第九章:終わりなきキャンバス(完結)
#ミステリー #杉沢村 #都市伝説 #創作
「真紅の間」に漂う沈黙はあまりに重く、江戸は自分の心拍が次第に遅くなっていくのを感じていた。彼は目を開けた。病院のベッドの上か、せめて故障した車の中であってほしいと願った。しかし、視界に入った天井はコンクリートではなく、もはや囁くことのない数千枚の人間の皮膚だった。
江戸は、木のように硬直した体を引きずって立ち上がった。正面の壁に目を向けると、父の姿は完全に壁と一体化していた。黒い顔料に閉じ込められた、永遠の恐怖を浮かべる二次元の忌まわしい絵画として。
「行かなければ……」江戸は呟いた。自分の声が、枯れた他人の声のように冷たく響いた。
彼は屋敷を出て、再び闇と土の匂いに包まれた廊下を通り抜けた。脆くなった板張りの床を歩いても、もはや足音ひとつ立たない。表玄関に辿り着いたとき、青森の東の地平線から夜明けの光が差し込み始めているのが見えた。
だが、何かが決定的に違っていた。
太陽は金色ではなかった。それは、色褪せた水彩画のような、薄暗い赤色をしていた。江戸は車を探そうと、小道へと足を踏み出した。崩れ落ちた鳥居の方向を目指し、ひたすら歩く。一時間、二時間……。
やがて、彼は一箇所の古い井戸の前で立ち止まった。
江戸は愕然とした。それは村の中心にある、あの井戸だった。自分は同じ場所を回っていたのだ。彼はもう一度試みた。今度は松林を駆け抜け、手が血に染まるのも構わず茂みをかき分けた。しかし、森の境界に近づくたびに、杉沢の深い霧が彼を飲み込み、再びあの大きな屋敷の前へと吐き出した。
彼は自分の手を見た。擦り傷から流れる血は、もはや鮮やかな赤ではなかった。それは粘り気のある黒い液体で、テレピン油の匂いがした。
「一度入った者は……二度と戻れない」木陰から掠れた声が響いた。
江戸が振り向くと、そこにはあの瞳のない男が立っていた。しかし、今度は鈴ではなく、真っさらなパレットを手にしていた。
「陰山の血がこの山を呼び、山がそれに応えたのだ」男はパレットを江戸に差し出した。「お前の父は闇を支配しようとしたがゆえに、守護者として失格した。お前は……その闇を感じ取ったがゆえに、選ばれし守護者となったのだ」
江戸は柔らかい土の上に膝をついた。恐ろしいことに気づく。もはや寒さを感じない。空腹さえも感じない。恐怖は消え去り、底知れぬ虚無感だけが彼を満たしていた。
彼はパレットを受け取った。指先が勝手に動き出し、腕の傷口に筆を浸すと、目の前の何もない空間をなぞり始めた。すると、彼の筆の動きに合わせて、目の前の森の景色が変貌していく。
杉沢村の伝説は生き続ける。世界の地図からは消されたかもしれないが、青森の森は、迷い込んだ者たちのために常にその場所を用意している。そしてその村の中心には、永遠を描く画家となった一人の小説家が座っている。
江戸はもう、物語を書くことはない。彼自身が、物語そのものとなったのだ。影の山に生きたまま埋もれ、決して外へ漏らしてはならない秘密を守る一人の「陰山」として。
遠くで、車のエンジンが激しく咳き込み、止まる音が聞こえた。江戸は筆を止め、耳を澄ませた。そして、薄く笑みを浮かべた。それは、あの父の微笑みと生き写しだった。
「杉沢村へようこそ」彼は風に向かって囁いた。「私の新しいキャンバスが、やってきた」
(完)
最後まで読んでくれてありがとう。影山江戸の物語はここで終わりますが、杉沢村の伝説はまだどこかで続いているのかもしれません…




