後編
——あなたの過去を変えられるかもしれません――
ヴァルトはしばらく何も言わなかった。
やがて、短く息を吐く。
「はっ」
信じていない。
さすがのリシアにも、それくらいはわかった。
「実は私には《時を渡る力》があるんです」
今度こそ、ヴァルトの表情が変わった。
「信じがたいな」
「そうですよね」
当然の反応だと思う。
聖力による治癒や浄化なら知られた力だ。
現に初めて会ったときも、ヴァルトは浄化するリシアを見て聖女だと気づいた。
だが、時を渡る力は違う。
同じ力を持つ者に会ったことはない。
文献の中に、わずかな記述を見つけただけ。
しかもそれは、《破滅の聖女》が持っていた力として記されていた。
だからこそ、誰にも話したことはなかった。
「あなたが精霊と出会った時期と、遺跡の場所を教えていただけませんか?」
「どうする気だ」
「私が過去へ戻って、封印をやり直します」
ヴァルトが目を見開いた。
「そんなことができるのか?」
彼の表情を変えられたことが、少し嬉しい。
だが、だからこそ正確に伝えなければならない。
「正直、確実とは言えませんが……多分、大丈夫だと思います」
言った途端、ヴァルトの眉間に皺が寄った。
「何度も過去と未来を行き来してるということか?」
「え……あ……まあ」
「歯切れが悪いな」
どうしてこういうところにはすぐ気づくのだろう。
リシアは少し視線を逸らした。
「実際に試したのは、1年遡るところまでなので」
「なに?」
声が大きくなった。
「今回は少なくとも10年以上前だぞ」
「できるとは思います。要領は同じなので」
「楽観的すぎる」
「そうでしょうか」
「そうだろう」
言い切られた。
最初はほんの十分だった。
それから一時間、半日と、誰にも気づかれないよう慎重に遡る時間を延ばしていった。
一度だけ、過去を変えて人を救おうとしたこともある。
火事を未然に防いだ。
だが、原因となった者が失敗から学ぶ機会まで消してしまい、後日さらに大きな火事が起きた。
それからも何度か過去を変え、やがてリシアは思い知った。
出来事一つを消しても、人も世界も思うようには変わらない。
そして過去を変えるほど、元の時代へ戻ることは難しくなる。
それでも、過去へ渡ること自体には慣れた。
ならば10年でも15年でも、使う力の量が違うだけで原理は同じはずだ。
少なくとも、やってみなければできないとは言い切れない。
ヴァルトは何か言いたそうにリシアを見ていたが、諦めたように息を吐いた。
「封印がうまく行ったとして、その後は?」
「そこから未来が変わるので、あなたはお二人と仲良く暮らせているんじゃないでしょうか」
精霊と出会わない。
養父母は殺されない。
復讐も始まらない。
精霊を斬ることもない。
ならば、呪われることもない。
「ここの瘴気も、初めからなかったことになります」
それならすべて解決する。
そう思った。
「違う。…キミがだ」
「え?」
何を聞かれているのかわからなかった。
「無事なのか?」
「あ……私ですか?」
自分の話をしているとは思わなかった。
リシアは少し考えた。
「私はそこにそのまま残ろうかと」
不穏な気配を感じる。
また何か変なことを言っただろうか。
「なぜ?」
「過去へ行くのは簡単なんですが、そこから現在に戻るのが難しくて」
「ちょっと待て」
ヴァルトが片手を上げた。
「わけがわからない」
「何がですか?」
「死ぬ気か?」
「え?」
「キミは無関係だろ」
強い口調だった。
リシアは少し驚いた。
無関係。
言われてみれば、確かにそうだった。
森番夫婦とは会ったこともない。
目の前の青年とも、今日初めて会った。
彼の過去と自分の人生には、何の関係もない。
「うーん、まあ確かにそうですね」
認めると、ヴァルトはますます険しい顔になった。
どうやら答えを間違えたらしい。
けれど、何が正しい答えなのかはわからない。
「生きる道はないのかもしれません」
過去へ渡るだけなら問題はない。
だが、そこから本来の時代へ戻ろうとすれば話は別だった。
何度も経験して、それだけは理解している。
そして何より、今の自分には、その危険を越えられるだけの余力が残っているとは思えなかった。
それでも。
「でも私に残ってる全部、かけてもいいかなって思っちゃって」
口にすると、不思議なくらい素直にそう思えた。
「って、すみません。いきなりこんな話したら戸惑いますよね」
「かなりな」
即答された。
リシアは少し困った。
どう説明すれば、納得してもらえるのだろう。
いや。
そもそも、なぜ納得してもらわなければならないのだろう。
自分の力だ。
自分の命だ。
これまでだって、そうして使ってきた。
「正直に言うと、私、もうそんなに長くないんです」
ヴァルトの表情が止まった。
「大分酷使したので」
戦いのたびに聖力を使った。
傷ついた者がいれば癒した。
瘴気があれば祓った。
時を渡る力も使った。
どれほど寿命を削ったのか、正確にはわからない。
ただ、自分の中に残っているものが少なくなっていることだけは感じていた。
「なら余計にだ」
すぐに返された。
リシアは瞬きをした。
やはり、よくわからない。
残り少ないからこそ、意味のあることに使った方がいいのではないだろうか。
けれど、それを言えばまた怒られるような気がした。
なぜ怒られるのかは、やはりわからない。
「自分の話で申し訳ないんですが」
リシアは自分の手を見た。
誰にも話したことがない。
話そうと思ったこともなかった。
「時を渡れるって、誰かに話したのは初めてです」
銀色の髪が肩から滑り落ちる。
「姿も能力も破滅の聖女と同じだなんて、言えませんでした」
銀の髪。
赤い瞳。
そして、時を渡る力。
かつて災厄をもたらしたと伝えられる聖女と、あまりにも多くが重なっていた。
だから黙っていた。
知られればどうなるのか。
恐ろしかったのかと問われれば、それもよくわからない。
ただ、言わない方がいい。
そう判断した。
いつもそうだった。
人と関わるときには、正しい答えを探した。
これを言っていいのか。
黙っていた方がいいのか。
笑うべきなのか。
謝るべきなのか。
けれど、周囲の人々がどうしてそれを自然に選べるのか、リシアにはわからなかった。
「私、昔から人とうまく関われないんですよね」
「きっと皆さんが持ってる当たり前の感情を、持ってないのかもしれません」
ずっと考えていたことだった。
自分には、何かが足りないのではないか。
聖女になってからは、余計にそう思うようになった。
「義務感だけなんです」
少し考えてから続ける。
「こうすればいいのかな、って」
聖女ならば、人を慈しむものだという。
人々を愛し、その苦しみに寄り添い、救う。
「愛も慈悲もわからないんです」
苦しんでいる人がいれば治した。
魔獣に襲われている人がいれば助けた。
瘴気に侵された土地があれば浄化した。
それが自分にできることであり、求められたことだったから。
けれど。
助けた人に泣きながら感謝されても、同じだけの何かを返すことができなかった。
嬉しいのだろうと思った。
嬉しいはずだと思った。
それ以上は、わからなかった。
「誰かを大切に思ったことも、誰かのために何かしたいと思ったこともない」
言葉にすると、ひどく冷たい人間のようだった。
実際、そうなのかもしれない。
「褒められれば褒められるほど、認められれば認められるほど何だか気まずくて。自分が聖女だなんて、皆さんを騙してるみたいだって思えて。本当に怖かった」
聖女と呼ばれるたびに、自分ではない誰かのことを言われているような気がした。
人々が自分に向ける期待に、いつか中身が伴っていないことを知られるのではないか。
だから戦った。
求められるままに。
できる限り。
「闇雲に戦って、寿命が減ったらなんだか安心する。そんな毎日でした」
そこまで話してから、リシアは口を閉じた。
ヴァルトは何も言わなかった。
責められると思っていたわけではない。
慰めてほしかったわけでもない。
ただ、初めて誰かに話した。
それだけだった。
静かな狩猟館の中を、瘴気が漂っている。
けれどリシアの周囲だけは、絶え間なくそれが消えていく。
黒いものが白い光に触れ、跡形もなく薄れていく。
先ほどからずっとそうだった。
自分が望んでいなくても。
自分が何を考えていても。
聖力は勝手に瘴気を祓う。
それが少し、自分自身のような気がした。
「でも」
リシアは顔を上げた。
「さっき、あなたの記憶が流れてきて」
また、あの家が浮かぶ。
豪華な食事もない。
特別な出来事があったわけでもない。
3人で食事をしていた。
笑っていた。
転びそうになれば、手が伸びた。
眠ってしまえば、誰かが抱き上げた。
名前を呼ばれていた。
帰ってくれば、そこに誰かがいた。
それだけだった。
「泣きたくなるような温かさを感じました」
リシアは胸元へ手を当てた。
今も残っている。
あれを何と呼べばいいのか、まだうまく説明できない。
「何気ない日々なのに、優しくて、切なくて、愛おしくて」
ひとつつずつ言葉にしていく。
今まで自分には縁がないと思っていた言葉ばかりだった。
「おかしいですよね。私の記憶でもないのに」
ヴァルトは答えなかった。
リシアは目を伏せる。
血に濡れた二人の姿が浮かんだ。
その瞬間、胸の奥が痛んだ。
今度は、はっきりわかった。
嫌だった。
あのふたりが死ぬのが嫌だった。
あの食卓がなくなるのが嫌だった。
幼い少年から、あの場所が奪われるのが嫌だった。
「あの方たちを救いたい」
自分の声なのに、少し不思議だった。
「守りたいって」
そう思う。
理由を探す必要もなく。
誰かに命じられたからでもなく。
聖女だからでもない。
ただ、そうしたい。
「初めてそんなふうに心が動いて」
リシアは小さく息を吐いた。
「私にもこんな気持ちがあるんだって驚いたけど」
自分にもあった。
なくしたと思っていたわけではない。
最初から存在しないのだと思っていたものが。
ちゃんと、自分の中にもあった。
「すごく嬉しかったんです」
だから、使いたいと思った。
残っている時間も。
力も。
自分が持っているものを全部。
初めて自分から救いたいと思った人たちのために。
「だからって」
ヴァルトがようやく口を開いた。
リシアは彼を見る。
それきり、言葉は続かなかった。
奇妙な沈黙だった。
何か言うべきなのだろうか。
けれど、リシアには思いつかない。
ヴァルトはしばらく黙ったまま、窓の外を見た。
死に絶えた森。
自分が生み出し続けている瘴気。
そして、もう一度リシアへ目を戻した。
「……わかった」
低い声だった。
リシアは少し身構えた。
やはり止められるのだろうか。
「オレも一緒に行く」
「え?」
意味を理解するまで一拍かかった。
聞き返そうとしたら、今度ははっきりと言われた。
「一緒に過去へ連れてってくれ」
リシアはヴァルトを見つめた。
今度は聞き間違いではない。
意味もわかった。
だからこそ、答えは決まっていた。
「無茶です。一緒にだなんて」
「1年以上遡ったこともない、だっけ?」
「そうです。何が起こるかわかりませんよ?」
自分ならひとりなら、まだいい。
もともと残された時間は長くない。失敗したとしても、失うものはそれほど多くないと思っている。
だが、彼まで巻き込むとなれば話は別だった。
「どういうことだ?」
「明らかに私たちは異分子なので」
過去へ渡ったとき、説明できない圧迫感を覚えることがあった。
誰かに追われているような。
何をしに来た。
何をする気だ。
そう問う視線を、どこからともなく向けられているような感覚。
禁忌に触れているという後ろめたさが、そう感じさせるだけなのかもしれない。
けれどリシアは、歴史を変えさせまいとする何らかの力が存在するのではないかと思っていた。
過去への干渉で寿命が削られることも、それと無関係ではないのかもしれない。
「まあ、世の理からすればそうか」
「大きな力に排除されるかもしれません」
それが何なのかはわからない。
時そのものなのか。
世界なのか。
あるいは、人の理解できない別の何かなのか。
「危険極まりないな」
「だから言ってるんです」
わかってくれた。
リシアがそう思った直後、おもむろに聞かれた。
「でも、過去に干渉できるんだよな?」
「まあ、はい。できます」
「過去の人間とも話せる」
「話せます」
「ならいい」
何がいいのだろう。
リシアにはわからなかった。
ヴァルトがわずかに目を伏せる。
「本当にできるのなら、人生で唯一、鬱陶しいほどオレに構ってきたあのふたりの顔を、もう一度見に行くのも悪くない」
リシアの中に、あの夫婦の姿が浮かんだ。
少年の頭を撫でる大きな手。
嫌がられても笑っている男。
食事を出しながら何かを言う女。
少年が面倒そうな顔をしながら、それでもふたりのそばにいる。
鬱陶しかったのだろうか。
リシアが見た記憶からは、よくわからない。
ただ。
ヴァルトがそのふたりのことを忘れていないことだけは、もうわかっていた。
「その機会を奪うのか?」
「そんな言い方ズルいです」
思わず言い返していた。
ああ。
楽しみにしているんだ。
そう思うと、今度は別の不安が生まれた。
もしふたりに会えなかったら。
自分はこの人を、今よりもっと深い悲しみに落としてしまうのかもしれない。
それは避けたい。
「だって、もしかしたら、過去へ行っただけで何もできずに終わるかもしれませんよ?」
「ここにいても討伐されるだけだしな」
「あ」
そうだった。
この人はつい先ほどまで、自分に斬られるつもりだった。
危険だから行くなと言ったところで、今の彼にとってはそれほど意味がないのかもしれない。
リシアはしばらく考えた。
それでも不安は残る。
けれど、彼自身が望んでいる。
そして何より。
もう一度あのふたりに会いたい。
彼がそう思っているのなら。
「……わかりました。本当にいいんですね?」
「ああ」
迷いのない返事だった。
——のに。
直後、何かに気づいたように顔をしかめた。
「あ、いや、そうか。迂闊だった」
「?」
「肝心の瘴気を忘れていた」
その目から、先ほどまでの光が消えた。
続きがわかった気がした。
この瘴気ごと自分が過去へ行けば、今度は過去の世界に迷惑をかける。
そう気づいたのだろう。
自死が呪いで阻まれると言っていた。
だから僻地へ来たとも。
それだけではない。
この人は事あるごとに、人の心配ばかりしている。
自分がどんな状況に置かれているのか、まるでわかっていないように。
ふと、あの夫婦の顔が浮かんだ。
この人は、あの二人に育てられたのだ。
リシアは何も言わず、わずかに笑った。
ヴァルトが怪訝そうに眉を寄せる。
「どうした? なにかおかしいか?」
「いえ」
「?」
「なんでもありません」
不思議そうな顔をされたが、リシア自身、うまく言葉にはできなかった。
「こんな瘴気にまみれた状態で過去に行けば――」
「大丈夫です。私の近くにいてください。瘴気はずっと浄化できます」
ヴァルトがリシアの周囲を見る。
彼女のそばだけは、空気が澄んでいる。
溢れた瘴気が流れてきても、リシアに近づけば白い光に触れ、消えていく。
「キミに負担は?」
まただ。
今度は、少しだけ笑いそうになった。
「あなたが瘴気を止められないのと同じで、私も浄化を抑えられないんです。特に負担は感じません」
「そういうものなのか」
「そういうものです」
少なくとも、リシアにとってはそうだった。
意識して誰かを癒すときとは違う。
瘴気に触れれば聖力が勝手に働く。
呼吸をすることに近い。
ただ、ひとつだけ問題が残っている。
「でも、過去へ戻っても今のあなたの呪いはそのままです」
過去を変えた瞬間に、目の前の青年から呪いが消えるとは思えない。
そもそも、未来から来た彼自身がどうなるのかもわからない。
リシアはヴァルトをまっすぐ見た。
「だから、いよいよ私の終わりが近いと感じたら、まずあなたを斃します。それでいいですか?」
ヴァルトが一瞬目を見開き、笑った。
「もちろんだ。願ってもない。よろしく頼む」
やはりそこは喜ぶのか。
リシアには少し理解しがたかったが、本人がいいと言うのなら問題はない。
「では、いつ頃に戻りますか?」
話を進めることにした。
「幼いあなたが遺跡を見つけた頃ですか?」
「そうだなあ」
封印をやり直すのなら、精霊と接触する前がいい。
遺跡を見つけるよりも前なら、なお確実だろう。
そう思っていたのだが。
「ちなみに、キミが神殿に預けられたのはいつだ?」
「私ですか?」
なぜそれが必要なのだろう。
「神殿の記録では、蒼星5年ですけど」
「蒼星5年か……」
ヴァルトは何やら考えるように宙を見た。
「その頃なら、オレはもう森で暮らしてる。しかも遺跡を見つける前だな」
その後は小声すぎてよく聞き取れない。
「?」
「よし。その頃の神殿へ行こう」
「神殿へ?」
話がおかしい。
行くのは森の遺跡ではなかったのか。
「当時、神殿に預けられたばかりのキミを、オレたちで引き取りにいく」
「私を?」
リシアは聞き返した。
何を言われたのかは聞こえた。
意味も一つ一つなら理解できる。
けれど、なぜその結論になったのかがまったくわからない。
ヴァルトが当然のように続ける。
「容姿で怖がられてたと言ってたから、引き取りたいと言ったって誰も止めないだろう? 難しいのか?」
「何の話ですか?」
「もし怪しまれても、一旦置いていったけど自分たちの娘です、って言えば大丈夫だろう」
「はあ? 意味が分かりません」
「そのあと森へ向かい、養父母に事情を話す」
「待ってください」
「神殿から引き取った小さなキミを、幼いオレと一緒に育ててもらおう」
「ちょ、ちょっと待ってください」
今度は少し強く言った。
ヴァルトがようやく口を閉じる。
「どうしてそんな話になるんですか?」
本当にわからない。
封印をやり直す。
養父母を救う。
彼が呪われる未来を変える。
そこまではわかる。
なぜ、その途中に自分を神殿から引き取るという話が入るのだろう。
ヴァルトは逆に、不思議そうな顔をした。
「羨ましかったと言ったろう」
「確かに言いました。でも」
羨ましいとは言った。
あの3人を見て、確かにそう思った。
だからといって。
「でもそんなっ、私のことでご迷惑おかけするなんてイヤです」
森番夫婦は、彼を拾って育てただけでも大変だったはずだ。
そこへ、さらにもうひとり。
しかも、どこの誰とも知れない未来の人間が、突然赤ん坊を連れていって育ててくれと言う。
迷惑に決まっている。
「オレの記憶で見てないか?」
「何をですか?」
ヴァルトは少し考えるように首を傾けた。
「ふたりによく聞かされたんだ」
リシアの中に、また記憶が浮かんだ。
食卓。
3人分の皿。
笑い声。
男の大きな手。
女の優しい顔。
『家族が増えると幸せも増える』
その言葉が、今度ははっきり聞こえた気がした。
「あ……」
「『家族が増えると幸せも増える』って」
ヴァルトが笑う。
「だろう?」
リシアは何も言えなかった。
そんなことを言われても困る。
家族がひとり増えれば、その分だけ食べるものも必要になる。
服もいる。
寝る場所も必要だ。
手間も増える。
それなのに。
幸せも増える。
どうしてそんなふうに考えられるのか。
けれど、あの記憶の中のふたりなら。
幼い彼を抱き上げたあの人たちなら。
もしかしたら本当に、そんなふうに笑うのかもしれない。
その考えが浮かんだ途端、胸の奥が落ち着かなくなった。
自分が、あの家にいる。
小さな自分が。
あの食卓に座っている。
想像しようとして、うまくできなかった。
そんな記憶はどこにもない。
誰かが帰りを待っていることも。
転べば手を伸ばされることも。
自分がいるだけで嬉しいと言われることも。
知らない。
知らないものを、自分の姿に置き換えることができない。
「……」
ヴァルトがリシアの顔を覗き込む。
「決まりだな」
「え?」
何も答えていない。
「キミを引き取ってもらったら、改めて封印に行こう。どうだ?」
「……」
「なんだ?」
先ほどまで、討伐してくれと言っていた男だ。
何年もひとりでこの狩猟館にいて。
死ぬこともできず。
ただ時間が過ぎたと言っていた。
その男が今は、過去へ行ったらまず何をするかを考えている。
しかも自分のことだけではない。
「なんだか、急に楽しそうですね」
ヴァルトは一瞬きょとんとした。
それから、素直に頷いた。
「ああ。こんなに楽しい気分は久しぶりだ」
リシアは思わず言った。
「楽観的ですね」
ヴァルトの眉が上がる。
「誰が言ってる?」
「……」
言われてみれば、そのとおりだった。
リシアは黙った。
ヴァルトが笑う。
先ほどまで何度か見た薄い笑みとは違っていた。
その違いが何なのか。
今のリシアにも、まだうまく説明はできなかった。
ただ、こちらの方がいいと思った。
「そうだ……ここの瘴気はどうなる?」
「祓ってから行くつもりです」
森をこのままにしていくわけにはいかない。
過去が変われば、この瘴気自体が最初から存在しなかったことになる可能性は高い。
それでも、確実ではない。
今できることは済ませてから行くつもりだった。
「よかった」
ヴァルトはそう言って、窓の外を見た。
枯れ果てた森。
自分が壊してしまった場所を眺める横顔は、静かだった。
やがて、彼はリシアへ向き直った。
おもむろに膝を折り、リシアの両手を恭しく取り、自らの額へと寄せた。
「改めて言わせてほしい」
リシアは目を見開く。
「本当に感謝する。ありがとう」
言葉を切ってから、彼は続けた。
「たとえ失敗したとしても、だ」
聖女として活動する中で、何度も感謝された。
跪かれたことも、涙を流されたこともある。
けれど今回は違った。
自分の中に、逃げ出したくなるような後ろめたさがない。
あるのは、くすぐったいような。
多分、照れくささだ。
リシアは少し眉を寄せた。
「失敗なんてしませんよ」
ヴァルトが目を瞬く。
「そうでしょう?」
ヴァルトはしばらくリシアを見つめていた。
何かを言いかけるように唇が動き、それでも結局、視線だけがふっと逸れた。
「そうか」
そして頷く。
「そうだな」
リシアも頷いた。
これから何が起こるのかはわからない。
10年以上もの時を遡れるのか。
ふたりで渡ることができるのか。
過去に受け入れられるのか。
封印をやり直せるのか。
未来を変えられるのか。
何ひとつ、確かなことはない。
それでも。
森番夫婦を救う。
幼い彼を救う。
そして、なぜかそこには、幼い自分まで加わることになった。
自分ひとりでは、絶対に思いつかなかった未来だった。
未来と呼んでいいのかもわからない。
これから向かうのは、遠い過去なのだから。
けれどリシアには、不思議とそちらの方が未来という言葉に近いような気がした。
死ぬまで戦い続けるだけだと思っていた自分が、初めて自分から行きたいと思った場所。
隣には、つい先ほどまで死を望んでいた男がいる。
「じゃあ、始めましょうか」
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