうのが焼かれるんだよ。でもちょっと苦みがあるよね」
「そうですね。でもこちらの……リッド様の淹れてくださった紅茶が、ほんのりと甘くてちょうど良いように思います」
カリーヌが告げたのは事実で、リッドが入れてくれたお茶は王立学園で飲んだものよりもさらに美味しかった。もちろんそれは健康を気遣って母が用意してくれた薬草が入っていないためだということはわかる。
「カヌちゃんの淹れるお茶って、いつも何が入ってるの?」
「健康に良い薬草です。実家の庭で育てられていて、母が王立学園でも飲むようにと持たせてくれたんです。けれど学園では自分でお茶を淹れることはなかったので、薬草もそのまま持参していたのです」
「なるほど。それは大事な薬草だね。こっちの国でも自生してるか調べてみるから、その薬草借りてもいい?」
「探してくださるのですか? こちらは少し寒さが厳しいので諦めていたのですけど」
リッドの気遣いが嬉しくて、カリーヌは自然とほころぶ顔を抑えられなかった。二年前に面接をしてくれてから、彼はたびたび現れてはカリーヌのことを気遣ってくれる。そんな優しい帝国騎士のことをカリーヌはいつしか好ましく思うようになっていた。
けれどそんな相手が、翌日からカリーヌへお菓子の差し入れをしてくれるようになった。会えるだけで嬉しいのに、極上に美味しい菓子までもらえては何をどう返したらいいかわからない。
差し入れをもらえるようになって10日ほどが経った頃、カリーヌは第一部団長であるヒルキス・フレイヤードからおそろしい事実を知らされた。カリーヌが王立学園へ入る少し前から飲んでいて、母親が持参されせてくれた物は薬ではなく毒だった。
フキタンポポという植物は摂取量が極めて微量であれば、1年から2年は無症状のまま生活していられる。しかし3年、4年経っていくと腹水や黄疸という症状が出るが、この頃には肝臓が広範囲で線維化してしまう。そうして最終的に進行型肝疾患として衰弱死することになるという。
その説明を聞いたカリーヌは手の震えが止まらなくなっていた。両親が自分を疎ましく思っていたことは知っていた。そして二番目の叔父が不自然な死を迎えたことも知っている。けれど実の娘を殺すほどだとは思いもしなかった。
「わたくしは……死ぬのですか」
「既に君は解毒効果のある薬草を摂取している。あとは大神殿で治療を受ければ毒の影響は消える」
「あの、妹は…」
「中等教育機関にいる君の妹は既に大神殿へ研修名目で行かせている。だが聞いたところ、妹のほうは親から薬草類をもらっていなかったようだ。そもそも君は竜王国のアンベール侯爵家の娘だったな」
真面目で規律に厳しい第一部団長は、その性格を買われて騎士団内の監督を行っている。そんな立場の人間からすれば、知らなかったと言え毒を城内に持ち込んだ人間を騎士にしておくことはできないに違いない。
解雇処分を覚悟して返事をしたカリーヌへ、第一部団長は切れ長の瞳を細めて嘆息ついた。
「かつてこの国にいた子が、同じ家の話をしてくれている。アンベール侯爵は優秀な人間に家督を奪われるのを恐れ、弟であっても事故死させると。その子は13歳の時に兄とともに実家から逃げ出して傭兵になった。そして妹は放置され君だけが毒を与えられていたなら、それは君が優秀である証左だ」
「ですがわたくしは、自分が与えられていたものが毒だと見抜けませんでした。それはわたくしの不手際です」
「どこの世界に自分の親から毒を与えられていると気づける子供がいる? 少なくともリッドの報告書にあった君の性格はそんな歪んだものではない。さらに『世間知らずで素直すぎ、赤の他人まで簡単に信じてしまうから危うい』と、商業ギルドの長も言っていた。君が王都到着直後に衣服を交換したあの武器商人だ。そしてリッドも、同じことを思ったからすぐ寮へ入れることを決めている。手続きは後からでもできるが、君に何かあっては遅いからとな」
二年前にリッドがそこまで考えてくれていたことも、カリーヌには見抜けなかった。そしてあの武器商人がどんな人物なのか考えたこともなかった。
本当にあの頃は妹のために道を切り開くことしか考えず、自分の安全など少しも考えていなかった。
けれどきっとリッドはずっとこちらのことを思いやってくれていたのだろう。むしろ公爵ほどの方を後見人とした時点で、帝国そのものがこちらを守ろうとしてくれていたのかもしれない。
そう考えたカリーヌは涙があふれるのを止められなくなってしまった。そんなカリーヌに第一部団長が白いハンカチを差し出してくれる。
「ちなみに……リッドは帝国内で最も競争倍率の高い男なんだが、本人はその手の話には鈍感だと聞く」
不意に話題を変えた第一部団長のその言葉にカリーヌは涙に濡れた目を大きく開かせた。
「見識も思慮も深く、気遣いもお上手で、身丈も高く、ご容姿もとても整っておられて、わたくしにお菓子などくださるリッド様ですのに。お付き合いしておられる方や婚約予定の方などがおられないのです?」
「未来の近衛騎士団長候補だと言われているリッドだが、そういう相手がいない。そもそも君に菓子を贈っていたのはすべて解毒対策だと聞いている。ただ解毒対策であれば騎士団にある菓子で十分で、この大陸では高価なチョコレートを使う必要はないんだが」
「確かに、わたくしはカヌレなるものを初めて食べて、とても美味しいと思いました。最初の焼き菓子も少しの苦みが甘いお茶と合っていて美味しかったのですけれども」
「普通の紅茶は甘くない。甘かったならリッドがあえて甘くした」
「まあ、殿方なのにそんなことまで」
「リッドは若い頃に傭兵だった時期があるから、なんでも器用にこなせるな。だから我々は君に期待している。どんなこともこなせるリッドは職務や正しい事を優先し、自分のことを疎かにする。そしてその点は君もよく似ている」
「わたくしはリッド様のようにいろいろなことはできませんが、妹が一番であることは否定いたしません」
「では君自身はリッドの一番になってくれ」
第一部団長から向けられた言葉を頭が受け入れるまでかなりの時間を有した。そうして理解した瞬間に、カリーヌは第一部団執務室に響くほどの声を上げていた。
「あばばばばばばばばばば! そんなそんなそんなわたくしごときがリッドさまのそんなそんな!」
室内で複数の爆笑が響き、目の前にいる第一部団長も渋い顔で口を引き結んでいる。しかしカリーヌにできたのは真っ赤になっただろう自分の顔を両手で覆い隠すことだけだった。
なにせ脳内では勝手にカリーヌ自身がリッドのたくましい腕に抱きかかえられる光景などが浮かんでしまっているのだ。
「令嬢としてあるまじき想像をしてしまって申し訳ありませんんんんんんんんんんんん」
カリーヌが落ち着くまでの20分間、執務室には笑いが絶えず、先輩騎士たちからカリーヌは悪くないよとの擁護までもらう。けれど第一部団長のその指示は、第一部団長本人のものではなく陛下の言葉だと知ってしまっては覆すこともできない。
リッドの足元にも及ばない新米騎士なのに、どうすれば彼に認められ、彼にとって重要な人間になれるのか。それからのカリーヌはリッドにふさわしい騎士になるべく奮闘することしかできなかった。




