第75章
四十両の最新鋭戦車が、燃え盛る鉄屑の山と化した。
その地獄絵図のような光景の中心に、蒼真は、ただ一人、静かに佇んでいた。
立ち上る黒煙が、彼の黒髪を揺らし、むせ返るような鉄と油の焼ける匂いが、彼の肺を満たす。
空は、先ほどの戦闘機との戦いで刻まれた傷跡を、未だに残している。
大地は、戦車の残骸と、えぐり取られたクレーターで、見るも無惨な姿を晒していた。
「……はぁ、……っ、はぁ……」
蒼真の口から、荒い呼吸が漏れる。
彼の額には、脂汗が滲み、その顔色は、明らかに蒼白だった。
立て続けに、それも国家の軍隊を相手に、絶大な魔力を行使し続けた。
その消耗は、彼の精神と肉体を、確実に、そして深刻に蝕み始めていた。
「蒼真くん……!」
岩陰から、美月が、おそるおそる姿を現した。
彼女は、目の前の惨状と、蒼真の疲弊しきった様子に、息を呑む。
そして、駆け寄ると、その華奢な腕で、震える蒼真の腕を支えた。
「大丈夫……? すごく、辛そう……」
美月の瞳が、心配そうに揺れている。
その声には、先ほどまでの戦闘で、自分の愛する人が、人ならざる力で、人間を殺戮していく光景を目の当たりにしたことへの、恐怖と戸惑いの色が、まだ残っていた。
だが、それ以上に、蒼真を案じる気持ちが、彼女を突き動かしていた。
蒼真は、美月に支えられながら、比較的損傷の少ない、施設の奥にある一室へと歩を進めた。
そこは、かつて教団の幹部が使っていたであろう、簡素な寝室だった。
蒼真は、ベッドにどさりと腰を下ろすと、ぜえぜえと肩で息を始めた。
まるで、全力疾走を終えた後のように、心臓が激しく脈打っている。
「しっかりして、蒼真くん!」
美月は、近くにあった水差しから、布に水を浸すと、彼の額の汗を優しく拭ってやった。
ひんやりとした水の感触に、蒼真は、わずかに眉をひそめる。
「……ああ……すまない……」
蒼真の声は、かすれていた。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、美月は、心臓が凍りつくような感覚に襲われた。
蒼真の瞳。
その深紅の瞳から、いつもの、理知的な光が消えていた。
代わりに宿っていたのは、まるで飢えた獣のような、ぎらぎらとした破壊衝動と、全てを敵と見なす、冷たい憎悪の光。
「……蒼真……くん?」
美月が、不安に声をかける。
だが、その声は、彼の耳には届いていないようだった。
蒼真の視線は、美月の顔を捉えていなかった。
まるで、彼女の向こう側にいる、見えない「敵」を睨みつけているかのよう。
「……まだ、いるのか……。まだ、俺から、奪うのか……」
うわ言のように、蒼真が呟く。
「殺す……俺の邪魔をする奴は、一人残らず……!」
次の瞬間、蒼真の手が美月の腕を掴んだ。
「きゃっ!?」
ミシリ、と骨が軋むほどの、凄まじい力。
美月は、思わず悲鳴を上げた。
「蒼真くん! 痛い……離して!」
「……敵は、殺す」
蒼真の瞳は、完全に、人間のものではなくなっていた。
彼は、美月の細い腕を掴んだまま、ゆっくりと立ち上がる。
そして、空いた方の右手を、ゆっくりと持ち上げた。
その手のひらに、バチバチッ、と、黒い雷の魔力が、制御を失って迸る。
それは、先ほどまで、戦車や戦闘機を屠ってきた、破壊の力そのもの。
その切っ先が、今、無慈悲に、美月の胸に向けられようとしていた。
恐怖。
絶望。
美月の頭は、真っ白になった。
だが、彼女は、諦めなかった。
目の前にいるのは、化け物などではない。
自分を守り、助け続けた、橘蒼真なのだ。
「蒼真くんっ!」
美月は、最後の力を振り絞って、叫んだ。
「私だよ! 美月だよ! 目を覚まして! あなたが守るって、言ってくれたでしょ!?」
その、必死の叫び、魂からの呼びかけ。
それが、辛うじて、蒼真の理性の最後の糸を、繋ぎ止めた。
「……み……づき……?」
蒼真の右手に宿っていた、黒い雷が、ふっ、と霧のように消える。
彼の瞳から、獣のような光が薄れ、焦点が、ゆっくりと合っていく。
そして、彼は、見た。
自分の手に、力任せに腕を掴まれ、恐怖と悲しみで涙を流している、自分が守ると誓った少女の姿を。
そして、彼女に向けられようとしていた、自分自身の、右手を。
「―――っ、あ……あああああああああああっ!!」
蒼真は、まるで猛毒にでも触れたかのように、美月の腕を突き放すと、自らの両手を見つめ、絶叫した。
その声は、後悔と、自己嫌悪と、そして何よりも、自分自身への、底なしの恐怖に満ちていた。
(俺は……今、何をしようと……? 美月を……? 俺が、この手で……?)
ぞわり、と全身の産毛が逆立つ。
心臓が、冷たい氷の手に鷲掴みにされたかのように、痛んだ。
戦い続けた果てに、待っているもの。
それは、敵の殲滅ではない。
愛する者さえも、自分の手で破壊してしまう、化け物への変貌。
その、おぞましい未来予想図が、彼の脳裏に、鮮明に焼き付いた。
「……大丈夫。大丈夫だから」
美月は震える彼を、優しく抱きしめた。
赤く痣になった腕の痛みなど、忘れたかのように。
「怖かったね……。辛かったね……。でも、大丈夫。あなたは、私を傷つけたりしない。絶対に」
その、無条件の信頼。
その、全てを包み込むような温もり。
それが、蒼真の壊れかけた心を、かろうじて繋ぎ止めていた。
美月は、しばらく、蒼真の背中を優しく撫でていたが、やがて、決意を固めたように、顔を上げた。
その瞳には、先ほどまでの恐怖はなく、ただ、愛する人を救うという、強く、澄み切った光だけが宿っていた。
「ねえ、蒼真くん」
その声は、驚くほど、冷静だった。
「もう、この国では、私たちは平穏に暮らせない」
その言葉は、先ほどの出来事を経て、あまりにも重い、否定しようのない真実として、二人の間に横たわっていた。
「ここにいたら、あなたは、永遠に戦い続けることになる。そして、戦うたびに、その力を使うたびに、あなたは、あなた自身を失っていく。……私、そんなの、絶対に嫌」
美月は、蒼真の顔を、まっすぐに見つめる。
「だから、どこか遠くに行きましょう。誰も、私たちのことを知らない場所へ。あなたが、もう二度と、その力を使わなくてもいい場所に」
その提案は、もはや、単なる逃避ではなかった。
それは、蒼真という人間を、その魂を、彼自身の強大すぎる力から守るための、唯一の「救済」の道だった。
蒼真は、言葉を失った。
そうだ。
敵は、外にいる自衛隊だけではなかった。
本当の敵は、自分自身の内にいた。
この、制御できなくなりつつある、膨大な魔力。
そして、それに飲み込まれそうになる、弱い精神。
一番、美月を傷つける可能性が高いのは、他の誰でもない、自分自身だったのだ。
「……美月の言う、通りだ」
蒼真の声は、震えていた。
希望と、そして、自分自身への恐怖がない交ぜになった、複雑な震えだった。
彼は、美月を、壊れ物を扱うかのように、そっと、しかし力強く、抱きしめた。
「……行こう。二人で、どこか遠くへ。……新しい場所で、今度こそ、二人だけの、静かな生活を、始めよう」
「うん……!」
美月も、蒼真の背中に、強く腕を回した。
二つの心は、かつてないほど、固く、固く、結ばれていた。
◇
数分後。
蒼真は、一人、施設の前に立った。
彼の表情には、もう、疲労の色も、暴走の兆候もない。
ただ、守るべきものと、進むべき道を、完全に見定めた者の、揺るぎない覚悟だけがあった。
彼は、前線指揮所があるであろう方角に向かって、静かに、しかし、山全体に響き渡るほどの声で、宣言した。
「――もう、降伏しろ。これ以上の戦いは、無意味だ」
その声は、田代師団長の耳にも、はっきりと届いていた。
彼の双眼鏡のレンズ越しに見える蒼真の姿は、先ほどまでの破壊神のようではなく、どこか、悲壮な決意を固めた、一人の少年に見えた。
田代は、無線機のマイクを握る。
彼の脳裏には、誇りも、威信も、もはやなかった。
ただ、これ以上、部下たちを無益な戦いで死なせてはならないという、一人の人間としての、指揮官としての、最後の責任感だけが、残っていた。
「……こちら、第一師団長、田代。……本部に、報告する」
その声は、絞り出すようだった。
「……降伏する」
その歴史的な敗北宣言は、市ヶ谷の防衛省へと届き、やがて、陸上幕僚長・北条の、苦渋に満ちた「全軍撤退命令」へと繋がっていく。
日本の軍事力が、完全に沈黙した瞬間だった。




