前編
人里離れた森の奥で、原因不明の瘴気が広がっていた。
森の草木が少しずつ生気を失い、やがて獣の姿が消えた。
瘴気を好むはずの魔獣さえ近づかなくなった頃、ようやく神殿へ報告が届いた。
原因の究明と瘴気の解消。
その任を受け、聖女リシアは一人で森へ入った。
歩を進めるほど、瘴気は濃くなっていく。
足元の草は枯れ、木々は葉を落とし、黒ずんだ枝だけを空へ伸ばしていた。
鳥の声もしない。
風が吹いても、揺れる葉さえ残っていなかった。
生き物の気配が消えた森の中を、リシアは黙々と歩いた。
同行者はいない。
腰には剣を佩いている。
神殿から派遣された聖女としては、少し変わった姿かもしれない。
だが、リシアにとってはこちらの方が馴染み深かった。
15歳で聖力が発現するまで、自分が聖女になることも、誰かと行動することも考えたことがなかったのだから。
やがて木々の向こうに、建物が見えた。
古びた狩猟館だった。
かつては貴族が狩りの際に使っていたものだろう。石造りの壁はところどころ崩れ、蔦さえ枯れ果てている。
そして、ここまでたどってきた瘴気は、明らかにその建物を中心として広がっていた。
リシアは腰の剣に手を添えた。
扉を押し開く。
あっけなく開いた屋敷の中は薄暗かった。
窓から差し込む光の中に、細かな塵が舞っている。
長い間、人の手が入っていないらしい。
それでも、誰もいないわけではないようだ。
気配を探りながら奥へ進む。
いくつかの部屋を抜けた先、その窓辺に人影があった。
青年だった。
黒い髪。痩せてはいるが、病人には見えない。
そして何より、その身体から立ち上っているものを見間違えるはずがなかった。
瘴気。
森を覆い尽くしていたものと同じだった。
リシアはゆっくりと剣を抜いた。
気配か、剣を抜く音か。その両方か。
青年はすでにリシアの来訪に気づいていたらしい。
抜かれた剣にも怯む様子はなく、腰掛けていた椅子からゆっくりと立ち上がった。
「……驚いた。人と会うのは何年ぶりかな」
敵意は感じられない。
だからといって、剣を下ろす理由にもならなかった。
「あなたは」
「ここで暮らしている者だ」
青年はそう答えると、リシアを眺めた。
正確には、彼女の周囲を見ているようだった。
「キミは瘴気を浄化できるのか」
リシアは自分の周囲へ目をやった。
意識していなかったが、確かに近くの瘴気だけが薄くなっている。
いつものことだった。
「……聖女か」
「ええ。神殿から派遣されてきました」
リシアは青年から目を離さないまま答えた。
「この瘴気は」
「オレだ」
あまりにあっさりと返され、リシアはわずかに目を見開いた。
青年は自分の身体から立ち上る瘴気を見下ろした。
「これでも抑えているんだがな。精霊の呪いだ」
「呪い」
「ああ」
青年は困ったように笑った。
「被害は減らそうと僻地に来たつもりだったが、結局迷惑をかけたようだな」
それで、この場所なのか。
人里から遠く離れ、普通ならば誰も訪れない森の奥。
自らここへ移ったのなら、少なくとも彼は周囲に被害を出すことを望んでいるわけではないらしい。
リシアがそう考えていると、青年が言った。
「討伐してくれるなら助かる」
「え?」
今度は、意味を理解するまでに少し時間がかかった。
青年はリシアの剣を見ている。
「自死すら阻まれてな。時間ばかり過ぎた」
淡々とした声だった。
天気の話でもしているように聞こえる。
リシアは手にした剣を見た。
もちろん斬るために抜いた。
だが、だからといってすぐに振るおうとは思えなかった。
「私の目的は、瘴気の原因究明と解消です」
「俺を討てば瘴気は止まる」
青年は即答した。
それから、少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。
「こんな役目をさせて悪いな」
謝るところなのだろうか。
リシアにはよくわからなかった。
討伐を望んでいるのは彼自身だ。
そして彼を斬れば、森を覆う瘴気も消える。
ならば、目的は一致している。
そう考えれば簡単な話のはずだった。
それなのに、剣を握る手が動かなかった。
青年を見ていると、時折おかしなものが頭をよぎる。
ここへ入ったときからだった。
見知らぬ森。
小さな手。
誰かの笑い声。
どれも一瞬で消えてしまう。
自分の記憶ではない。
それだけはわかった。
「ハッ」
青年が小さく笑った。
「こんなことになるなら、いっそ生まれてすぐ魔獣にでも食われてれば――」
「やめてください」
気づけば、言葉が出ていた。
青年が目を瞬く。
「?」
リシア自身も戸惑っていた。
なぜ止めたのだろう。
けれど、今の言葉だけは聞き流してはいけないような気がした。
「ご夫婦が悲しまれます」
青年の表情が消えた。
「は?」
「あなたを保護して、育ててくださった森番のご夫婦です」
今度こそ、青年は完全に動きを止めた。
「――なに?」
その声は、それまでとは違っていた。
リシアはようやく、自分がひどく不躾なことを口にしたのではないかと思い至った。
「不躾にごめんなさい」
剣を持ったまま、わずかに頭を下げる。
どう説明すればいいのだろう。
自分にもわからないものを、人に説明するのは難しい。
それに、こうして誰かに自分の話をゆっくり聞いてもらうこと自体、リシアにはあまり経験がなかった。
何から話せばいいのかわからず、妙に焦る。
しかも、それを邪魔するように次々と光景が頭の中をよぎっていく。
「こんなこと初めてで、私にもなぜかはわからないんですが」
知らない森。
知らない家。
知らない人たち。
それなのに、なぜかひどく温かい。
「さっきから断片的に、多分あなたの記憶が流れ込んできて」
「オレの記憶?」
警戒するような声だった。
当然なのかもしれない。
自分でも、逆の立場ならどう思うのかわからない。
押し寄せる情報に少し酔ったような感覚を覚え、リシアは目を閉じた。
森の中の赤ん坊を、誰かの腕が抱き上げる。
黒髪の子供が笑って走り回っている。
そばには穏やかに笑う男女がいる。
小さな家。
3人分の食事。
拙く動く小さな手を包み込む、大きな手。
笑顔。
胸の奥が妙にざわついた。
「森に捨てられていたこと」
リシアはゆっくり目を開いた。
「ご夫婦に拾われたこと」
青年――彼の幼い姿と、目の前にいる男の顔が重なる。
「3人で暮らしていたこと」
青年は何も言わなかった。
ただ、先ほどまで浮かべていた薄い笑みは、もうどこにもなかった。
代わりに、リシアの中へまた別の光景が流れ込んでくる。
森の中を駆け回る黒髪の少年。
少し先まで走っては、時々振り返る。
そこにはいつも、薪を抱えて歩く男がいた。
食卓には湯気の立つ料理が並んでいる。
高熱に喘ぐ少年。その傍らで、夜通し額の布を替える女。
別の日には、3人で街へ出かけていた。
少年が何かを指差し、男が笑う。女もその隣で笑っている。
どれも特別な出来事ではない。
それなのに、リシアの胸の奥に妙な感覚が広がった。
痛いわけではない。
苦しいとも違う。
ずっと見ていたいような、見ていると苦しくなるような、不思議な感覚。
それが何なのか考える間もなく、光景が変わった。
驚き。
焦り。
怒り。
悲しみ。
それらが一度に押し寄せてきた。
そして最後に残ったのは、絶望だった。
いつもの家。
床に広がる赤黒いもの。
その中に倒れている、動かない身体。
さっきまで笑っていたふたり。
頭の中がまとまらない。
信じられない。
信じたくない。
これはリシアの感情ではない。
それなのに、あまりにも強く流れ込んでくる。
「そのご夫婦が、いきなり殺されたこと」
目の前の青年の肩が、わずかに強張った。
「あなたが復讐のために闇に踏み込んだこと」
「ほう」
青年はそれだけ言った。
何でもないことのような声だった。
けれど、リシアはもう一度、先ほどまでの光景を思い返した。
この人は、あれを全部覚えている。
当然のことなのに、なぜかそう思った。
「勝手に見てしまって、ごめんなさい」
謝って済むことではないのかもしれない。
記憶とは、本来その人だけのものだ。
リシア自身、誰かに自分の過去を見られたいとは思わない。
もっとも、見られて困るようなものが自分にあるのかと考えると、それもよくわからなかった。
「でも幸せそうでした。ご夫婦もあなたも」
青年の目が細くなる。
「だから何だ」
声が冷たくなった。
怒らせたのだろうか。
それでもリシアには、さっきの言葉を撤回する気にはなれなかった。
「魔獣に食べられてればなんて、言わないでください」
「オレがいなければ、ふたりは幸せに暮らせてたんだ」
「あなたがいて嬉しいって、言われてたじゃないですか」
青年が黙った。
また浮かんできた。
幼い少年の頭を、大きな手が乱暴に撫でていた。
少年は嫌そうにその手を払いのける。
『オレなんか拾っちゃってさ』
『なんだよ』
『悪ガキで大変だって、みんなに言われるくせに』
『ハハッ、そうなんだよ。ホント毎日大変だ』
『ほら見ろ』
『毎日楽しすぎてな』
『え』
『ガキが気ぃつかってんじゃねえ。ヴァルト、お前が来てくれて、すげえ楽しいんだ』
『そうよ。いっつも感謝してるの』
青年――ヴァルトが窓辺に目を向けたまま、低く呟いた。
「……さあな。忘れた」
人の言葉の裏を読むのは得意ではない。
相手がなぜ怒ったのか、なぜ喜んだのか、あとになってもわからないことは多かった。
それでも今の言葉だけは、違う気がした。
忘れている人の顔には見えなかった。
「羨ましいです」
青年が顔を上げた。
「は?」
「私は言われたことがないので」
口にしてから、リシア自身が少し驚いた。
羨ましい。
どうやら自分は、そう思っていたらしい。
先ほどから胸の中にあったものに、ようやく名前がついた。
「なにいって」
ヴァルトが何か言いかけたが、リシアはそのまま続けた。
「私も生まれてすぐ神殿に預けられたんです」
自分のことを話すつもりはなかった。
だが彼の過去を勝手に見ておいて、自分だけ何も話さないのも不公平な気がした。
「魔力がなかったこともありますけど、この銀髪と赤い瞳が、破滅の聖女と呼ばれた方と同じだから」
自分の髪を一房つまむ。
銀色の髪。
そして鏡を見るたび、そこにある赤い瞳。
生まれたときから、この色だった。
かつて国に災厄をもたらしたとされる女。
後世に《破滅の聖女》と呼ばれるようになった彼女も、銀の髪と赤い瞳を持っていたという。
「気味が悪かったんでしょうね」
そう考えれば辻褄が合う。
だから、リシアはそう理解していた。
ヴァルトが眉を寄せる。
「魔力がなかった?」
「そうなんです」
そちらに引っかかったらしい。
「剣で生きていくつもりで鍛錬しました。それなのに十五歳で、いきなり魔力というより聖力が発現して」
それまでは、剣さえあればいいと思っていた。
神殿で暮らしていても、聖職者になれるわけではない。
魔術師にもなれない。
ならば身体を鍛え、剣を覚えればいい。
幸い、それは性に合っていた。
剣を振っている間は余計なことを考えずに済んだ。
相手の顔色を読む必要もない。
求められた動きをして、強くなればいい。
とてもわかりやすかった。
ところが15歳のある日、突然、聖力が発現した。
それまでとは何もかもが変わった。
周囲の人間が自分を見る目も。
自分に求められるものも。
「……いや、待て」
ヴァルトの声で、リシアは我に返った。
「え?」
「なぜ剣を納めた?」
言われて初めて気づいた。
いつの間にか、抜いていた剣を鞘へ戻していた。
「俺を斬らないのか?」
「ああ」
そういえば、そういう話をしていた。
リシアは腰の剣へ目を落とした。
そう言われたところで、再び抜こうとは思えなかった。
「あなたの記憶を見て思ったんです」
「何を」
「もし、あなたの養父母が亡くならなければって」
ヴァルトの顔から、わずかに表情が消える。
リシアは頭の中に浮かんだものを、ひとつずつ整理していった。
あのふたりが殺されなければ。
この人は復讐などしなかった。
闇へ踏み込む必要もなかった。
またひとつ、記憶が流れ込む。
森へ入っていく少年。
何かを見つけ、楽しそうに話している。
その光景を追いかけようとして、リシアは瞬間的に思った。
――ダメ。
これは違う。
彼の過去をもっと見たいと思った。
それはただの好奇心だ。
見えてしまうことと、自分から覗こうとすることは違う。
リシアは意識してその光景を追うのをやめた。
「あなたはおふたりの仇を取るために、悪しき精霊の封印を解きましたね?」
「ああ。そのとおりだ」
「その精霊に呪われたんですか?」
少し間があった。
「ああ」
ヴァルトは窓の外へ目を向けた。
瘴気に覆われた森が、その向こうに広がっている。
「ひとりで森で遊んでたある日、古ぼけた遺跡を見つけたんだ。そこには精霊がいた」
淡々と話し始めた。
「部族間の争いに敗れて、ここへ逃げてきたって言ってた。物知りで、相談にも乗ってくれる気のいいヤツで。オレは友だちだと思ってたんだ」
その声には、先ほどまでとは違う響きがあった。
何なのかうまく読み取れないが、ただ楽しい記憶を話している声ではないことだけはわかった。
「だが違った。——アイツは遺跡に封印されてた。ただ、ガキだったオレにその封印を解かせたかったんだ」
リシアは黙って聞いた。
「遺跡にあった宝物を使って、それを狙った盗賊を利用して養父母を襲わせた」
血に濡れた家の光景が脳裏をよぎる。
あの出来事が偶然ではなかった。
少年を怒らせるため。
封印を解かせるため。
そのためだけに、ふたりは殺された。
「怒り狂ったオレは、まんまと封印を解いた」
声は静かだった。
「アイツを信じて、その後もずっと一緒だったんだ」
何年もかけて盗賊を追った。
そいつらだけでなく、その背後にいた貴族まで斃した。
暗い路地。
血のついた剣。
その傍らにいる精霊。
「でも全部終わってから知ったんだ」
ヴァルトは笑った。
最初にリシアへ向けたものとよく似た、薄い笑みだった。
「最初からアイツが裏で糸を引いてたって」
復讐は終わっていた。
仇だと思っていた者たちは、すべて斃したあとだった。
暗い部屋。
色とりどりの石が光を放っている。
その中に精霊がいる。
怯えを隠すように笑い、光る石をこちらへ差し出している。
謝っている。
懇願している。
「だから斬った」
次の瞬間、あどけなかった精霊の姿が崩れた。
どす黒い何かがうごめく。
こちらへ手を伸ばしている。
怒っている。
泣いている。
そして最期に――嗤った。
そこで、記憶が途切れた。
夢から覚めたような感覚だった。
リシアが目の前の青年を見れば、その身体から今も黒い瘴気が絶え間なく溢れている。
「結果、この有様だ」
森番夫婦が死んだ。
少年は復讐を始めた。
精霊の封印を解いた。
復讐を遂げた。
真実を知った。
精霊を斬った。
そして呪われた。
順番に並べていけば、一本の道になる。
ならば。
その道の、もっと前に戻ればいい。
「そもそも」
リシアは口を開いた。
「封印の力が弱まっていたから、精霊はあなたと接触できたんじゃないでしょうか」
「……何?」
精霊は封じられていた。
完全に自由だったわけではない。
それでも幼い彼に接触し、時間をかけて信用させ、最後には封印を解かせた。
ならば。
「封印を強固にすれば、幼いあなたが精霊と出会うこともない」
もしかしたら、封じるだけではなく、悪しき魂そのものを昇華させることもできるかもしれない。
「そうすれば、ご夫婦が襲われることもない」
復讐する理由そのものが消える。
「復讐することも、呪われることもありませんよね」
普通なら、過ぎたことは変えられない。
それで終わる。
けれど。
リシアは自分の手を見つめた。
自分なら。
もしかしたら。
青年が訝しげに眉を寄せる。
「だとしたらなんだ」
リシアは顔を上げた。
胸の奥が、少しだけ浮き立っている。
なんだろう。
不思議な感覚だが、悪くない。
もしかしたら、自分は今、わくわくしているのかもしれない。
胸の奥には、先ほど見た3人の食卓が残っている。
笑っていた男。
笑っていた女。
その間にいた、小さな黒髪の少年。
あの光景を。
今度は、失われないものにできるのなら。
「あなたの過去を変えられるかもしれません」




